真綿を首にかける

シマノ ワタオ

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真綿を首にかける

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 首をめられたのは人生で二度目だった。
 一度目は、妹とまだ仲良しだったころ。ヒーローごっこ遊びに没入した妹が、悪者役の硝子に馬乗りになって笑いながら首に手をかけてきた。唐突にやってきた息苦しさと、のどぶえに食い込もうとする熱い指に硝子は驚いて、覆いかぶさってくる妹の身体を思いきり突き飛ばした。結果、妹はテーブルのかどにぶつかって額を切る大ケガをし、病院に運ばれた。処置を受けたあとに妹は母から抱きしめられ、硝子は父から前髪が吹きとぶほどの怒号を浴びせられた。妹の額に傷の痕はのこらなかった。
 二度目は放課後、学校の図書館で本を読んでいたときだった。硝子にはいつも座っているお気に入りの観覧席があり、よくそこで小説を読んでいた。はじめはあちこちに座って本を読んでいたが、図書館に通いつめているうち、奇妙なくらい人の寄りつかない席があることに気がついたのだ。そこは、カウンターから最も離れた窓ぎわの席で、歴史小説の棚と、ポップアップカードの飾られた海外の絵本コーナーに囲まれていて、壁際にかかった白いカーテンが窓明かりをいつも遮っていた。入学してからずっと、ひとりで読書にふけるのが好きだったために、硝子はそこを自分の特等席だと勝手に思い込んでいた。
 その日も硝子は頬杖をつきながら、例の席でハードカバーの小説をめくっていた。表紙がとても綺麗だったので選んでみたのだが、物語なかみをめくっていくうちに好みの内容ではないことに気づかされた。読書はとても好きだが、好みくらいはあった。幸福だけが舞い込んでくる話なんてあまり読みたくはないと思っているし、苦境へ追い込まれ続ける主人公は自分がもう一人いるみたいで胃がムカついてくる。ただ、どちらかの世界に追放されることになったら真っ先に前者を選ぶだろう。
 好みとはいえない物語を半分ほど読み終えたところで、硝子はぼちぼち帰る支度をはじめることにした。とくに続きが気にならなかったので、貸し出し手続きはせずに元の場所へと返却をする。小説を棚に戻しおえて鞄を取りに向かうと、誰かが硝子の席のそばに立っていた。人と待ち合わせをしていたわけでもなかった硝子は、内心で首をかしげながら近づいていった。
 それがクラスメイトだと理解するまでに時間はかからなかった。
 そばに寄ると白い手のひらが、すうっと硝子の首に絡みついた。
「ねえ」
 彼女はじっと硝子を見つめたまま、小さく唇を動かしていった。硝子は息を呑もうとしたが、できなかった。彼女の指が、じりじりと自分の喉を圧迫しはじめていたからだ。
「……私に、おしえてほしいの」
 指の力が強まったが、硝子は目を逸らさなかった。それは、彼女が自分の気道を完全に押し潰していなかったことも原因だったが、その瞳がすすいだビー玉さながらに水気を含んでいて、妙に気がかりだったからだ。 
 首を締めあげる力は着実に強まっていき、少しずつ、少しずつ、硝子の取りこめる酸素の量を減らしていった。
 このままいくと意識が沈んでしまうのではないかと硝子は危惧したが、とり乱したり、叫ぼうとしたり、翅をむしられた虫のように手脚をバタつかせたりすることはなかった。これ以上ないほどに研ぎ澄まされた硝子の意識は彼女の動作を目視することだけに注がれ、迫りくる息苦しさを二の次にしてしまっていた。
 結局、硝子の呼吸が完全に閉ざされることはなかった。苦しまぎれに発せられた「うう」といううめき声で彼女は我にかえり、即座に手を離したからだ。抑えつけられていた酸素を一気に取りこむことがとても苦しいことなのだと、硝子はこのとき初めて知った。

