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仮面卿外伝【第二章 太陽が沈んだその後に】
第七話 逆鱗
「ブリュンヒルデ様はどうしてヴィスタニア帝国に帰られるんですか?」
ある時、買い物袋を抱えて小屋までやって来たフルールが、そんなことを口にした。
「オーギュがいないからよ」
ブリュンヒルデの編み物の手は止まらない。
オーギュストがヴィスタニア帝国に旅立ってから早二週間だ。ブリュンヒルデの腹の子はもう九ヶ月目に入っている。生まれる時は父親であるオーギュストに傍にいて欲しいと、ブリュンヒルデは切にそう思う。
「でも、お腹の子はハインリヒ陛下の子ですよね? だったらリンドルンにいるべきでは?」
フルールの一言に、ひゅっとブリュンヒルデは息をのむ。
王城での噂話をどうして平民である彼女が知っているのか……
フルールがたたみかけた。
「市井でももっぱらの噂ですよ。二人の王子を手玉に取った悪女だって」
アンバーが二人の会話に割って入った。
「ちょっとあなた! 口が過ぎるわ! 根拠のない噂に振り回されて、なんって言い草なの! ブリュンヒルデ様はヴィスタニア帝国の第一皇女ですよ! 礼儀というものをもう少し弁えたらどうですか!」
アンバーとフルールが真っ向から衝突する。火花でも散りそうな勢いだ。フルールが憤然と言った。
「だって、本当の事じゃないですか! ハインリヒ陛下の子なのに、オーギュスト殿下の子だって偽って、彼を縛り付けるなんて酷いです! 彼を解放して上げて下さい!」
「偽ってなどいません!」
ブリュンヒルデが憤然と言い切り、立ち上がる。今度はフルールが息を飲む番だった。威厳と気品ある者の怒りは、こんな風に人を威圧する。ブリュンヒルデの怒気を帯びた碧い瞳が、フルールを見据えた。反論を許さない皇女特有の威厳がある。
「お腹の子は間違いなくオーギュの子です。わたくしはハインリヒに体を許したことなど、ただの一度もないのですから」
「……口では何とでも言えるわ」
手にした紙を投げつけるようにして、フルールは丸太小屋を出て行った。
「何ですかあれは!」
アンバーが憤慨し、戸口を乱暴に閉める。ブリュンヒルデは彼女が投げ捨てた紙を拾い、目を見張った。恐らく、市井に出回っている怪文書なのだろう、ハインリヒと通じたブリュンヒルデが、王太子だったオーギュストをそそのかし、謀反人に仕立て上げたとまで書かれている。
それを目にしたアンバーは、地団駄を踏んで悔しがった。
「何ですかこれは! デタラメにも程があります!」
怪文書をひったくり、ビリビリに破いて捨てた。
「そう、そうね……オーギュは国民的人気が高かったから……」
ブリュンヒルデが呟く。自分を悪者に仕立て上げることで、彼の悪行の説明をつけようとしたのだろうと、ブリュンヒルデは口にする。その台詞を聞いてアンバーが憤った。怒りながら泣いていて、感情がごちゃ混ぜである。
「何で、何でオーギュスト殿下の濡れ衣の原因を、ブリュンヒルデ様が押しつけられなくちゃならないんですか! 理不尽です! ハインリヒが元凶ですよ! あいつが! あいつがブリュンヒルデ様に横恋慕なんかするから! 今回の冤罪だって、あいつの仕業に決まってます! 今回の件でまるっと得したの、あいつじゃないですかぁ!」
アンバーがわんわん泣き、ブリュンヒルデがその背をさすって慰めるという、最後はなんだが立場が逆の構図になっていた。
夕食もぎすぎすした雰囲気だ。
フルールは年老いた祖母と弟の前であっても、機嫌の悪さを隠そうともしない。むすっとしたまま夕食を口にしている。もしオーギュストがこの場にいたなら、表面上だけでも取り繕っただろうに、今のフルールにはそういった配慮は欠片もなかった。
「ねーちゃん、どうしたんだよ?」
弟のダニーが訝しげに言う。
「……何でもないわ」
フルールがむっつりと答える。
「殿下の帰りが遅いから心配しているだけよ」
「そりゃしょうがないよ。人目を避けなくちゃならないから、どうしたって時間がかかる……ねーちゃん?」
勢いよく立ち上がった姉のフルールに、ダニーが訝しげな視線を送る。
「ごちそうさま! ちょっと薪を取ってくるわ」
そう告げ、フルールはさっさと小屋から出て行った。その場には何とも嫌な空気が漂っている。彼女の背を見送ったリズが、身を縮めるようにして謝った。
「ブリュンヒルデ様、申し訳ありません。孫が失礼な真似を……」
「いえ、どうかお気になさらずに」
ブリュンヒルデが無理矢理笑う。
そう、祖母のリズは悪くない。かといって、フルールが悪いのかと言えば、そうとも言い切れなかった。なにせ、市井の人々も自分に対する悪評を信じている。フルールはそれに同調しただけ……。元凶はやはり、ハインリヒなのだろう。
