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1巻
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『辞めないって言ってくれるまで謝るわ! お父様にもわたくしが謝ります!』
『そんな、お嬢様』
『……えっと、どういう状況でしょうか……?』
そのとき部屋に入ってきたウィルはとても困惑していた。
──結局わたくしに気圧されたエリノアは、辞めずに今もこうして侍女を続けてくれている。
「エリノア……。わたくし、絶対にいいお薬を見つけてくるわ」
「ありがとうございます。でも、お嬢様がそうおっしゃってくださるだけで、エリノアはうれしゅうございます」
彼女の手に触れると、少し冷たかった。毎日懸命に働いてくれている彼女に、わたくしも何か報いることが出来ればと、ずっと考えている。
「いいえ! わたくしはワガママだから、このワガママは絶対に譲れないの。だから、待っててね?」
彼女の手を優しく包みこむと、初めは驚いたエリノアも、また柔らかく微笑んでくれた。
◆ 閑話 王子の事情 ◆
同じころ、第一王子のアルデバランは、城で日課の政務に勤しんでいた。世間的にはまだ子どもの年齢ではあるが、ゆくゆくは一国を担う責務がある。そう思うと、政務の手伝いや勉強も気を抜けない。
「殿下、ロットナー侯爵が登城されたようです」
集中していたアルデバランだったが、いつの間にか入室していた側仕えのオスヴィンにそう声をかけられ、書類を書いていた手を止めた。ノックの音にも気がつかないほど集中していたらしい。
侯爵が来城したということは、その娘であるベラトリクスも来たのだろう。容易に想像がついたアルデバランは、思わずため息を漏らした。
「……そうか。わかった」
つまりは、これから彼女の突撃に応対しなければならない。
「ですが、その」
アルデバランがそう思って筆を置いたところ、オスヴィンはぎょろぎょろとした茶色の目を忙しなく動かしながら言葉を濁した。よく見ると以前より少し目元が窪んでいて顔色も悪いようだ。
アルデバランはそんな側仕えの様子を不思議に思いつつ、彼の動揺の理由を聞く。
「オスヴィン、どうした?」
「どうやら、令嬢は一緒ではないようです。侯爵の話によれば、病のために家で静養しているようで……今後もしばらくは来ないとのことでした。これで少し落ち着きますね」
「……そうか」
どこかうれしそうに告げるオスヴィンに、アルデバランは短く返事をした。
オスヴィンがそうした態度を取るのは、アルデバランが彼女の訪問に辟易していたことを知っていたからだろう。
たしかにベラトリクスは昔から父であるロットナー侯爵とともに頻繁に登城しては、アルデバランの執務室に来て一緒にお茶をとせがむ。そのため勉強や執務の手を止める必要があり、それらをうっとうしく思ったことがあるのも事実。
だが。
『ベラトリクス嬢も悪いところばかりではないのよ。王妃教育は一生懸命やっているし、あれで日ごろの態度がよくなれば、とてもいいと思うのよ』
以前、そう言って穏やかに微笑んだのは母である王妃だ。
母は辺境の伯爵家出身の、ほんわかとした女性だ。彼女もかつては王子の婚約者だったから、何か相通ずるものがあるのかもしれない。
『私たちのときは、それはもうまわりが大変でねえ~。今は落ち着いていて、とてもいいわ』
どこか遠くを見ながら懐かしそうに語る母に、アルデバランは『そうですか』と相槌を打つに留めた。
今から二十数年前、母が父の婚約者となったころのシュテンメル王国は大いに荒れていた。
当時の第一王子と第二王子──現国王である父と叔父のバートリッジ公爵──を、ふたりの意思とは関係なく担ぎ上げ、争わせる勢力があったとアルデバランも聞き及んでいる。
黒幕の目的は、第一王子派と第二王子派の双方を煽ったうえで争わせることにあった。
どちらが勝利しようとも、その責任を負わせて王子たちを廃嫡にし、妹姫の王配に息子をあてて国の実質的な権力を奪う算段だったらしい。大胆な国盗りである。
それを企てたのが当時の宰相で、その思惑が露見した結果、貴族の大規模な粛正が行われた。
当然、第一王子の婚約者も選定し直しとなり、そこで白羽の矢が立ったのが、当初から中立を貫いていた辺境伯の令嬢――アルデバランの母だった。
『ねえアラン。あなたは生まれながらに王太子となることが約束されているわ。とても重いけれど、あなたならばきっと出来るわ。でも、気負いすぎないでね』
辺境でのびのびと暮らしていた王妃はとてもおおらかで優しい。
そしてその母の雰囲気と、従妹のアナベルはよく似ていた。多少お転婆だが、彼女は自由だ。そんなアナベルの自由さを眺めることがアルデバランは好きだった。
もちろんそこにあるのは親愛の気持ちだけだが……婚約者であるベラトリクスにはそうは思われていないとは人づてに聞いていた。
それでも、アルデバランなりに彼女を尊重しているつもりだ。政略結婚ではあるだろうが、両親のように穏やかな関係を築けたらいい。
突撃があれば少しの時間でも対応したし、彼女の誕生日や茶会の前には贈りものをした。
髪飾りに、ブローチに、ペンダント。アルデバランなりによいものを選んでいるつもりだが、それを彼女が身につけたことは一度もない。だから彼女が来るたびに、贈りものを気に入ってくれなかったことに落胆し、つい素っ気ない態度を取ってしまうのだ。
それなのにベラトリクスは嫉妬だけはする。女心などまるでわからないと生真面目なアルデバランはすっかり匙を投げてしまっていた。