 高校時代のその日、わたしは袖井紫に首を絞められたのだ。

    2

 身体を洗ってベッドに横になっても、硝子のほとぼりが冷めることはなかった。
 どうして彼女は泣いていたのかだとか、そもそも自分が首を絞められた理由だとかが気になったが、硝子の頭をとり巻くもっともな疑問は、それを行ったのが袖井紫だったというところだ。
 袖井そでいゆかりは同じクラスに所属する、今では硝子のふたつ隣の席に座っている女子生徒だった。彼女の周りにはいつも人が集まってくるので、硝子はお昼休みになるとよく彼女の友人たちに自分の席をあけ渡していた。一度だけ、袖井紫と友人たちが過ごす風景を硝子は観察してみたことがある。ひどいものだった。仲間の誰かひとりが大声で笑うたびに、彼女たちはそれに続いてぺちゃくちゃ声を出さなくてはいけない。それは食事中にも適用されてしまうらしく、咀嚼している最中の口を開くたびに唇の端からこぼれたパンの欠片が下へ振りかかり、硝子の机やその周囲を侵略していくのだ。好きで席を譲っているわけでもないのに、冗談じゃない。
 袖井紫は、その集団のなかでは一番かしこい立ち回りをしていた。彼女は友人たちが楽しそうにつく悪態はおろか、あきれるほど遠回しな揶揄にも満面の笑みを見せたりはしなかった。ただ唇の両端をほんの少し上げて、「そうなのかしら?」といった様子でうなずくだけ。だから、クラスメイトのなかには袖井紫が自分たちと同じ程度の思いやりは持っていて、いつか自分がそしられたときには「そんなことないでしょう」とあの悪友たちを説き伏せてくれる、と信じる生徒もいた。もちろん、彼女はそんなことをしてくれやしない。
 硝子は、自分が彼女たちのグループから密かに「沼子ヌマコ」と呼ばれ、馬鹿にされていることを知っていた。同時に、自分の「青沼」という苗字はけっして多いわけではないことも理解していたし、馬鹿にされるといったって少々行きすぎたからかい程度ということも分かっていた。ただ、それにしたって鷹揚に首を動かした袖井紫のことは許せなかった。彼女がもっとも怖がっているものは友人たちに逆らってしまう袖井紫じぶんであるから、たとえ誰が悪く言われていようとそれを払拭しようとはしないのだ。自分自身が標的になったとしても、袖井紫はきっと「そうなのかしら」と首をかしげるだけだ。硝子にとって、それはひどく馬鹿げた決めごとに思えた。
 そんな袖井紫が、なぜ大して関わりもないクラスメイトの首を絞めることになったのか。硝子は天井を見上げながらそれについて一晩中考えをめぐらせたが、めぼしい答えを見つけることは出来なかった。確かに、彼女と身近な距離で過ごしているという事実はあるが、それは物理的なはなしであって、けっして自分と親しいというわけではない。袖井紫が苦手とするものや、視界に映すのもはばかられるほど不快感を覚えるものを、硝子は何ひとつとして知らなかった。彼女の周りに集まっている友人たちならいくつか答えをもっているだろうが、生憎、自分を軽んじる相手に愛想よくできるほど柔和な性格だとは思っていない。それに自分とは違って、袖井紫はクラスの中でもっとも目をひく生徒といっても差し支えがなかった。彼女自身の端麗な容姿も理由の一つだが、取り澄まさないその振る舞いこそが大きな要因となっているのだろう。硝子がもっとも愚かだと考える袖井紫の一面が、別の人間からは美点として映っていることにはいささか面食らったが、今となってはすっかり飲み込んでいた。否定も肯定もしない袖井紫のことが、みな大好きなのだと。

    3

 適当な理由をつけて硝子は学校を休むことに決めた。
 体調には全くといっていいほど影響は現れなかったが、嫌いな体育の授業があることと、昨日の出来事の原因が見当もつかないまま登校するのは気が引けたため、欠席の連絡を入れることにしたのだ。今日の日付と自分の出席番号からして、授業中に質問を受ける可能性が高いことも、大きな導因となった。
 ほどなく決断できたことは良かったものの、長い一日をこれからどう過ごすかを硝子はまるきり決めていなかった。そのために、見当もつかないクラスメイトの動機を模索し続けるほかなく、昼食をとるべき頃にはすっかり意欲が底をついていた。気晴らしに読書をしようと本を開いてみたが、数ページ読み進めるうちに彼女がまた首へ手をかけてくるんじゃないかという空想が邪魔をしてきたため、断念した。
 安いクッションに腰を下ろしたまま、硝子はぐるりと自分の部屋を見回した。相変わらず物の少ない部屋だとは思ったが、居心地の悪さを感じたことは一度もなかった。つい最近まで自分の部屋が存在しなかったことを考えると、至極当然の感想だろう。妹も自分とは別の部屋が与えられたことを喜んでいたようだったし、常日頃から恨み言を聞かされることがなくなったのも硝子にとってはよい兆候だといえた。本棚に収納するスペースをとり合ったり、一つの勉強机を交代で使わなくてはいけなかったりするストレスがさっぱり消え去ってくれたからだ。なにより、こうして何もせずに時間をつぶせていることが、硝子はありがたいと感じていた。前の環境であれば「時間の浪費」だとか言って、妹は騒いだに違いない。そうなると、硝子のもっとも脅威である母親が部屋へ立ち入ってくるので、気を緩めることもままならなかったのだ。

 部屋にテレビがない、という事実を前から問題視してはいたが、早々にどうにかすべきであったと硝子は感じていた。興味の薄いニュースや内容の入ってこないドラマ番組だったとしても、今の自分にとっては多少の暇つぶしになってくれたことだろう。スマートフォンのゲームは熱中しすぎて歯止めがきかなくなると身をもって知っているので、いたずらに手を出すわけにもいかない。したがって、現在の暇つぶしにもっとも最適なのはテレビだったが、残念ながら家には両親の寝室とリビングの二つしか置かれておらず、両親に無断で学校を休んだ硝子にとってそれは非常にきまりが悪かった。下へ下りていって万が一にも母親と出くわした場合、母親は間違いなく大目玉を食らわせてくるだろう。これ以上、落伍者としてあつかわれるのもほとほと嫌気がさしている。
 一時間ほど悩んだ結果、硝子は近くにある映画館へ向かうことにした。昼間であれば人は少ないだろうし、下校中の学生と顔を合わせることはまずないといえる。それに、このまま部屋で一日を終えてしまうと自分でも「時間の浪費」のような気がしたので、何か中味なかみのあることをすべきだと思えてきたのだ。映画を見ることは好きだったし、休日には実際に館内へ足を運んだこともある。幼少期こそ怖がっていたものの、家庭ではまず耳にできないあの騒音も今では硝子のお気に入りだ。強いていえば、目的地へ向かうバスが定期券の範囲外であることが悔やまれるが、この際、目をつむることにする。
 誰にも悟られずに外出の身支度をすることはまるで難しいことではなかった。父親は出張でしばらく家には帰ってこないし、妹は今ごろ学校で退屈に授業を受けている。懸念の的であった母親は外出していて、そもそも家には居なかった。おそらくだが、趣味で通っているガーデニング教室だろう。それなら帰ってくる時間も想定しやすいので、硝子にとっては都合がいい。
 