けれど、今の自分には何も出来ない。ヴィスタニア帝国皇女としての立場を取り戻すまでは、ほぼ無力である。ブリュンヒルデはそのことが歯がゆくて、悔しかった。
◇◇◇
「オーギュスト・ルルーシュ・リンドルンだな?」
大柄な騎士が、オーギュストに向かってそう告げた。
ここは帝都にある宮殿の正門前である。
ヴィスタニア帝国宮殿を警備する門兵に、ブリュンヒルデの指輪で封蝋した手紙を見せ、宰相であるアルノーとの面会を求めた時の事だ。彼に手紙を渡せば、確実に皇帝にブリュンヒルデの現状が伝わるだろう、そう判断したのだが……
オーギュストはヴィスタニア兵を連れた大柄な騎士に視線を戻す。
自分が現れるのを待ち構えていたような節がある。自分が生きている事がどこかでばれたのか? ヴィスタニアの帝都では、そんな噂話はとんと耳にしなかったが……。むしろ帝都では、リンドルンの王太子が処刑されたという話で持ちきりである。
「……リンドルンの王太子は処刑されただろう?」
オーギュストが鎌をかければ、大柄な騎士がせせら笑った。
「処刑されたのは別人だと聞いている」
オーギュストは舌打ちを漏らしたい気分だった。
やはり、ボドワンが身代わりになったと気付かれたらしい。リンドルンの王城での騒ぎが目に浮かぶようだ。今頃はハインリヒの指示を受けた捜索隊が、自分を血眼になって探し回っているに違いない。帰りがさらに遅くなりそうである。
「……用件は?」
「大人しく付いてくればいい」
大柄な騎士がずいっと押し迫った。十名程の兵士を連れている。
「アルノー宰相閣下に目通りしたい」
「はは、馬鹿も休み休み言え。罪人を宰相閣下に近づけるわけがないだろう」
オーギュストの要求を切って捨て、大柄な騎士の指示を受けた兵士がぐるりと取り囲む。
「……ブリュンヒルデからの言付けがある」
オーギュストがそう言えば、大柄な騎士に鼻で笑われる。
「ああ、第一皇女様をさらったのもお前か? どこにいる?」
「彼女は帰国したがっている。皇帝陛下はそのことをご存じか?」
「……ブリュンヒルデ様はリンドルンの王妃になられるお方だ」
その返答で、オーギュストは目の前の男が、ヨルグの息のかかった者だと判断する。
どうあっても、ヒルデを王妃にしたいらしいな? だが、ヨルグの意図が今一つ分からない。皇帝の怒りを買ってまですることではないと思うが……
「第一皇女様から預かった手紙があるそうだな? 渡してもらおうか」
大柄な騎士が手を出した。
目の前の騎士を信用できるかと言えば、もちろん否だ。手紙を渡せば握りつぶされるだけだろう。確実に手紙が皇帝の手に渡るようにするには……
オーギュストは自分の腕を掴んだヴィスタニア兵の足を無造作に蹴りつけ、その骨を砕いた。腕を掴んでいた兵士が悲鳴を上げ、その手が離れる。
「貴様!」
大柄な騎士を含めた兵士達が殺気立つ。
オーギュストは後方から襲いかかった兵士の顔面を肘打ちし、その腕を捻って関節を外す。拳と蹴りをぶち込み、襲いかかってきた兵士達の骨を砕き、追撃出来ないようにした。
悪いな、追ってこられても困る。
負傷して呻き声を上げる兵士達を尻目に、オーギュストがマントを翻して駆け出せば、指揮官の怒声が背後で上がった。
「逃がすな! 追え!」
残念だが、まともに動ける者はいない。病院へ連れて行ってやれ。
内心でそう声を掛け、オーギュストは裏路地へと駆け込み、姿をくらました。
宮殿内部にはヨルグの手が回っているか。そうなると……
追っ手を振り切ったオーギュストはその後、宰相のアルノーではなく別の人物と接触することにする。狙うのは、ヴィスタニア帝国皇帝直属の部下である影だ。彼らに手紙を託せば、確実に皇帝の手に渡るだろう。ああいった連中は皇帝以外の命令を受け付けない。
接触出来そうな人物は……
オーギュストは情報屋に金を渡し、目指す影の特徴を話して、居所を探った。中肉中背の凡庸な男で、分かりやすい特徴が手の甲の痣だが、大抵手袋をしているので知る者は少ない。情報屋をこうしてつつけば、あれが動くだろう。始末するために、だろうが……影の正体を探ろうとする者は、他国の諜報員と相場が決まっている。
「俺に何の用だ?」
裏通りで声を掛けられた。食いついたことにオーギュストは歓喜する。ふり向けば、思った通りの人物がそこにいた。ブラウンの髪の凡庸な顔立ちの男だ。一見何の害もなさそうに見えるが、平凡を装うよう訓練されているだけである。
「ブリュンヒルデ皇女殿下から手紙を預かっている。皇帝に渡して欲しい」
「皇女様から?」
皇帝付の影であるジークが訝しげに言う。胡散臭げにオーギュストを眺め回した。オーギュストはフードを目深にかぶり、口元を布で覆っている状態なので、人相風体は分からない。