──まったく、女心とはどの勉強よりも難しいものだ。
これまでを思い返しながら、アルデバランはそう心の中でつぶやく。
そして、大切なことに気がついた。最初にお見舞いの花を手配してから、彼女に何もしていなかった。
「……病が続くのであれば、何か見舞いの品を手配したほうがいいだろうな。彼女が気に入ってくれるかどうかは別として」
「では、いつもどおり私がお届けしますね」
「ああ、頼む。この前のように花も添えたい。手配出来るか?」
「ええ、もちろんです」
先日贈った花には、珍しくお礼の手紙が来て驚いた。これまでにアルデバランが用意した贈りものにベラトリクスから反応があることは稀だったのだ。
形が残るものよりは、花や菓子といった消えもののほうが彼女にとって都合がよかったのかもしれない。
『ベラトリクス様が好いているのは王子という肩書きなのかもしれませんね』
いつだったか、オスヴィンに言われた言葉はアルデバランの心を突いた。そうなのかもしれない、と思い当たる節があり、そうなのだと確信するまで時間はかからなかった。
「ああ、殿下。そういえば、とても大きなルビーの仕入れがあったようですよ。知り合いがそう言っていました」
オスヴィンがぽんと手を叩く。
ルビーの色は赤。赤といえば、あの苛烈な婚約者がたたえる色である。それならば身につけてもらえるかもしれない、とまた期待してしまうのは悪い癖だ。
「……そうか、ではそれを、彼女に合うように首飾りに仕立ててくれ」
「はいっ、わかりました。早速行ってきます!」
「ああ、任せた」
嬉々として立ち去るオスヴィンの後ろ姿を一瞥したあと、すぐに書類に目を落としたアルデバランは知らない。
そのときオスヴィンの口角がクッと怪しく吊り上がったことを。
この首飾りはベラトリクスの手元に届くことはない。それに、これまでの贈りものの数々が彼女のもとに届いていないとは、幼いころから彼の近くにいた側仕えを信用しきっているアルデバランの知るところではなかった。
第三章 悪役令嬢は下町に行く
「ウィル、わたくし外に行ってみたいわ」
「外……ですか?」
おこもり生活が始まってひと月あまり。わたくしは、ふと家の外にも出たくなった。そのことをウィルに相談すると、案の定渋い顔をされる。
現在は庭で花の手入れ中で、この前植えた苗は小さな蕾をつけている。
わたくしが毎日のように庭を見にくるので、庭師のカールさんたちはわたくしのことを以前のように警戒しなくなった。今は、今度はこのあたり一帯をどんな庭園にするかという話に交ぜてもらっている。本職の人にとっては邪魔かもしれないが、とても楽しくて大満足だ。
昨日は庭の端にある大きな樹に憧れのブランコを設置してほしいとお願いしてみたら、幼子を見守るかのようにほわりとした温かな笑顔を皆に向けられた。
その日のうちに作ってくれて、すでにわたくしのおうち時間のお気に入りスポットとなった。
「わたくし、世間知らずだと思うの。これまで随分勝手なことばかりしていたけれど、自分の目で見たいものがたくさんあるのよ」
これは本音だ。ここが乙女ゲームの世界で、わたくしは悪役令嬢。だとしても、それがこの世界のすべてではない。
人々が暮らし、過ごしているこの世界を、わたくしはもっと知りたいのだ。
「……しかし、外部にはお嬢様は病床に伏していることになっております。それに、町中は安心とはいえません」
ウィルの忠告はもっともだ。
ベラトリクスは現在長期の療養中で、王妃教育すらすべて止めている状況にある。そんな中で、元気な姿を見られてしまえばこの計画はおしまいになってしまう。
「大丈夫よ、外といっても、貴族が集まる場所には行かないもの。城下には下町や孤児院があるのでしょう? そこに行きたいわ。ウィルについてきてほしいのだけど……」
わたくしの目的はそこにある。宝石やドレスを仕立ててもらいたいわけではない。
「うーん……」
まっすぐに彼の目を見て説得を試みると、ウィルは考えこむような仕草を見せる。
お忍びで出かけるならば連れは最低限にしなければならない。だけど、女性だけで行くのも不安。かといって護衛騎士を連れ歩けば、目立ってしまうだろう。
「ウィル、とっても強いのでしょう? ウィルがいれば安心だわ!」
最後の一押しとばかりに、わたくしは手を叩いた。
──ウィルの武勇伝は、エリノアから聞いているのよね。
なんとこの執事は、体術にも長けているのだという。この邸に雇われたての新人騎士が、美形なうえにいつも涼しい顔をしているというしょうもない理由でウィルに突っかかり、逆にコテンパンにされたらしい。それ以来その新人騎士はウィルをキラキラした目で見つめて忠犬のように慕っているのだという。
昨晩わたくしの髪を梳かしながらその話をしてくれたエリノアは、どこか誇らしげだった。
「……旦那さまの了解が得られたら、いいですよ」
ようやくウィルから答えが返ってきて、わたくしは口の端をニンマリと吊り上げた。
「お父様なら、ウィルと一緒であればいいと言っていたわ。再確認しましょう」
お父様にはすでに話を済ませてある。根回しは完璧だ。
どうやら、以前の様子とは一転して散財もせずに家に引きこもる娘のことをそれはそれは心配していたようだ。外出したがったことがよほどうれしかったらしく、うっすらと涙も浮かべていた。
「旦那さま……」
「さあ、行くわよ!」
ウィルが遠い目をしたのを尻目に、わたくしはウィルを連れてお父様のもとへ向かう。
自分で言うのもなんだけど、わたくしを溺愛する父はふたつ返事で了承した。
お父様から正式に許可をもらった翌日。
