第3惑星レポート

野洲たか

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1、つまり、はじめての恋人にふられたのである。

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 *

 その日、夕陽が入道雲を輝かせていた。
 世界は終わったのだ、と秋田真瑠斗くんは思う。
 たった二十年しか生きていない。だけど、この辛さは耐えがたかった。誰かとしゃべるのも、呼吸するのも嫌になった。
 つまり、はじめての恋人にふられたのである。
 公園のベンチに座った恋人の瞳も神秘的なオレンジ色に染まっていた。
 青森街子さん。一杯七百円もする珈琲専門店に勤務。二つ年上。栗色のショートボブ。スキニーでボーイッシュなスタイル、真瑠斗くんより五センチも高い身長。ミスチルが好き。オアシスもビートルズも聴かない。
 真瑠斗くんは泣きながら、まだ熱い石畳に土下座していた。周囲にはゴールデンレトリバーを散歩させる老夫婦やソーダアイスをかじる中学生たちがいたが、気にしてなんかいられなかった。どうにか、彼女の心を取り戻さなければ。
「将来性を感じられないの」
 それが、街子さんが一番言いたかったこと。
「優しいし、気が利くし、一緒にいたら楽しい。でもね、なんか頼りないっていうか、任せとけっていう逞しさがないのよ」
「街子さん…」
 次の言葉が出てこない。子犬のように彼女を見つめるだけ。
「だから、ごめんね」
「ごめんねって、なんですか?」
 分かるでしょう、と街子さんがほほ笑む。
「許して」
「ねぇ、お願いです。猶予をください。あなたのために強くなるから。からだだって鍛えるし、自己啓発セミナーだって受ける。三か月もあれば、ひとの細胞は入れ替わるっていうし」
 違うのよ、と街子さんが手のひらを振った。
 美しいパントマイムみたいに。
「そのままでいいと思う」
「えっ?」
「人には短所と長所があるけれど、見方を変えれば、短所も長所だと思えるときがある。その逆もね。たぶん出逢ったとき、真瑠斗のそういう繊細さを好きになったのだと思う。残念ながら今は、その魅力が弱さに感じられてしまうの」
 そこまで喋って、街子さんは手を差しだした。そろそろ、帰りなさいという意味なのだろう。
「手遅れなの?」
「さようなら」
 さぁ、と彼女が手を差しだす。
「ほかに好きな人でも?」
 今さらだったが、数週間前から気にかかっていたことを口にだした。
「答えたくなければ、答えなくても…」
 そうして、聞いたことを後悔したのだった。
「話すべきかどうか、迷ってたんだけど…」
 そんな前置きがあり、驚愕の事実を知らされることになる。
 相手は真瑠斗くんのルームメイト、親友(そう思っていただけかも)の山形シゲキであった。
 最初、告白を迷っていた街子さんだったが、かつてないくらい饒舌にシゲキの魅力を語りだした。簡単な話、真瑠斗くんへの不満を相談しているうちに、
「おれの実家は有名な老舗の喫茶店なんだぜ。近々、あとを継ぐことになってる」
 とシゲキが自慢したら、彼女の気持ちがぐらっと揺れてしまったということであった。
「まぁ、真瑠斗と付き合ってなかったら、シゲキとも知りあわなかったわけだから。感謝はしてるのよ。これからも、彼とは仲良くしてね」
 真瑠斗くんの動揺をよそに、街子さんは幸福そうだった。
 このような結末を誰が想像できただろうか?
 やっていいことと、悪いことがある。シゲキとは二年も一緒に暮らしてきた。毎晩、いいや、いつだってお互いの夢や希望について熱く語りあってきたのに。
 街子さんに一目ぼれした日のこと。告白するのにもずいぶん時間がかかったこと。はじめてのデートの前の晩はぜんぜん眠れなかったこと。あいつはすべてを知っているのだ。
 友人なのに。いいや、違う、もはや友人じゃない!極悪非道、人面獣心、人でなしのゴキブリ野郎!
 はじめて、真瑠斗くんは他人を殺したいと思った。ふだんは蚊を殺めるのも躊躇ってしまう性格なのである。
 どうして、こんな残酷なことができたのだろうか?親友の恋人を口説くなんて、無差別連続殺人と同レベルの大罪だ。
 実際、どちらが先に口説いたのか?
 シゲキか?街子さんか?
 どちらにせよ、自分が蔑ろにされたことは疑いなかった。どんな言い訳をされても、絶対に許されない蛮行であった。
 あぁ、悲しい。悲しすぎる。
 しかし、冷静に考えてみれば、街子さんが自分ではなくシゲキを選んだというのも致し方がないことのように思えた。
 ぼくは何者でもないから。
 学生でもなく、社会人でもない。
 まったく、世の中に関わっていない。
 将来の目標は雲を掴むようだったし、曖昧な日々を生きていることに、真瑠斗くんは強烈なひけめを感じていたのである。



 *

 人間はどぶの中に生きている。しかし、そこから星を仰ぐ者もいるのだ。
 という言葉を残したのは、アイルランド人作家オスカー・ワイルドだ。これはワイルドの人生の姿勢を表している。
 世の中は醜いが、日常ばかりに心を奪われず、志し高く、美しく崇高なひかりを頼りに生きようじゃないか、と真瑠斗くんは強い感銘を受けた。
 しかし、そのような哲学的な発想は日常では通用しない。
 真瑠斗くんの実家は千葉の古い豆腐屋である。長男の彼は、小さな商店を継ぐことを期待されていた。祖父から父さんが受け継いだのと同じように。ふたつ年下の妹がひとりいるが、いつか、どこかへ嫁いでいくと思われていた。
 高校一年のとき、真瑠斗くんは文学に目覚めた。
 太宰治の『斜陽』が運命の一冊目だった。授業中でもこっそり、夏目漱石、芥川龍之介、堀辰雄と次々に読破していった。やがて一遍の短編小説を書いて、試しに文学賞へ応募したら数万円の賞金がもらえ、雑誌にも掲載されて、すっかり舞い上がってしまったのだった。
 小説家になりたい。傑作を書いて大勢の読者に読んでもらいたい。そうでなければこの世に生まれてきた意味がない、と本気で思ってしまった。
 もちろん、父さんは猛反対した。
 いつまでも子どもだな、と呆れかえった。
 まぐれで小さな賞をもらったからって、プロの作家になんかなれるわけがない。万が一、なにかの間違いでデビューできたとしても、ずっと筆で食べていけるなんて宝くじより確率は低いぞ。小説なんかより、うちの豆腐のほうが確実に売れる。ヘルシーだから、近所の人たちにも喜んでもらえる。みんなを笑顔にできる立派な仕事なのだと。
「三百万円、進学用に貯金してあったの。それが無くなるまではひとり、東京でやってみなさい。アルバイトは絶対禁止。本気で挑戦して駄目だったら、いさぎよく諦めて、素直にお店を継ぐのですよ」
 いつ、どうやって、あの頑固な父さんを説得してくれたのか分からない。母さんは笑顔で、不安そうな息子を東京へ送りだしてくれた。



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