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仮面卿外伝【第一章 太陽と月が出会う時】
第五話 結婚相手に望むもの
「え、その……」
「私もあなたに結婚を申し込みました。けれど、あなたは私ではなく彼を選んだ……。教えてください、その理由を。やはり、私が王太子ではないからですか?」
オレールに熱っぽくそう囁かれて、ブリュンヒルデは驚いてしまった。
まじまじとオレールを見上げてしまう。
王太子ではないから……
彼は地位でオーギュストを選んだと、そう思っているのだろうか? ああ、でも、そう思われても仕方がないのだとブリュンヒルデは思い直す。富や地位に価値を置く者もいる。なにより、国益を考えるなら、親はより地位のある者に娘を嫁がせたがるものだ。
けれど、父である皇帝は娘である自分を愛してくれている。よほどまずい相手でもない限り、自分の望む相手に嫁がせてくれただろう。つまりこの結婚は、自分の思いが色濃く反映されている。
自分が彼との結婚を望んだ理由はただ一つ……
ブリュンヒルデは微笑んだ。
「いいえ、わたくしがオーギュを愛しているからですわ」
ブリュンヒルデがはっきりそう答えると、オレールが顔をしかめた。聞きたくない言葉を聞いたとでも言うように。
「愛、ですか……成る程? 私が次期国王だったとしても、あなはた彼を選んだと、そういうわけですね?」
「ええ、申し訳ないけれど……」
「容姿も能力も負けた覚えはないのですが……」
悔しそうにオレールが言い、その姿に目をとめたブリュンヒルデの脳裏に、ふっとオーギュストの姿が浮かんだ。
オーギュストの本質は苛烈だ。理知的なので一見穏やかそうに見えても、実際は燃えさかる炎のよう。赤い薔薇に例える情熱もそこから来ているのだろうと思う。優しいけれど、内に秘めたエネルギーが凄まじい。それが彼の美貌と相まって、目にすれば心臓をわしづかみにされるような衝撃を覚える。
オレールはその反対だ。たおやかな、そう表現出来るほど彼の立ち振る舞いは繊細で柔らかい。彼も女性の人気は高かったはず……。けれど、残念ながら彼に心引かれたことは一度もない。見目麗しい容姿で人当たりもいいけれど……
何故だろうと、改めて考えてしまう。
オーギュに恋をしていたから? 彼以外目に入っていなかったように思う。では、出会いが逆であったら……いえ、駄目ね。
ブリュンヒルデはそっと目を伏せる。
それでも、やはり自分はオーギュに惹かれていたと思う。彼を思うだけで、ほら、こんなにも心がざわめくもの。彼でなければきっと駄目だわ。どんな出会い方をしても、きっと彼の手を取りたいと、そう思うはず……。惹かれて惹かれてどうしようもない。
唐突にオレールが言った。
「では、オーギュスト殿下が王太子ではなくなっても、あなたは彼を選ぶと言うのですか?」
そう問われ、ブリュンヒルデはまたまたビックリしてしまう。
オーギュが王太子ではなくなる? それこそあり得ない……
彼は圧倒的な支持を受けている。国民的人気は高く、部下の信頼は厚く、多くの諸侯に後押しされている。血筋的にも能力的にも立場は盤石だ。揺らぐことはない。弟のハインリヒを王太子にと押すのは、ごく少数派だ。そう、ほんの一握りの者達だけ……
意外すぎる質問をぶつけられて、ブリュンヒルデが言葉に詰まると、オレールがふっと笑った。一見美しいその微笑みは、何故か薄ら寒かった。
「もし、彼が王太子ではなくなり、私が恋しくなったら、どうかこの手をお取り下さい。私はあなたを歓迎しますよ」
「……いえ、必要ありませんわ、オレール王子殿下」
驚きから立ち直ったブリュンヒルデが、社交用の笑みを浮かべた。
自分は彼自身に惹かれている。どうしようもなく……
ブリュンヒルデはオレールの赤い瞳をひたと見つめた。挑戦的とも言える眼差しである。毅然とした態度は皇女としての威厳を湛えていた。
「もし、オーギュが王太子ではなくなったとしても、わたくしは彼の手を取りますから、どうかお気遣いなく」
「……頑固な方だ」
不快な色がオレールの表層をかすめて消えた。ブリュンヒルデの微笑みは変わらない。
「褒め言葉と受け取っておきますわ」
「そら、ご覧なさい。彼に多くの女性が群がっている」
踊りながら、ちらりとオレールがオーギュストに視線を送る。