わたくしは早速、王都の下町に足を踏み入れていた。近くには市場があるらしく、通りは行き交う人々でとても賑わっている。
中央通りにある高級店に馬車で乗りつけたことしかなかったベラトリクスの記憶にはない、新鮮な景色が目の前に広がっている。
「わあぁ、ここが下町なのね、ウィル!」
「お嬢様……いえ、ベラ。少し落ち着いてください」
振り返って感嘆の声を漏らすわたくしを、ウィルは小声でそう咎めた。
クリーム色の簡素なワンピースに、長い髪はふたつの三つ編みにしてまとめている。それから眼鏡をかけて大きめの帽子を被ったわたくしは、担当したエリノアに言わせれば『商家のお嬢様』スタイルだそうだ。もちろん変装のつもりである。
これまでのベラトリクスは化粧もバシバシに決めて、派手なドレスにアクセサリーで飾り立てていた。だから、昔のわたくしを知っている人がこの姿を見ても気がつかないだろう。
「だって、ウィル。楽しいんだもの……!」
「そんなにはしゃぐと余計に目立ちます。お……ベラ、私から絶対に離れないでくださいね。フラフラと出店に吸い寄せられないこと。それから」
「わかってるわ。大丈夫」
このお忍びを成功させるにあたって、事前にウィルと打ち合わせしてきた。
彼がわたくしを『ベラ』と呼ぶのもその一環である。なんでも、兄妹という設定なのだとか。
そのため、ウィルも執事服ではなく、白いシャツにトラウザーズとジャケットという普段とは違った服装だ。
わたくしは周囲をぐるりと眺め、胸が高鳴るのを感じた。このざわざわとした雑踏がとても楽しい。それに、どこからともなくいい香りもしてきた。
「何かしら……美味しそうな香りがするわ。それに、なんだかとっても賑わっているお店がある」
嗅覚を駆使したわたくしが見つけたのは、小さな食堂だった。入口の上には看板がかかっていて、扉の前には列ができている。
カランというドアベルの音とともに客が出入りするたび、美味しい匂いがする。それに店から出てくる人たちの満足そうな顔。絶対に、あの店にはとても美味しいご飯があるに違いない。
「ねえウィル、最初はあそこに行きましょう!」
そう確信したわたくしは、下町に来てまず初めに腹ごしらえをすることに決めた。
腹が減っては戦は出来ぬ、と昔からいうものね。
ドキドキしながら列に並び、ようやく順番が来た。食堂に入ると、ますます美味しい香りがぶわりと強くなる。
「いらっしゃいませ。おふたりですか?」
同じくらいの歳だろうか。可愛らしい店員がやってきて、柔らかい笑顔を見せる。
「はい。とても美味しそうな香りがしたので」
わたくしが答えるよりも早く、ウィルがすっと半歩前に出る。店員の少女はぐるりと店内を見渡したあと、どこか不安げにわたくしたちを見つめた。
「……あの、カウンター席しかないんですが、いいですか?」
まるで断られることが前提であるかのように、恐る恐る聞いてくる。ざっと見渡すと店内のテーブル席はすべて満席のようで、カウンター席だけが奇跡的に空いていた。
──何か、わたくしたちのことに勘づいているのかしら。
申し訳なさそうな店員の少女を見ながら、わたくしはそんなことを思う。聡い子だ。
完璧な変装だと思ったが、もしかしたら少し綺麗すぎたかもしれない。
「そうですね……」
ウィルもどう答えるか迷っているのか、チラリとわたくしに目配せをした。
どうするか、答えはもう決まっている。わたくしはお腹が空いているんですもの。
「かまわないわ。どこでも大丈夫ですから、案内してください」
「では、こちらにどうぞ」
笑顔に戻った店員さんから、ウィルとともに食堂のカウンター席に案内される。
大衆食堂のようだが、掃除は行き届いていて清潔感があった。それに何より、美味しい匂いとまわりのおじさんたちの食べる勢いがすごい。ますます期待が高まってしまう。
「……お嬢様、よろしいのですか? このような場所で」
「……いいのよ、というかこの店、絶対にとっても美味しいと思うの」
店員さんが席から少し離れた隙にひそひそと小声で話すウィルに合わせて、わたくしも小声になる。
たしかに以前のわたくしからしたら、こんな場所で食事をするなんて考えられなかっただろう。個室に通してくれとごねていたに違いない。
「ご注文はどうされますか?」
声を潜めるわたくしたちのもとに、店員さんが戻ってくる。
「そうですね……おすすめはありますか?」
ウィルがそう尋ねると、その店員さんは元々ふんわりとしていた表情をさらに緩めた。
「今日はメンチカツ定食がおすすめですよ。あ、メンチカツというのは、ひき肉と野菜を交ぜたものを油でカラッと揚げているものです。定番はかけうどん、最近メニューに入ったものは、焼きうどんです。えーっと、うどんを炒めて……」
メニューを紹介するその言葉に、わたくしはピシリと固まった。
「メンチカツに、かけうどん……? それに、焼きうどんですって⁉」
なんだそれは。この西洋ファンタジー風乙女ゲームの世界に、そんな食べものが存在するなんて。いやでも、日本の乙女ゲームだからそういうもの……なのだろうか。
「は、はい……。あの、どうされますか?」
あまりに驚いて声がわなわなと震えてしまったため、店員さんが困惑している。意図せず邂逅してしまった懐かしい響きに動揺してしまうのは仕方がない。
「店員さん、申し訳ありませんが、すべてお願い出来ますか」
わたくしがあわあわと逡巡している間に、見かねたウィルがさらりと注文する。
「全部、ですか?」
「ええ。そのメンチカツと、かけうどんと焼きうどんとやらを。すべて一人前で結構ですので」
──ウィル、神だわ、すごいわ……!