「……俺を探し回り、命を危険にさらしてまでやることか? 手紙なら門兵に預ければすむことだろう? 何故、俺を嗅ぎ回った? 首をかっ切られても文句は言えないぞ?」
「門前払いを喰らったんだ、ジーク」
「……顔を見せろ」
じわりとジークが殺気を放つ。偽名ではなく、本名を口にした事で警戒心を強めたらしい。オーギュストが無言で手紙を差し出せば、予備動作なくジークが動いた。ジークの獲物はナイフだ。かすっただけで死ぬ猛毒のおまけ付きである。
オーギュストは最小限の動作でナイフの切っ先をかわしつつ、ジークの意図を悟る。
狙う先は顔を覆う布、か。正体を知りたいらしいが、騒がれたくない。
オーギュストが手にした剣でそれを躱せば、ジークが再び距離を取った。何かを探るように、じろじろとジークに上から下まで眺められた。
「……会ったことがあるか?」
既視感か? ああ、一度だけあるとも。命を助けてやったな? 言う必要はないが。
再びオーギュストは手紙を差し出した。皇女の身分を示す指輪の封蝋がよく見えるようにかざせば、ジークは興味を示した。ひったくるようにしてそれを手にし、封蝋の印を確認する。
オーギュストはそれで満足した。
気の済むまで調べればいい。印章は本物だ。
背を向け歩き出せば、戸惑ったようなジークの声がオーギュストを追いかける。
「おい、待て。本当にそれだけなのか?」
「そうだ。そう言っただろう?」
ジークの声が追求した。
「ヨルグ殿下がリンドルンに滞在している。何故皇女様は彼を頼らない?」
「そのヨルグがブリュンヒルデの帰国を妨害している。その手紙を皇帝に届けろ。いいな?」
そう告げ、オーギュストは闇に体を溶け込ませた。
◇◇◇
アンバーはイライラしっぱなしだった。
オーギュストとの触れ合いで一時期あんなに元気になったのに、フルールの陰湿な嫌がらせのせいで、ブリュンヒルデがすっかり塞ぎ込んでしまったからだ。
あの女は嫌いだとアンバーは思う。なのに他に行くところがないせいで、こうして我慢せざるを得ない。怒りをぶつけたくてもどこにぶつければいいのか……
「あのう、ブリュンヒルデ様。食欲がないそうですが、せめて果物はどうですか?」
リンゴを手にダニーが小屋に姿を見せた。彼は変わらず親切である。
姉弟でどうしてこうも違うのか……
アンバーは心の中で嘆息する。
祖母のリズも何かとブリュンヒルデの体調を気遣ってくれている。唯一の問題はあの少女だけなのだが、向けられる悪意がきつい。街から持ち帰ってくる怪文書を、わざとブリュンヒルデの目の付くところに置くのだ。
「こんなものを持ち帰らないで下さい! デタラメです!」
アンバーが声を荒げても、フルールが態度を改めることはない。
「なら、気にしなければ良いのでは?」
清廉潔白なら堂々としていれば良い、フルールがそう言い切る。まったくもって腹立たしい。身に覚えのないことで責められるのがどれほど辛いか、分からないはずがない。絶対分かってやっているとアンバーは憤慨する。あるいは自分が正しいと思うが故の悪行か……
「ブリュンヒルデ様、少しでも召し上がって下さい」
「ありがとう」
アンバーが勧めれば、ブリュンヒルデが小さく切り分けたリンゴを一つ、二つ口にする。痩せ細った体が痛々しい。
オーギュスト殿下、早く、早く帰ってきて下さい。見ていられません。
アンバーのその願いが届いたかのように翌日、オーギュストがふらりと小屋の戸口に姿を見せ、彼女は飛び上がらんばかりに喜んだ。目深にかぶったフードの下から現れたのは、誰もが見惚れる艶めいた美貌である。
「お、お帰りなさい!」
よかった、よかったわ。これでブリュンヒルデ様も元気になる。
オーギュストの蠱惑的な緑の瞳が、ブリュンヒルデの姿を認めて口元をほころばせるも、ふっとその表情が曇った。冷たくなったブリュンヒルデの手をさすり、温めるように頬にあてた。
「遅くなった、すまない」
「いいえ、無事で良かったわ」
「……きちんと食べているか?」
ブリュンヒルデの体調不良を見て取ったオーギュストが言う。
「ごめんなさい、食欲がないの」
「……何か食べられそうなものは?」
「そうね、温かいお茶を……」
「分かった、用意しよう」
オーギュストがそっとブリュンヒルデの額に口づけた。両手で彼女の顔を包み込む。
「手紙は影のジークに託した。確実に皇帝陛下に届くだろう。もう少しの辛抱だ」
「ええ、オーギュ、ありがとう。あなたも一緒にヴィスタニアへ行きましょう?」
「……私は歓迎されない」
オーギュストが言う。
「前に言ったでしょう? わたくしが父を説得するわ」
「ヴィスタニア兵に攻撃されたんだ」
宮殿前で一悶着あった事を話すと、ブリュンヒルデは息をのんだ。
「そんな……」