 幸せそうな顔の老夫婦が遠ざかっていくのを見届けてから、硝子は足を踏み入れた。予想した通り、平日の映画館には人が寄りつかないようでチケットも座席も選び放題だった。見たい映画があって来たわけではなかったが、たまたま読んだことのある小説が映画化されていたのでそのチケットを購入し、座席はスクリーンから比較的はなれた中央の席を選択した。
 あちこちから立ち込める香ばしい匂いをかいで、硝子は席についた。その手には、Sサイズのオレンジジュースと映画館ではもっとも大きいサイズのポップコーンが握られている。朝、昼と空っぽを続けた胃袋が、ついに限界を訴えたのだ。小山のように積みあげられたキャラメルのポップコーンに、硝子は柄にもなくはしゃいでいた。こんなにたくさん、上映が終わるまでに食べきれるだろうか。もうじき、映画がはじまる。

 映画が開始されてからしばらくして、硝子にはどうしても気になることがあった。映画の内容や展開はさほど気にかからなかったし、はなし自体は一度小説を読んでいたので、むしろ安心して眺めることができた。ただ、自分の二つ前の列に座った客の様子がどうにも穏やかではないようだ。けっして小さくはない声で、互いに言葉を出し合っている。うしろ姿からして若い女性と男性の二人組だと判断したが、表情までは分からなかった。硝子がどうにか映画に集中しようと努めていれば、そのうち猛獣のような唸り声まで聞こえてくる。
 ポップコーンを無心で掴みとりながら、硝子は映画館へ来たことを後悔していた。やはり、軽率に外出するべきではなかった。学校を休んだくせに映画なんて見ようとするから、ばちが当たったのだ。ストーリーが中盤に差しかかると二人組の声はますます勢いをつけていったので、硝子は開き直って映画そっちのけで耳をそばだてることにした。面白い会話の一つや二つ聞きとれれば、ジュース代を支払ってしまったなぐさめ程度にはなると考えたからだ。二人組は相変わらず激しい言葉を吐きつづけていたが、ロマンチックな効果音が邪魔をして明瞭な会話は一つも聞きとれなかった。どうやら、映画は主人公が恋人へ秘密を打ちあける、最大の見せ場シーンを迎えたらしい。相思相愛の二人がスクリーンのなかで向かい合った途端に、効果音は消え去ってしまい、白い光があたりを包み込んでいった。
 物語の結末はこうだ。主人公である青年は何年も付き合っている恋人のことを愛していると思っていたが、ある晩、彼のことを知りつくした天使のような女性に熱を浮かしてしまう。恋人を裏切ってしまったことに青年は慚愧ざんきし、彼女の元を去ることを決心して告白をするのだが、実は二人の女性は同一人物であり、恋人は青年を試していたのだとわかる。真実を述べた青年のことを恋人は受け入れ、二人は結ばれる。
 先の内容を脳内でたぐり寄せるうちに、硝子は――はて、と思った。小説のなかにこんなシーンがあっただろうか。スクリーンのなかの恋人たちは向き合ったまま、抱擁をかわす直前のような姿勢で動きを止めている。恋人の女性が、主人公の身体に優しく手をかけているのだが、その姿は塗りつぶしたように真っ暗で表情を確認することはできない。さらに妙なのは、恋人の手元が想像よりも高い場所にあることだった。主人公ののどぼとけを押さえるように、恋人の手がそえられている。これじゃあ、まるで……。
 首を絞めているみたいだと感じたのと、映画じゃないことに気がついたのはおそらく同時だった。昨日の景色を思い起こした瞬間、硝子の身体はその意識よりも早くに席を立ちあがり、目の前の風景が現実であることを訴えかけてきた。――本物だ。先ほどまで騒いでいた前列の女性が立ち上がって、連れである男性の首を絞めあげている。硝子はその光景をだまって脳裏に焼きつけることしかできなかった。スクリーンからのびた光は、席を立っている者たちの姿を照らしあげ、くらい館内から浮き彫りにした。

 男性は見るからにもがき苦しんでいるようだった。自身の首へ伸びる女性の腕に手のひらを這わせたかと思えば、今度はその手を遠くへとやって上下に揺らした。それに反応して、女性は顔をのけぞらせ手から遠ざかる動きをみせる。目を指で突かれないよう注意しているのだ。
 意識を取り戻した硝子はとっさに周囲を見渡した。前方に座る客たちはありきたりなキスシーンに釘付けになっていて、かすかに聞こえてくる男性の息継ぎなんて聞こえちゃいない。運の悪いことに後方の座席には人影が一つも見あたらず、目の前の寸劇を把握しているのは自分だけなのだと硝子は悟った。あの男性を救い出せるのは自分だけで、早急にどうにかしないと手遅れになるかもしれない。
 硝子が思いを決めて通路へと踏み出した瞬間、男性の身体がぐらりと揺らめいてその場に崩れ落ちた。女性の影だけが、未だに佇んで光を浴びている。硝子の呼吸は一瞬止まりかけたが、それが杞憂であったとすぐに気がついた。
「コノイカレオンナ! なに考えてんだ!」
呼吸をとり戻して自身が生きていることを確認すると、男性は硝子が聞きとれる声でそう吐き捨て、息を乱したまま館内を後にする。一人残った女性はしばらく立ち尽くしていたが、やがて静かに腰を下ろした。男性が大声で叫んだせいで流石にほかの客の視線を集めることになったが、まるで気にしていないようだった。何もなかったように振るまう女性に、一同は身を乗り出したり首を傾げたりしたが、やがてスクリーンへと向き直っていった。硝子が想定するよりもずっと早くに、映画館は正気を取り戻した。