すべての料理が気になってやまないわたくしの意思を汲んでくれたのだろう。明らかにふたり分とはいえない量の料理を頼んだウィルが神様に見える。
「では、少々お待ちくださいませ」
テキパキと注文をとった店員さんは、厨房のほうへ消えていった。
「ウィル、ありがとう……!」
彼女が去ったあとに心からの謝意を告げると、彼は柔らかな笑顔を浮かべてくれた。
「お嬢様があまりにも……ふふっ、とても真剣に悩んでいらしたので。どれも食べたいのだろうと思いまして」
「すごいわ、そのとおりよ。どれも絶対に美味しいわ。ウィルも楽しみにしててね」
「はい。わかりました」
得意げに料理を自慢するわたくしを見て、ウィルはまた目を細めた。
それから十数分が経過しただろうか。元々お腹が空いていたことに加えて、周囲から聞こえてくる美味を讃える声にわたくしの空腹度は限界を迎えようとしていた。
今か今かと待っていたそのとき、ついに運命の瞬間が訪れた。
「お待たせしました! こちらメンチカツ定食と焼きうどん、それからかけうどんです」
明るい店員さんの手によって、注文した料理が手際よくカウンターに並べられる。
「ふわ……これ、本当に本物だ……!」
そのあまりにも神々しい姿と立ち上る香りに、わたくしは思わず感嘆の声を漏らしてしまった。目の前に鎮座するのは、わたくしの前世の記憶にあるものと遜色がない。涙が出そうになる。
「これがメンチカツ……? 中身はなんなのでしょう。焼きうどんというのも初めて見ました」
隣のウィルは不思議そうに料理を観察している。彼は見たことがない料理らしい。この世界の一般的なものではないのかもと思いつつ、わたくしの手は早速メンチカツに伸びていた。
なんといっても、揚げたての黄金色の衣が食欲をそそる。じわじわと油が鳴る音を聞きながら、その香りに抗いきれずにサクリとその衣を割った。
──わ、肉汁がこんなに……!
しっかりと火が通ったお肉の間には黄緑色の野菜が見える。艶やかな透明の肉汁が溢れるのを見てゴクリと喉を鳴らしたあと、わたくしは我慢出来ずに口の中に放りこんだ。
「あ、ちょっとお嬢! じゃなくてベラ! まだ食べてはダメです」
「――むぐ? どうしたの、ウィル。ほら、とっても美味しいわよ。メンチカツは熱いうちに食べないと!」
咀嚼するたびに、お肉の香りと野菜の甘みが合わさって幸せの味がする。メンチカツを頬張ったあとに、添えられたキャベツの千切りを口に運ぶと、爽やかな酸味が口の中を清涼にしてくれる。揚げ物とザワークラウトという組み合わせだったようだ。素敵すぎる。
「こっちの焼きうどんも。……はわ……醤油のいい香り……」
次に気になっていた焼きうどんのお皿に顔を近づけると、醤油が焼けた美味しい香りがする。
「ベラ……」
呆れ顔のウィルは、額に手を当てて深いため息をついている。貴族令嬢としてあるまじきお行儀の悪さだったかもしれないと思いつつも、わたくしの手は止まらない。メンチカツをもうひとかけら食べたあと、焼きうどんへ本格的に取りかかる。
「ほら、この焼きうどんもとっても美味しそうよ。ウィルも食べて食べて。メンチカツも半分こしましょう。取り分けるわね」
「あ、ちょっと、ベラ。それは私がやりますから!」
わたくしとウィルが賑やかに取り分け始めたころには、どこかハラハラした顔でわたくしたちを見守っていた店員さんも安心したようで、この場を離れていった。
焼きうどんを口に入れると、もっちりとした麺に醤油が絡み、そしてベーコンの旨味とキャベツの歯応えで、もうとにかくほっぺが落ちそうだ。
醤油もうどんも存在する世界。やはりこの世界はどこか歪だ。お茶会のときに緑茶がたまに出ることもあり、それが当たり前だと思っていたけれど、それもどこか不思議だと頭の片隅で考える。
「驚きました……。とても美味しい、ですね」
最初はわたくしの様子に呆れていたウィルも、初めてであろう料理を食べて、目を見開いている。
「ええ、とっても。我が家の料理は十分贅沢だけれど、この金額でこの料理を提供しているなんて、素晴らしいわよね」
「そうですね。これは……たしかに」
「特に、うどんがあるなんて驚いたわ」
「んぐっ、ゲホッ、そ、そうですね」
「ウィル、大丈夫⁉」
『そんな、お嬢様』
『……えっと、どういう状況でしょうか……?』
そのとき部屋に入ってきたウィルはとても困惑していた。
──結局わたくしに気圧されたエリノアは、辞めずに今もこうして侍女を続けてくれている。
「エリノア……。わたくし、絶対にいいお薬を見つけてくるわ」
「ありがとうございます。でも、お嬢様がそうおっしゃってくださるだけで、エリノアはうれしゅうございます」
彼女の手に触れると、少し冷たかった。毎日懸命に働いてくれている彼女に、わたくしも何か報いることが出来ればと、ずっと考えている。
「いいえ! わたくしはワガママだから、このワガママは絶対に譲れないの。だから、待っててね?」
彼女の手を優しく包みこむと、初めは驚いたエリノアも、また柔らかく微笑んでくれた。
◆ 閑話 王子の事情 ◆
