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1巻
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優しいウィリアムは、やはりベラトリクスの意見を尊重してくれる。
わたくしのせいで、侯爵家や使用人たちが路頭に迷うことがあってはいけないもの。婚約解消を目指すのは間違っていないはず。どうせアルデバラン殿下には、とことん嫌われているのだし。
……嫌われている。そう思うと、心の奥がチリチリと鈍く痛んだ。
だが、ここで身を引かなければ。ベラトリクスの淡い初恋が終わるのだからどこか切ないのだ。
「ええ。わたくし、全力で引きこもるわ!」
握り拳を作ったわたくしは、ウィリアムに宣言する。
「元気いっぱいですね」
「そうよ、元気に引きこもるの」
こうしてわたくしこと悪役令嬢のベラトリクスは、引きこもり令嬢となるべく楽しいおこもり生活をスタートしたのだった。
第二章 悪役令嬢は改める
引きこもり宣言をしてから三日後、わたくしは再び庭園にいた。
「よし、やるわよウィル!」
借りてきた紺色のお仕着せの袖をグイッと捲り上げて、気合十分だ。
「はい、わかりました」
花壇の前で仁王立ちするわたくしに、ウィルこと従者のウィリアムは呆れたように笑って相槌を打った。
ベラトリクスの長い真紅の髪はひとまとめに結い上げ、ポニーテールにしている。
以前は毎日何時間もかけてくるくると丹念に縦ロールを仕こんだり、お化粧したりと着飾ることに余念がなかったわたくしだが、それらはすべてやめた。
元々がぴちぴちお肌の十代だし、自分で言うのもなんだがベラトリクスは美人だ。そのままの素材を大切にしたい。それにこれからずっと家で過ごすだけなら、何も気負うことはない。
庭いじりをするならジャージにスニーカーという格好を本当はしたかったが、当然ながらそんなものはこの世界に存在していなかった。
「どうされましたか?」
「……なんでもないわ」
わたくしが恨めしげにウィルのほうを見ていたから、その視線の意味することはすっかりバレてしまっていた。
ジャージがないならせめてウィルのようなズボンが穿きたいと言ったが、騒ぎを聞きつけたお母様にやめてほしいと懇願されてしまったのだ。
『ベラちゃん……?』と涙ながらに見つめられてしまっては、断念せざるを得ない……今回は。
ベラトリクスの急激な変化についていけないようなので、彼女を卒倒させない程度にじわりじわりとズボンを浸透させていこう。まずはスカートのようなキュロットを用意しなければ。
そう決意をしつつ、わたくしは眼前の花壇に目を向けた。
「ひどいわねぇ。まあ、わたくしがやったのだけれど」
目の前の花壇は、他の花壇と違って穴だらけで土が剥き出しになっている。枯れ草もところどころに落ちていた。
ここは、倒れる前のわたくしが花の色が気に入らないとワガママを言って、綺麗な桃色の花を含んだ一帯を目の前で刈り取らせた場所。咲き誇る桃色がアナベル嬢を連想させて、気に食わなかったらしい。
以前からそうだったのか、とにかくアナベル嬢に関連する何もかもが許せなくて侯爵家には桃色のものは徹底して置かれていない。可愛いのに、もったいないことだ。
荒れたまま未だ手つかずになっているその花壇は、とても寂しく見える。
「……しかしお嬢様。やはりこの作業は、庭師がやったほうがいいのではないですか? お手が荒れてしまいますし」
しゃがみこんで土に触れようとしたところで、ウィルから声がかかる。
「でも、わたくしのせいでこうなったのよ? 反省しているの。どうしてもやりたいわ」
貴族令嬢が土いじりをしないことは知っている。ズボンの案件のあと、その話を聞いたお母様が結局卒倒しかかったことも。
それでもわたくしは、やりたいのだ。庭師の仕事を台なしにしたことも、花の命を無駄にしたことも、やってしまった過去は変えられないけれど、せめて何かをしたい。
「ねえウィル、どうしてもダメ……?」
懇願すると、ウィルの眉がへにゃりと下がる。
「ぐっ……仕方ありませんね。危険なことは私が代わりますので。それにここは彼らの領分ですから、庭師のカールに教えを乞いましょう」
「ええ! ありがとう」
わたくしが謝意を伝えると、ウィルはため息をつきながらも仕方がないという表情で微笑んでくれた。
「では、カールを呼んできますので、お嬢様はここでお待ちください」
「ええ、お願いね」
──ウィルって、とってもいい人よね。
相も変わらずワガママ令嬢に付き合ってくれる従者の背中を横目で見つつ、わたくしは他人事のように感心してしまった。
現在わたくしは十一歳で、ウィルは見た目からすると二十代後半といったところだろうか。よくわからないので完全に勘である。
随分前から我が家にいるようなので、おそらくかなり早い時期から侯爵家で働いていたのだろう。少なくとも、ベラトリクスの物心がつくころにはそばにいた記憶がある。
以前のわたくしはそんな彼に対しても他の使用人と同様に名前で呼ばず、「ねえ」とか「そこの執事」とか言っていたようだから、もう困ったものだ。
『ウィリアム、あの……あなたのこと、ウィルって呼んでもいいかしら。嫌ならやめるわ』
一昨日のことだ。他の使用人たちがウィリアムをそう呼んでいることを知ったわたくしは、少し緊張しながらも提案してみた。
これからおこもり生活を送るにあたって、まずは最も近しい人物であるウィルと信頼関係を築ければと思ってのことだったが、これまでの振る舞いを考えればかなり突飛な提案である。
『はい、もちろんです』
案の定驚いた顔をされたが、それはすぐに笑顔に変わる。それに嫌だとは言われなかった。立場的に断りにくいとわかっていながらのずるい提案だったけれど、それでもまっすぐに受け入れてくれたことはうれしい。
──ここ数日、ウィルとともに過ごして気づいたことがある。
彼はおねだりに弱い。仕事中は一見するとなんでもピシリと断りそうな堅い表情をしているかと思えば、お願いすると意外と融通をきかせてくれていろいろなことに挑戦させてくれるのだ。
