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12、その時、わたしは感じた。生きているのだと。
しおりを挟む目が醒めると、さっきと同じ狭くて堅いベッドの上だった。
うつらうつら、現実とそうでない世界の中に横たわりながら、なんとなく、『抽象的な真如』の意味するところが理解できたように思えた。
何故、わたしという主人公が作られたのか。そんなことは検討もつかない。
わたしは『作家きどり』という役柄を与えられたに過ぎず、この物語の本当の作家ではないのだ。
誰かが、この物語を書いている。
この瞬間にも。
あなたは誰だ?
あなたは、わたしなのだろうか?
わたしが、あなたなのだろうか?
例え、何もかもが滅んで無に帰してしまったとしても、その『真如』が明らかになることはないのであろう。
神とは常に沈黙するものだから。
わたしは身体を起こし、いつの間にかナイトテーブルに置かれてあった朝食のトレイを手にすると、膝に置いた。アルミ食器に盛られた小豆粥をスプーンですくい、口に運ぶ。すっかり冷めていた。
ゆっくりと咀嚼する。
それが、虚構であることを確かめるみたいにして。
やがて、ガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえてドアが開き、黒いスーツ姿のあの岩男が無愛想に入ってきた。
クローゼットの服を着ろ。
と岩男が命令する。
どんなに威張ったって、あなたは想像の産物に過ぎないんですよ。とわたしは言った。
すると、突然、岩男は表情ひとつ変えず、わたしの左頬を力任せに平手で叩いた。
ものすごい音がした。
それは文字では伝わらない、本物の痛みだった。
クローゼットの服を着ろ。
もう一度、岩男が命令する。
仕様がない。
物語の中では作家に従おう。
クローゼットには、わたしの服や靴がきちんと仕舞ってあった。
寝間着を脱いで、急いで着替えを済ませる。
これを付けるんだ。
次に岩男は、上着のポケットから黒い布きれを取り出した。受け取ると、それは目隠しだった。
何処に連れて行かれるのだろう、と恐ろしくなる。
目隠しで視界が真っ暗になり、わたしは左腕を掴まれて、すぐに引っ張って行かれた。
歩くスピードは容赦なく早かった。
部屋を出たかと思ったら壁にぶつかり、何度も段差につまずきながら、広い屋敷の廊下を歩かされた。
やがて、ドイツ製のナイフのように冷たい風の吹く屋外に出て、手すりを頼りに木製の軋む階段を下りた。
それから、わたしたちは、半分凍った草の生えた地面の上をどんどんと進んだ。
遠くで、名前の知らない鳥が鳴いていた。
世界の終わりを告げているのか?
歩く、歩く。
息が乱れた。
やがて、岩男は立ち止まり、目隠しを外していいと言った。
わたしはそうする。
頭上には小さな太陽が見えたが、辺りはレースのように薄い霧に覆われていた。
そこは、森の中の広場だった。
すぐそばには、古い井戸あった。
そして、その縁には、あの黄色いスーツの角刈りの男が腰かけていた。
不機嫌そうな顔で、わたしを待っていた。
三笠尚太郎。
この物語のAntagonistである。
なぁ、考えなおせよ。
と尚太郎が言った。
岩男は腕を組んで、尚太郎とわたしの空間に静かに立った。
何をです?
とわたしは訊ねた。
あんたが親父と約束したことだよ。たかが娼婦のために俺たちが命をかけるなんて、馬鹿げているじゃないか。
と尚太郎が言った。
あなたは怖がっているのですか?
とわたしは聞いた。
あぁ、怖いね。なぁ、あんたの大事な腕時計を返してやる。それで手を引けよ。このまま、女のことは忘れろ。
と尚太郎が言った。
あの腕時計はもういらない。
とわたしは言った。
本気で惚れたのか?あいつは、金を貰えば誰とでも寝る女なんだぜ。
と尚太郎が言った。
さっさと終わらせましょう。
とわたしはきっぱりと言った。
すると、微かに笑みを浮かべた岩男が、胸のポケットから手品みたいにピストルを抜き出した。見覚えがあった。それは、わたしの部屋から持ちだされたものだった。
ルールは簡単だ。この拳銃には、弾が一発だけ詰めてある。交互に口にくわえ、引き金をひく。どんなに二人の運が良くても、六回で勝負は決まる。
と岩男が言った。
尚太郎は、岩男の説明を無視するかのようにお喋りを続けた。
俺には親父の考えが分からない。実の息子なんだ。どうして、こんなことをさせるんだろう。気がふれているとしか思えない。これでも、親父の誕生日には高いシャンパンなんかを贈っているんだぜ。一度も礼を言われたことはないがね。
わたしは何も答えなかった。
いや、違うな、と尚太郎は自分が言ったことに首をふった。
実は、俺には分かっている。ある種、これは親父の愛情表現なんだよ。まぁ、かなり捻れてはいるが。変わり者さ。昔からこんな風なのだから仕方ない。
しばらく、沈黙があった。
さぁ、誰から始める?