その視線の先には、美しい貴婦人に囲まれたオーギュストがいた。その中にはオレール王子の妹であるダーラ王女もいて、ちりっとブリュンヒルデの胸を焦がした。嫉妬の炎だ。そんなものに気が付かなければ良かったと思うけれど、目をそらし続けることは出来ない。きっとこの先、何度もこういった場面は目にすることになるのだから。
――私は君がいればそれでいいんだ。
ええ、信じるわ……
ブリュンヒルデは微笑んだ。
胸を焦がす嫉妬の炎がすうっと消える。そうよ、信じるだけでこんなにも心が軽くなる。愛しているわ、オーギュ。誰よりも……
オレールが囁く。まるで毒を注ぐように……
「この先、多くの側室を持ち、あなたの事を忘れる日が来るかも知れませんよ? そら、英雄色を好むというではありませんか。その点、神官職に就く予定の私なら、多妻は認められていませんので、そういった心配は……」
「……わたくしはオーギュを信じておりますわ」
オレールの言葉を遮り、ブリュンヒルデがきっぱりと言った。揺るぎないその瞳は、断固たる意志の力を得て美しい。オレールが舌打ちを漏らした。
「次期国王でなくてもいいなら、私でもいいのでは?」
「あなたはオーギュではありませんもの」
ブリュンヒルデが微笑んでそう切り返す。
「あなたを選ばなかった理由は、ただ一つ。あなたがオーギュではないからです。わたくしは彼を愛していますわ。たとえ王太子という肩書きがなくても、ただのオーギュであっても、わたくしは彼の手を取るでしょう」
「……本当に頑固な方だ」
オレールはぼそりとそう言い、立ち去り際に言い添えた。
「王太子ではなくても彼を選ぶ……その言葉をお忘れなく」
何やら意味深だ。オレールが浮かべた聖人のような微笑みの向こうに、ざらりとした違和感を感じるのは何故だろうか? ダンスを終えたブリュンヒルデがダンスフロアを降りると、女性達の輪を抜け出したオーギュストが手を差し出した。
「ヒルデ、もう一曲踊ってもらえるか?」
「ええ、喜んで」
ブリュンヒルデは微笑んだ。既に三度も踊っているが、彼となら何度でも構わない。
「オーギュは他の人とは踊らないの?」
あれだけ貴婦人に取り囲まれていたのに、彼は誰の手も取らなかった。オーギュストが笑った。
「ヒルデ、私は客人だ。ここヴィスタニアでそういった気遣いは必要ないよ」
くるりと回れば、ブリュンヒルデのドレスがふわりとたなびく。ちらりと見れば、ダーラ王女殿下に睨まれているような気がして、さっと視線を逸らした。
「ああ、気にしなくていい、ヒルデ。ほら、私だけを見るんだ」
緑の瞳に見つめられて、どきんと心臓が跳ね上がる。
何を気にしたのか分かったのかしら?
ダンスを終えたブリュンヒルデは、オーギュストと共に会場の外に広がる庭園に足を向けた。夜会はまだまだ続く。月明かりの庭園を散歩するのもいいものだ。
「オーギュ、ほら見て、月が綺麗……きゃっ!」
先を歩いていたブリュンヒルデが、何かに足をひっかけ転びそうになり、すかさずオーギュストが支えた。
「あ、ありがとう。あら? ヨルグお兄様?」
ブリュンヒルデがひっかけたのは彼の足である。草地の上で寝そべり、寝ていたようだ。
「ん? ああ……ブリュンヒルデか」
「どうしたんですの? こんなところで……」
彼は夜会服を身につけていない。普段着に白衣を羽織っている。どうやら夜会そのものをすっぽかしたようだ。
「もしかして、また研究ですか?」
「そう。新薬を試しているところだよ。で、ちょっとここで休憩してた」
ヨルグが欠伸交じりに言う。ブリュンヒルデがため息をついた。
「……ヨルグお兄様はまるで研究者のようです。宰相になりたいと、そうおっしゃっていたのに」
「どちらも捨てられない。僕はね、できるだけ長生きしたいんだ」
ヨルグの顔には隈が浮き、はっきりと寝不足だと訴えていた。
知識人と言った雰囲気の彼は、ギデオンとは性格も体格も正反対である。それでいて二人の仲は良好だ。兄であるギデオンを立て、補佐に回ると明言しているからかもしれない。
ふと、ヨルグの金色の目がオーギュストを見た。ギデオンと同じ色の瞳なのに、そこに彼のような猛々しさはまったくない。
「ねぇ、オーギュスト王太子殿下、君は兄と同じように戦地に行くよね? 死が怖くないの?」
「守りたいものの為なら」
迷いのない緑の瞳を見て、ヨルグはふいっと視線を逸らした。
「そう……そういうところも兄とよく似ているね。どっちも怖い物知らずだ。僕には到底真似出来ないな。僕は死が怖い」