このお仕着せの手配も彼だし、その他諸々わたくしのおこもり生活を支えるための本や画材などもすでに注文してくれている。
元のベラトリクスが無理難題のおねだり攻撃をしたことで、耐性がついたに違いない。
そのことに一抹の申し訳なさを感じつつ、わたくしは土を見つめるのをやめて、ウィルが去っていった方向を見た。
ちょうどウィルが、恰幅のいい壮年の男性を引き連れて戻ってきているところだった。
ひどいことに、使用人への関心が薄すぎるベラトリクスの記憶にはまったく残っていない。けれど、あの方がウィルの言う『庭師のカール』さんで間違いないだろう。
「お嬢様。カールをお連れしました。カールさん、先ほどお話ししたとおり、ベラトリクス様がこの花壇の作業を手伝いたいそうなので、ご教授願います」
ウィルとカールさんが近くに来たことで、しゃがみこんでいたわたくしは立ち上がってスカートの裾を軽くはたく。それから、懐疑的な視線をわたくしに向けるカールさんに対して頭を下げた。
「カールさん、よろしくお願いしますわ。この場所……あなた方が丹念にお世話をしてくださったのに、それを台なしにして申し訳ありません」
まずは、心からの謝罪を。
あんなに綺麗な花が咲いていたのだ。花壇だっていつも整然として美しかった。それを一時の癇癪で破壊してしまった。それは庭師の尊厳を踏みにじる行為だ。
「あ……えと、お、お嬢様、頭を上げてください。ワシこそ、お嬢様のお嫌いな花を用意しちまって、申し訳ねえと思っていたんです」
頭を上げたわたくしは、その言葉に目を丸くしてしまった。当のカールさんは本当に申し訳なさそうに眉を下げている。
ベラトリクスは些細な理由で花壇をめちゃくちゃにした。それなのに、どうしてカールさんが謝っているのだろう。呆然としていると、カールさんはポリポリと鼻の頭を掻く。
「……言い訳になっちまうんですが、ここに綺麗な赤い花が咲
く予定だったんです。ほら、お嬢様は赤がよく似合いますから。初めて持ちこんだ品種だったもんで、蕾の色が淡いのも気になっていたのにまずは咲かせてみようと欲が出ちまって。……ワシの目利きも落ちたものだと思って、引退を決意したところで――」
「引退⁉ だめよ、そんなこと」
カールさんの口から飛び出す思いがけない言葉に驚いて、わたくしは遮ってしまう。
「しかし、主人の意に添えないようじゃあ、庭師としてはとても」
「絶対にだめ! あなたの引退は許可しないわ! わたくしが許さないんだから!」
「へ、へえ」
思わず熱くなってしまったところで、カールさんは気圧されたのか肯定ととれる返事をしてくれた。あの桃色の花は結果的にそうなってしまっただけで、本当はわたくしのためのものだったのだ。
前のわたくしのままだったらそれを知る機会は、きっとなかったように思う。
ベラトリクスは顔も名前も知らない庭師の考えや事情など気に留めなかっただろうし、その人が辞職しても何も思わなかっただろう。ワガママで癇癪持ちのベラトリクスを、それでもこうして皆が支えようとしてくれているとは気がつかないままだったはずだ。
わたくしは唇をギュッと噛んだあと、「カールさん」と熊のような庭師の名を呼んだ。
「わたくし、もう一度この花壇を花でいっぱいにしたいの。何色の花だってかまわない。それで、わたくし自身が育ててみたいのだけれど、いいかしら」
カールさんはやはり驚いた顔をして、わたくしと隣にいるウィルを見比べる。
「ウィルから聞いてはおりましたが、本当にお嬢様がやるんですか?」
「ええ、そうよ!」
その問いかけに、わたくしは腕まくりをしながら気合を込めて返事をする。
「……そうですか。ではいくつか、苗をお持ちします。まずは育てやすいヤツを見繕ってきます」
最初は戸惑っていた庭師のカールさんも、豊かな顎ひげを揺らしながら笑みを見せて承諾してくれた。
そのままいそいそと作業場へ向かう彼の後ろ姿を見たわたくしは、うれしくなってウィルのほうを振り返る。
「ウィル! 許可をもらえたわ」
「ええ。よかったですね、お嬢様」
「カールさんが辞めると言ったときにはびっくりしたわ、本当に」
「そうですね、私も驚きました。カールさんは昔から立派な庭園を作ってくださっていたので……お嬢様が引き留めてくださってよかったです」
ウィルに安堵したように微笑まれて、わたくしも安心した気持ちで笑顔を返す。自らの過去の行動が誰かを巻きこんでしまう前に、止めることが出来てよかった。
カールさんが花の苗や道具一式を持って戻ってきてから、わたくしは一心不乱に作業をする。
チラリと目をやれば、隣でウィルが腕まくりをして花の苗を植えていた。黒の執事服はわたくしのお仕着せと同じく土まみれだ。
ここまで付き合ってくれることに申し訳なさすらありながら、素直にありがたいと感じる。ひとりでやるよりもずっと楽しい。
時折「もう少し間隔を開けましょう」やら「まっすぐ揃えるならあと二センチ右です」などなど的確な指示も飛んでくる。ちょっと細かすぎる気もするけれど。
カールさんはウィルに任せたら大丈夫だと判断したのか、苗や道具を揃えてひととおり説明すると自らの作業に戻っていった。有能すぎる執事である。
しばらくはこうしてお庭の手入れをして過ごすのもいいかもしれない。
完成した花壇を前に、わたくしはホクホクとした充足感に包まれる。断罪回避の引きこもり計画に、ひとつ楽しみが増えた。
庭いじりから数日後、家族でのんびりと朝食を囲んでいたときに爆弾は落とされた。
「さあベラ、今日は久しぶりにお父様と一緒にお城に行こうね」
「お城、ですか……?」
突然の申し出に、わたくしは壊れかけのおもちゃのようにギギギと鈍く首を動かす。
「そうだよ。前は毎日のように一緒に行っていただろう? このところ庭をよく散歩しているようだし、体調もよくなったのだから、そろそろいいかと思ってね」
反して、お父様はニコニコ笑顔だ。心からそう言っているのだろう。
そうだわ。そういえばわたくし、以前はほとんど毎日のように城に行っていたんだった……!
