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《前編》

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「ホォンギャー! ゥンギャー! ホォンギャー!」

「あぁ……、私の可愛い坊や……。こんなに早くに、逝ってしまう私を…、ママを許して………。」

 ポリーンは目尻から一筋の涙を流しながら自らが産んだばかりの息子の泣き声を背に、こうして短い生涯を終えた。
 おおよそ産後の肥立ちが悪かったのであろう……。
 三十時間以上にも及ぶ難産の末に子供は無事に産まれはしたが、母であるポリーンはすっかりと疲弊しきっており、虚ろ虚ろとした意識のままベッドから起き上がることもできずに出産後は生まれたばかりの息子の顔を見ることもままならぬまま寝たきりとなっていた。
 昔ながらの習いとして、生まれた子供の世話は最初から乳母がすることになっていたのでそこの心配はなかったのだが……、それでもただ床に臥せることしかできないポリーンは悔やみ、何とも言えぬ寂しさの中で苦しんでいた。
 そして十日も経たずして高熱を出し、生まれたばかりの我が子を自らの腕に抱くことも無いまま、逝ってしまったのだ。

―――あぁ、神様……。次に生まれ変わるとしたならば…、今度は子供のできない体にしてください。どうかもう二度と、こんな悲しい思いを味わわなくてもいい様に……。どうか………。
 ポリーンは死の淵で、今世に残された最期の一瞬に神様へ願った。


「いらっしゃい、ベアハルトさん。今日は遅いのね。もうすぐ正午の鐘が鳴る時間よ。」

 ある春の日のお昼頃、通称【職人街】と呼ばれている様々な職人が多く住む少し大きな街のパン屋から、はつらつとした明るい少女の声が聞こえてきた。

「ガッハッハッハッハ! 昨日は忙しくてよ、遅くまでトンカチを叩いてたら腰をちょっとやっちまいやがってさ……。まぁ、急ぎの仕事も片付いたことだし、今日は休みよ。」

 少女にベアハルトと呼ばれた顎にたっぷりと蓄えた髭面の大男はそう快活に話し、豪快に大口を開けて笑ってみせた。

「エェー! 腰は大丈夫なの?」

「心配してくれてありがとうよ、ミリー。いつもの様に暫く休んでりゃ治るだろうさ…。まっ、職人病ってやつさな。鍛冶屋の宿命みたいなものよ。」

「ならいいけど……。で、何を買っていくの? 今日は遅いからもうバタールは無いわよ。」

 街一番を自負するこのパン屋ではどこの店よりも早く、朝一番にバタールを焼く。
 小麦の焼けるなんとも香ばしい匂いはパン屋の煙突や窓から外へと漏れ出し、周囲に住む人間のみならず街路樹に止まって休んでいた小鳥たちをも、毎朝爽やかに目覚めさせていた。
 朝の訪れを知らせる人気のバタールは、その日に売る分だけを朝に焼くのみで追加は作らない。
 この国の古い言葉にも『バタールに午後の鐘の音は聞かせるな。』とある程に、これは昔からのお決まりのことなのだ。

「あぁ、分かってるよ。遅くまで寝てたのは俺だからな……。そうさなぁ…、その丸い黒パンを2つと……、クッキーを1袋くれるかな。」

「はぁーい。」

 ミリーと呼ばれていた少女は笑顔で了承の返事をし、頼まれた商品を横にある棚から清算カウンターへと運んできてから紙袋へと詰め始めた。

「しっかし、時が経つのは早いものだなぁ……。あのちっこかったミリーがもうすぐ十五歳か……。最初の頃見た時なんかお店を手伝うんだって、息巻いて親父さんの後ろからパン篭を持ってフラフラと付いて回っててよ。」

 手慣れた感じでテキパキと作業をこなすミリーの様子を見ながら、この店の昔からの常連であるベアハルトは後三か月もすれば十五歳となって成人を迎えるミリーが幼少時に初めて店の手伝いに出た日の事を懐かし気に思い出していた。