    4

「あの、なんで絞めたんですか? クビ……」
 おしゃべりがあまり得意じゃないことは自分でも理解していたが、ここまで酷いとなみだが出てきそうだ。硝子は上映が終わってすぐ、通路をすすむ女性の背中へと衝動的に声をかけていた。
「ええ? どうしてって――あなた、それが気になるの?」
 女性は気分を害した様子もなく、これから映画を見る子どものような目で硝子を見据えた。それから、口元に手をそえてゆっくりと顔を傾ける。可愛らしい雰囲気の女性だな、と硝子は思った。とてもじゃないが、男性の首を絞めあげて殺しかけた人間とは思えない。硝子がなんと返せばいいのか迷っていると、女性はニッコリ笑った。
「あの人と行こうと思っていた喫茶店があるの。よかったら、あなたが代わりになってちょうだい」

 硝子を喫茶店へと誘った女性――広美は、いってみればごく普通の、友人とイロコイの話をしてはしゃぐような、ありふれた女性に思えた。はじめこそ硝子は用心をしていたのだが、広美は快く喫茶店へと案内し、自身と硝子ふたつ分のストロベリー・サンデーを勝手に注文した。「年上だから、ね」と広美はウインクを飛ばす。どうやら奢ってくれるつもりらしい。
「それで、硝子ちゃん年はいくつなの? 同い年にはとても見えないけど……学生さんって、平日によく映画館へ来るものかしら」
 声色から自分を責めているわけではないことを理解して、硝子は「一七です」と答えた。途端に、広美の白い頬が色めいていく。
「え、え、え、すごい偶然ね! 私があの人と付き合ったのも、ちょうど一七歳のときだったの。あの人がね、私に言ったのよ、一生そばにいてくれないかって」「はじめてデートしたとき、本当はここへ寄るはずだったの。でも、あの人はのんびり過ごすのが好きじゃあないみたいでね――」
 相手をみて頷きながら、硝子はサンデーのクリームをすくい上げた。思っていたよりも突飛な人ではないが、広美は自分の言いたいことを全て言い切りたがる性分らしかった。高揚こうようした様子で語る広美にひとしきり相づちを返していると、ようやく話を終えたらしい彼女がぎらりとした目を硝子に向けた。考えなしに頷いていたことがばれたのかと硝子はたじろいだが、それは杞憂(きゆう)に終わった。
「悔しかったからよ。どうにもやるせなくって、気持ちを逃がすことができなくって、だから、首を絞めてやったの」
 硝子の「え」という声に、広美は笑みを深くした
「硝子ちゃんが聞いたんじゃない。どうしてですかって。だから答えたのよ」
 「それとも、私が殺人鬼であることを期待してた?」苺のジャムを頬張りながら広美がそういったので、硝子は慌てて口を開いた。
「実はわたし、クラスメイトから首を絞められたことがあるんです。それも、ほとんど関わりのない人から」
 今度はうまく話せたんじゃないだろうか。少なくとも、意味は伝わるはずだ。広美は興味深そうに目を細めたあと、スプーンを置いた。
「その人、硝子ちゃんのことが嫌いだったんじゃない? 私なら、よく知りもしない相手の首は絞めないもの」
 歯に衣(きぬ)着せぬ物言いだったが、的を射ている回答だと硝子は感心した。よくよく考えてみれば、人の首を締めるのに大層な理由なんて必要ないのだ。
一刻のささいな感情のために反抗して、退学になった生徒の話を硝子は聞いたことがあった。「イラつく」とか「ムカつく」といった感情はたやすく生まれてくるくせに、人をあっという間に暴走機関車へ変えてしまう力をもっている。いくら善良な性根の持ち主だろうと、苛立つことはある。大切なのはコントロールすることだと硝子は思っていたが、袖井紫がそれに失敗して首を絞めてきたのかと思うと、鉛を飲んだような心地だった。
「そんなに塞ぎこんだ顔をしないでよ。クラスメイトはともかく、私は硝子ちゃんのこと好きになれそうだから」
 ふいに広美が顔に手を伸ばそうとしてきたので、硝子は慌てて身体を後ろへと倒した。なぐさめてくれようとしたらしいが、硝子の脳裏には恋人の首に手をかける広美の姿が色濃くのこっている。良くしてもらっているとはいえ、ハグをするのはもっと先の話になるだろう。
「じゃあ、よっぽど嫌われているってことになりますよね。わたし」
 硝子が言葉をしぼり出すと、広美は心外だと言わんばかりに目を開いた。
「そんな言い方しちゃってたかな。ごめんなさい、ニホンゴってどうにも使いこなせないの、私。中学生だったときには七をとったこともあるんだけどなぁ。あれ、そもそも成績に七ってあったんだっけ――」
「それって、大嫌いだからやったわけじゃないって、ことですか?」
 これ以上、話が脱線することは避けたかったので、硝子は会話に前のめりになる。母親の帰宅時間がさっきから、頭にチラつきはじめていた。
「ええ。だって私、今でもあの人のことが大好きだから」
 広美は嬉しそうに笑った。
「好きでも、首を絞めたくなるってこと?」
「そう。だから、どのくらい好きとか嫌いとかはシンゾウじゃなくてね、ハートの動機ってこと」
「……なるほど。それは考えたことがなかったです」
 硝子は連絡先を交換したことをわずかに後悔していた。