城の要職につくお父様が仕事に出かける際にくっついて登城し、婚約者の殿下を捜し回るのが定番コースだった。会えない日もあったけれど、それでもベラトリクスは大好きな婚約者を一目見たくて、押しかけていた。
もちろん王妃教育の一環で登城が必要な日もあったけれど、一番の目的は殿下だったのだ。
「……いえ、殿下もお忙しいでしょうし、しばらくお城に行くのはやめます」
もうそのときとは状況が違う。お城なんて危険な場所に近づくわけにはいかない。
わたくしは血の気の引いた顔で拒否した。
「では、ベラちゃん。お母様と一緒にお茶会に出かけましょう? ドレスは新しいものを作って、ああそうだわ、お祝いに宝石商を呼んでもいいわね」
わたくしの表情が曇ったことを察したお母様がそう誘ってくれる。しかし、わたくしはそれにも首を横に振った。
お茶会も散財もまったくもって興味がない。
お茶会に行けば腫れものに触れるような扱いで、同年代の令嬢たちには避けられるか媚びられるかのどちらかだ。嘘か本当かわからない噂話に心をかき乱されるのも嫌だし、この前のお茶会でのことも噂になっているかもしれない。
それよりは、自分の作った庭を眺めるほうがずっと楽しい。
「……わたくし、お茶会にも行きたくありません。出来たらこれからも、殿下には会わずに家でゆっくり過ごしたいのですが、ダメでしょうか?」
ワガママを言っている自覚はある。
貴族にとって社交はとても大切なものだ。王家との婚約も。
城に行かず、茶会にも出ないとなれば、またそれはそれでベラトリクスに関する噂が背びれも尾ひれもついて出回るだろう。ロットナー侯爵家の評判を落としてしまう。わたくしの振る舞いのせいですでに落ちている可能性には今は触れない。
とにかく以前のわたくしとは違う。バッドエンドを回避したい。切実に。
「ベラがこんなに嫌がるなんて……あの日、よっぽどひどいことを言われたに違いない。まったく、うちのベラに……!」
わたくしの懇願を目の当たりにしたお父様は、沈痛な面持ちでそう憤慨している。
あのお茶会を機に人が変わったようになってしまい、両親はあの日よっぽどのことがあったと思っているようだ。
「あなた、殿下との婚約は取り消せないの? ベラちゃんがかわいそうだわ。バートリッジ公爵令嬢との噂はわたくしの耳にも入っていてよ。これまで従妹だからと口を出しませんでしたが、あんまりです……!」
席を立ったお母様が、わたくしのところに来てギュウと頭を包みこんでくれる。
ベラトリクスはこれまであのふたりの関係性にとても憤慨していた。その気持ちをこうして理解してくれる人がいる。その事実に、自分のことながらわたくしは目頭が熱くなる。
「そうしたいところだが……王家との婚約であるうえに、こちらから言い出したとあって、侯爵家側から断るのは難しいのだ。すまない、ヴェネット」
「まあ……なんてことなの……!」
この世の終わりのような表情で過保護な応酬をする両親の会話を聞きながら思う。
ゲーム世界のベラトリクスは、とても両親に可愛がられていたのだろう。これだけ甘やかされて尊重されていたら、元々のワガママ気質が増長して唯我独尊状態になってしまうのもわかる気がする。
──やっぱり、何もなしに婚約破棄に持ちこむのはなかなかハードルが高そうね。
どうしたらいいかと真剣に話し合っている両親を尻目に、わたくしはそう考察する。
聞きかじった程度の知識だけれど、現在、シュテンメル王国の内政はとても落ち着いている。王家と貴族で派閥が対立していることもなさそうだし、王家もわが侯爵家も、特別に縁を結ぶ必要性はない。
今の会話を聞いていたら、両親に『この家から絶対に王妃を輩出する』という野望があるわけでもなさそうだ。だからこそ選定されたのかもしれない。
身分や家柄が釣り合い、同年代であり、そしてベラトリクス本人が強く望んだから──この婚約に関する条件はこのあたりだろうか。あとで調べておく必要がある。
こちらから王家との婚約を解消することは難しい。となるとやはり、以前の読みどおり向こうから穏便に、平和に、円滑に解消を申し出てくれるのを待たなければならないようだ。
「陛下には折を見て相談してみるが……ベラトリクスは本当にそれでいいのかい?」
そう言って眉尻を下げるお父様は、わたくしが殿下を慕っていたことを知っている。その隣で心配そうにしているお母様も同じだ。
「……はい。わたくし、すっかり自信がなくなってしまいました」
へにゃりと微笑めば、ふたりはハッとした顔で息を呑んだ。
元々、第一王子との間に婚約者らしいこと……たとえば贈りものをもらったり、エスコートをしてもらったりはほとんどなかったし、わたくしが無理やり押しかけてお茶会をしていた程度の関係だ。こちらからの接触を絶ってしまえば、問題はないように思う。
これまで一度も微笑みかけてくれない婚約者。きっと彼にはもう嫌われている。
どうせ最後はそうなる運命なのだ。早めにベラトリクスの呪縛から自由になれたら、それは彼のためにもなるだろう。どんなときも無愛想ながら、対応はしてくれていた彼に対して逆に申し訳なさすらある。
食事のあとにも何やら真剣な面持ちで話し合った両親は、わたくしに外出を無理強いしないことに決めた。婚約についても考え直してくれるらしい。
こうして、わたくしはあの日の事故を境に病床に伏す深窓の令嬢となり、婚約者のアルデバラン殿下をはじめとした貴族の面々にしばらく会わないで済むことになった。