同じころ、第一王子のアルデバランは、城で日課の政務に勤しんでいた。世間的にはまだ子どもの年齢ではあるが、ゆくゆくは一国を担う責務がある。そう思うと、政務の手伝いや勉強も気を抜けない。
「殿下、ロットナー侯爵が登城されたようです」
集中していたアルデバランだったが、いつの間にか入室していた側仕えのオスヴィンにそう声をかけられ、書類を書いていた手を止めた。ノックの音にも気がつかないほど集中していたらしい。
侯爵が来城したということは、その娘であるベラトリクスも来たのだろう。容易に想像がついたアルデバランは、思わずため息を漏らした。
「……そうか。わかった」
つまりは、これから彼女の突撃に応対しなければならない。
「ですが、その」
アルデバランがそう思って筆を置いたところ、オスヴィンはぎょろぎょろとした茶色の目を忙しなく動かしながら言葉を濁した。よく見ると以前より少し目元が窪んでいて顔色も悪いようだ。
アルデバランはそんな側仕えの様子を不思議に思いつつ、彼の動揺の理由を聞く。
「オスヴィン、どうした?」
「どうやら、令嬢は一緒ではないようです。侯爵の話によれば、病のために家で静養しているようで……今後もしばらくは来ないとのことでした。これで少し落ち着きますね」
「……そうか」
どこかうれしそうに告げるオスヴィンに、アルデバランは短く返事をした。
オスヴィンがそうした態度を取るのは、アルデバランが彼女の訪問に辟易していたことを知っていたからだろう。
たしかにベラトリクスは昔から父であるロットナー侯爵とともに頻繁に登城しては、アルデバランの執務室に来て一緒にお茶をとせがむ。そのため勉強や執務の手を止める必要があり、それらをうっとうしく思ったことがあるのも事実。
だが。
『ベラトリクス嬢も悪いところばかりではないのよ。王妃教育は一生懸命やっているし、あれで日ごろの態度がよくなれば、とてもいいと思うのよ』
以前、そう言って穏やかに微笑んだのは母である王妃だ。
母は辺境の伯爵家出身の、ほんわかとした女性だ。彼女もかつては王子の婚約者だったから、何か相通ずるものがあるのかもしれない。
『私たちのときは、それはもうまわりが大変でねえ~。今は落ち着いていて、とてもいいわ』
どこか遠くを見ながら懐かしそうに語る母に、アルデバランは『そうですか』と相槌を打つに留めた。
今から二十数年前、母が父の婚約者となったころのシュテンメル王国は大いに荒れていた。
当時の第一王子と第二王子──現国王である父と叔父のバートリッジ公爵──を、ふたりの意思とは関係なく担ぎ上げ、争わせる勢力があったとアルデバランも聞き及んでいる。
黒幕の目的は、第一王子派と第二王子派の双方を煽ったうえで争わせることにあった。
どちらが勝利しようとも、その責任を負わせて王子たちを廃嫡にし、妹姫の王配に息子をあてて国の実質的な権力を奪う算段だったらしい。大胆な国盗りである。
それを企てたのが当時の宰相で、その思惑が露見した結果、貴族の大規模な粛正が行われた。
当然、第一王子の婚約者も選定し直しとなり、そこで白羽の矢が立ったのが、当初から中立を貫いていた辺境伯の令嬢――アルデバランの母だった。
『ねえアラン。あなたは生まれながらに王太子となることが約束されているわ。とても重いけれど、あなたならばきっと出来るわ。でも、気負いすぎないでね』
辺境でのびのびと暮らしていた王妃はとてもおおらかで優しい。
そしてその母の雰囲気と、従妹のアナベルはよく似ていた。多少お転婆だが、彼女は自由だ。そんなアナベルの自由さを眺めることがアルデバランは好きだった。
もちろんそこにあるのは親愛の気持ちだけだが……婚約者であるベラトリクスにはそうは思われていないとは人づてに聞いていた。
それでも、アルデバランなりに彼女を尊重しているつもりだ。政略結婚ではあるだろうが、両親のように穏やかな関係を築けたらいい。
突撃があれば少しの時間でも対応したし、彼女の誕生日や茶会の前には贈りものをした。
髪飾りに、ブローチに、ペンダント。アルデバランなりによいものを選んでいるつもりだが、それを彼女が身につけたことは一度もない。だから彼女が来るたびに、贈りものを気に入ってくれなかったことに落胆し、つい素っ気ない態度を取ってしまうのだ。
それなのにベラトリクスは嫉妬だけはする。女心などまるでわからないと生真面目なアルデバランはすっかり匙を投げてしまっていた。
──まったく、女心とはどの勉強よりも難しいものだ。
これまでを思い返しながら、アルデバランはそう心の中でつぶやく。
そして、大切なことに気がついた。最初にお見舞いの花を手配してから、彼女に何もしていなかった。
「……病が続くのであれば、何か見舞いの品を手配したほうがいいだろうな。彼女が気に入ってくれるかどうかは別として」
「では、いつもどおり私がお届けしますね」
「ああ、頼む。この前のように花も添えたい。手配出来るか?」
「ええ、もちろんです」
先日贈った花には、珍しくお礼の手紙が来て驚いた。これまでにアルデバランが用意した贈りものにベラトリクスから反応があることは稀だったのだ。
形が残るものよりは、花や菓子といった消えもののほうが彼女にとって都合がよかったのかもしれない。