「私の生存を知られた以上、今頃はハインリヒが、周辺諸国に罪人である私を捜すよう要請しているはずだ。この状態で私を庇えば、ヴィスタニア帝国はリンドルンと完全な対立状態になる。皇帝という立場からすれば、おそらく亡命は認めないだろう。最悪、ハインリヒに引き渡される可能性がある」
ブリュンヒルデがきっぱりと言った。
「なら、なら! わたくしも帰らないわ! あなたと一緒にいます!」
「いや、駄目だ。子供を罪人の子にする気か?」
「冤罪です! 何も恥じることはありません!」
そう言ってすすり泣く。
オーギュストはそんなブリュンヒルデをただただ抱きしめた。柔らかな金の髪を優しく撫でさする。自分の無力さに泣きそうだった。愛した者の願い一つ、どうして叶えてやれないのか……。自分と一緒にいたい、ただそれだけなのに……
扉の隙間から、二人の様子をこっそり覗き見たフルールは、悔しげに唇を噛む。どこまで自分勝手な女なのかと思う。生まれてくる子を利用して彼をしばろうだなんて……
「殿下、これを見て下さい」
突如としてフルールが扉を開け、手にした紙を高々と掲げた。彼女が意気揚々と見せつけたのは、例の怪文書である。これで彼も目を覚ますだろう、そんな気持ちだった。
怪文書をオーギュストが手に取る様を目にしたブリュンヒルデは、顔色を失った。
「違う、違うわ! この子はオーギュの子よ! お願い、信じて!」
いつだって毅然とした態度を崩さなかったのに、珍しく取り乱した。オーギュストだけには知られたくなかった、あるいは疑われたくなかったのかもしれない。
フルールがまなじりを吊り上げた。
「嘘ばっかり! これは王室から出ている情報なのよ? そろそろ観念して、殿下に本当のことを言ったらどうなのよ! ハインリヒ陛下の子なのに、オーギュスト殿下の子だと偽るなんて、彼に少しは悪いと思わな……」
「……しろ」
オーギュストの底冷えのするような声に、フルールはびくりとなる。
「え? あの……」
振り返ったフルールは凍り付く。オーギュストの険相は、まるで火山噴火の前触れのよう。オーギュストが手にした紙がぐしゃりと握りつぶされた。
「いい加減にしろと言った。私を怒らせてそんなに面白いか?」
「そ、そんなつもり、では……ひっ!」
オーギュストが叩き込んだ拳で、フルールが背にしていた扉がドンッと大破し、フルールは身を縮めた。砕けた扉と、怒りを前面に押し出したオーギュストとを交互に目を向ける。
オーギュストの本質は苛烈だ。
それこそ太陽だと表現出来るほど。かっかと燃える炎は灼熱である。それが怒りのエネルギーに変換されれば、戦場を駆け抜ける猛者ですら度肝を抜かす。それを荒事の経験すらない少女が目の当たりにすればどうなるか……
それはフルールの表情が如実に語っていた。
顔面蒼白で口もきけない有様である。
オーギュストの穏やかな表皮を食い破って出て来たのは、まさしく獰猛な獣だ。穏やかで魅力的だった緑の瞳が今や燃えるよう。そう、まさに緑の炎だ。そのオーギュストに胸ぐらを掴まれ、フルールの両足がぶらぶらと揺れた。完全に体が宙に浮いている。
オーギュストの底冷えのする声が告げた。
「もう一度、ヒルデを侮辱してみろ。今度こそ容赦しない。分かったな?」
ぱくぱくとフルールは口を動かすが、明瞭な声が出てくることはない。
「……返事は? 返事だ!」
凄まじい一喝だ。これをやられると鍛え上げられた精鋭ですら血の気が引く。フルールは失禁した。
「は、はひ……」
ようようフルールがそう答えれば、オーギュストが手を離し、ドサリと彼女が尻餅をつく。立ち上がろうとするも足に力が入らないらしい。フルールは這うようにして逃げ出した。その姿が完全に視界から消えると、オーギュストはブリュンヒルデに向き直った。そっと彼女の体を抱きしめる。
「すまない……」
悔恨を滲ませたオーギュストの声に、ブリュンヒルデは戸惑った。
「オーギュ?」
「私のせいだ、私の……。私が王太子の座を追われなければ、こんなことにはならなかった。あんな連中に好き勝手に言わせることもなかった。不敬だと牢にぶち込むことも出来たのに……何故、どうしてこんなことに……すまない、すまない、すまない、ヒルデ!」
叩きつけるようなオーギュストの声に、ブリュンヒルデは慌てた。
「ちが、うわ……オーギュのせいじゃない。オーギュのせいじゃないわ」
「そ、そうですよ! 殿下のせいではありません!」
アンバーも必死になって援護する。
「オーギュ。わたくしはあなたが信じてくれるのなら、それで、それでいいの。それが一番だわ」
「……君の腹の子は私の子だ。他の誰の子でもない」
ブリュンヒルデの口元に微笑みが浮かぶ。心がじんわりと温かい。
「ええ、ありがとう、オーギュ。愛しているわ」
そう答えて、嬉しそうに瞳を閉じる。オーギュストに甘えるように、抱きしめられたまま長い間ブリュンヒルデはじっとしていた。