騒然とした朝食のあと、わたくしは部屋に戻って腕組みをしていた。
「乙女ゲームの開始は、ヒロインが学園に入学してからだったわよね」
机の上には、簡単に書き記した今後の展開についてのメモがある。
めくるめく恋愛劇の舞台となる学園には、十三歳の年に入学する。ひとつ年下のヒロインが入学する場面がゲームのスタート。わたくしは彼女より一年早く学園生活に入ることになる。
「断罪は回避したいわ。絶対に」
ゲームのエンディングを書き記した部分を指でとんとんと叩いた。
自分のことだけならまだいいが、きっとその咎はこのロットナー侯爵家全体に及ぶだろう。下手したら、この侯爵家ごと没落するかもしれない。
溺愛が過ぎる両親に、有能すぎる使用人たち。わたくしの振る舞いのせいで、まとめて不幸にしてしまう未来なんてあってはならない。
「フラグは全部無視しておきたいところね。この家の人たちに対してもそうだけど、すでにもうやらかしているから、なんとかしないと」
これまでの傍若無人な振る舞いは、きっと婚約者であるアルデバラン殿下の耳にも入っていると思う。
家でのことは多少オブラートに包まれているにしても、茶会などで目にすれば一目瞭然だ。取り巻きを付き従え、我がもの顔で闊歩していた。非常に頭が痛いが、すでに悪い印象を与えているはずだ。
──でも、まだ軌道修正は出来るはず。シナリオに未知の部分もあるもの。
頭を抱えていたわたくしだが、なんとかそう思い直す。
実際にわたくしが前世でゲームをしたときは、ヒロインが入学してからの一年間、その期間しか描かれていない。そのため、悪役令嬢のことは性格が悪いけど婚約者を取られまいと必死に頑張る女の子くらいの印象しかもっていなかった。
それでもエンドロールではしっかり婚約破棄されて断罪されていた。つまり、周囲の人にとってはこれまで積み重なった不満が爆発するのが、あの学園でのイベントなのだろう。
逆にいえば、ここでこれまでのヘイト貯金を清算して人生をやり直せば、なんとかなるのではないだろうか。
今は十一歳の秋。入学までの二年間と、学園生活の二年……特に前半の一年間が、人生を左右する重要な期間だ。
これから三年は大人しくして、入学イベントのあとはヒロインに近づかないようにする。これだ。
「──お嬢様、少しよろしいでしょうか」
よし、と決意を新たにしたところで、部屋の扉がノックされた。聞き慣れた侍女の声がする。
「え、ええ! 大丈夫よ」
驚いて肩を揺らしてしまったが、わたくしは慌てて返事をした。考察のために書き起こしたメモは、誰の目にも触れないようにきっちりと引き出しにしまっておく。
「お休みのところ失礼いたします。ご注文の品が届きましたので、お持ちしました」
柔らかな笑みを浮かべる侍女のエリノアが、ワゴンを押しながら入ってきてペコリと頭を下げる。
彼女のその手元を見て、わたくしは思わず顔をしかめてしまう。
「……痕が残ってしまったわね。せっかくの綺麗な手なのに」
彼女の白い肌には、痛々しい桃色の創傷がいくつも刻まれている。
エリノアはあの転倒のとき、わたくしを庇って割れた花瓶の破片の上に飛びこんでくれた。お陰でわたくしは頭を打っただけで済んだが、直接破片の上にのってしまった彼女はそうはいかなかった。顔や手など、服から露出していた部分に傷を負ってしまったのだ。
今は髪で隠れているが、額にも傷が残ってしまったとは侍医から聞いていた。わたくしが無傷である代償は、すべて彼女に負わせてしまっている。
「いいえ、お嬢様。私は大丈夫です。お嬢様が無傷で本当にうれしいです」
痛々しい傷痕をじっと見つめていると、エリノアは柔らかく微笑んだ。
思えばエリノアは、以前のわたくしがとんでもない振る舞いをしてもいつも笑顔を向けてくれた。ドレスが気に入らないと何度も何度も衣装合わせをするときも付き合ってくれていたし、髪型や化粧が不服だと当たり散らした日もあった。紅茶が熱い、ぬるい、冷たい、菓子がまずい、嫌い、下げろ……そんな態度は日常茶飯事で、わたくしは名前さえ覚えていなかったというのに。
彼女はわたくしが意識を失っている間に、『お嬢様を守れなかった』ことを理由にお父様に辞意を告げていたらしく、目を覚ましたあとに包帯を巻いた手で挨拶に来た彼女を、わたくしは慌てて引き留めた。
『悪いのはわたくしだから、どうか辞めるなんて言わないで!』
『お、お嬢様……⁉ どうかお顔を上げてください』
ベッドの上で土下座するわたくしに、おろおろするエリノア。
わたくしのせいで、侯爵家や使用人たちが路頭に迷うことがあってはいけないもの。婚約解消を目指すのは間違っていないはず。どうせアルデバラン殿下には、とことん嫌われているのだし。
……嫌われている。そう思うと、心の奥がチリチリと鈍く痛んだ。
だが、ここで身を引かなければ。ベラトリクスの淡い初恋が終わるのだからどこか切ないのだ。
「ええ。わたくし、全力で引きこもるわ!」
握り拳を作ったわたくしは、ウィリアムに宣言する。
「元気いっぱいですね」
「そうよ、元気に引きこもるの」
こうしてわたくしこと悪役令嬢のベラトリクスは、引きこもり令嬢となるべく楽しいおこもり生活をスタートしたのだった。
第二章 悪役令嬢は改める
引きこもり宣言をしてから三日後、わたくしは再び庭園にいた。
「よし、やるわよウィル!」
借りてきた紺色のお仕着せの袖をグイッと捲り上げて、気合十分だ。
「はい、わかりました」