    5

 三日ぶりに登校すると、クラスの状況はやや変化していた。第一に、硝子の机が袖井紫の一行に占領されなくなったこと。その次に袖井紫、本人が姿を見せなかったこと。どちらも自分のせいだと捉えるほど強い自意識を持ってはいなかったが、全くの無関係だとは思えなかった。
 クラスの空気がどこか張り詰めていることに硝子は気がついていたが、その日も別段変わった過ごしかたはしなかった。硝子にとって教室は、つねに騒がしく頭をチカつけるものだったし、できることなら長居はしていたくない場所だった。大勢のクラスメイトから一人が見えなくなったところで、それが残った生徒の全員へ与えられる影響はごくわずかだ。例にれず、硝子はいつも通りの生活を維持しようと心がけた。
「――ねぇ、青沼さん。ちょっとした話があるんだけど、分かる?」

 沼子とは呼ばないんだ、と硝子は思った。もしくはいっときのことで、それはもう忘れてしまったのかもしれない。
 硝子にあだ名をつけてクスクス笑っていた彼女たちの顔は、今となってはこわばって別人のようだった。視線からは、強いいきどおりが伝わってくる。
「わたしには分からないけど、何の話があるの?」
「木曜日、紫に会ってたでしょ。放課後、図書館に行くって私が聞いてたの」
 グループの一人が口を開いた。硝子がもっとも騒がしいと思っている女子生徒だ。皆が帰った放課後に呼び出してくるあたり、自分のやかましさをきちんと理解しているのかもしれない。
「たしかに顔は見たけど……それでなにか言われるおぼえはないよ」
 その言葉が癪に障ったのか別のメンバーが口を開きかけたが、最初の女子生徒は無視して会話を続けた。普段の姿とはかけ離れた冷静さに、硝子はうすら寒いものを感じる。
「正直に話したほうが青沼さんのためだよ。何があったのかはだいたい分かってるから。滝原くんのことで、紫にひどいことを言ったんでしょう? 紫がもう三日も連絡がとれないの、知ってる?」
 もちろん知るわけがなかったが、それよりも理解の追いつかない情報が舞い込んだせいで、硝子のあたまは混乱していた。タ・キ・バラ……タキ・バ・ラ――しばらくして、硝子はそれが隣のクラスにいる男子のことだと気がついたが、なぜ会話に彼のことが出てくるのかは分からなかった。
「ちょっと待ってよ。……袖井さんの話でしょう。なんで滝原くんが出てくるの?」
「紫が、滝原くんのこと好きだからに決まってるじゃん」
 呟いたのは、別の女子生徒だった。

 滝原たきばら直樹なおきは隣のクラスに所属する男子生徒だ。飛びぬけて背が高く、どんなときでも快活で、学級というちいさな世界において、彼は有名人だった。学問において優秀という評価は聞いたことがないが、教師たちが彼をよい生徒としているのは間違いなかったし、彼をリーダーのように慕って、事あるごとに後ろに続く仲間たちもいる。
 実のところ、硝子も滝原直樹に対して悪い感情は持っていなかった。人に嫌われることを怖がらない性格なのか、彼は常にやたらと多くの生徒へ声をかけ、その一人が硝子だったことがあった。
「青沼サンって、カラオケとか映画とか、一人でいくタイプでしょ? 一人でいるとさ、時間を独り占めできてる気がしてトクだよね」
 当時、その言葉に硝子は頷いただけだったが、彼に対する印象は明るいものとなった。少なくとも、滝原直樹は純粋に他人へ興味を持てる人となりで、自分以外の人間にもれっきとした心があることを知っている。
 ただし、硝子がいくら良い印象を抱いているといっても、他人同然の彼――ましてや、袖井紫の意中の相手――が話に出てくるのはおかしなことではないだろうか。滝原直樹と会話をしたことがあるのはそれっきりだったし、彼と交流をもっている生徒なんて大勢いる。なにしろ、有名人だ。彼と話したことのある女子生徒だって少なくはないだろう。それなら、さえない自分に白羽の矢が立つのは不可解だと、硝子は思う。

「私たち、許さないから。紫に謝ったとしてもね」そう吐き捨てていく袖井紫の友人たちは、皆どこか満足げだった。おそらく、大切なともだちのためにひと肌脱いでやったとでも考えたのだろう。硝子からしてみれば、その行為は袖井紫がもっとも望んでいないことだと思ったが、それを彼女たちの前で口にしてしまうほど考えなしではなかったし、伝えたところで意味があるとは思えなかった。
 硝子が自室でうなだれていると、運の悪いことに妹が入ってきた。ノックをしろという要求に従ったことは一度もない。一年前までは彼女もこの部屋で生活を共にしていたため、ひょっとすると今でも自分の部屋のように考えているのかもしれなかった。
「邪魔。どいてくれる」
 妹は硝子を押しのけて本棚の前に立った。
「ちょっと、ここはもうわたしの部屋だからね」硝子が噛みつくように言うと妹は鼻を鳴らす。
「そっちこそ、こんな風にだらけてる場合じゃないんじゃない? 学校休んでたことをママに言いつけたら、今度こそ家を追い出されるかもしれないのに」
 本棚の中身を何冊か抜きとったあとに、妹は挑発的な視線をよこした。そのわずかに上――額に目をやってから硝子は瞳を伏せる。傷がのこっていないことはずっと前から理解しているが、妹は今でも自分を恨んでいるのかもしれない。自分が、あのとき首にかけられた手の感触を忘れていないように。
 言葉を選んでいるうちに妹は本を抱えあげ、さっさと硝子の横を通りすぎていく。
 自分とよく遊んでいたころの妹を、硝子は思い返していた。あの子がわたしの首を絞めたのはヒーローになりきっていたからで、ただ純粋に姉と遊んでいたかっただけだ。手をかけている最中も屈託のない笑顔を浮かべるその姿が、硝子には恐ろしかった。
 一方、袖井紫はどうだっただろうか。彼女は硝子の首に腕を伸ばすときでさえけっして胸のすいたような、明るい感情を宿してはいなかったように思える。軽いか重いかで考えれば、軽くはなかったはずだ。彼女が薄っぺらな感情で蛮行(ばんこう)に及ぶとは考えにくいし、いくら見え透いた相づちをうつからといって、そこまで分かりやすい人間ではないと知っている。
 もっと知らなければいけない、と硝子は思った。なぜそうなったのかを知ることが自分には大切だ。結局のところ、恐怖の根源となりうるものは未知知らないことであるし、それさえ解明してしまえばこの先に不安を抱く必要はさほどなくなる。
 それに、彼女が泣いていた理由も知りたかった。