その夜、ブリュンヒルデは破水した。
ある時、買い物袋を抱えて小屋までやって来たフルールが、そんなことを口にした。
「オーギュがいないからよ」
ブリュンヒルデの編み物の手は止まらない。
オーギュストがヴィスタニア帝国に旅立ってから早二週間だ。ブリュンヒルデの腹の子はもう九ヶ月目に入っている。生まれる時は父親であるオーギュストに傍にいて欲しいと、ブリュンヒルデは切にそう思う。
「でも、お腹の子はハインリヒ陛下の子ですよね? だったらリンドルンにいるべきでは?」
フルールの一言に、ひゅっとブリュンヒルデは息をのむ。
王城での噂話をどうして平民である彼女が知っているのか……
フルールがたたみかけた。
「市井でももっぱらの噂ですよ。二人の王子を手玉に取った悪女だって」
アンバーが二人の会話に割って入った。
「ちょっとあなた! 口が過ぎるわ! 根拠のない噂に振り回されて、なんって言い草なの! ブリュンヒルデ様はヴィスタニア帝国の第一皇女ですよ! 礼儀というものをもう少し弁えたらどうですか!」
アンバーとフルールが真っ向から衝突する。火花でも散りそうな勢いだ。フルールが憤然と言った。
「だって、本当の事じゃないですか! ハインリヒ陛下の子なのに、オーギュスト殿下の子だって偽って、彼を縛り付けるなんて酷いです! 彼を解放して上げて下さい!」
「偽ってなどいません!」
ブリュンヒルデが憤然と言い切り、立ち上がる。今度はフルールが息を飲む番だった。威厳と気品ある者の怒りは、こんな風に人を威圧する。ブリュンヒルデの怒気を帯びた碧い瞳が、フルールを見据えた。反論を許さない皇女特有の威厳がある。
「お腹の子は間違いなくオーギュの子です。わたくしはハインリヒに体を許したことなど、ただの一度もないのですから」
「……口では何とでも言えるわ」
手にした紙を投げつけるようにして、フルールは丸太小屋を出て行った。
「何ですかあれは!」
アンバーが憤慨し、戸口を乱暴に閉める。ブリュンヒルデは彼女が投げ捨てた紙を拾い、目を見張った。恐らく、市井に出回っている怪文書なのだろう、ハインリヒと通じたブリュンヒルデが、王太子だったオーギュストをそそのかし、謀反人に仕立て上げたとまで書かれている。
それを目にしたアンバーは、地団駄を踏んで悔しがった。
「何ですかこれは! デタラメにも程があります!」
怪文書をひったくり、ビリビリに破いて捨てた。
「そう、そうね……オーギュは国民的人気が高かったから……」
ブリュンヒルデが呟く。自分を悪者に仕立て上げることで、彼の悪行の説明をつけようとしたのだろうと、ブリュンヒルデは口にする。その台詞を聞いてアンバーが憤った。怒りながら泣いていて、感情がごちゃ混ぜである。
「何で、何でオーギュスト殿下の濡れ衣の原因を、ブリュンヒルデ様が押しつけられなくちゃならないんですか! 理不尽です! ハインリヒが元凶ですよ! あいつが! あいつがブリュンヒルデ様に横恋慕なんかするから! 今回の冤罪だって、あいつの仕業に決まってます! 今回の件でまるっと得したの、あいつじゃないですかぁ!」
アンバーがわんわん泣き、ブリュンヒルデがその背をさすって慰めるという、最後はなんだが立場が逆の構図になっていた。
夕食もぎすぎすした雰囲気だ。
フルールは年老いた祖母と弟の前であっても、機嫌の悪さを隠そうともしない。むすっとしたまま夕食を口にしている。もしオーギュストがこの場にいたなら、表面上だけでも取り繕っただろうに、今のフルールにはそういった配慮は欠片もなかった。
「ねーちゃん、どうしたんだよ?」
弟のダニーが訝しげに言う。
「……何でもないわ」
フルールがむっつりと答える。
「殿下の帰りが遅いから心配しているだけよ」
「そりゃしょうがないよ。人目を避けなくちゃならないから、どうしたって時間がかかる……ねーちゃん?」
勢いよく立ち上がった姉のフルールに、ダニーが訝しげな視線を送る。
「ごちそうさま! ちょっと薪を取ってくるわ」
そう告げ、フルールはさっさと小屋から出て行った。その場には何とも嫌な空気が漂っている。彼女の背を見送ったリズが、身を縮めるようにして謝った。
「ブリュンヒルデ様、申し訳ありません。孫が失礼な真似を……」
「いえ、どうかお気になさらずに」
ブリュンヒルデが無理矢理笑う。
そう、祖母のリズは悪くない。かといって、フルールが悪いのかと言えば、そうとも言い切れなかった。なにせ、市井の人々も自分に対する悪評を信じている。フルールはそれに同調しただけ……。元凶はやはり、ハインリヒなのだろう。
けれど、今の自分には何も出来ない。ヴィスタニア帝国皇女としての立場を取り戻すまでは、ほぼ無力である。ブリュンヒルデはそのことが歯がゆくて、悔しかった。