「十五歳となりゃ立派な大人だが…、もういい人はいるのかい? ミリー、お前さんは可愛いから引く手あまただろう? ハッハッハッハッ!」

「えっ? …えっ? いい人だなんて……。」

 ニヤニヤしながら突然の質問を投げかけるベアハルトにミリーは驚き、ドギマギして何も答えられずにいると、後ろの焼き窯のある部屋からミリーの父親の怒った声が響いた。

「やいっ! ベアハルト! まだ成人も迎えていないうちの娘になんてこと聞いてやがるんだ!」

「ハハッ! トーマスよ。娘が可愛いのは分かるが、そろそろ考えないわけにはいかないだろう。」

 生まれた頃からの幼馴染であり、長年の親友でもあるミリーの父親のトーマスとベアハルトは子供がじゃれ合う様な雰囲気でいつもの様に言い合いをし始めた。
 住んでいる市民の大多数が職人であるこの街では、男も女も十五歳で成人を迎えてから殆どの人が二年以内に結婚をしている。
 早くに結婚をして早くに子供を作り、まずは生活を早めに安定させておかなければ職人となる修行もままならないからというのが大方の理由らしい。
 その為に女の子は幼い内から職人となる将来の夫を支え、助けるのに必要な家事などのスキルを母親から学び、基本は恋愛結婚ではあるがどこの家でも成人も迎えぬ早い内から親たちが子供の結婚相手を探し始めるのである。

「うちの娘はちゃんと大事にしてくれると俺が認めた奴にしかやれんからな。ネクタリンと揶揄されようが、俺がしっかりと吟味してやらねば……。」

 『ネクタリン』とは、その実が完熟するまで木から落ちにくい事からなかなか結婚せずにいる人を例えて言う言葉であり、他にも結婚のお祝いに多産と繁栄を願って柘榴の実を贈るというものもあるぐらいこの国では色々と果物に例えられたりする事が多い。

「揶揄って……。まぁ、本当に娘の為を思うのなら、さっさと手放してやれよ。幸せな結婚をする為に吟味することも勿論大事だが、あんまり遅いと肩身の狭い思いをするのはミリーの方なんだからよ。」

 ベアハルトは鼻息荒く親バカである事を公言するトーマスに対してやれやれと言った雰囲気でそう言い捨てると、代金をカウンターの上に置いて店の外へと出て行った。

「フンッ! なんだよ……。」

 トーマスは寂しげにぼやいた。
 トーマスもベアハルトも結婚は遅い方ではなく、誰もと同じ様に十七歳の頃にした。
 だが、ベアハルトは同い年で結婚した妻との間に子供がなかなか授からず、周りからのプレッシャーもあってか、そうとう辛い思いをしたらしい。
 結局は何年経っても子供はできずにそのまま年を取り、ベアハルトの妻は今から数年前に既に亡くなっているのである。
 理由は違えども周囲と同じ様にしなければ辛い思いをするという事を経験上よく分かっているベアハルトは、我が子を可愛がるが故とはいえミリーがそれなりの年になってきてもなかなか娘を手放しそうにないトーマスをいつもそっと窘めていた。
 結婚する前の少年時代には互いの子供がそれぞれ男女であったならば結婚させようと約束までしていた仲であり、子供ができないと分かってからのベアハルトにとってはミリーは我が子同然に可愛がってきた存在であるからその心配も一入なのである。

「俺のところに息子が生まれていれば今頃は……。」


―――リーン、ゴーン、ガーン………。
 正午を報せる鐘が街の中心部にある教会から鳴り響くと、店の外からはザワザワと賑やかな声が聞こえてきた。
 鐘が鳴り止むと共に街を出入りする門が開き、この街の職人が作る武器や防具、鍋や家具から細かい細工物まであらゆる物を方々の街から来た商人たちが買い付けをしようとこの街の中へと入ってきたのだ。

