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あの時言えなかった言葉
あの時言えなかった言葉
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リンが目をそらす。
「教えとけ」
「ですが……」
「覚えときたいんだよ。全部は無理でも、最初に交わした会話ぐらい、覚えときたいだろ?」
リンが消えることはない。
しかしこの関係が消える時は必ず来る。
その時は、俺もこいつの隣にはおるまい。
先にこの関係は突拍子もなく切れると言った。しかし多分、この関係を切るのは俺からだ。
切れることがわかっているのなら、俺は自分で切る。
俺ってのは基本そういう男だ。
「……わかりました」
少しの沈黙を挟んだ後、リンが言った。
俺は無言で言葉を待った。
いつまでこの関係は続くのかなーなんて、ふと考える。
一年なのか。二年なのか。
今日の夕日が沈むまでは続いていても、来年の夕日が沈むとき、どうなっているかはわからない。
――なんて、いくらなんでもセンチメンタルにすぎるか?
酔いすぎている自分に、つい笑った。
「じゃあ、耳を貸してください」
目を向ける。
リンは赤い顔でモジモジしなから、目を背けていた。
「はあ!?」
しばしの思考停止の後、俺は言った。
リンはと言うと、赤い顔で髪をイジイジしながら、目を背けている。
「だ……誰にも聞こえないように耳打ちしますから。耳を貸してください」
内緒話でもするように、リンが小声でせかしてくる。その顔の赤さは多分、夕焼けのものだけではないはずだ。
俺は眉間に手を置いて、たっぷり呆れた。
「誰も聞いちゃいねえよ、そんなもん。いいからとっとと言え。これは上官命令だ」
「やです」
プイと顔を反らして、リン。長い栗色の髪が弧を描く。
「あのなあ」
「あ、あたしも組長に言われてます。自分のことを周囲に漏らさないようにって。だから耳貸してくれないなら、リンもこのことは兄様には言いません」
頬を膨らましながら、リンが言う。
しかしその顔は、怒っているというより、何か、別の気持ちをこらえているようにも見えた。
前にも言ったが、リンが自分のことを名前で呼ぶときは、誰かに甘えたいときなのだ。
そうしてほしいと、心から願っている時、リンは自分のことを名前で呼ぶ。
――まあ、俺もシンプルに気になるしな。
「わかったよ」
顔も見ずに、俺は言った。だから、その時リンがどんな顔をしているのかは、わからなかった。
足を止めて、リンに耳を近づける。
リンの匂いがやってきた。
くすぐるように、手を耳元に添えられる。
リンの息遣いが、耳元で聞こえた。
そして――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あなたも……ここにいる人たちと、同じなんですか?」
二年前。
隠し地下牢の中で、あたしは兄様にそう言った。
あたしをさらったのは、北翼の人たちだった。その時、あたしの母と父、兄と姉を殺したのも、北翼の人たちだった。
そして、兄様の出身地もまた、北翼。
兄様は東尾でも有名で、あたしのような田舎者でも、兄様のことは知っていた。
だから言った。
一言で言えば、八つ当たりだ。
さらった人間にも、自分にもあたることができない、弱き存在。
それが、二年前のあたし。
兄様は、そんなあたしを見て、笑った。
「ああ。――極悪人だよ」
「ヒョウ」
有火姉様の言葉を、兄様が片手で遮った。
「普通、人をたたっ切ると、少なからず心ってやつが痛むらしい。俺は多分、お前をさらった連中の倍以上殺して来たんじゃねえかなー。生きるためでもあったが、楽しむ意味もあった。その中には善人もいただろう。殺すに値すると思った時はガキでもやった。それでも、心を痛めたことは一度もない」
二年一緒にいるからわかる。
兄様は本来自分を語らない。
そもそも人と話すこと自体が、そんなに好きではないのだと思う。
いつも笑っていらっしゃるから、多くの人が勘違いしているけれど。
本当の兄様は、わりと無口な方なのだ。
「仲間と思える人間が死んだことも何度となくあった。それでも、涙一滴零れやしねえ」
そんな兄様が、自分を語る。
それは、兄様が揺れている時なのだ。
愚痴を言うのも言われるのも嫌い。説教するのもされるのも嫌い。