ヨルグの金色の瞳におびえの色が走って、消えた。
自分は駄目だとヨルグはそう思う。
死を考えただけで暗黒に引きずり込まれるような錯覚を覚える。祖母の死を目にしてから、それがさらに顕著になった。軟弱者と笑われても、こればかりはどうしようもない。怖いものは怖いのだ。死は消滅、どうしてもそう思えてならない。精霊を信じ切れない自分がいる。
オーギュストが言う。
「たとえ死んでも魂は精霊の地へ導かれるんだろう?」
それが精霊信仰の中で言われている事だ。
オーギュストの台詞に、ヨルグが自嘲気味に笑った。
「そう言われているけど、ね……それをどうやって証明するの? 誰もそれを自分の目で見た人なんていないじゃないか。まったくのデタラメかもしれない」
「もう、お兄様ったら、精霊様に怒られますわよ?」
「はいはい。分かったよ。もう言わない」
どさりと寝転び、ヨルグは顔に本を乗せ、寝たふりをする。
「ヨルグお兄様? 寝るのなら寝室の方がよろしいですわ?」
「ここでいい。もう少しやりたいことがあるんだ」
「風邪、引きますわよ?」
「大丈夫だよ」
ヨルグはそう言って手をひらひらさせた。もう行ってという事らしい。
その場を離れながら、ブリュンヒルデが言う。
「ヨルグお兄様は最近、あんまり寝ていないみたいなの。根を詰めすぎると、逆に命を縮めると思うわ」
オーギュストが笑った。
「研究者は大抵あんなものだ。研究に没頭するから日々寝不足だよ」
「ねぇ、オーギュ。人は不死になれると思う?」
「面白い質問だな。ヒルデは不死になりたいのか?」
ブリュンヒルデが首を横に振った。
「いいえ、わたくしじゃないわ。ヨルグお兄様がそんな事を言ったの。不死者になりたいって。でも、それってかえって辛くないかしら。もしそうなったとしたら、自分だけ時の流れに取り残されてしまうわ。親しい人達がどんどん亡くなっても、自分一人生き続けるんですもの」
「まぁ、確かにそうだな……なれたとしたら、だが」
オーギュストがそう呟く。
「私もあなたに結婚を申し込みました。けれど、あなたは私ではなく彼を選んだ……。教えてください、その理由を。やはり、私が王太子ではないからですか?」
オレールに熱っぽくそう囁かれて、ブリュンヒルデは驚いてしまった。
まじまじとオレールを見上げてしまう。
王太子ではないから……
彼は地位でオーギュストを選んだと、そう思っているのだろうか? ああ、でも、そう思われても仕方がないのだとブリュンヒルデは思い直す。富や地位に価値を置く者もいる。なにより、国益を考えるなら、親はより地位のある者に娘を嫁がせたがるものだ。
けれど、父である皇帝は娘である自分を愛してくれている。よほどまずい相手でもない限り、自分の望む相手に嫁がせてくれただろう。つまりこの結婚は、自分の思いが色濃く反映されている。
自分が彼との結婚を望んだ理由はただ一つ……
ブリュンヒルデは微笑んだ。
「いいえ、わたくしがオーギュを愛しているからですわ」
ブリュンヒルデがはっきりそう答えると、オレールが顔をしかめた。聞きたくない言葉を聞いたとでも言うように。
「愛、ですか……成る程? 私が次期国王だったとしても、あなはた彼を選んだと、そういうわけですね?」
「ええ、申し訳ないけれど……」
「容姿も能力も負けた覚えはないのですが……」
悔しそうにオレールが言い、その姿に目をとめたブリュンヒルデの脳裏に、ふっとオーギュストの姿が浮かんだ。
オーギュストの本質は苛烈だ。理知的なので一見穏やかそうに見えても、実際は燃えさかる炎のよう。赤い薔薇に例える情熱もそこから来ているのだろうと思う。優しいけれど、内に秘めたエネルギーが凄まじい。それが彼の美貌と相まって、目にすれば心臓をわしづかみにされるような衝撃を覚える。
オレールはその反対だ。たおやかな、そう表現出来るほど彼の立ち振る舞いは繊細で柔らかい。彼も女性の人気は高かったはず……。けれど、残念ながら彼に心引かれたことは一度もない。見目麗しい容姿で人当たりもいいけれど……
何故だろうと、改めて考えてしまう。
オーギュに恋をしていたから? 彼以外目に入っていなかったように思う。では、出会いが逆であったら……いえ、駄目ね。
ブリュンヒルデはそっと目を伏せる。
それでも、やはり自分はオーギュに惹かれていたと思う。彼を思うだけで、ほら、こんなにも心がざわめくもの。彼でなければきっと駄目だわ。どんな出会い方をしても、きっと彼の手を取りたいと、そう思うはず……。惹かれて惹かれてどうしようもない。