「父さん。雨が降りそうな感じだから今日は早めに配達に行ってくるね。」

「あぁ、分かった。降らない内に早めに帰ってくるんだぞ。」

「はーい。」

 そう言うと、ミリーは売れ残りのパンを篭いっぱいに詰めて教会の方へと向かった。
 ミリーの家のパン屋では週に数度、教会の横に併設されている孤児院へと売れ残りの黒パンを配達している。
 やむを得ず大人の事情で孤児となってしまった子供たちは全員孤児院へと入れられている。
 そして教会のシスターらが子供らの世話をして運営し、領主から出される運営資金で足らぬ部分を街の皆がそれぞれができる範囲で支えるという事を孤児院ができた頃に街で取り決められたものによる。
 その為、昔からこのパン屋では商品となる焼き立てパンを大方売った後に残った冷えた一番安い黒パンを昼過ぎに配達することにしている。

「行って帰るまでの間に降らなきゃいいけど……。」

 ミリーは曇天で暗くなった空を気にして見上げて天気を窺いつつ、自然と足は小走りになっていた。

「キャッ!」

「ウワッ!」

 空を見上げたまま前を見ていなかったミリーは、ドシンと勢いよく人とぶつかってしまった。

「ご、ごめんなさい!」

「いや、私も前をちゃんと見ていなかったから……。大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫です! 私は…。本当にごめんなさい!」

 ぶつけて少し赤くなった鼻を手の平で抑え、謝りながらそろそろとミリーは顔を上げると、ぶつかってしまった人は何ともキレイな顔立ちをした青年であった。
 態とミリーたちと同じ様な庶民的な格好をしてはいるが、ツヤツヤとした金髪や差し伸べられた手の指先など、どこからどう見ても金持ちそうな雰囲気を漂わせた見た目をしていたので、ミリーは委縮してしまいドキッとなった。

「あっ、あの…、じゃあ、私は急いでいるので…。」

 それだけ言うとミリーはその場をそそくさと立ち去った。

「あぁ…! あの……。」

 金持ちといえばちょっとぶつかっただけでも、やれ服が汚れただの、やれ怪我をしただのと言っては金を毟り取っていくのが世の常なのでミリーは怖くなったのだ。
 ましてやそれが貴族の場合など……、考えるのも恐ろしいことが待ち受けているものなのである。

「まぁ! 今日は早いのね、ミリー。でも、そんなに走って、何かあったの?」

 ハァハァと息をきらせて無意識に走っていると、いつの間にか目的の教会へと辿り着いていた。

「こ、こんにちは、シスター。別に何もないよ! はい、これ。今回のパン。」

 ドキドキと鳴る鼓動を落ち着かせようと大きく息を吐き、シスターに向かって首を横に振ってみせるとパンの入った篭をシスターの目の前へと差し出した。

「そう? ならいいけど……。」

「じゃあ! 雨が降りそうな天気だから今日はもう帰るね。ごめん、またね。」

「あっ! ちょっ……。」

 差し出されたパンの入った篭をシスターが受け取るや否や、ミリーは自らの気まずさからすぐさまその場から走り去ってしまった。
 シスターと年も近いこともあってか、教会に配達に来るとミリーは必ずシスターとお喋りをしていくのだが、様子が普段と違う事におかしいなとシスターは首を傾げていた。
 ミリーは家へと向かって走った。
 自分でも何故なのか分からなかったが胸がドキドキとあの時から鳴り止まず、まるで自分が自分でない様な感覚に襲われた。
 自分の体に胸の鼓動と共に巡っていく……、それは哀しみの様であり、自責の念の様であり、未練の様であり、喜びの様であり………懐かしいものに出会った時に感じる温かい気持ちの様であった。

「ただいまっ!」

「おぅっ! おかえり。」

 それだけ言うとミリーはバタバタと自室へと駆け込んだ。

「……? どうしたんだ、一体………。篭を持って帰るのも忘れて。」

 目の前を走り去って自分と話もせずに自室へと消えた娘の様子にトーマスはおかしいなと疑問に感じた。
 疑問には感じてもそこは娘がお年頃ということは理解しているので、よっぽどの事でもなければ男親という立場から強くは聞き出すこともできず、ただオロオロとするだけであった。