『ベラトリクス様が好いているのは王子という肩書きなのかもしれませんね』
いつだったか、オスヴィンに言われた言葉はアルデバランの心を突いた。そうなのかもしれない、と思い当たる節があり、そうなのだと確信するまで時間はかからなかった。
「ああ、殿下。そういえば、とても大きなルビーの仕入れがあったようですよ。知り合いがそう言っていました」
オスヴィンがぽんと手を叩く。
ルビーの色は赤。赤といえば、あの苛烈な婚約者がたたえる色である。それならば身につけてもらえるかもしれない、とまた期待してしまうのは悪い癖だ。
「……そうか、ではそれを、彼女に合うように首飾りに仕立ててくれ」
「はいっ、わかりました。早速行ってきます!」
「ああ、任せた」
嬉々として立ち去るオスヴィンの後ろ姿を一瞥したあと、すぐに書類に目を落としたアルデバランは知らない。
そのときオスヴィンの口角がクッと怪しく吊り上がったことを。
この首飾りはベラトリクスの手元に届くことはない。それに、これまでの贈りものの数々が彼女のもとに届いていないとは、幼いころから彼の近くにいた側仕えを信用しきっているアルデバランの知るところではなかった。
第三章 悪役令嬢は下町に行く
「ウィル、わたくし外に行ってみたいわ」
「外……ですか?」
おこもり生活が始まってひと月あまり。わたくしは、ふと家の外にも出たくなった。そのことをウィルに相談すると、案の定渋い顔をされる。
現在は庭で花の手入れ中で、この前植えた苗は小さな蕾をつけている。
わたくしが毎日のように庭を見にくるので、庭師のカールさんたちはわたくしのことを以前のように警戒しなくなった。今は、今度はこのあたり一帯をどんな庭園にするかという話に交ぜてもらっている。本職の人にとっては邪魔かもしれないが、とても楽しくて大満足だ。
昨日は庭の端にある大きな樹に憧れのブランコを設置してほしいとお願いしてみたら、幼子を見守るかのようにほわりとした温かな笑顔を皆に向けられた。
その日のうちに作ってくれて、すでにわたくしのおうち時間のお気に入りスポットとなった。
「わたくし、世間知らずだと思うの。これまで随分勝手なことばかりしていたけれど、自分の目で見たいものがたくさんあるのよ」
これは本音だ。ここが乙女ゲームの世界で、わたくしは悪役令嬢。だとしても、それがこの世界のすべてではない。
人々が暮らし、過ごしているこの世界を、わたくしはもっと知りたいのだ。
「……しかし、外部にはお嬢様は病床に伏していることになっております。それに、町中は安心とはいえません」
ウィルの忠告はもっともだ。
ベラトリクスは現在長期の療養中で、王妃教育すらすべて止めている状況にある。そんな中で、元気な姿を見られてしまえばこの計画はおしまいになってしまう。
「大丈夫よ、外といっても、貴族が集まる場所には行かないもの。城下には下町や孤児院があるのでしょう? そこに行きたいわ。ウィルについてきてほしいのだけど……」
わたくしの目的はそこにある。宝石やドレスを仕立ててもらいたいわけではない。
「うーん……」
まっすぐに彼の目を見て説得を試みると、ウィルは考えこむような仕草を見せる。
お忍びで出かけるならば連れは最低限にしなければならない。だけど、女性だけで行くのも不安。かといって護衛騎士を連れ歩けば、目立ってしまうだろう。
「ウィル、とっても強いのでしょう? ウィルがいれば安心だわ!」
最後の一押しとばかりに、わたくしは手を叩いた。
──ウィルの武勇伝は、エリノアから聞いているのよね。
なんとこの執事は、体術にも長けているのだという。この邸に雇われたての新人騎士が、美形なうえにいつも涼しい顔をしているというしょうもない理由でウィルに突っかかり、逆にコテンパンにされたらしい。それ以来その新人騎士はウィルをキラキラした目で見つめて忠犬のように慕っているのだという。
昨晩わたくしの髪を梳かしながらその話をしてくれたエリノアは、どこか誇らしげだった。
「……旦那さまの了解が得られたら、いいですよ」
ようやくウィルから答えが返ってきて、わたくしは口の端をニンマリと吊り上げた。
「お父様なら、ウィルと一緒であればいいと言っていたわ。再確認しましょう」
お父様にはすでに話を済ませてある。根回しは完璧だ。
どうやら、以前の様子とは一転して散財もせずに家に引きこもる娘のことをそれはそれは心配していたようだ。外出したがったことがよほどうれしかったらしく、うっすらと涙も浮かべていた。
「旦那さま……」
「さあ、行くわよ!」
ウィルが遠い目をしたのを尻目に、わたくしはウィルを連れてお父様のもとへ向かう。
自分で言うのもなんだけど、わたくしを溺愛する父はふたつ返事で了承した。
お父様から正式に許可をもらった翌日。
わたくしは早速、王都の下町に足を踏み入れていた。近くには市場があるらしく、通りは行き交う人々でとても賑わっている。
中央通りにある高級店に馬車で乗りつけたことしかなかったベラトリクスの記憶にはない、新鮮な景色が目の前に広がっている。
「わあぁ、ここが下町なのね、ウィル!」
「お嬢様……いえ、ベラ。少し落ち着いてください」
振り返って感嘆の声を漏らすわたくしを、ウィルは小声でそう咎めた。