誰かに支えられることも、甘えることもしない兄様だけれど、時々こういう弱みを見せる。
それはいつも、東尾と、自分の違いを知った時。
「お前みたいな弱っちい、哀れな奴を見てると俺はな――どうしようもなく、笑っちまう」
口元に巻いた黒包帯の奥で笑いながら、兄様が言った。
先程も言ったように、兄様が自分を語るときは、揺れている時だ。
しかし、仮に揺れていたとしたって、初対面のあたしに、こんなことを言うはずがない。
つまりこの台詞は、あたしに向けられているようで、実はあたしに向けられていないのだった。
「そういうわけだ。だから――そこをどけ。雪女」
雪《ゆき》姉様に向かって、兄様が言った。
しかし――
「アホ」
「バッカねえ」
即座に、兄様に向かって、二つの罵声が突き刺さった。
壁にもたれかかっていた有火姉様が、音も立てず、兄様に向けて足を動かす。
「人を斬って心が痛まない? 仲間が死んでも涙が零れたことがない? 何を洒落たことで、心痛めてるんだよ、らしくない。
お前は、逆境だろうと順境だろうと、笑って対峙する。そして勝つ。ふざけた男だ。しかし、お前のような男を光だと思っている人間も、少なからずいる。うちみたいな隊だと特にな。
ま、あたしは違うがな」
兄様と肩を並べて、有火姉様が言った。
そして。
コツンと、雪姉様が、抜いた刀の鞘で兄様の頭を小突いた。
「大体ねえ。囚われのお姫様を救いに来た男がさー、悪党斬って心痛めてたり、仲間の死で泣いてたりしたら嫌じゃん?
あんた捕まってる子みたら笑えるって言ったわよね? だったらその笑った顔で、別のこと言ってみなよ。『助けにきた』とか『よく頑張った』とか『怪我はないか』とか。
それが言えたらあんた、メチャクチャかっこいい男だよ。ま、あたし基準では、あるけどね」
あたしは――
あたしは、この時のことを、とてもとても後悔している。
どうしてあたしは、兄様にあんなことを言ってしまったのだろう。
二人に及ばないのは仕方がない。
今ですら及んでいないのだから。
それでももっと、他に言葉はあっただろうに。
酷いことを言ってしまったと思った。謝りたいと思った。
だけど今は――
有火姉様と、雪姉様に、ちょっと嫉妬してる。
「ふん。女やめたお前らにどうこう思われてもな」
肩をすくめて、兄様が言った。
怒る有火姉様と、ため息つく雪姉様。
兄様はしばしその場で立ち尽くしていた。
そして――
「ただまあ――よかったと思うぜ。無事で」
「お!!」
ぴょこんと。
声を雪ウサギのように跳ねさせる雪姉様。
声だけで楽しんでいることが、あたしにさえわかる。
兄様を怒らせるには、十分すぎる。
「るっせえぞ、雪女!! いいかクソガキ!!」
あたしを指さして、兄様が言った。
「助けにきたのはこいつらだ!! 頑張ったのはお前だ!! そして、怪我がなかったのはお前が色気のないガキだったから!! 以上!! わかったらどけ!!」
兄様が、強引に雪姉様をどかして階段を登っていく。
頬を膨らますあたし。消える兄様。そして――
膨らましたあたしの頬を、瞬く間に間を詰めた雪姉様が、指で押して萎ませた。
驚くあたしに、雪姉様が笑いかける。
「あんたも。こういう時は『ありがとう』ぐらい言わなきゃね。
男はお姫様の一言で、いくらでも頑張れるものなんだからさ」
立ち上がり、雪姉様がウインク一つ。
「ユキ。そんな台詞決めるぐらいなら、服ぐらいどうにかならなかったのか? そんな布一枚で出歩きやがって。目に毒だ」
|有火(あるか)姉様が言った。
「あ、やっぱしー? アッハッハッハ」
雪姉様が、お腹を抱えて笑う。
笑う時、下ろした目蓋が、目の下に長い睫《まつげ》を並べている。
あたしは――
綺麗だと思った。
雪姉様は、本当にいつもいつも楽しそうに笑う。
それでいて、強く、楽観的なのに、言葉にはいつも重みがあった。
聞いたことはないけれど、兄様は、雪姉様みたいな人が好きなんじゃないかと思ってしまう。
あるいは、男の人はみんなそうなのかもしれない。
あたしと雪姉様は、対極だ。
雪姉様と比べる以前に、昔の言動を悔いる以前に、あたしが兄様を好きになるなんて、絶望で、何より罪であることも知っていた。
だけどあたしは――
雪姉様にも、誰にも、負けたくない。
あれから二年経った。
あたしは――
ソッと、爪先を立てた。
背はちょっとしか伸びなかったし。
誰にも聞こえないように、兄様の耳に手を添える。