「あぁ……。この不思議な気持ちは何?」

 自室のドアを勢いよくバタンと閉めると、未だに落ち着かない胸を両手で抑えて床へとへたり込んだ。

「何なの? 何なのっ? 何なの!?」

 どうしようもなく落ち着かないこの気持ちの原因が何故なのかは分からなかったが、何の所為なのかは分かっていた。
 あの道でぶつかった金持ちそうな青年のことであった。

「あの人に会ってからなんだかおかしい……。」

 深くフゥーッと胸の奥から押し出す様にミリーはため息を吐いた。
 最初は金持ちそうな雰囲気を漂わせる青年を見て反射的に怖いと感じていたが、走り去って数秒後には怖いという感情は消えてミリーの心の中には違う思いが生まれていた。

「これが……恋、なのかしら?」

 初めて味わう複雑も甘い気持ちに顔がポッと熱を帯び、誰も見ていないにも拘らず恥ずかしさから両手で顔を覆った。
 この日からミリーは何をするにも毎日の様にあの青年の事を思い浮かべ、ふと気が付けば何もないくうを見つめている時間ができる様になった。

「また……会いたいな。」

 道端でぶつかってしまってちょっと言葉を交わしただけの、どう考えても自分とは身分の違い過ぎる名前も知らない男性にまた会えるだなんて偶然はやってこないだろうことは分かっていつつも、ミリーは日々膨れ上がる恋しいと思う気持ちを募らせていた。
 そうしてあの日から一ヶ月が経ち、いつもの様に孤児院へとパンの配達を終えてからこの時間であれば誰一人として中には居ないと分かっているその横にある教会へと入った。
 ミリーは教会の一番奥にある神様を模した像が祀られた祭壇の前まで来ると両膝を折って床につけ、両手を組んでお祈りをした。

「どうか……どうか、神様。あのキレイな金髪の男性ともう一度会わせてください! 会わなきゃいけない気がするんです! お願いします!!」

 唯一の手段であり、最終手段でもある神頼みに少し時間をかけて祈りを終えると、ミリーは一段落ついたかの如くフゥっと短く息を吐いて落ち着いた。

「さて、と………。」

 カラの篭を持ってミリーは教会を出た。

「あら……?」

 教会へ来る前は晴れ渡っていた空模様はあの日の様にぐずついた様子へと変わっており、ゴロゴロと雨天への警告音を鳴らしていた。
 これは急いで帰らなければと、ミリーは今日も小走りで家へと向かった。

「キャッ!」

「ウワッ!」

「ご、ごめんなさい!」

 俯いた姿勢で走っていたミリーは、再び今日もとぶつかってしまった。

「すみません……。大丈夫ですか? お嬢さ……っ! 君はっ!!」

「えっ? あぁ!」

「やっと……会えました。捜してたんですよ。今度は逃がしませんからね。」

 その言葉にミリーは驚いた。
 再び出会えたという出来事以上に衝撃的な自らの想い人が自分を探していたという言葉に、何故なのかという疑問しかなく、時が止まった様に身を固まらせてしまっていた。

「私を……ですか?」

 おずおずとやっと口から出てきたのはそれだけだった。
 今目の前に居るぶつかった会いたかった男性は嬉しそうにミリーに微笑みかけ、「はい!」と返事を返した。

「一先ず……どこかのサロンで落ち着いて私と話をしましょう。」

「え…えっと……。」

「さぁ。」

 会いたかった男性はミリーの腰にそっと手をやり、自らが導く様にエスコートをして少し先にある領主館側のエリアに建つ小綺麗なティーサロンへと連れて行った。

「えぇ!? ここって……庶民の来られる場所じゃあ……。場違いだな、私……。」

 終始ニコニコしながらミリーに接する男性の顔をチラリと窺うと、ミリーは自分にだけに聞こえる小さな声でポツリとそう呟いた。

「どうぞ、こちらへ。」

 そう如何にも高級店という格好の店員に言われて通されたのは温室を改装した緑豊かな個室であった。

「君は……何か嫌いな物とかはあるかい? 好みは……?」

「あっ、えっと……なんでも大丈夫です!」

 ミリーの元気の良い返事に、この個室に案内してくれた店員は堪えきれない様子でクスっと笑っていた。
 その反応にミリーは顔をカァーッと赤面させて恥ずかしくなってしまい、座った椅子の脚の先へと視線を落とした。