◇◇◇
「オーギュスト・ルルーシュ・リンドルンだな?」
大柄な騎士が、オーギュストに向かってそう告げた。
ここは帝都にある宮殿の正門前である。
ヴィスタニア帝国宮殿を警備する門兵に、ブリュンヒルデの指輪で封蝋した手紙を見せ、宰相であるアルノーとの面会を求めた時の事だ。彼に手紙を渡せば、確実に皇帝にブリュンヒルデの現状が伝わるだろう、そう判断したのだが……
オーギュストはヴィスタニア兵を連れた大柄な騎士に視線を戻す。
自分が現れるのを待ち構えていたような節がある。自分が生きている事がどこかでばれたのか? ヴィスタニアの帝都では、そんな噂話はとんと耳にしなかったが……。むしろ帝都では、リンドルンの王太子が処刑されたという話で持ちきりである。
「……リンドルンの王太子は処刑されただろう?」
オーギュストが鎌をかければ、大柄な騎士がせせら笑った。
「処刑されたのは別人だと聞いている」
オーギュストは舌打ちを漏らしたい気分だった。
やはり、ボドワンが身代わりになったと気付かれたらしい。リンドルンの王城での騒ぎが目に浮かぶようだ。今頃はハインリヒの指示を受けた捜索隊が、自分を血眼になって探し回っているに違いない。帰りがさらに遅くなりそうである。
「……用件は?」
「大人しく付いてくればいい」
大柄な騎士がずいっと押し迫った。十名程の兵士を連れている。
「アルノー宰相閣下に目通りしたい」
「はは、馬鹿も休み休み言え。罪人を宰相閣下に近づけるわけがないだろう」
オーギュストの要求を切って捨て、大柄な騎士の指示を受けた兵士がぐるりと取り囲む。
「……ブリュンヒルデからの言付けがある」
オーギュストがそう言えば、大柄な騎士に鼻で笑われる。
「ああ、第一皇女様をさらったのもお前か? どこにいる?」
「彼女は帰国したがっている。皇帝陛下はそのことをご存じか?」
「……ブリュンヒルデ様はリンドルンの王妃になられるお方だ」
その返答で、オーギュストは目の前の男が、ヨルグの息のかかった者だと判断する。
どうあっても、ヒルデを王妃にしたいらしいな? だが、ヨルグの意図が今一つ分からない。皇帝の怒りを買ってまですることではないと思うが……
「第一皇女様から預かった手紙があるそうだな? 渡してもらおうか」
大柄な騎士が手を出した。
目の前の騎士を信用できるかと言えば、もちろん否だ。手紙を渡せば握りつぶされるだけだろう。確実に手紙が皇帝の手に渡るようにするには……
オーギュストは自分の腕を掴んだヴィスタニア兵の足を無造作に蹴りつけ、その骨を砕いた。腕を掴んでいた兵士が悲鳴を上げ、その手が離れる。
「貴様!」
大柄な騎士を含めた兵士達が殺気立つ。
オーギュストは後方から襲いかかった兵士の顔面を肘打ちし、その腕を捻って関節を外す。拳と蹴りをぶち込み、襲いかかってきた兵士達の骨を砕き、追撃出来ないようにした。
悪いな、追ってこられても困る。
負傷して呻き声を上げる兵士達を尻目に、オーギュストがマントを翻して駆け出せば、指揮官の怒声が背後で上がった。
「逃がすな! 追え!」
残念だが、まともに動ける者はいない。病院へ連れて行ってやれ。
内心でそう声を掛け、オーギュストは裏路地へと駆け込み、姿をくらました。
宮殿内部にはヨルグの手が回っているか。そうなると……
追っ手を振り切ったオーギュストはその後、宰相のアルノーではなく別の人物と接触することにする。狙うのは、ヴィスタニア帝国皇帝直属の部下である影だ。彼らに手紙を託せば、確実に皇帝の手に渡るだろう。ああいった連中は皇帝以外の命令を受け付けない。
接触出来そうな人物は……
オーギュストは情報屋に金を渡し、目指す影の特徴を話して、居所を探った。中肉中背の凡庸な男で、分かりやすい特徴が手の甲の痣だが、大抵手袋をしているので知る者は少ない。情報屋をこうしてつつけば、あれが動くだろう。始末するために、だろうが……影の正体を探ろうとする者は、他国の諜報員と相場が決まっている。
「俺に何の用だ?」
裏通りで声を掛けられた。食いついたことにオーギュストは歓喜する。ふり向けば、思った通りの人物がそこにいた。ブラウンの髪の凡庸な顔立ちの男だ。一見何の害もなさそうに見えるが、平凡を装うよう訓練されているだけである。
「ブリュンヒルデ皇女殿下から手紙を預かっている。皇帝に渡して欲しい」
「皇女様から?」
皇帝付の影であるジークが訝しげに言う。胡散臭げにオーギュストを眺め回した。オーギュストはフードを目深にかぶり、口元を布で覆っている状態なので、人相風体は分からない。
「……俺を探し回り、命を危険にさらしてまでやることか? 手紙なら門兵に預ければすむことだろう? 何故、俺を嗅ぎ回った? 首をかっ切られても文句は言えないぞ?」
「門前払いを喰らったんだ、ジーク」