花壇の前で仁王立ちするわたくしに、ウィルこと従者のウィリアムは呆れたように笑って相槌を打った。
ベラトリクスの長い真紅の髪はひとまとめに結い上げ、ポニーテールにしている。
以前は毎日何時間もかけてくるくると丹念に縦ロールを仕こんだり、お化粧したりと着飾ることに余念がなかったわたくしだが、それらはすべてやめた。
元々がぴちぴちお肌の十代だし、自分で言うのもなんだがベラトリクスは美人だ。そのままの素材を大切にしたい。それにこれからずっと家で過ごすだけなら、何も気負うことはない。
庭いじりをするならジャージにスニーカーという格好を本当はしたかったが、当然ながらそんなものはこの世界に存在していなかった。
「どうされましたか?」
「……なんでもないわ」
わたくしが恨めしげにウィルのほうを見ていたから、その視線の意味することはすっかりバレてしまっていた。
ジャージがないならせめてウィルのようなズボンが穿きたいと言ったが、騒ぎを聞きつけたお母様にやめてほしいと懇願されてしまったのだ。
『ベラちゃん……?』と涙ながらに見つめられてしまっては、断念せざるを得ない……今回は。
ベラトリクスの急激な変化についていけないようなので、彼女を卒倒させない程度にじわりじわりとズボンを浸透させていこう。まずはスカートのようなキュロットを用意しなければ。
そう決意をしつつ、わたくしは眼前の花壇に目を向けた。
「ひどいわねぇ。まあ、わたくしがやったのだけれど」
目の前の花壇は、他の花壇と違って穴だらけで土が剥き出しになっている。枯れ草もところどころに落ちていた。
ここは、倒れる前のわたくしが花の色が気に入らないとワガママを言って、綺麗な桃色の花を含んだ一帯を目の前で刈り取らせた場所。咲き誇る桃色がアナベル嬢を連想させて、気に食わなかったらしい。
以前からそうだったのか、とにかくアナベル嬢に関連する何もかもが許せなくて侯爵家には桃色のものは徹底して置かれていない。可愛いのに、もったいないことだ。
荒れたまま未だ手つかずになっているその花壇は、とても寂しく見える。
「……しかしお嬢様。やはりこの作業は、庭師がやったほうがいいのではないですか? お手が荒れてしまいますし」
しゃがみこんで土に触れようとしたところで、ウィルから声がかかる。
「でも、わたくしのせいでこうなったのよ? 反省しているの。どうしてもやりたいわ」
貴族令嬢が土いじりをしないことは知っている。ズボンの案件のあと、その話を聞いたお母様が結局卒倒しかかったことも。
それでもわたくしは、やりたいのだ。庭師の仕事を台なしにしたことも、花の命を無駄にしたことも、やってしまった過去は変えられないけれど、せめて何かをしたい。
「ねえウィル、どうしてもダメ……?」
懇願すると、ウィルの眉がへにゃりと下がる。
「ぐっ……仕方ありませんね。危険なことは私が代わりますので。それにここは彼らの領分ですから、庭師のカールに教えを乞いましょう」
「ええ! ありがとう」
わたくしが謝意を伝えると、ウィルはため息をつきながらも仕方がないという表情で微笑んでくれた。
「では、カールを呼んできますので、お嬢様はここでお待ちください」
「ええ、お願いね」
──ウィルって、とってもいい人よね。
相も変わらずワガママ令嬢に付き合ってくれる従者の背中を横目で見つつ、わたくしは他人事のように感心してしまった。
現在わたくしは十一歳で、ウィルは見た目からすると二十代後半といったところだろうか。よくわからないので完全に勘である。
随分前から我が家にいるようなので、おそらくかなり早い時期から侯爵家で働いていたのだろう。少なくとも、ベラトリクスの物心がつくころにはそばにいた記憶がある。
以前のわたくしはそんな彼に対しても他の使用人と同様に名前で呼ばず、「ねえ」とか「そこの執事」とか言っていたようだから、もう困ったものだ。
『ウィリアム、あの……あなたのこと、ウィルって呼んでもいいかしら。嫌ならやめるわ』
一昨日のことだ。他の使用人たちがウィリアムをそう呼んでいることを知ったわたくしは、少し緊張しながらも提案してみた。
これからおこもり生活を送るにあたって、まずは最も近しい人物であるウィルと信頼関係を築ければと思ってのことだったが、これまでの振る舞いを考えればかなり突飛な提案である。
『はい、もちろんです』
案の定驚いた顔をされたが、それはすぐに笑顔に変わる。それに嫌だとは言われなかった。立場的に断りにくいとわかっていながらのずるい提案だったけれど、それでもまっすぐに受け入れてくれたことはうれしい。
──ここ数日、ウィルとともに過ごして気づいたことがある。
彼はおねだりに弱い。仕事中は一見するとなんでもピシリと断りそうな堅い表情をしているかと思えば、お願いすると意外と融通をきかせてくれていろいろなことに挑戦させてくれるのだ。
このお仕着せの手配も彼だし、その他諸々わたくしのおこもり生活を支えるための本や画材などもすでに注文してくれている。
元のベラトリクスが無理難題のおねだり攻撃をしたことで、耐性がついたに違いない。
そのことに一抹の申し訳なさを感じつつ、わたくしは土を見つめるのをやめて、ウィルが去っていった方向を見た。
ちょうどウィルが、恰幅のいい壮年の男性を引き連れて戻ってきているところだった。
ひどいことに、使用人への関心が薄すぎるベラトリクスの記憶にはまったく残っていない。けれど、あの方がウィルの言う『庭師のカール』さんで間違いないだろう。