    6

 こたえを知る機会はすぐに来た。

    7

「その、タキバラだっけ? その子は硝子ちゃんのことが好きなのね」
 まるで退屈そうに広美が呟いたので、硝子は吹き出してしまった。
「わたしの話、ちゃんと聞いていました?」
「もちろん」広美は頷いた。
「首を絞めてきた理由を知りたいんでしょう。だったら、硝子ちゃんは袖井さんのことじゃなくて、自分のことを考えなきゃ」
 苛立ちが発芽し、成長していくのを硝子は自覚した。
 連絡を交換したことからふたたび広美と対面し、わずかでも助言めいた言葉を期待していたのだが、その結果がこれだ。広美はほとんど関心のない顔つきで頷いてみせ、口元が寂しくなるとジュースを啜っている。これじゃあまるきり、前と立場が入れ替わっている。
 声が冷たくならないように注意して、硝子は顔を上げた。
「わたしにも原因があるとは分かってますけど、何度考えても出てこないんです」
「じゃあ一度、袖井さんになってみればいいんじゃない?」
「……なってみる?」
「うん」
 広美はようやく笑みを見せた。「わたしが硝子ちゃんで、硝子ちゃんが袖井さんのポジションね」
 指をさされた硝子は怪訝けげんさを隠さず頷いた。
「硝子ちゃんは隣のクラスにいるタキバラくんのことが好き。ただ、そのタキバラくんはわたしのことが好きで、わたしはそんなタキバラくんのことをどうでもいいと思ってたら、硝子ちゃんはどうしたい?」
「滝原くんのことを好きになったりしないと思うけど」
「それはどうでもいいの。好きだったらってお話しなんだから」
 「さあ、どうする」と問いかけてくる広美に、硝子は頭を悩ませる。こんなことを話し合いたいわけではなかった。自分がもし誰かになったら、なんて妄想はまるで役に立つことがないのに。
「何もしません。ただずっと、見てるだけ」
「それじゃあ人魚姫にはなれないじゃない。人魚姫は好きな王子に誤解されていることをしって、愛を勝ちとるためにすぐ陸へあがったのよ」
「……人魚姫って、最後は泡になって消えていきますよ」
「あ、そうなの? 私、最後まで読んだことないから」
 広美がストローを吸ったが、グラスのなかは空だった。仕方なくメニューを手にした彼女はカフェ・ラッテとチョコレートケーキを二つずつ注文した。
「硝子ちゃん、認めたくないみたい」
「認めたくないって……なにをですか?」
「――――袖井さんが、タキバラ君のこと好きだってジジツ」
 意地の悪い笑みが硝子に向いていた。
「事実かどうかはまだ分からないでしょう。周りのクラスメイトが勝手にそう言っていただけで」
 硝子の苛立ちは、もうじき花を咲かせそうだった。一風変わった物言いをするとはいえ、これは少々やりすぎだ。
 硝子の苛立ちとは裏腹に、広美はゆっくりと口を開く。
「そうやって達観したように振る舞ってはいるけど、本心とは別のことを話してるでしょう? 実際に首を絞められた硝子ちゃんが一番よく分かっているはずだからね」
 硝子は態度を取り繕うのをやめにした。
「さっきから、自分の言葉がまるで間違っていないような口ぶりですね。実は袖井紫とさっきまで話していたとか?」
「意地悪でこんなことをいってるんじゃないよ。でも、分かるの。私にはそれが分かる」
「――だって、私があの人にそうしたのは、袖井さんと似たような想いをもっていたからに違いないから」静かに空気を吸ったあと、広美はそう言った。

    8

 硝子が袖井紫からあんな眼差しを向けられたのは図書館がはじめてだったが、視線を感じていたのはずっと前からだった。
 あるときから、硝子はふと首筋にむず痒さを覚えるようになった。教室のいたるところで監視するように向けられる視線に、硝子ははじめ嫌悪感を抱いたが、しだいにその思念が害のないものだと気がついた。そして、その視線の送り主が袖井紫だということを知ると、途端に胸のつかえが下りていった。
 青沼硝子と袖井紫は、小学生時代に同じクラスだったことがある。三学年に上がる際に父の仕事の都合で硝子は転校してしまったため、学校自体にながく在学することは出来なかったが、そのときの出来事を硝子はよく覚えていた。
 泣きむしで言葉足らずで、きっかけをつくるのが下手な子だと硝子は思っていた。給食を食べているときはけっして皿から目を離そうとせず、休み時間には難しそうな小説を一人で読んでいて、話しかけられてもうつむくだけ。グループ活動では自分の意見を主張できずに班の男子を怒らせてしまったこともある。それが、硝子の見ていた袖井紫という少女であり、硝子が唯一、親近感をもった同級生だった。
 小学生にとって、ひとりぼっちでいるということは膨大なリスクがつきまとうことになる。本人にはその気がなくても、家族や教員が「この子には何か問題がある」と疑りはじめたり、友人の数こそ正義の教室ではちょっとした諍(いさか)いでも大悪党にされたりしかねないからだ。幸運なことに、硝子には過保護な母親や心配性の担任がいなかったため学校生活を一人で謳歌することができたが、当然それが難しい者もいた。袖井紫はその一人だった。