クリーム色の簡素なワンピースに、長い髪はふたつの三つ編みにしてまとめている。それから眼鏡をかけて大きめの帽子を被ったわたくしは、担当したエリノアに言わせれば『商家のお嬢様』スタイルだそうだ。もちろん変装のつもりである。
これまでのベラトリクスは化粧もバシバシに決めて、派手なドレスにアクセサリーで飾り立てていた。だから、昔のわたくしを知っている人がこの姿を見ても気がつかないだろう。
「だって、ウィル。楽しいんだもの……!」
「そんなにはしゃぐと余計に目立ちます。お……ベラ、私から絶対に離れないでくださいね。フラフラと出店に吸い寄せられないこと。それから」
「わかってるわ。大丈夫」
このお忍びを成功させるにあたって、事前にウィルと打ち合わせしてきた。
彼がわたくしを『ベラ』と呼ぶのもその一環である。なんでも、兄妹という設定なのだとか。
そのため、ウィルも執事服ではなく、白いシャツにトラウザーズとジャケットという普段とは違った服装だ。
わたくしは周囲をぐるりと眺め、胸が高鳴るのを感じた。このざわざわとした雑踏がとても楽しい。それに、どこからともなくいい香りもしてきた。
「何かしら……美味しそうな香りがするわ。それに、なんだかとっても賑わっているお店がある」
嗅覚を駆使したわたくしが見つけたのは、小さな食堂だった。入口の上には看板がかかっていて、扉の前には列ができている。
カランというドアベルの音とともに客が出入りするたび、美味しい匂いがする。それに店から出てくる人たちの満足そうな顔。絶対に、あの店にはとても美味しいご飯があるに違いない。
「ねえウィル、最初はあそこに行きましょう!」
そう確信したわたくしは、下町に来てまず初めに腹ごしらえをすることに決めた。
腹が減っては戦は出来ぬ、と昔からいうものね。
ドキドキしながら列に並び、ようやく順番が来た。食堂に入ると、ますます美味しい香りがぶわりと強くなる。
「いらっしゃいませ。おふたりですか?」
同じくらいの歳だろうか。可愛らしい店員がやってきて、柔らかい笑顔を見せる。
「はい。とても美味しそうな香りがしたので」
わたくしが答えるよりも早く、ウィルがすっと半歩前に出る。店員の少女はぐるりと店内を見渡したあと、どこか不安げにわたくしたちを見つめた。
「……あの、カウンター席しかないんですが、いいですか?」
まるで断られることが前提であるかのように、恐る恐る聞いてくる。ざっと見渡すと店内のテーブル席はすべて満席のようで、カウンター席だけが奇跡的に空いていた。
──何か、わたくしたちのことに勘づいているのかしら。
申し訳なさそうな店員の少女を見ながら、わたくしはそんなことを思う。聡い子だ。
完璧な変装だと思ったが、もしかしたら少し綺麗すぎたかもしれない。
「そうですね……」
ウィルもどう答えるか迷っているのか、チラリとわたくしに目配せをした。
どうするか、答えはもう決まっている。わたくしはお腹が空いているんですもの。
「かまわないわ。どこでも大丈夫ですから、案内してください」
「では、こちらにどうぞ」
笑顔に戻った店員さんから、ウィルとともに食堂のカウンター席に案内される。
大衆食堂のようだが、掃除は行き届いていて清潔感があった。それに何より、美味しい匂いとまわりのおじさんたちの食べる勢いがすごい。ますます期待が高まってしまう。
「……お嬢様、よろしいのですか? このような場所で」
「……いいのよ、というかこの店、絶対にとっても美味しいと思うの」
店員さんが席から少し離れた隙にひそひそと小声で話すウィルに合わせて、わたくしも小声になる。
たしかに以前のわたくしからしたら、こんな場所で食事をするなんて考えられなかっただろう。個室に通してくれとごねていたに違いない。
「ご注文はどうされますか?」
声を潜めるわたくしたちのもとに、店員さんが戻ってくる。
「そうですね……おすすめはありますか?」
ウィルがそう尋ねると、その店員さんは元々ふんわりとしていた表情をさらに緩めた。
「今日はメンチカツ定食がおすすめですよ。あ、メンチカツというのは、ひき肉と野菜を交ぜたものを油でカラッと揚げているものです。定番はかけうどん、最近メニューに入ったものは、焼きうどんです。えーっと、うどんを炒めて……」
メニューを紹介するその言葉に、わたくしはピシリと固まった。
「メンチカツに、かけうどん……? それに、焼きうどんですって⁉」
なんだそれは。この西洋ファンタジー風乙女ゲームの世界に、そんな食べものが存在するなんて。いやでも、日本の乙女ゲームだからそういうもの……なのだろうか。
「は、はい……。あの、どうされますか?」
あまりに驚いて声がわなわなと震えてしまったため、店員さんが困惑している。意図せず邂逅してしまった懐かしい響きに動揺してしまうのは仕方がない。
「店員さん、申し訳ありませんが、すべてお願い出来ますか」
わたくしがあわあわと逡巡している間に、見かねたウィルがさらりと注文する。
「全部、ですか?」
「ええ。そのメンチカツと、かけうどんと焼きうどんとやらを。すべて一人前で結構ですので」
──ウィル、神だわ、すごいわ……!