「お嬢様。カールをお連れしました。カールさん、先ほどお話ししたとおり、ベラトリクス様がこの花壇の作業を手伝いたいそうなので、ご教授願います」
ウィルとカールさんが近くに来たことで、しゃがみこんでいたわたくしは立ち上がってスカートの裾を軽くはたく。それから、懐疑的な視線をわたくしに向けるカールさんに対して頭を下げた。
「カールさん、よろしくお願いしますわ。この場所……あなた方が丹念にお世話をしてくださったのに、それを台なしにして申し訳ありません」
まずは、心からの謝罪を。
あんなに綺麗な花が咲いていたのだ。花壇だっていつも整然として美しかった。それを一時の癇癪で破壊してしまった。それは庭師の尊厳を踏みにじる行為だ。
「あ……えと、お、お嬢様、頭を上げてください。ワシこそ、お嬢様のお嫌いな花を用意しちまって、申し訳ねえと思っていたんです」
頭を上げたわたくしは、その言葉に目を丸くしてしまった。当のカールさんは本当に申し訳なさそうに眉を下げている。
ベラトリクスは些細な理由で花壇をめちゃくちゃにした。それなのに、どうしてカールさんが謝っているのだろう。呆然としていると、カールさんはポリポリと鼻の頭を掻く。
「……言い訳になっちまうんですが、ここに綺麗な赤い花が咲
く予定だったんです。ほら、お嬢様は赤がよく似合いますから。初めて持ちこんだ品種だったもんで、蕾の色が淡いのも気になっていたのにまずは咲かせてみようと欲が出ちまって。……ワシの目利きも落ちたものだと思って、引退を決意したところで――」
「引退⁉ だめよ、そんなこと」
カールさんの口から飛び出す思いがけない言葉に驚いて、わたくしは遮ってしまう。
「しかし、主人の意に添えないようじゃあ、庭師としてはとても」
「絶対にだめ! あなたの引退は許可しないわ! わたくしが許さないんだから!」
「へ、へえ」
思わず熱くなってしまったところで、カールさんは気圧されたのか肯定ととれる返事をしてくれた。あの桃色の花は結果的にそうなってしまっただけで、本当はわたくしのためのものだったのだ。
前のわたくしのままだったらそれを知る機会は、きっとなかったように思う。
ベラトリクスは顔も名前も知らない庭師の考えや事情など気に留めなかっただろうし、その人が辞職しても何も思わなかっただろう。ワガママで癇癪持ちのベラトリクスを、それでもこうして皆が支えようとしてくれているとは気がつかないままだったはずだ。
わたくしは唇をギュッと噛んだあと、「カールさん」と熊のような庭師の名を呼んだ。
「わたくし、もう一度この花壇を花でいっぱいにしたいの。何色の花だってかまわない。それで、わたくし自身が育ててみたいのだけれど、いいかしら」
カールさんはやはり驚いた顔をして、わたくしと隣にいるウィルを見比べる。
「ウィルから聞いてはおりましたが、本当にお嬢様がやるんですか?」
「ええ、そうよ!」
その問いかけに、わたくしは腕まくりをしながら気合を込めて返事をする。
「……そうですか。ではいくつか、苗をお持ちします。まずは育てやすいヤツを見繕ってきます」
最初は戸惑っていた庭師のカールさんも、豊かな顎ひげを揺らしながら笑みを見せて承諾してくれた。
そのままいそいそと作業場へ向かう彼の後ろ姿を見たわたくしは、うれしくなってウィルのほうを振り返る。
「ウィル! 許可をもらえたわ」
「ええ。よかったですね、お嬢様」
「カールさんが辞めると言ったときにはびっくりしたわ、本当に」
「そうですね、私も驚きました。カールさんは昔から立派な庭園を作ってくださっていたので……お嬢様が引き留めてくださってよかったです」
ウィルに安堵したように微笑まれて、わたくしも安心した気持ちで笑顔を返す。自らの過去の行動が誰かを巻きこんでしまう前に、止めることが出来てよかった。
カールさんが花の苗や道具一式を持って戻ってきてから、わたくしは一心不乱に作業をする。
チラリと目をやれば、隣でウィルが腕まくりをして花の苗を植えていた。黒の執事服はわたくしのお仕着せと同じく土まみれだ。
ここまで付き合ってくれることに申し訳なさすらありながら、素直にありがたいと感じる。ひとりでやるよりもずっと楽しい。
時折「もう少し間隔を開けましょう」やら「まっすぐ揃えるならあと二センチ右です」などなど的確な指示も飛んでくる。ちょっと細かすぎる気もするけれど。
カールさんはウィルに任せたら大丈夫だと判断したのか、苗や道具を揃えてひととおり説明すると自らの作業に戻っていった。有能すぎる執事である。
しばらくはこうしてお庭の手入れをして過ごすのもいいかもしれない。
完成した花壇を前に、わたくしはホクホクとした充足感に包まれる。断罪回避の引きこもり計画に、ひとつ楽しみが増えた。
庭いじりから数日後、家族でのんびりと朝食を囲んでいたときに爆弾は落とされた。
「さあベラ、今日は久しぶりにお父様と一緒にお城に行こうね」
「お城、ですか……?」
突然の申し出に、わたくしは壊れかけのおもちゃのようにギギギと鈍く首を動かす。
「そうだよ。前は毎日のように一緒に行っていただろう? このところ庭をよく散歩しているようだし、体調もよくなったのだから、そろそろいいかと思ってね」
反して、お父様はニコニコ笑顔だ。心からそう言っているのだろう。
そうだわ。そういえばわたくし、以前はほとんど毎日のように城に行っていたんだった……!