 「あの、硝子ちゃん。ふたつ消しゴム、持ってる? 忘れちゃって……貸してほしいんだけど」
「え?」
 教室ではじめて袖井紫にそう言われたとき、硝子は驚きを隠せなかった。初対面にしては親しげな響きで、袖井紫が声をかけてきたからだ。
 硝子が消しゴムを渡すと、袖井紫は視線をいちど床に向けてからおもむろに顔を上げた。
「硝子ちゃんって、こわくないの?」
「――――こわい?」
「いつも仲間外れなのに、ぜんぜん悲しそうじゃないし、何でもひとりで終わらせちゃうから」
 硝子は、ムッとした。
「言っておくけど、わたしは仲間外れがどうとか思ってない。自分の時間がいっぱいほしいから、みんなといないだけだよ」
 言葉にした後も、むなしいとは思わなかった。
 視線を外そうとすると袖井紫は荒い声をあげた。
「……だ、だってさぁ! 友だちって、百人いるほうが偉いんだよ? いっぱい友達がいれば変わった人なんて思われないし、さびしい気持ちになったりしない」
「袖井さんって、友だちが欲しいの? それとも、一人でいるのがこわいだけ?」
 袖井紫の本心を、硝子は分かっているつもりで口を開いた。
「繰り返すけど、わたしは自分がそうしたいから一人でいるだけ。袖井さんも、一人でいるほうが気が楽なら、それに従ってみればいいんじゃない」
 もしかすると、自分と友だちになりたかったのかもしれないと硝子は思ったが、休み時間の終わりを告げるチャイムがなったために、会話は終わりを迎えた。
 すぐに後ろを向いてしまった袖井紫の顔は見えなかった。

 時が経ち、高校の教室で袖井紫を見かけたときには、さすがに目をいた。化粧をほどこした顔と色合いの変わった髪が周りの生徒たちを惹きつけていたが、硝子がもっとも気になったのは仕草だった。机に向かった彼女はことあるごとにパッと顔をあげ、きょろきょろとその茶色い瞳を動かした。硝子ははじめ、それがなんの意味を持つのか分かりかねていたが、その意図を理解したときには、すでに何人かの生徒が彼女の思い通りになった後だった。彼女は、自分が友人としてどれだけ価値があるかを、入学して間もないクラスメイトたちに決めさせていたのだ。
 華やかに飾った袖井紫へ最初に声をかけたのは、彼女と同じように小綺麗な格好をした女子生徒だった。二人が「ずっと話しかけようと思っていた」とか「仲良くなりたい」だとか話している間にまた別の生徒が加わり、しばらくすると一つの輪になった。それからは、いつ見ても袖井紫はお友だちに囲まれていた。
「――袖井さんって、消しゴム二つもってる? よかったら、貸してもらいたいんだけど」
 そう言ってみたのは、ただの好奇心だった。すっかり様子の変わってしまった袖井紫が、あんなことを言った自分にどう接してくるのか知りたいと思った。たまたま最初の席替えで、彼女が自分の前に机を移動させたから、というのもあった。
「青沼硝子さん、だよね? 遠慮しないで使ってね」
「……え? あ、うん。アリガトウ」
 受け取ってからしばらくの間、硝子はなぜ違和感を感じているのかが分からなかったが、さっきの彼女がよそゆきの笑顔を自分に向けていたことを思い出して、血が凍った。袖井紫の記憶のなかに、自分はもういないのだろうか。それとも初めからいなかったことにしたいのだろうか。
 硝子は、袖井紫のことをよく理解しているつもりでいた。彼女はおそらく、一人でいることが好きだったし、反対に人と付き合えばつきあうほど気をすり減らして形を失うものだと思っていた。だから、嬉しかった。たった一度の会話を交わしただけでも、幼い硝子とってそれは仲間を見つけた瞬間だった。
 しかし、成長した袖井紫はどうだろうか。クラスメイトの輪のなかで笑みを振りまくあの女子生徒には以前のような儚さがひとつも感じられず、あろうことか、青沼硝子のいた二年間をなかったものにしている。
 失望の念を抱いた硝子だったが、それが払拭される日は案外早くやって来た。彼女が、自分へ視線を向けてくるようになったからだ。一度だけではなく、二度も、三度も、度々……。
 ――――袖井紫は、自分のことを覚えている。
 そう思い至った硝子の脳内はとても快適だった。ほんとうの彼女を知っているのは、自分だけだ。

    9

 硝子の失礼な態度に広美は腹を立てなかった。硝子がそのことについての謝罪をすると、彼女はそれを受け入れてニッコリ笑った。
「これくらいじゃ怒ったりしないわ。あの人が浮気してたときには、はらわたが煮えくり返ってクビ、絞めちゃったけど」
 広美はひとあし先にカフェを出た硝子に手を振ってくれた。

