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11、わたしたちの世界には現実と虚構が混在している。
しおりを挟むその夜、顔のある看護婦が運んできた粥の食事に手を付けられず、監禁された部屋ですることもないのに、ひどく興奮して眠ることさえ出来なかった。
あの女を殺した。
わたしが心中に誘ったのだ。
運命を信じたのに。
自分だけが生きている。
この居心地の悪い感情をどう理解したらよいのか、わたしには分からない。
本当に分からない。
ひと殺し。
からだが痙攣した。
心臓が、喉元まであがってきそうだった。
薬で眠くなると、女は部屋の窓をすべて開け、ストーブも消してしまった。
それから、娘の死体を抱いた。
わたしたちは体が冷えきって、何も話さなかった。
酔いは醒め、ただじっとして、自然に意識が無くなって解放されるのを待った。
もうすぐ、遅れたバスがやって来ると信じているかのように。
わたしも死ななければ。
生きていてはいけない。
やがて、深夜だったと思う。
(部屋には時計がなかったから)
ノックも無く、黒いスーツを着た水墨画の岩山のような巨漢が入ってきた。
馬鈴薯のようにゴツゴツした顔で、額に光る汗をたっぷりとかいていた。
三笠組の人間なのだろう。
ついて来い、と岩男がひと言だけ喋った。
重い、ウラニウムのような声だった。
わたしは部屋から連れ出される。
寝間着のままでスリッパを履いて、冷たいコンクリートの廊下を歩いて行く。
今夜、殺されるのだろうか。
突き当たりの鉄の階段を下りて、わたしが案内されたのは、天井にシャンデリアのある贅沢な造りの書斎だった。
部屋の中央には、マホガニーの四人掛けの応接セットがあって、テーブルの上に真っ黒な電話が置いてあった。
岩男は手振りで示して、わたしを椅子に座らせた。
五分待て、と言って書斎から出て行くと、ガチャガチャと外側から鍵をかけてしまう。
拷問室ではない。
壁全体が規則正しい棚になっていて、ぎっしりと本が詰まっていた。
ハーマン・メルヴィル、ウラジーミル・ナボコフ、アンドレ・ジイド、ヴァージニア・ウルフ、フリードヒ・シラー、ジェイムズ・ジョイスという名前が並んでいる。
背表紙の題名を追ううちに、いつか読んでみたいと思っていた一冊の本を見つけた。
ハーマン・メルヴィル著の『代書人バートルビー ウォール街の物語』。
入手困難な短編だった。
こんな状況にありながら、珍しい小説を読んでみたいと思うなんてわたしはどうかしている。
そう考えた瞬間だった。
電話が鳴った。
二度、三度と鳴った。
恐怖が走り、わたしは固まった。
可能なら、そうしたくないのですが、
という代書人バートルビーの有名な台詞が思い出される。
わたしは黒いかたまりを見つめた。
長いあいだ、ベルが鳴り響く。
岩男は戻って来ない。
覚悟を決めて、受話器に手を伸ばす。
なかなか出てくれんから、わしは電話番号を間違えたのかと思ったよ。
想像とはまるで違う、優しい声だった。その老人はゆっくりと穏やかに話した。
失礼ですが、あなたは?
とわたしは訊ねた。
分からんかね?あんな小説が書けるくらいだから、頭の方はしっかりしとるだろう。
三笠漱石さんですね。
ほらな、きちんと知っておる。
どうして、小説のことをご存知なんです?
あぁ。作家きどりと抽象的な真如か。若干、自意識過剰気味な題名だな。だが、よく書けておった。あの二人がどうなってしまうのか、わしは結末が気になっとるよ。
わたしのアパートメントに入ったんですね。
あぁ。調べさせてもらった。中国製の回転式拳銃まで出てきたぞ。近ごろの素人さんは物騒なんだな。
持ってたって、使う度胸はありません。
そりゃあ、使わないに越したことはない。ところで、尚太郎は見舞いに来たか?
尚太郎?
わしの馬鹿息子だ。
えぇ。はい、花を持って。
怒ってたろう?
ずいぶん脅されました。
甘やかし過ぎたから、あいつには人間として致命的な欠陥がある。死ぬまで治らんだろう。なぁ、わしは今、家族の恥をあんたに話しとるのだよ。
誰にも欠点はあります。
まぁ、無礼を許してやってくれ。結局、あんたたちを助けたのも、あいつの手柄なんだ。
あんたたち?女は亡くなったと聞きましたが。
尚太郎がそう言ったのかね?
えぇ。
ははは、あんたは一杯食わされたな。あいつは大嘘つきなんだよ。安心なさい。神埼ユメはハノイの療養所におるよ。
ハノイですか?
あぁ、ハノイだ。実は、この電話もハノイからかけておる。時差があってな、それでこんな時刻になってしまったのだ。申し訳なかった。
神埼ユメが生きている。
無事だったのですね。
あぁ。若い人は違う。回復が早い。しかし、知っての通り、神埼ユメは精神的に参ってしまっておる。それで、わしは相談を受けた。あれは堅気になりたいそうだ。あんたの影響だろうな。
堅気になれますか?
はい、そうですかという訳にはいかん。
借金ですか?
金じゃあ無いよ。ケジメってやつだ。
ケジメってなんです?
そうだな。平たく言えば、このわしを納得させることが出来るかどうかってことさ。
わたしは試されているのだろうか?
どうすれば、あなたは納得してくれますか?
そうさなぁ。
三笠漱石は、しばらく黙りこんだ。
それから、乾いた咳を何度かした。
こうしようじゃないか。
あんたのピストルで賭けをやるんだ。ロシアン・ルーレットを知ってるな。尚太郎と真剣勝負だよ。もし、あんたが勝ったなら、神埼ユメは自由にする。
ロシアン・ルーレットですか。
命をかけて、女を救う。ロマンティックだろう。
実弾で?
実弾でだ。
どちらかが死にますね。
あぁ、そういうことだ。
息子さんなのでは?
それがどうかしたか?
気にしないんですか。
わしがか?何故だい?怖いなら逃げたっていいよ。何もなかったかのように。誰も責めん。あんたは堅気だからな。それはそれだ。
わたしは戸惑っている。
決断が必要だった。
もはや、半音階主義的なメロディは聞こえない。
現実の音だけである。
えぇ、やりましょう。
とわたしは言った。
さて、あんたのピストルが運命を導いたわけだ。こういうのは、セレンディピティと言わんのかね?
と老人が聞いた。
さぁ、どうでしょう。今のわたしは、偶然なんか、あてにしたくない気分なんです。
とわたしは答えた。
神埼ユメが生きているのだ。
ところで、ボージェの古典文学、【春を信じなければ】という小説は存在しないね。
と老人が聞いた。
えぇ、でっち上げです。わたしたちの世界には現実と虚構が混在している。
とわたしは答えた。
あちこちの図書館で調べたのだが、見つからなかったんだよ。それで英語に訳してみたら、You Must Believe in Springだった。Evansのアルバムだ。
と老人が言った。
はい、美しい音楽です。
とわたしは答えた。
不安と不幸への祈りのピアノか。あれは、1977年に録音されて、1980年に発表されておる。なら、いったい、わしらはいつの時代に生きておるのだろうね。さぁ、そろそろ失礼させてもらおう。たくさん喋って、疲れてしまった。
そう言って、老人は電話を切った。
すぐにドアの向こう側から、鍵をガチャガチャと開ける音が聞こえてきた。
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