城の要職につくお父様が仕事に出かける際にくっついて登城し、婚約者の殿下を捜し回るのが定番コースだった。会えない日もあったけれど、それでもベラトリクスは大好きな婚約者を一目見たくて、押しかけていた。
もちろん王妃教育の一環で登城が必要な日もあったけれど、一番の目的は殿下だったのだ。
「……いえ、殿下もお忙しいでしょうし、しばらくお城に行くのはやめます」
もうそのときとは状況が違う。お城なんて危険な場所に近づくわけにはいかない。
わたくしは血の気の引いた顔で拒否した。
「では、ベラちゃん。お母様と一緒にお茶会に出かけましょう? ドレスは新しいものを作って、ああそうだわ、お祝いに宝石商を呼んでもいいわね」
わたくしの表情が曇ったことを察したお母様がそう誘ってくれる。しかし、わたくしはそれにも首を横に振った。
お茶会も散財もまったくもって興味がない。
お茶会に行けば腫れものに触れるような扱いで、同年代の令嬢たちには避けられるか媚びられるかのどちらかだ。嘘か本当かわからない噂話に心をかき乱されるのも嫌だし、この前のお茶会でのことも噂になっているかもしれない。
それよりは、自分の作った庭を眺めるほうがずっと楽しい。
「……わたくし、お茶会にも行きたくありません。出来たらこれからも、殿下には会わずに家でゆっくり過ごしたいのですが、ダメでしょうか?」
ワガママを言っている自覚はある。
貴族にとって社交はとても大切なものだ。王家との婚約も。
城に行かず、茶会にも出ないとなれば、またそれはそれでベラトリクスに関する噂が背びれも尾ひれもついて出回るだろう。ロットナー侯爵家の評判を落としてしまう。わたくしの振る舞いのせいですでに落ちている可能性には今は触れない。
とにかく以前のわたくしとは違う。バッドエンドを回避したい。切実に。
「ベラがこんなに嫌がるなんて……あの日、よっぽどひどいことを言われたに違いない。まったく、うちのベラに……!」
わたくしの懇願を目の当たりにしたお父様は、沈痛な面持ちでそう憤慨している。
あのお茶会を機に人が変わったようになってしまい、両親はあの日よっぽどのことがあったと思っているようだ。
「あなた、殿下との婚約は取り消せないの? ベラちゃんがかわいそうだわ。バートリッジ公爵令嬢との噂はわたくしの耳にも入っていてよ。これまで従妹だからと口を出しませんでしたが、あんまりです……!」
席を立ったお母様が、わたくしのところに来てギュウと頭を包みこんでくれる。
ベラトリクスはこれまであのふたりの関係性にとても憤慨していた。その気持ちをこうして理解してくれる人がいる。その事実に、自分のことながらわたくしは目頭が熱くなる。
「そうしたいところだが……王家との婚約であるうえに、こちらから言い出したとあって、侯爵家側から断るのは難しいのだ。すまない、ヴェネット」
「まあ……なんてことなの……!」
この世の終わりのような表情で過保護な応酬をする両親の会話を聞きながら思う。
ゲーム世界のベラトリクスは、とても両親に可愛がられていたのだろう。これだけ甘やかされて尊重されていたら、元々のワガママ気質が増長して唯我独尊状態になってしまうのもわかる気がする。
──やっぱり、何もなしに婚約破棄に持ちこむのはなかなかハードルが高そうね。
どうしたらいいかと真剣に話し合っている両親を尻目に、わたくしはそう考察する。
聞きかじった程度の知識だけれど、現在、シュテンメル王国の内政はとても落ち着いている。王家と貴族で派閥が対立していることもなさそうだし、王家もわが侯爵家も、特別に縁を結ぶ必要性はない。
今の会話を聞いていたら、両親に『この家から絶対に王妃を輩出する』という野望があるわけでもなさそうだ。だからこそ選定されたのかもしれない。
身分や家柄が釣り合い、同年代であり、そしてベラトリクス本人が強く望んだから──この婚約に関する条件はこのあたりだろうか。あとで調べておく必要がある。
こちらから王家との婚約を解消することは難しい。となるとやはり、以前の読みどおり向こうから穏便に、平和に、円滑に解消を申し出てくれるのを待たなければならないようだ。
「陛下には折を見て相談してみるが……ベラトリクスは本当にそれでいいのかい?」
そう言って眉尻を下げるお父様は、わたくしが殿下を慕っていたことを知っている。その隣で心配そうにしているお母様も同じだ。
「……はい。わたくし、すっかり自信がなくなってしまいました」
へにゃりと微笑めば、ふたりはハッとした顔で息を呑んだ。
元々、第一王子との間に婚約者らしいこと……たとえば贈りものをもらったり、エスコートをしてもらったりはほとんどなかったし、わたくしが無理やり押しかけてお茶会をしていた程度の関係だ。こちらからの接触を絶ってしまえば、問題はないように思う。
これまで一度も微笑みかけてくれない婚約者。きっと彼にはもう嫌われている。
どうせ最後はそうなる運命なのだ。早めにベラトリクスの呪縛から自由になれたら、それは彼のためにもなるだろう。どんなときも無愛想ながら、対応はしてくれていた彼に対して逆に申し訳なさすらある。