強さも、雪姉様には遠く及ばない。背丈等々は言わずもがなだ。
それでも届いている。一歩一歩。
だったら、諦めたくない。
兄様のことが、好きだから。
そんな言葉さえ、今は罪だけれど、いつかは――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
リンから耳を離して、目を向けた。
リンは赤い顔をして、俺を見つめている。
リンの言った言葉は、ありがとうございます、だった。
確かにあの状況なら、そう言っていてもおかしくない。
ありがちな定型区で、俺が忘れているのも道理である。
しかし――
「お前本当にそんなこと言ったんだろうな?」
「え? 知りません」
笑いをこらえるような声で、リンが言った。
「ああ!?」
こっちは真剣に聞いていたんだ。
それをこんな冗談で返されたら、イラつきもするってなもんだ。
リンは素知らぬ顔で足を回して、俺にその小さな背中を向けた。
「昔のことすぎて、リンももう忘れちゃいました。ただそんなこと言ったかなーって、そんな気がしただけです」
「ふーん」
嘘くせえ話だ。
でもまあいっかと思った。
こいつがそう言うなら、それで。
真実を暴くのが、常に正しいとは限らない。
「そう――」
「だけど」
俺の言葉を遮るので、リンを見た。
リンは未だ俺に背を向けている。
「だ、だけど、いつか――その、思い出す日が、くるかもしれません」
たどたどしく話すリン。
顔を持ち上げ、夕焼けを見ていることしか、わからない。
ただ、多分、顔を赤くしながら言ってんだろうなって思った。
「だから……」
俺は続く言葉を待った。
「だから……」
中々言わない。
俺は、自分が待っていることも忘れて、待った。
リンが、夕焼けに染まった紅い髪を揺らしながら、振り返る。
「だから、その時が来るまで、リンのことずっとずっと、見ていてくださいね。兄様」
『こいつはいっつも俺のことを見てやがるから――』
目を開いて、そして閉じる。
そうか。
それだけ思った。
足を回して、リンと肩を並べる。
何と言おうか、迷った。
足を数歩、先に進ませる。
迷った挙句、頭に両手を置いて、逃げるように夕焼けを見つめた。
「ま、その時まで、気になってたらな」
お前のことを。
と、暗に含んだ気がした。
きっと気のせいだと、思いこんだ。
そんなわけ、あるものかと。
「――はい!!」
リンの言葉が、耳孔を打つ。
振り返った。
リンの顔を見て、俺は――段々と。
いや。
やめておこう。
この時、俺がなんて思ったか、なんてのは、例え心の中であっても、言えやしない。
だから。
「あで」
リンが言った。
俺がリンの頭を手刀で打ったからだった。
「どうかなされたのですか?」
「ん? 心の中でも言えなかったから、行動で示そうと思ってな」
笑って応えた。
リンが頬を膨らまして見上げてくる。
しかし、すぐに頬を萎ませて、リンもまた笑う。
「ちゃんと、いいこと言おうとしましたか?」
「ああ」
「ふふ。じゃあ許します」
「ついでに、叩きやすい位置にもあったしな」
「それは許さないです……」
「冗談だよ。あーそういやカーテン買って帰らないとなー。後コーヒー豆と――」
「コーヒー豆とはなんですか? 兄様」
「あーお前コーヒー知らないのか。コーヒーってのは、子供が飲める酒みたいなもんだ。要は大人の飲み物よ」
「そのような飲み物があるのですね……」
「よし!! 家に帰ったら、兄様が最高においしいコーヒーを飲ませてやるぞ!! 感謝しろよ、リン!!」
「ふふ、楽しみにしています、兄様」
<あの時言えなかった言葉 了>
「教えとけ」
「ですが……」
「覚えときたいんだよ。全部は無理でも、最初に交わした会話ぐらい、覚えときたいだろ?」
リンが消えることはない。
しかしこの関係が消える時は必ず来る。
その時は、俺もこいつの隣にはおるまい。
先にこの関係は突拍子もなく切れると言った。しかし多分、この関係を切るのは俺からだ。
切れることがわかっているのなら、俺は自分で切る。
俺ってのは基本そういう男だ。
「……わかりました」
少しの沈黙を挟んだ後、リンが言った。
俺は無言で言葉を待った。
いつまでこの関係は続くのかなーなんて、ふと考える。
一年なのか。二年なのか。
今日の夕日が沈むまでは続いていても、来年の夕日が沈むとき、どうなっているかはわからない。
――なんて、いくらなんでもセンチメンタルにすぎるか?