「……顔を見せろ」
じわりとジークが殺気を放つ。偽名ではなく、本名を口にした事で警戒心を強めたらしい。オーギュストが無言で手紙を差し出せば、予備動作なくジークが動いた。ジークの獲物はナイフだ。かすっただけで死ぬ猛毒のおまけ付きである。
オーギュストは最小限の動作でナイフの切っ先をかわしつつ、ジークの意図を悟る。
狙う先は顔を覆う布、か。正体を知りたいらしいが、騒がれたくない。
オーギュストが手にした剣でそれを躱せば、ジークが再び距離を取った。何かを探るように、じろじろとジークに上から下まで眺められた。
「……会ったことがあるか?」
既視感か? ああ、一度だけあるとも。命を助けてやったな? 言う必要はないが。
再びオーギュストは手紙を差し出した。皇女の身分を示す指輪の封蝋がよく見えるようにかざせば、ジークは興味を示した。ひったくるようにしてそれを手にし、封蝋の印を確認する。
オーギュストはそれで満足した。
気の済むまで調べればいい。印章は本物だ。
背を向け歩き出せば、戸惑ったようなジークの声がオーギュストを追いかける。
「おい、待て。本当にそれだけなのか?」
「そうだ。そう言っただろう?」
ジークの声が追求した。
「ヨルグ殿下がリンドルンに滞在している。何故皇女様は彼を頼らない?」
「そのヨルグがブリュンヒルデの帰国を妨害している。その手紙を皇帝に届けろ。いいな?」
そう告げ、オーギュストは闇に体を溶け込ませた。
◇◇◇
アンバーはイライラしっぱなしだった。
オーギュストとの触れ合いで一時期あんなに元気になったのに、フルールの陰湿な嫌がらせのせいで、ブリュンヒルデがすっかり塞ぎ込んでしまったからだ。
あの女は嫌いだとアンバーは思う。なのに他に行くところがないせいで、こうして我慢せざるを得ない。怒りをぶつけたくてもどこにぶつければいいのか……
「あのう、ブリュンヒルデ様。食欲がないそうですが、せめて果物はどうですか?」
リンゴを手にダニーが小屋に姿を見せた。彼は変わらず親切である。
姉弟でどうしてこうも違うのか……
アンバーは心の中で嘆息する。
祖母のリズも何かとブリュンヒルデの体調を気遣ってくれている。唯一の問題はあの少女だけなのだが、向けられる悪意がきつい。街から持ち帰ってくる怪文書を、わざとブリュンヒルデの目の付くところに置くのだ。
「こんなものを持ち帰らないで下さい! デタラメです!」
アンバーが声を荒げても、フルールが態度を改めることはない。
「なら、気にしなければ良いのでは?」
清廉潔白なら堂々としていれば良い、フルールがそう言い切る。まったくもって腹立たしい。身に覚えのないことで責められるのがどれほど辛いか、分からないはずがない。絶対分かってやっているとアンバーは憤慨する。あるいは自分が正しいと思うが故の悪行か……
「ブリュンヒルデ様、少しでも召し上がって下さい」
「ありがとう」
アンバーが勧めれば、ブリュンヒルデが小さく切り分けたリンゴを一つ、二つ口にする。痩せ細った体が痛々しい。
オーギュスト殿下、早く、早く帰ってきて下さい。見ていられません。
アンバーのその願いが届いたかのように翌日、オーギュストがふらりと小屋の戸口に姿を見せ、彼女は飛び上がらんばかりに喜んだ。目深にかぶったフードの下から現れたのは、誰もが見惚れる艶めいた美貌である。
「お、お帰りなさい!」
よかった、よかったわ。これでブリュンヒルデ様も元気になる。
オーギュストの蠱惑的な緑の瞳が、ブリュンヒルデの姿を認めて口元をほころばせるも、ふっとその表情が曇った。冷たくなったブリュンヒルデの手をさすり、温めるように頬にあてた。
「遅くなった、すまない」
「いいえ、無事で良かったわ」
「……きちんと食べているか?」
ブリュンヒルデの体調不良を見て取ったオーギュストが言う。
「ごめんなさい、食欲がないの」
「……何か食べられそうなものは?」
「そうね、温かいお茶を……」
「分かった、用意しよう」
オーギュストがそっとブリュンヒルデの額に口づけた。両手で彼女の顔を包み込む。
「手紙は影のジークに託した。確実に皇帝陛下に届くだろう。もう少しの辛抱だ」
「ええ、オーギュ、ありがとう。あなたも一緒にヴィスタニアへ行きましょう?」
「……私は歓迎されない」
オーギュストが言う。
「前に言ったでしょう? わたくしが父を説得するわ」
「ヴィスタニア兵に攻撃されたんだ」
宮殿前で一悶着あった事を話すと、ブリュンヒルデは息をのんだ。
「そんな……」
「私の生存を知られた以上、今頃はハインリヒが、周辺諸国に罪人である私を捜すよう要請しているはずだ。この状態で私を庇えば、ヴィスタニア帝国はリンドルンと完全な対立状態になる。皇帝という立場からすれば、おそらく亡命は認めないだろう。最悪、ハインリヒに引き渡される可能性がある」