すべての料理が気になってやまないわたくしの意思を汲んでくれたのだろう。明らかにふたり分とはいえない量の料理を頼んだウィルが神様に見える。
「では、少々お待ちくださいませ」
テキパキと注文をとった店員さんは、厨房のほうへ消えていった。
「ウィル、ありがとう……!」
彼女が去ったあとに心からの謝意を告げると、彼は柔らかな笑顔を浮かべてくれた。
「お嬢様があまりにも……ふふっ、とても真剣に悩んでいらしたので。どれも食べたいのだろうと思いまして」
「すごいわ、そのとおりよ。どれも絶対に美味しいわ。ウィルも楽しみにしててね」
「はい。わかりました」
得意げに料理を自慢するわたくしを見て、ウィルはまた目を細めた。
それから十数分が経過しただろうか。元々お腹が空いていたことに加えて、周囲から聞こえてくる美味を讃える声にわたくしの空腹度は限界を迎えようとしていた。
今か今かと待っていたそのとき、ついに運命の瞬間が訪れた。
「お待たせしました! こちらメンチカツ定食と焼きうどん、それからかけうどんです」
明るい店員さんの手によって、注文した料理が手際よくカウンターに並べられる。
「ふわ……これ、本当に本物だ……!」
そのあまりにも神々しい姿と立ち上る香りに、わたくしは思わず感嘆の声を漏らしてしまった。目の前に鎮座するのは、わたくしの前世の記憶にあるものと遜色がない。涙が出そうになる。
「これがメンチカツ……? 中身はなんなのでしょう。焼きうどんというのも初めて見ました」
隣のウィルは不思議そうに料理を観察している。彼は見たことがない料理らしい。この世界の一般的なものではないのかもと思いつつ、わたくしの手は早速メンチカツに伸びていた。
なんといっても、揚げたての黄金色の衣が食欲をそそる。じわじわと油が鳴る音を聞きながら、その香りに抗いきれずにサクリとその衣を割った。
──わ、肉汁がこんなに……!
しっかりと火が通ったお肉の間には黄緑色の野菜が見える。艶やかな透明の肉汁が溢れるのを見てゴクリと喉を鳴らしたあと、わたくしは我慢出来ずに口の中に放りこんだ。
「あ、ちょっとお嬢! じゃなくてベラ! まだ食べてはダメです」
「――むぐ? どうしたの、ウィル。ほら、とっても美味しいわよ。メンチカツは熱いうちに食べないと!」
咀嚼するたびに、お肉の香りと野菜の甘みが合わさって幸せの味がする。メンチカツを頬張ったあとに、添えられたキャベツの千切りを口に運ぶと、爽やかな酸味が口の中を清涼にしてくれる。揚げ物とザワークラウトという組み合わせだったようだ。素敵すぎる。
「こっちの焼きうどんも。……はわ……醤油のいい香り……」
次に気になっていた焼きうどんのお皿に顔を近づけると、醤油が焼けた美味しい香りがする。
「ベラ……」
呆れ顔のウィルは、額に手を当てて深いため息をついている。貴族令嬢としてあるまじきお行儀の悪さだったかもしれないと思いつつも、わたくしの手は止まらない。メンチカツをもうひとかけら食べたあと、焼きうどんへ本格的に取りかかる。
「ほら、この焼きうどんもとっても美味しそうよ。ウィルも食べて食べて。メンチカツも半分こしましょう。取り分けるわね」
「あ、ちょっと、ベラ。それは私がやりますから!」
わたくしとウィルが賑やかに取り分け始めたころには、どこかハラハラした顔でわたくしたちを見守っていた店員さんも安心したようで、この場を離れていった。
焼きうどんを口に入れると、もっちりとした麺に醤油が絡み、そしてベーコンの旨味とキャベツの歯応えで、もうとにかくほっぺが落ちそうだ。
醤油もうどんも存在する世界。やはりこの世界はどこか歪だ。お茶会のときに緑茶がたまに出ることもあり、それが当たり前だと思っていたけれど、それもどこか不思議だと頭の片隅で考える。
「驚きました……。とても美味しい、ですね」
最初はわたくしの様子に呆れていたウィルも、初めてであろう料理を食べて、目を見開いている。
「ええ、とっても。我が家の料理は十分贅沢だけれど、この金額でこの料理を提供しているなんて、素晴らしいわよね」
「そうですね。これは……たしかに」
「特に、うどんがあるなんて驚いたわ」
「んぐっ、ゲホッ、そ、そうですね」
「ウィル、大丈夫⁉」
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