と岩男が冷たく聞いた。
尚太郎は膝に肘をつき、拳に顎をのせて、わたしを見つめていた。悲しげな、打ちひしがれたような目付きだった。
堪らなくなって、わたしは目をそらした。
そして、
先にやります。
とわたしは言った。
岩男からピストルを受け取る。
思ったより、ずっと軽い。
躊躇わず、わたしは銃口をくわえる。
白く霞む彼方を眺めながら。
ゆっくりと引き金をひく。
カチャッと音だけが聞こえた。
空だ。
つばを飲み込む。
わたしは何度も瞬きしてしまう。
誰も声を出さなかった。
岩男は、わたしからピストルを優雅に受け取って、今度は尚太郎に手渡す。
尚太郎が立ち上がり、諦めてピストルを口に突っ込む。
目を閉じて、引き金をひく。
カチャッと音だけがする。
空だった。
まだ、止められるぞ。
と尚太郎が言う。
声が震えている。寒さのせいではない。
わたしは、いいやと首を振った。
再び、岩男からピストルを受け取る。
銃口をくわえる。
さっきより簡単に、楽に引き金をひく。
カチャッと音だけが聞こえた。
今度も空だ。
わたしは、長い、長い、白い息を吐く。
あぁ、畜生。
と尚太郎が言う。
声が裏返っている。
しばらく、間が空いて、
さぁ、と岩男が急かした。
尚太郎が、再びピストルを口に入れる。
目を閉じて、戸惑いながらも引き金をひく。
カチャッと音だけがする。
やはり、空だった。
あと、二発だけ。
そうだ、死神(ダーク)は近くにいる。
どちらかが死ぬのだ。
本当に死ぬ。
わたしは手の中のピストルをじっと見た。
物語には、『チェーホフの銃』というルールがある。
舞台に登場した銃は、必ず、発砲されなければならない。
無用な小道具を持ち込むべからず。
プロットに穴が出来てしまうから。
あんたは狂ってる。
と尚太郎が言った。
そうかもしれない。
とわたしは答えた。
あんたは自分が死なないと信じている。
物語の主人公のつもりだ。
だが、次の一発で死ぬだろう。
俺にはそれが分かる。
と尚太郎が言う。
わたしは何も答えない。
銃口をくわえる。
蜜がたっぷりの林檎を口に運ぶみたいに。
岩男がニヤリとした。
こんなに楽しい見世物はない。
やめろ、死ぬぞ。死ぬぞ。死ぬぞ。
と尚太郎が大きな声で言う。
カチャッと音だけが聞こえた。
空だった。
あぁ。あぁ。あぁ、と尚太郎が呻いた。
どうしてだろうか?
わたしはがっかりしてしまった。
岩男が、わたしからピストルを受け取り、真っ青な顔の尚太郎に手渡す。
さぁ、最後だ、と言う。
突然、尚太郎の目付きが変わった。
白い膜が張り、ワニのような眼になった。
そして、自分ではなく、わたしの顔に銃を向けた。
いいな。親父に黙っていればいいんだ。
と尚太郎が岩男に言った。
撃たれるだろう、わたしはそう思った。
だが、次の瞬間、岩男が尚太郎に掴みかかって、ピストルを奪った。
そして、尚太郎の口にねじ込んだ。
カチャッ、発砲した。
森の広場に重い銃声が響き、半分凍った地面には尚太郎の脳みそが飛び散った。
破片は、赤くて黒かった。
親分から公平にやれと命じられている。
と岩男が言った。
わたしは仰向けに倒れた尚太郎を見た。
白目になって、舌をだらりと出していた。
やがて、岩男は、後頭部を無くした尚太郎の亡骸を軽々と担ぎ上げると、まるでセメントの袋を放り投げるみたいにして、古井戸の底へと落とした。
何の音もしなかった。
目隠しをしろ。家まで送ってやる。
と振り返った岩男が言う。
その時、わたしは感じた。
生きているのだと。
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