酔いすぎている自分に、つい笑った。
「じゃあ、耳を貸してください」
目を向ける。
リンは赤い顔でモジモジしなから、目を背けていた。
「はあ!?」
しばしの思考停止の後、俺は言った。
リンはと言うと、赤い顔で髪をイジイジしながら、目を背けている。
「だ……誰にも聞こえないように耳打ちしますから。耳を貸してください」
内緒話でもするように、リンが小声でせかしてくる。その顔の赤さは多分、夕焼けのものだけではないはずだ。
俺は眉間に手を置いて、たっぷり呆れた。
「誰も聞いちゃいねえよ、そんなもん。いいからとっとと言え。これは上官命令だ」
「やです」
プイと顔を反らして、リン。長い栗色の髪が弧を描く。
「あのなあ」
「あ、あたしも組長に言われてます。自分のことを周囲に漏らさないようにって。だから耳貸してくれないなら、リンもこのことは兄様には言いません」
頬を膨らましながら、リンが言う。
しかしその顔は、怒っているというより、何か、別の気持ちをこらえているようにも見えた。
前にも言ったが、リンが自分のことを名前で呼ぶときは、誰かに甘えたいときなのだ。
そうしてほしいと、心から願っている時、リンは自分のことを名前で呼ぶ。
――まあ、俺もシンプルに気になるしな。
「わかったよ」
顔も見ずに、俺は言った。だから、その時リンがどんな顔をしているのかは、わからなかった。
足を止めて、リンに耳を近づける。
リンの匂いがやってきた。
くすぐるように、手を耳元に添えられる。
リンの息遣いが、耳元で聞こえた。
そして――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あなたも……ここにいる人たちと、同じなんですか?」
二年前。
隠し地下牢の中で、あたしは兄様にそう言った。
あたしをさらったのは、北翼の人たちだった。その時、あたしの母と父、兄と姉を殺したのも、北翼の人たちだった。
そして、兄様の出身地もまた、北翼。
兄様は東尾でも有名で、あたしのような田舎者でも、兄様のことは知っていた。
だから言った。
一言で言えば、八つ当たりだ。
さらった人間にも、自分にもあたることができない、弱き存在。
それが、二年前のあたし。
兄様は、そんなあたしを見て、笑った。
「ああ。――極悪人だよ」
「ヒョウ」
有火姉様の言葉を、兄様が片手で遮った。
「普通、人をたたっ切ると、少なからず心ってやつが痛むらしい。俺は多分、お前をさらった連中の倍以上殺して来たんじゃねえかなー。生きるためでもあったが、楽しむ意味もあった。その中には善人もいただろう。殺すに値すると思った時はガキでもやった。それでも、心を痛めたことは一度もない」
二年一緒にいるからわかる。
兄様は本来自分を語らない。
そもそも人と話すこと自体が、そんなに好きではないのだと思う。
いつも笑っていらっしゃるから、多くの人が勘違いしているけれど。
本当の兄様は、わりと無口な方なのだ。
「仲間と思える人間が死んだことも何度となくあった。それでも、涙一滴零れやしねえ」
そんな兄様が、自分を語る。
それは、兄様が揺れている時なのだ。
愚痴を言うのも言われるのも嫌い。説教するのもされるのも嫌い。
誰かに支えられることも、甘えることもしない兄様だけれど、時々こういう弱みを見せる。
それはいつも、東尾と、自分の違いを知った時。
「お前みたいな弱っちい、哀れな奴を見てると俺はな――どうしようもなく、笑っちまう」
口元に巻いた黒包帯の奥で笑いながら、兄様が言った。
先程も言ったように、兄様が自分を語るときは、揺れている時だ。
しかし、仮に揺れていたとしたって、初対面のあたしに、こんなことを言うはずがない。
つまりこの台詞は、あたしに向けられているようで、実はあたしに向けられていないのだった。
「そういうわけだ。だから――そこをどけ。雪女」
雪《ゆき》姉様に向かって、兄様が言った。