ブリュンヒルデがきっぱりと言った。
「なら、なら! わたくしも帰らないわ! あなたと一緒にいます!」
「いや、駄目だ。子供を罪人の子にする気か?」
「冤罪です! 何も恥じることはありません!」
そう言ってすすり泣く。
オーギュストはそんなブリュンヒルデをただただ抱きしめた。柔らかな金の髪を優しく撫でさする。自分の無力さに泣きそうだった。愛した者の願い一つ、どうして叶えてやれないのか……。自分と一緒にいたい、ただそれだけなのに……
扉の隙間から、二人の様子をこっそり覗き見たフルールは、悔しげに唇を噛む。どこまで自分勝手な女なのかと思う。生まれてくる子を利用して彼をしばろうだなんて……
「殿下、これを見て下さい」
突如としてフルールが扉を開け、手にした紙を高々と掲げた。彼女が意気揚々と見せつけたのは、例の怪文書である。これで彼も目を覚ますだろう、そんな気持ちだった。
怪文書をオーギュストが手に取る様を目にしたブリュンヒルデは、顔色を失った。
「違う、違うわ! この子はオーギュの子よ! お願い、信じて!」
いつだって毅然とした態度を崩さなかったのに、珍しく取り乱した。オーギュストだけには知られたくなかった、あるいは疑われたくなかったのかもしれない。
フルールがまなじりを吊り上げた。
「嘘ばっかり! これは王室から出ている情報なのよ? そろそろ観念して、殿下に本当のことを言ったらどうなのよ! ハインリヒ陛下の子なのに、オーギュスト殿下の子だと偽るなんて、彼に少しは悪いと思わな……」
「……しろ」
オーギュストの底冷えのするような声に、フルールはびくりとなる。
「え? あの……」
振り返ったフルールは凍り付く。オーギュストの険相は、まるで火山噴火の前触れのよう。オーギュストが手にした紙がぐしゃりと握りつぶされた。
「いい加減にしろと言った。私を怒らせてそんなに面白いか?」
「そ、そんなつもり、では……ひっ!」
オーギュストが叩き込んだ拳で、フルールが背にしていた扉がドンッと大破し、フルールは身を縮めた。砕けた扉と、怒りを前面に押し出したオーギュストとを交互に目を向ける。
オーギュストの本質は苛烈だ。
それこそ太陽だと表現出来るほど。かっかと燃える炎は灼熱である。それが怒りのエネルギーに変換されれば、戦場を駆け抜ける猛者ですら度肝を抜かす。それを荒事の経験すらない少女が目の当たりにすればどうなるか……
それはフルールの表情が如実に語っていた。
顔面蒼白で口もきけない有様である。
オーギュストの穏やかな表皮を食い破って出て来たのは、まさしく獰猛な獣だ。穏やかで魅力的だった緑の瞳が今や燃えるよう。そう、まさに緑の炎だ。そのオーギュストに胸ぐらを掴まれ、フルールの両足がぶらぶらと揺れた。完全に体が宙に浮いている。
オーギュストの底冷えのする声が告げた。
「もう一度、ヒルデを侮辱してみろ。今度こそ容赦しない。分かったな?」
ぱくぱくとフルールは口を動かすが、明瞭な声が出てくることはない。
「……返事は? 返事だ!」
凄まじい一喝だ。これをやられると鍛え上げられた精鋭ですら血の気が引く。フルールは失禁した。
「は、はひ……」
ようようフルールがそう答えれば、オーギュストが手を離し、ドサリと彼女が尻餅をつく。立ち上がろうとするも足に力が入らないらしい。フルールは這うようにして逃げ出した。その姿が完全に視界から消えると、オーギュストはブリュンヒルデに向き直った。そっと彼女の体を抱きしめる。
「すまない……」
悔恨を滲ませたオーギュストの声に、ブリュンヒルデは戸惑った。
「オーギュ?」
「私のせいだ、私の……。私が王太子の座を追われなければ、こんなことにはならなかった。あんな連中に好き勝手に言わせることもなかった。不敬だと牢にぶち込むことも出来たのに……何故、どうしてこんなことに……すまない、すまない、すまない、ヒルデ!」
叩きつけるようなオーギュストの声に、ブリュンヒルデは慌てた。
「ちが、うわ……オーギュのせいじゃない。オーギュのせいじゃないわ」
「そ、そうですよ! 殿下のせいではありません!」
アンバーも必死になって援護する。
「オーギュ。わたくしはあなたが信じてくれるのなら、それで、それでいいの。それが一番だわ」
「……君の腹の子は私の子だ。他の誰の子でもない」
ブリュンヒルデの口元に微笑みが浮かぶ。心がじんわりと温かい。
「ええ、ありがとう、オーギュ。愛しているわ」
そう答えて、嬉しそうに瞳を閉じる。オーギュストに甘えるように、抱きしめられたまま長い間ブリュンヒルデはじっとしていた。
その夜、ブリュンヒルデは破水した。
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