「では―――で、―――と、――――を頼む。」

「かしこまりました。」

 注文を聞いた店員はスッと品よく男性へ向けて一礼をすると、個室から下がってドアを閉めた。
 店員に勧められるがまま座った席で、身をガチガチに固まらせたまま微動だにしない私の様子に気が付いたその男性はフッと口元を緩ませ、小動物でも見た時みたいに優しい表情をミリーに向けた。

「楽にしてくれていいんだよ。何も君をどうこうしようって言うんじゃないんだから…。ただちょっと……話をしたかっただけなんだ。」

「話……ですか……?」

 ミリーはドキドキしていた。
 あの日からずっと忘れられなかった想い人と2人きりだというこの状況に喜びのあまりというドキドキと、よもや話がしたいと言われたが庶民風な装いに変装はしていても見るからに上流階級の雰囲気を漂わせるこの男性にこの前の事について何か罰を受けさせられたり慰謝料を取られたり等するのではないかという恐ろしさからくるドキドキが混じり合い、小さな胸の中で合唱していた。
 暫くするとドアをノックする音が響き、先程の店員が注文した品々をテーブルの上に並べて用意してから「それでは、ごゆっくりどうぞ。」と再び部屋から出て行った。
 目の前に用意された淡いピンク色をしたお茶を一口すすると、男性はゆったりと話し始めた。

「突然こんなところに連れてきてしまってすまない……。私はしがない商人をしているマックスという者で、実は一ヶ月前に初めて会った時から君の事が忘れられなくってね。ずっと探していたので、漸く会えたのが嬉しくってつい……。」

「あの……。」

「なんだい?」

 ミリーはゴクリと唾を飲み込んだ。
 柔らかな物腰でニコニコとした表情を絶やさず話しかけてくる紳士的な振る舞いをする男性に胸をときめかせていたが、どうしても確認しなければならないことがあった。

「マックス…様。しがない商人だと仰いましたが、絶対に違いますよね? その艶やかなキラキラと光る髪の毛、どう見ても上物と思えるそのキレイな服からして……あなた様は貴族階級の方なのではないですか? もしかして私、ぶつかってしまった以上に何かとんでもない失礼な事でもしでかしてしまったのでは………。」

 緊張しながらそれだけ言い切ると真一文字に口を結び、マックスと名乗る男性の顔を上目遣いで見つめてミリーは自らが投げかけた質問の答えを待った。
 マックスの方はと言うと、ミリーの発したその言葉にさも意外と言った感じで驚きの表情になり、自らを見つめて待つミリーの様子にフッと笑みを漏らした。

「ハッハッハッハッハッ……! 完璧な変装だと思っていたのになぁ。見破られてしまっていたか…。」

「庶民はこの様なお店には来ませんし……。その……言葉遣いも………。」

「ほぉ…、なるほど! 庶民に化けるというのは案外難しいものなのだな。」

 恐る恐る言葉を紡ぎだすミリーとは対照的に、マックスは身分が即座にバレてしまって目の前の少女に指摘されたというのに態度を崩さず、昔からの友人に話しかけている様に気さくなまま何も変わらない。
 そんなマックスにミリーは徐々に緊張でガチガチになっていた表情かおや体を解していった。

「何も心配することは無い。何も君を攻めようと思って探していたんじゃないんだ。その……ちょっと会っただけなのにって思うかもしれないが、あの時から強く惹かれていてね。自分でもそれがどうしてなのか分からないが……。私はどうしても君の事を欲しいと思ったんだ。」

