19 / 20
18
しおりを挟む***
それから数日。
馬車の旅はゆっくりと北西へ進んだ。
朝霧に包まれた平原を抜け、昼には緩やかな丘を越え、夜は宿場町の小さな宿で休む。
車輪のきしむ音と、時おり聞こえる鳥の声。
道の両脇には、季節の花が風に揺れている。
ユリシスは寡黙で、旅の間も地図を見たり、騎士たちと進行の確認をしていた。
けれど、その沈黙が不思議と居心地悪くなかった。
アメリアにとって、静かな旅路はむしろ穏やかで、心を落ち着かせてくれる時間だった。
「そうだわ。ユリシス殿下、リュストア湖はもうご覧になりましたか?」
「……いや、まだだ」
アメリアの問いに、ユリシスは首を横に振った。
ユリシスが先にリュストア領に発ったのはふた月ほど前のこと。だからすでに領地を見て回っていると思ったのだけれど。
その気持ちが顔に出ていたのか、アメリアが首を傾げるとユリシスはどこか言いづらそうに言葉を紡ぐ。
「……君が、見たいと行っていたから。その時に共に行こうと」
「まあ!」
「地図で位置は確認しているから問題はない」
「まあまあまあまあ!」
「……そんな顔で見ないでくれ」
「あら、わたくしどんな顔をしているのでしょう」
アメリアと共にリュストア湖に行くことが彼の中で当然のように語られることが嬉しくなったのは確かだ。けれど、どんな顔をしているのか見当もつかない。
その時だった。
ぐらり、と馬車が大きく傾き、馬たちが嘶く。
「きゃあ!」
「っ――!」
体が浮いたかと思った瞬間、アメリアは強い腕に抱き止められていた。
硬く鍛え抜かれた胸板に押し寄せられ、思わず息を呑む。ユリシスの腕がアメリアの肩と腰をしっかりと支えていた。
金の瞳が間近にあり、その鋭さの奥にかすかな焦りがのぞいている。
「……アメリア嬢、怪我はないか」
「え、ええ。大丈夫ですわ」
ユリシスの腕からそっと解放されると、アメリアは揺れる馬車の中でパタパタと身なりを整えた。
御者が慌ただしく声を上げる。
「殿下! 車輪がぬかるみに取られてしまいました!」
見ると、片輪が深く泥に沈み込んでしまっている。
御者や騎士たちが泥に足を取られながら必死に立て直そうとしているが、容易には抜けそうにない。
「……またか」
ユリシスは低く呟き、金の瞳に影を落とした。
その表情は苛立ちではなく、思い詰めるような苦渋に満ちている。まるで、これも自らの呪いの証だと信じているかのように。
アメリアはそんな横顔を見上げ、ふわりと笑みを浮かべた。
「まあまあ、殿下。時間もかかりそうですし、ちょっと外に出てみましょう?」
「外に?」
「ええ。ここはどのあたりかしら。リュストアにはもう入っていますか?」
「そうだな、端のほうだ」
「あら。それは一層良いですわね」
怪訝そうに眉を寄せるユリシスをよそに、アメリアは軽やかに裾を摘み上げ、馬車から降りてしまう。
外に出ると、そこにはのどかな風景が広がっていた。
緩やかな丘がいくつも連なり草は青々として、所々に野花が咲いている。遠くには小さな農村の煙が細く立ちのぼり、鳥の声が空へと溶けていく。
(痩せた土地と言われていたけれど、そうでもないように見えるわ)
想像よりもずっとのどかで優しい風景が広がっている。
頬をかすめた風は少し冷たく、王都の柔らかさとは違う鋭さを含んでいた。
「まあ……清々しい空気ですわね。心が洗われるようですわ」
確かに通り雨でも降ったのか、地面はまだしっとりと湿っている。だが、すでに雨雲は去り、澄みきった青空が広がっていた。
「アメリア嬢。あまり一人で出歩かれては――」
「まあ殿下! 見てくださいませ、虹ですわ!」
追いついてきたユリシスの袖を咄嗟に掴み、アメリアは弾むように声を上げた。
指差す先、丘の向こうに淡い七色の光が弧を描いている。
銀の髪を揺らしながら、彼女は子どものように目を輝かせていた。
喜びに頬を染め、虹を仰ぐその横顔は、あらゆる冷たい噂を吹き飛ばすほど眩しい。
虹を見上げていたアメリアは、ふわりと微笑んで振り返った。
「幸運でしたわ。馬車から降りなければ気づかなかったでしょう」
その言葉に、ユリシスは信じがたいものを見るように彼女を凝視する。
アメリアは優雅に首を傾げ、さらりと続けた。
「ぬかるみに車輪を取られるなんて、雨上がりには良くあることですわ」
「……しかし、アメリア嬢に大変な思いを」
ああ、やっぱり。
この人はアメリアに降りかかることを全て自分の責任だと思っている。かつてそうやって押し付けられた不幸を、受け入れてしまったように。
(呪いを掛けられているのはユリシス殿下の方だわ)