10

「青沼さんが俺に話あるなんて珍しいね。ビックリしちゃったよ、俺」
 思い切った行動をすれば、有名人である滝原直樹を呼び出すことは存外、難しいことではなかった。硝子が入り口で話しかけた男子生徒は、まるで認識のない不可解な相手に目を細めたが、しばらくすると教室から彼を引っ張り出してきてくれた。
「ちょっと滝原くんに聞きたいことがあるの。袖井さんのことなんだけど」
「え、紫? 紫がどうかしたの?」
「……袖井さんと滝原くんって、仲、良いの?」
 ここではじめて、滝原直樹は表情を変えた。
「あっ、幼馴染ってだけだよ。保育園からの。最近は、もう連絡すらとってないんだ」
 そう言って笑顔をつくるものの、その表情にはどこが焦燥がにじんでいる。
 まるきり気がつけなかった事実が心を強く叩いたが、硝子は会話をやめなかった。
「そっか。幼馴染なんだ。てっきり、付き合ってるのかと思ってた」
「俺と紫が? ありえないよ。ちっちゃい頃は好きだとか言われたことあるけど、今じゃ向こうから話しかけてもこないし」
 どうやら、袖井紫がつのらせた想いを滝原直樹は受けとめることができなかったらしい。
「ありがとう、それだけ聞きたかったの」硝子が来た道を戻ろうとすると、滝原がその手を掴んだ。
「あの、前から思ってたんだけど……青沼さんって、同じ小学校だったよね? ずっと見てたのに、俺、話かけられなくて」
「うん。二年生までは同じ小学校だったね。クラスは一緒になったことなかったけど」
 本当は覚えてなどいなかったが、滝原直樹は笑顔を見せた。
「もしよかったら、さ。今度、遊びにいかない? 小学校のヤツらと集まろうと思ってるんだけど……」
 そんな誘いに、乗るわけがない。口にしてしまいそうなのをこらえて、硝子はさっさと切り上げることにした。どうにも、彼はこの会話を終わらせたくないように思えてしまう。
「ありがとう。でも、わたしは二年しか学校にいなかったから」
彼が袖井紫の想いに気が付いていないのであれば、それは好都合ではないか。
「紫も、あの頃は素直だったんだけどなぁ。そんな気もないのにみんなと仲良くなろうとして、泣いちゃってさ」
「――――え?」
「ああ見えて泣き虫だったんだよ。友だち百人つくる、とか言ってたけど、ホントは一人で遊ぶのが好きだったんだ。あいつの母親はそれをよく思わなかったから、自分から声を掛けなさいってよく𠮟りつけてた」
 滝原直樹からすれば、相手をとどめておくためのたわいもない思い出ばなしだった。袖井紫の話であれば、興味を持ってもらえると考えたに違いない。
 硝子にとっては、そうならなかっただけの話なのだ。
「袖井さんは、今もそう思ってる……?」
「どうだろ。さっきも言ったけど、ぜんぜん話をしてないからなぁ。でも、たまに疲れた顔してるから、じつは無理してつるんでたりして……」
 硝子にも、そんなことは分かっていた。彼女が、あんな悪友を進んでつくるわけがないのだ。一人が好きなはずの、彼女が。
 滝原直樹は頬をかいたが、硝子の顔を見て手を止めた。
「さ、さっきの話、気が変わったらまた教えてよ。俺、青沼さんとは今度こそ仲良くなりたいんだ」
さすがに様子がおかしいと感じたのか、滝原直樹は硝子の前から一歩、二歩と離れていく。休み時間の終わりが近づいているためか、他の生徒は見当たらなかった。
 その背後にむかって、硝子は腕を伸ばした。

11

絞めてしまえ。


12

 滝原直樹が袖井紫の幼馴染だというのは、全くの計算外だった。自分が彼女の一番の理解者だと思っていただけに、まんまとしてやられた気分だ。
 帰路につきながら、硝子は今日のことを反省していた。感情に身をゆだねるやり方は自分らしくない。ましてや、あんなちょっとした会話で取り乱してしまうなんて――――。

 「滝原くん。遊びに行くってはなし、お言葉に甘えようかな」
せり上がっていた衝動をなんとかやり過ごして、硝子はあくまで冷静に、滝原直樹へと告げた。もう少しで、その首に手をかけてしまうところだったが、どのみち硝子の背丈では彼の首まで届かなかったので、気がつかれるまえに正気に戻れたのは幸運だった。
「ほんとに? 俺、駄目もとでお願いしてたからさ、スゲーうれしいよ!」
 振り返った滝原直樹は、歩み寄ってふたたび硝子の手をとった。破顔した彼に向かって、硝子もニッコリと笑い返す。広美のよくする、あの笑みを真似したつもりだった。
「それで、滝原くんにちょっとしたお願いがあるんだけど」
「……お願い?」
「うん。遊びに行くなら、袖井さんも誘ってもらえないかな。わたし、小学校のときに同じクラスだったから、また仲良くしたいなと思ってて」 
 滝原直樹はしばし考えたあと、「いいぜ!」と頷いた。
「俺から連絡送ってみるよ。返事が来たら、青沼さんにも伝えるね」
「ありがとう。恥ずかしいから、わたしがこう言ってたことは内緒にしてもらえるかな」
「オーケー! それじゃあ、またあとで」
 満足そうな顔で滝原直樹は教室へ戻っていった。

13

自分はきっと、袖井紫のことが好きなのだと思った。少なくとも、彼女の想い人の首を絞めようとするくらいには。
ベッドに横になって天井を見つめた硝子は、袖井紫に図書館で言われたことを思い出していた。
 「教えてほしい」と彼女は言った。それは、滝原直樹のことを指しているように聞こえるが、本当はそれだけではなかったのかもしれない。もしかすると、子どもだったあの頃と同じように、自分に助けを求めようとしていたなら――――。

「……ふふ」

 自然と笑みがこぼれるのは本当に久しぶりのことだった。
 楽しく思いにふけるのもいいが、明日も学校があるのだから、もう寝なくてはいけない。きっと今日はいい夢が見られるな、と硝子は思った。
ふと、頭に風景が浮かんでくる。

 ――――紫の首に手をかけた自分が、そっと彼女をひき寄せて抱きしめていた。

 硝子は電気を消した。
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