「えっ……!」

 ミリーは自分を熱い視線で真っ直ぐに見つめて口説くマックスから出た言葉に戸惑った。

「あっ……、えっと……。」

「こんなことを言うと君を困らせてしまうというのは分かっていた。でも……この思いを君に伝えずにいられなかったんだっ!」

 語気を強めて何も飾らずにぶつけてくる熱心さにミリーは本気なんだと感じた。
 だがしかし………。

「そんな風に言ってもらえて大変嬉しいのですが…、私は平民ですし身分が違いすぎます。」

「私の事は……キライかい?」

 そう言われるのは分かっていたとでもいう様にマックスは言われた事など気にすることはなく、ミリーに問いかけた。

「いえ、そんなっ! 私も……。」

 それだけは違うと、ミリーは首を横に何度も降って全力で否定した。

「じゃあ、一度それなりの家に養女にいくなりして誤魔化せば身分なんてどうとでもなる! 今の家族とは会えなくなってしまう事になるかもしれないが……方法なんてやろうと思えば何とかなるものさ! だからっ………!!」

 ミリーは更に何度も首を横に振った。

「家族を置いていくだなんて……、そんなことはできません。母が早くに亡くなり、たった一人の家族である父と二人だけで実家であるパン屋を営んできたんです。それなのに捨てて残していくだなんて……。」

 戸惑いと拒絶と、どうしようもなく惹かれるマックスへの恋心を自ら手放さなきゃならないという後悔にも似た苦い気持ちを引き摺りながら、ミリーは俯いて目に涙を溜めていた。
 そのミリーの返答にマックスはシュンと肩を落としたがサッと椅子から立ち上がってミリーの許へ跪くと、そっと目の前にハンカチを差し出した。

「愛しい君にそんな顔をして涙を流してなんてほしくないから…。」

 寂しげな眼差しで包み込む様に語り掛けるマックスの優しさに、ミリーは胸が締め付けられた。

「君は家族思いなんだね……。私にはそれをどうこうすることはできない。君にこの思いを告げることができて、君も私を好きだと言ってくれた……。これだけで充分さ。」

 マックスは自らの想いとミリー自身を振り切る様に最後に『満足さっ…』と、自分で自分自身を説得するが如く小声で呟いた。
 暫くは部屋の中は静まり返り、ミリーの我慢しても溢れ出てくる涙を堪えて内から呻き声となって小さくウゥっと漏れる音だけが聞こえていた。
 差し出されたハンカチは拭った涙ですっかりと濡れ、それと対比する様に様子から気持ちが落ち着いてきたと分かるとミリーの手を取り、マックスは再び口を開いた。

「また会え……いや、止めておこう。君の負担にはなりたくないし、これきりの方が良いのかもしれないな。でも……こんな事を言いながら愛する人に何かあれば助けたいとも思う。だから、君の名前を知りたい。………勝手だろうか?」

 マックスは視線を落とし、大好きなオモチャを取り上げられた犬の様にしょ気てみせた。
 さっきまでの紳士然とした態度とは打って変わって小さな子供の様な振る舞いをするマックスに思わず可愛らしいと感じ、ミリーは頬が緩んでニコリと微笑みを返した。

「私はミリーよ。職人街のこの街で一番美味しいパンを焼く『アリシア』ってパン屋のミリー。」

「ミリー、か……。パン屋『アリシア』のミリーだな。この胸にしっかりと刻み込んでおくよ。」

「えぇ。」

 また泣きそうになってきたミリーは涙が出そうになるのをグッと堪え、精一杯の笑顔で頷いた。

「最後に君の…、ミリーの笑顔を見られて嬉しかった。」

 握っていたミリーの右手にマックスは顔を近づけ、手の甲に名残惜しそうにキスをした。
 その後マックスに「家まで送りましょう」と言われ、ミリーは家であるパン屋の目の前まで送ってもらった。
 緊張していたので周りに気がいくことがなくマックスしか見ていなかったミリーだったが、帰り道でマックスの事をそっと見守る様にそっと後ろから付いてくる1人の男が居るのに気が付いた。
 聞けばマックスが外に出る時は必ず護衛として付けられる側仕えの一人なのだという。
 その事にミリーは驚き、マックスはただの貴族では無く、もしかしたらかなり高い身分の人なのではと焦ってアワアワと慌てた。
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