唐突にオレールが言った。
「では、オーギュスト殿下が王太子ではなくなっても、あなたは彼を選ぶと言うのですか?」
そう問われ、ブリュンヒルデはまたまたビックリしてしまう。
オーギュが王太子ではなくなる? それこそあり得ない……
彼は圧倒的な支持を受けている。国民的人気は高く、部下の信頼は厚く、多くの諸侯に後押しされている。血筋的にも能力的にも立場は盤石だ。揺らぐことはない。弟のハインリヒを王太子にと押すのは、ごく少数派だ。そう、ほんの一握りの者達だけ……
意外すぎる質問をぶつけられて、ブリュンヒルデが言葉に詰まると、オレールがふっと笑った。一見美しいその微笑みは、何故か薄ら寒かった。
「もし、彼が王太子ではなくなり、私が恋しくなったら、どうかこの手をお取り下さい。私はあなたを歓迎しますよ」
「……いえ、必要ありませんわ、オレール王子殿下」
驚きから立ち直ったブリュンヒルデが、社交用の笑みを浮かべた。
自分は彼自身に惹かれている。どうしようもなく……
ブリュンヒルデはオレールの赤い瞳をひたと見つめた。挑戦的とも言える眼差しである。毅然とした態度は皇女としての威厳を湛えていた。
「もし、オーギュが王太子ではなくなったとしても、わたくしは彼の手を取りますから、どうかお気遣いなく」
「……頑固な方だ」
不快な色がオレールの表層をかすめて消えた。ブリュンヒルデの微笑みは変わらない。
「褒め言葉と受け取っておきますわ」
「そら、ご覧なさい。彼に多くの女性が群がっている」
踊りながら、ちらりとオレールがオーギュストに視線を送る。
その視線の先には、美しい貴婦人に囲まれたオーギュストがいた。その中にはオレール王子の妹であるダーラ王女もいて、ちりっとブリュンヒルデの胸を焦がした。嫉妬の炎だ。そんなものに気が付かなければ良かったと思うけれど、目をそらし続けることは出来ない。きっとこの先、何度もこういった場面は目にすることになるのだから。
――私は君がいればそれでいいんだ。
ええ、信じるわ……
ブリュンヒルデは微笑んだ。
胸を焦がす嫉妬の炎がすうっと消える。そうよ、信じるだけでこんなにも心が軽くなる。愛しているわ、オーギュ。誰よりも……
オレールが囁く。まるで毒を注ぐように……
「この先、多くの側室を持ち、あなたの事を忘れる日が来るかも知れませんよ? そら、英雄色を好むというではありませんか。その点、神官職に就く予定の私なら、多妻は認められていませんので、そういった心配は……」
「……わたくしはオーギュを信じておりますわ」
オレールの言葉を遮り、ブリュンヒルデがきっぱりと言った。揺るぎないその瞳は、断固たる意志の力を得て美しい。オレールが舌打ちを漏らした。
「次期国王でなくてもいいなら、私でもいいのでは?」
「あなたはオーギュではありませんもの」
ブリュンヒルデが微笑んでそう切り返す。
「あなたを選ばなかった理由は、ただ一つ。あなたがオーギュではないからです。わたくしは彼を愛していますわ。たとえ王太子という肩書きがなくても、ただのオーギュであっても、わたくしは彼の手を取るでしょう」
「……本当に頑固な方だ」
オレールはぼそりとそう言い、立ち去り際に言い添えた。
「王太子ではなくても彼を選ぶ……その言葉をお忘れなく」
何やら意味深だ。オレールが浮かべた聖人のような微笑みの向こうに、ざらりとした違和感を感じるのは何故だろうか? ダンスを終えたブリュンヒルデがダンスフロアを降りると、女性達の輪を抜け出したオーギュストが手を差し出した。
「ヒルデ、もう一曲踊ってもらえるか?」
「ええ、喜んで」
ブリュンヒルデは微笑んだ。既に三度も踊っているが、彼となら何度でも構わない。
「オーギュは他の人とは踊らないの?」
あれだけ貴婦人に取り囲まれていたのに、彼は誰の手も取らなかった。オーギュストが笑った。
「ヒルデ、私は客人だ。ここヴィスタニアでそういった気遣いは必要ないよ」
くるりと回れば、ブリュンヒルデのドレスがふわりとたなびく。ちらりと見れば、ダーラ王女殿下に睨まれているような気がして、さっと視線を逸らした。
「ああ、気にしなくていい、ヒルデ。ほら、私だけを見るんだ」
緑の瞳に見つめられて、どきんと心臓が跳ね上がる。
何を気にしたのか分かったのかしら?