食事のあとにも何やら真剣な面持ちで話し合った両親は、わたくしに外出を無理強いしないことに決めた。婚約についても考え直してくれるらしい。
こうして、わたくしはあの日の事故を境に病床に伏す深窓の令嬢となり、婚約者のアルデバラン殿下をはじめとした貴族の面々にしばらく会わないで済むことになった。
騒然とした朝食のあと、わたくしは部屋に戻って腕組みをしていた。
「乙女ゲームの開始は、ヒロインが学園に入学してからだったわよね」
机の上には、簡単に書き記した今後の展開についてのメモがある。
めくるめく恋愛劇の舞台となる学園には、十三歳の年に入学する。ひとつ年下のヒロインが入学する場面がゲームのスタート。わたくしは彼女より一年早く学園生活に入ることになる。
「断罪は回避したいわ。絶対に」
ゲームのエンディングを書き記した部分を指でとんとんと叩いた。
自分のことだけならまだいいが、きっとその咎はこのロットナー侯爵家全体に及ぶだろう。下手したら、この侯爵家ごと没落するかもしれない。
溺愛が過ぎる両親に、有能すぎる使用人たち。わたくしの振る舞いのせいで、まとめて不幸にしてしまう未来なんてあってはならない。
「フラグは全部無視しておきたいところね。この家の人たちに対してもそうだけど、すでにもうやらかしているから、なんとかしないと」
これまでの傍若無人な振る舞いは、きっと婚約者であるアルデバラン殿下の耳にも入っていると思う。
家でのことは多少オブラートに包まれているにしても、茶会などで目にすれば一目瞭然だ。取り巻きを付き従え、我がもの顔で闊歩していた。非常に頭が痛いが、すでに悪い印象を与えているはずだ。
──でも、まだ軌道修正は出来るはず。シナリオに未知の部分もあるもの。
頭を抱えていたわたくしだが、なんとかそう思い直す。
実際にわたくしが前世でゲームをしたときは、ヒロインが入学してからの一年間、その期間しか描かれていない。そのため、悪役令嬢のことは性格が悪いけど婚約者を取られまいと必死に頑張る女の子くらいの印象しかもっていなかった。
それでもエンドロールではしっかり婚約破棄されて断罪されていた。つまり、周囲の人にとってはこれまで積み重なった不満が爆発するのが、あの学園でのイベントなのだろう。
逆にいえば、ここでこれまでのヘイト貯金を清算して人生をやり直せば、なんとかなるのではないだろうか。
今は十一歳の秋。入学までの二年間と、学園生活の二年……特に前半の一年間が、人生を左右する重要な期間だ。
これから三年は大人しくして、入学イベントのあとはヒロインに近づかないようにする。これだ。
「──お嬢様、少しよろしいでしょうか」
よし、と決意を新たにしたところで、部屋の扉がノックされた。聞き慣れた侍女の声がする。
「え、ええ! 大丈夫よ」
驚いて肩を揺らしてしまったが、わたくしは慌てて返事をした。考察のために書き起こしたメモは、誰の目にも触れないようにきっちりと引き出しにしまっておく。
「お休みのところ失礼いたします。ご注文の品が届きましたので、お持ちしました」
柔らかな笑みを浮かべる侍女のエリノアが、ワゴンを押しながら入ってきてペコリと頭を下げる。
彼女のその手元を見て、わたくしは思わず顔をしかめてしまう。
「……痕が残ってしまったわね。せっかくの綺麗な手なのに」
彼女の白い肌には、痛々しい桃色の創傷がいくつも刻まれている。
エリノアはあの転倒のとき、わたくしを庇って割れた花瓶の破片の上に飛びこんでくれた。お陰でわたくしは頭を打っただけで済んだが、直接破片の上にのってしまった彼女はそうはいかなかった。顔や手など、服から露出していた部分に傷を負ってしまったのだ。
今は髪で隠れているが、額にも傷が残ってしまったとは侍医から聞いていた。わたくしが無傷である代償は、すべて彼女に負わせてしまっている。
「いいえ、お嬢様。私は大丈夫です。お嬢様が無傷で本当にうれしいです」
痛々しい傷痕をじっと見つめていると、エリノアは柔らかく微笑んだ。
思えばエリノアは、以前のわたくしがとんでもない振る舞いをしてもいつも笑顔を向けてくれた。ドレスが気に入らないと何度も何度も衣装合わせをするときも付き合ってくれていたし、髪型や化粧が不服だと当たり散らした日もあった。紅茶が熱い、ぬるい、冷たい、菓子がまずい、嫌い、下げろ……そんな態度は日常茶飯事で、わたくしは名前さえ覚えていなかったというのに。
彼女はわたくしが意識を失っている間に、『お嬢様を守れなかった』ことを理由にお父様に辞意を告げていたらしく、目を覚ましたあとに包帯を巻いた手で挨拶に来た彼女を、わたくしは慌てて引き留めた。
『悪いのはわたくしだから、どうか辞めるなんて言わないで!』
『お、お嬢様……⁉ どうかお顔を上げてください』
ベッドの上で土下座するわたくしに、おろおろするエリノア。
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