しかし――
「アホ」
「バッカねえ」
即座に、兄様に向かって、二つの罵声が突き刺さった。
壁にもたれかかっていた有火姉様が、音も立てず、兄様に向けて足を動かす。
「人を斬って心が痛まない? 仲間が死んでも涙が零れたことがない? 何を洒落たことで、心痛めてるんだよ、らしくない。
お前は、逆境だろうと順境だろうと、笑って対峙する。そして勝つ。ふざけた男だ。しかし、お前のような男を光だと思っている人間も、少なからずいる。うちみたいな隊だと特にな。
ま、あたしは違うがな」
兄様と肩を並べて、有火姉様が言った。
そして。
コツンと、雪姉様が、抜いた刀の鞘で兄様の頭を小突いた。
「大体ねえ。囚われのお姫様を救いに来た男がさー、悪党斬って心痛めてたり、仲間の死で泣いてたりしたら嫌じゃん?
あんた捕まってる子みたら笑えるって言ったわよね? だったらその笑った顔で、別のこと言ってみなよ。『助けにきた』とか『よく頑張った』とか『怪我はないか』とか。
それが言えたらあんた、メチャクチャかっこいい男だよ。ま、あたし基準では、あるけどね」
あたしは――
あたしは、この時のことを、とてもとても後悔している。
どうしてあたしは、兄様にあんなことを言ってしまったのだろう。
二人に及ばないのは仕方がない。
今ですら及んでいないのだから。
それでももっと、他に言葉はあっただろうに。
酷いことを言ってしまったと思った。謝りたいと思った。
だけど今は――
有火姉様と、雪姉様に、ちょっと嫉妬してる。
「ふん。女やめたお前らにどうこう思われてもな」
肩をすくめて、兄様が言った。
怒る有火姉様と、ため息つく雪姉様。
兄様はしばしその場で立ち尽くしていた。
そして――
「ただまあ――よかったと思うぜ。無事で」
「お!!」
ぴょこんと。
声を雪ウサギのように跳ねさせる雪姉様。
声だけで楽しんでいることが、あたしにさえわかる。
兄様を怒らせるには、十分すぎる。
「るっせえぞ、雪女!! いいかクソガキ!!」
あたしを指さして、兄様が言った。
「助けにきたのはこいつらだ!! 頑張ったのはお前だ!! そして、怪我がなかったのはお前が色気のないガキだったから!! 以上!! わかったらどけ!!」
兄様が、強引に雪姉様をどかして階段を登っていく。
頬を膨らますあたし。消える兄様。そして――
膨らましたあたしの頬を、瞬く間に間を詰めた雪姉様が、指で押して萎ませた。
驚くあたしに、雪姉様が笑いかける。
「あんたも。こういう時は『ありがとう』ぐらい言わなきゃね。
男はお姫様の一言で、いくらでも頑張れるものなんだからさ」
立ち上がり、雪姉様がウインク一つ。
「ユキ。そんな台詞決めるぐらいなら、服ぐらいどうにかならなかったのか? そんな布一枚で出歩きやがって。目に毒だ」
|有火(あるか)姉様が言った。
「あ、やっぱしー? アッハッハッハ」
雪姉様が、お腹を抱えて笑う。
笑う時、下ろした目蓋が、目の下に長い睫《まつげ》を並べている。
あたしは――
綺麗だと思った。
雪姉様は、本当にいつもいつも楽しそうに笑う。
それでいて、強く、楽観的なのに、言葉にはいつも重みがあった。
聞いたことはないけれど、兄様は、雪姉様みたいな人が好きなんじゃないかと思ってしまう。
あるいは、男の人はみんなそうなのかもしれない。
あたしと雪姉様は、対極だ。
雪姉様と比べる以前に、昔の言動を悔いる以前に、あたしが兄様を好きになるなんて、絶望で、何より罪であることも知っていた。
だけどあたしは――
雪姉様にも、誰にも、負けたくない。
あれから二年経った。
あたしは――
ソッと、爪先を立てた。
背はちょっとしか伸びなかったし。
誰にも聞こえないように、兄様の耳に手を添える。
強さも、雪姉様には遠く及ばない。背丈等々は言わずもがなだ。
それでも届いている。一歩一歩。
だったら、諦めたくない。
兄様のことが、好きだから。