ダンスを終えたブリュンヒルデは、オーギュストと共に会場の外に広がる庭園に足を向けた。夜会はまだまだ続く。月明かりの庭園を散歩するのもいいものだ。
「オーギュ、ほら見て、月が綺麗……きゃっ!」
先を歩いていたブリュンヒルデが、何かに足をひっかけ転びそうになり、すかさずオーギュストが支えた。
「あ、ありがとう。あら? ヨルグお兄様?」
ブリュンヒルデがひっかけたのは彼の足である。草地の上で寝そべり、寝ていたようだ。
「ん? ああ……ブリュンヒルデか」
「どうしたんですの? こんなところで……」
彼は夜会服を身につけていない。普段着に白衣を羽織っている。どうやら夜会そのものをすっぽかしたようだ。
「もしかして、また研究ですか?」
「そう。新薬を試しているところだよ。で、ちょっとここで休憩してた」
ヨルグが欠伸交じりに言う。ブリュンヒルデがため息をついた。
「……ヨルグお兄様はまるで研究者のようです。宰相になりたいと、そうおっしゃっていたのに」
「どちらも捨てられない。僕はね、できるだけ長生きしたいんだ」
ヨルグの顔には隈が浮き、はっきりと寝不足だと訴えていた。
知識人と言った雰囲気の彼は、ギデオンとは性格も体格も正反対である。それでいて二人の仲は良好だ。兄であるギデオンを立て、補佐に回ると明言しているからかもしれない。
ふと、ヨルグの金色の目がオーギュストを見た。ギデオンと同じ色の瞳なのに、そこに彼のような猛々しさはまったくない。
「ねぇ、オーギュスト王太子殿下、君は兄と同じように戦地に行くよね? 死が怖くないの?」
「守りたいものの為なら」
迷いのない緑の瞳を見て、ヨルグはふいっと視線を逸らした。
「そう……そういうところも兄とよく似ているね。どっちも怖い物知らずだ。僕には到底真似出来ないな。僕は死が怖い」
ヨルグの金色の瞳におびえの色が走って、消えた。
自分は駄目だとヨルグはそう思う。
死を考えただけで暗黒に引きずり込まれるような錯覚を覚える。祖母の死を目にしてから、それがさらに顕著になった。軟弱者と笑われても、こればかりはどうしようもない。怖いものは怖いのだ。死は消滅、どうしてもそう思えてならない。精霊を信じ切れない自分がいる。
オーギュストが言う。
「たとえ死んでも魂は精霊の地へ導かれるんだろう?」
それが精霊信仰の中で言われている事だ。
オーギュストの台詞に、ヨルグが自嘲気味に笑った。
「そう言われているけど、ね……それをどうやって証明するの? 誰もそれを自分の目で見た人なんていないじゃないか。まったくのデタラメかもしれない」
「もう、お兄様ったら、精霊様に怒られますわよ?」
「はいはい。分かったよ。もう言わない」
どさりと寝転び、ヨルグは顔に本を乗せ、寝たふりをする。
「ヨルグお兄様? 寝るのなら寝室の方がよろしいですわ?」
「ここでいい。もう少しやりたいことがあるんだ」
「風邪、引きますわよ?」
「大丈夫だよ」
ヨルグはそう言って手をひらひらさせた。もう行ってという事らしい。
その場を離れながら、ブリュンヒルデが言う。
「ヨルグお兄様は最近、あんまり寝ていないみたいなの。根を詰めすぎると、逆に命を縮めると思うわ」
オーギュストが笑った。
「研究者は大抵あんなものだ。研究に没頭するから日々寝不足だよ」
「ねぇ、オーギュ。人は不死になれると思う?」
「面白い質問だな。ヒルデは不死になりたいのか?」
ブリュンヒルデが首を横に振った。
「いいえ、わたくしじゃないわ。ヨルグお兄様がそんな事を言ったの。不死者になりたいって。でも、それってかえって辛くないかしら。もしそうなったとしたら、自分だけ時の流れに取り残されてしまうわ。親しい人達がどんどん亡くなっても、自分一人生き続けるんですもの」
「まぁ、確かにそうだな……なれたとしたら、だが」
オーギュストがそう呟く。
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