無性に腹が立ってきたアメリアは腰に手を当て、自分よりも背丈の大きなその人をキッと睨みあげた。
「ユリシス殿下、不良債権を娶ることになったご自覚はおありですか?」
「不良債権……?」
「ええそうです。婚約破棄されて、さらに実家は没落寸前の令嬢を押し付けられていますのよ。大変なのは殿下の方ですわ。わたくしや侯爵家にとっては幸運な申し出でございます」
あのままであれば、没落貴族となり、もしかしたらとても大変な目に遭っていたかもしれない。
この王命で救われたのはアメリアの方。アメリアにとっては、幸運でしかない。
「……不良債権、か」
ユリシスの口元がわずかに揺らいだ。けれど笑ったわけではない。深く沈む金の瞳が、まっすぐアメリアを捉えている。
「アメリア嬢」
「はい、殿下」
「……私はもう王族ではない。だから、ユリシスと……そう呼んでくれないか」
その声音は、意外なほどに静かで柔らかかった。
アメリアは瞬きをひとつしてから、にっこりと微笑む。
「はい。では、ユリシス様と」
名前を口にした瞬間、金の瞳がはっきりと揺れた。
次の瞬間、アメリアの手首がぐっと引かれる。ユリシスの美しい瞳が近い。
「アメリア、と呼んでもいいだろうか」
「もちろんですわ」
銀の髪が風に揺れ、紅の瞳がまっすぐに彼を見返す。
その瞬間、ユリシスの表情が初めて強く崩れた。
「君を不幸にしない。そう誓う」
深く低い声。
まるで己自身に誓うように吐き出された言葉は、アメリアの胸をわずかに震わせた。
まだ未来は不確かだ。呪いの噂も、辺境の過酷さも消えはしない。
けれどその眼差しの熱に、アメリアは確かに気付いてしまった。
「はい。一緒にがんばりましょう」
そう答えると、ユリシスは安堵したように柔らかく微笑んだのだった。
329
あなたにおすすめの小説
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
「君の魔力はゴミだ」と婚約破棄された聖女ですが、拾われた先の辺境で氷の公爵様に溺愛されています。今さら国が滅びそうと言われても知りません
eringi
恋愛
「エミリア、貴様との婚約を破棄する! 魔力ゼロの能無し聖女など、我が国には不要だ!」
聖女として国を支えてきたエミリアは、ある日突然、第一王子から婚約破棄を言い渡される。
彼が選んだのは、派手な魔法を使うだけの男爵令嬢だった。
身に覚えのない濡れ衣を着せられ、着の身着のまま極寒の辺境へ追放されてしまったエミリア。
雪の中で行き倒れかけた彼女を救ったのは、「氷の死神」と恐れられる辺境伯・アレクセイ公爵だった。
「……美しい。君が咲かせた花は、こんなにも温かいのか」
恐ろしい噂とは裏腹に、彼は不器用ながらもエミリアを全力で甘やかしてくる。
しかも、エミリアの魔力は「ゴミ」どころか、大地を癒やし作物を実らせる、国にとって必要不可欠な『豊穣の聖女』の力だったのだ。
美味しいご飯に、温かい暖炉、そして優しい公爵様。
辺境でのスローライフを満喫するエミリアの一方で、彼女を追放した王都では作物が枯れ果て、疫病が蔓延し、国家存亡の危機に陥っていた。
「エミリア、頼むから戻ってきてくれ!」
「いいえ。私はこちらの領地で幸せになりますので、さようなら」
これは、虐げられていた聖女が本当の愛を知り、幸せを掴むまでの物語。
婚約破棄の慰謝料として『王国の半分』を要求したら、本当にくれたので、今日から私があなたの女王様です
唯崎りいち
恋愛
婚約破棄の慰謝料に
「王国の半分」を要求したら、
ゴミみたいな土地を押し付けられた。
ならば――関所を作りまくって
王子を経済的に詰ませることにした。
支配目当ての女王による、
愛なき(?)完全勝利の記録。
お前のような地味な女は不要だと婚約破棄されたので、持て余していた聖女の力で隣国のクールな皇子様を救ったら、ベタ惚れされました
夏見ナイ
恋愛
伯爵令嬢リリアーナは、強大すぎる聖女の力を隠し「地味で無能」と虐げられてきた。婚約者の第二王子からも疎まれ、ついに夜会で「お前のような地味な女は不要だ!」と衆人の前で婚約破棄を突きつけられる。
全てを失い、あてもなく国を出た彼女が森で出会ったのは、邪悪な呪いに蝕まれ死にかけていた一人の美しい男性。彼こそが隣国エルミート帝国が誇る「氷の皇子」アシュレイだった。
持て余していた聖女の力で彼を救ったリリアーナは、「お前の力がいる」と帝国へ迎えられる。クールで無愛想なはずの皇子様が、なぜか私にだけは不器用な優しさを見せてきて、次第にその愛は甘く重い執着へと変わっていき……?