そんな言葉さえ、今は罪だけれど、いつかは――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
リンから耳を離して、目を向けた。
リンは赤い顔をして、俺を見つめている。
リンの言った言葉は、ありがとうございます、だった。
確かにあの状況なら、そう言っていてもおかしくない。
ありがちな定型区で、俺が忘れているのも道理である。
しかし――
「お前本当にそんなこと言ったんだろうな?」
「え? 知りません」
笑いをこらえるような声で、リンが言った。
「ああ!?」
こっちは真剣に聞いていたんだ。
それをこんな冗談で返されたら、イラつきもするってなもんだ。
リンは素知らぬ顔で足を回して、俺にその小さな背中を向けた。
「昔のことすぎて、リンももう忘れちゃいました。ただそんなこと言ったかなーって、そんな気がしただけです」
「ふーん」
嘘くせえ話だ。
でもまあいっかと思った。
こいつがそう言うなら、それで。
真実を暴くのが、常に正しいとは限らない。
「そう――」
「だけど」
俺の言葉を遮るので、リンを見た。
リンは未だ俺に背を向けている。
「だ、だけど、いつか――その、思い出す日が、くるかもしれません」
たどたどしく話すリン。
顔を持ち上げ、夕焼けを見ていることしか、わからない。
ただ、多分、顔を赤くしながら言ってんだろうなって思った。
「だから……」
俺は続く言葉を待った。
「だから……」
中々言わない。
俺は、自分が待っていることも忘れて、待った。
リンが、夕焼けに染まった紅い髪を揺らしながら、振り返る。
「だから、その時が来るまで、リンのことずっとずっと、見ていてくださいね。兄様」
『こいつはいっつも俺のことを見てやがるから――』
目を開いて、そして閉じる。
そうか。
それだけ思った。
足を回して、リンと肩を並べる。
何と言おうか、迷った。
足を数歩、先に進ませる。
迷った挙句、頭に両手を置いて、逃げるように夕焼けを見つめた。
「ま、その時まで、気になってたらな」
お前のことを。
と、暗に含んだ気がした。
きっと気のせいだと、思いこんだ。
そんなわけ、あるものかと。
「――はい!!」
リンの言葉が、耳孔を打つ。
振り返った。
リンの顔を見て、俺は――段々と。
いや。
やめておこう。
この時、俺がなんて思ったか、なんてのは、例え心の中であっても、言えやしない。
だから。
「あで」
リンが言った。
俺がリンの頭を手刀で打ったからだった。
「どうかなされたのですか?」
「ん? 心の中でも言えなかったから、行動で示そうと思ってな」
笑って応えた。
リンが頬を膨らまして見上げてくる。
しかし、すぐに頬を萎ませて、リンもまた笑う。
「ちゃんと、いいこと言おうとしましたか?」
「ああ」
「ふふ。じゃあ許します」
「ついでに、叩きやすい位置にもあったしな」
「それは許さないです……」
「冗談だよ。あーそういやカーテン買って帰らないとなー。後コーヒー豆と――」
「コーヒー豆とはなんですか? 兄様」
「あーお前コーヒー知らないのか。コーヒーってのは、子供が飲める酒みたいなもんだ。要は大人の飲み物よ」
「そのような飲み物があるのですね……」
「よし!! 家に帰ったら、兄様が最高においしいコーヒーを飲ませてやるぞ!! 感謝しろよ、リン!!」
「ふふ、楽しみにしています、兄様」
<あの時言えなかった言葉 了>
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こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
魚夢ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
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