これは、不要とされた令嬢が、最高の愛を見つけて世界で一番幸せになる物語。
【短編】花婿殿に姻族でサプライズしようと隠れていたら「愛することはない」って聞いたんだが。可愛い妹はあげません!
月野槐樹
ファンタジー
妹の結婚式前にサプライズをしようと姻族みんなで隠れていたら、
花婿殿が、「君を愛することはない!」と宣言してしまった。
姻族全員大騒ぎとなった
無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……
タマ マコト
ファンタジー
王宮の祝賀会で、無魔力と蔑まれてきた伯爵令嬢エリーナは、王太子アレクシオンから突然「婚約破棄」を宣告される。侍女上がりの聖女セレスが“新たな妃”として選ばれ、貴族たちの嘲笑がエリーナを包む。絶望に胸が沈んだ瞬間、彼女の奥底で眠っていた“竜との契約”が目を覚まし、空から白銀竜アークヴァンが降臨。彼はエリーナの涙に激怒し、王宮を半壊させるほどの力で彼女を守る。王国は震え、エリーナは自分が竜の真の主であるという運命に巻き込まれていく。
【完結】私を捨てた国のその後を見守ってみた。
satomi
恋愛
侯爵令嬢のレナは公然の場でというか、卒業パーティーで王太子殿下イズライールに婚約破棄をされた挙句、王太子殿下は男爵令嬢のラーラと婚約を宣言。
殿下は陛下や王妃様がいないときを狙ったんでしょうね。
レナの父はアルロジラ王国の宰相です。実家にはレナの兄が4名いますがみんなそろいもそろって優秀。
長男は領地経営、次男は貿易商、3男は情報屋、4男は…オカマバー経営。
レナは殿下に愛想をつかして、アルロジラ王国の行く末を見守ろうと決意するのです。
次男監修により、国交の断絶しているエミューダ帝国にて。
婚約破棄をされ、父に追放まで言われた私は、むしろ喜んで出て行きます! ~家を出る時に一緒に来てくれた執事の溺愛が始まりました~
ゆうき
恋愛
男爵家の次女として生まれたシエルは、姉と妹に比べて平凡だからという理由で、父親や姉妹からバカにされ、虐げられる生活を送っていた。
そんな生活に嫌気がさしたシエルは、とある計画を考えつく。それは、婚約者に社交界で婚約を破棄してもらい、その責任を取って家を出て、自由を手に入れるというものだった。
シエルの専属の執事であるラルフや、幼い頃から実の兄のように親しくしてくれていた婚約者の協力の元、シエルは無事に婚約を破棄され、父親に見捨てられて家を出ることになった。
ラルフも一緒に来てくれることとなり、これで念願の自由を手に入れたシエル。しかし、シエルにはどこにも行くあてはなかった。
それをラルフに伝えると、隣の国にあるラルフの故郷に行こうと提案される。
それを承諾したシエルは、これからの自由で幸せな日々を手に入れられると胸を躍らせていたが、その幸せは家族によって邪魔をされてしまう。
なんと、家族はシエルとラルフを広大な湖に捨て、自らの手を汚さずに二人を亡き者にしようとしていた――
☆誤字脱字が多いですが、見つけ次第直しますのでご了承ください☆
☆全文字はだいたい14万文字になっています☆
☆完結まで予約済みなので、エタることはありません!☆
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる