婚約破棄されたら、辺境伯とお試し結婚することになりました

ミズメ

文字の大きさ
20 / 54

19 契約夫婦

しおりを挟む
その音にフィオレッタは、ふわふわの寝具に包まれながらも、反射的に上体を少し起こした。
灯りは落とされ、天蓋の隙間から月明かりが差し込んでいる。

(ヘルマさんかしら……?)

扉が静かに開く。
そこに立っていたのは――ヴェルフリートだった。

湯上がりらしく、銀の髪がしっとりと濡れている。
ゆるく着崩したシャツの胸元からは、温かな湯気がほのかに漂い、手には眼鏡とタオル。
その姿を見た瞬間、フィオレッタの頭は一気に真っ白になった。

「えっ?」
「なぜお前がここに」

同時に発せられた声が重なり、部屋の中に妙な間が流れる。
互いにぽかんと見つめ合い、状況を察しようと懸命に思考を巡らせる。

「ええと、このお部屋は……?」
「俺の寝室だが」

きっぱりとした一言に、フィオレッタの思考が停止する。ヴェルフリートの部屋。
そう言われてみれば、この部屋の調度品ややけに大きいベッドに納得がいく。
一拍の後、はっとしてベッドから飛び起きようとした。

「し、失礼いたしました! いますぐ別の部屋に――」
「いや、もういい。どうせヘルマかクラウスだろう」

そう言ってヴェルフリートは短く息を吐いた。
眉間を押さえ、明らかにクラウスの名を呪っている顔だ。

フィオレッタのせいだとは言わない。それがなぜだかうれしい。
そういえば、ヘルマはやけに上機嫌だった。今日からフィオがこの家で暮らすことになったことについては、クラウスから聞いたと言っていた気がする。

「すまない、フィオ。明日は別の部屋を用意させる」
「え、ええと……はい……」
「……」
「……」

 ため息をつきながら、ヴェルフリートが言葉を落とす。
 まだ頬を染めたまま頷くと、妙な沈黙が落ちた。

 お互いにどこへ視線を向ければいいのかわからない。
 静まり返った室内で、時計の針の音だけがやけに大きく響いている。

 ヴェルフリートは短く咳払いをして、視線を逸らす。

「……とりあえず、俺はソファで休むからベッドは好きに使え」
「そ、そんな! 領主様にそんなことさせられません」

 フィオレッタは慌てて首を振る。あの長椅子とヴェルフリートの体格を考えると、どう考えても身体が飛び出してしまう。それではとてもじゃないが眠れないはずだ。

 ヴェルフリートがその上で横になる姿を想像しただけで、申し訳なさでいっぱいになる。

「私がソファで休みます。旅のあいだはもっと狭いところで寝ていましたから、慣れています」

 馬車でも眠れたし、あのソファーくらいなら丸まって眠れば問題ない。そう思っての発言だったのだが、ヴェルフリートは眉をひそめた。

「君の方が疲れているだろう。初日から客人にソファーで眠らせるなどありえない」
「ですが……! あっ、この絨毯はふかふかですし、私は床でも大丈夫です」
「却下だ。もっとありえない」

 即答だった。
 ヴェルフリートの低い声に、フィオレッタはびくりと肩を震わせる。

(こういう場合、どうしたらいいのかしら……?)

 やはりフィオレッタがソファーで眠るのが最適解だと思うのだが、ヴェルフリートは許してくれそうにない。そして彼をその狭い場所で眠らせてしまうのも申し訳なさすぎる。

 考えを巡らせたフィオレッタは、自分が今いるベッドをあらためて見渡した。とても大きい。大人三人くらいは余裕で眠れそうだ。

「では……二人ともベッドで眠りましょう。私は端の方にいますので、ヴェルフリート様はゆっくりお休みください。きっとぶつかりません」

 フィオレッタは精一杯落ち着いた声でそう言い、寝台の端を指さした。
 これは最適解なのではないだろうか。我ながら良い考えだ。
 だが、ヴェルフリートはわずかに目を細める。

「……君、まさか本気でそう言っているのか?」
「え? はい。大丈夫です、私、寝相はいい方だと思っています」
「問題はそこではない」

 短く息を吐くその仕草に、わずかな呆れが混じっていた。
 だが、フィオレッタの真面目な表情を見て、ふと眉間を押さえる。

「ではやはり、私は床に」
「だめだ。……わかった、そうしよう」

 観念したように言うと、ヴェルフリートは部屋の明かりを落とし、寝台の反対側へと回った。
 その動作が妙に静かで、フィオレッタの心臓がどくどくと高鳴る。

(自分から提案したのに、なんだか妙に緊張してしまうわ)

 よく考えたら、誰かと同じ寝台で眠るなんて、記憶にない。夜中に起きて寂しくなった時、母のところに行ったけれど煩わしそうに追い返された記憶が一番古い。
 あの頃は妹が生まれて、フィオレッタの扱いが空気のようになっていった。

 一気にしゅんとした気持ちになりながら、フィオレッタは枕元のシーツをそっと整える。
 寝台の上には十分すぎるほどの広さがあり、互いに背を向けても余るほどだ。

「では、暗くするぞ」
「はい」

 ヴェルフリートが明かりを落とすと、部屋は月明かりだけがぼんやりと満ちた。
 寝台の反対側で布がかすかに擦れる音がする。本当に、フィオレッタの後ろにはヴェルフリートがいるらしい。

「おやすみなさい、ヴェルフリート様」
「ああ、おやすみ」

 短い言葉を交わしたあと、静寂が落ちる。
 緊張して眠れない――そう思っていたのに、柔らかな寝具に包まれた瞬間、疲れが一気に押し寄せた。

(ああ……ふかふか……もう、だめ……)

 まぶたが重くなり、ほんの数息のうちに意識が遠のいていく。隣の気配を意識する間もなく、フィオレッタの穏やかな寝息が部屋に広がった。



(もう眠ったのか)

 ヴェルフリートはフィオレッタの寝息を聞きながら、しばらく動けずにいた。
 やがてゆっくりと息を吐き、小さく呟く。

「……案外、肝が据わっているな」

 突然ヴェルフリートの前に現れた、フィオという女性。気難しいティナが不思議なほど懐いたために契約結婚を持ちかけることになった。
 聞けばエルグランド領には来たばかりで、突然連れてこられた領主邸の空気にも慣れていないはずだ。
 それなのに、怯えるどころかあのオルドフにまっすぐに言葉を返し、ティナのために人目もはばからず行動したと聞いた。

 報告を受けた後、オルドフには彼女を尊重するようにと告げたが、笑顔の下の不服そうな瞳の色は隠せていなかったように思う。

(奇妙な女だ……。だが)

 ヴェルフリートは思考を中断し、目を細めた。
 寝息を立てるフィオレッタの横顔には、警戒も不安もなく、ただ穏やかさだけがあった。
 その姿を見ていると、なぜか胸の奥のこわばりが少しずつ溶けていく気がする。

(ティナがあれほど懐いたのも、わからなくはないな)

 だがそれが何なのか、まだわからない。
 ただ一つ確かなのは――この穏やかな呼吸の主を見ていると、妙に心が落ち着くということだけだった。

「……無防備なことだ」

 苦笑混じりに呟くと、ヴェルフリートは視線をそらし、寝台の反対側に体を沈めた。背中の方から静かな寝息がまたひとつ響く。
 それを子守唄のように感じながら、ヴェルフリートもようやく瞼を閉じたのだった。
しおりを挟む
感想 29

あなたにおすすめの小説

乙女ゲームの悪役令嬢の兄の婚約者に転生しましたが傷物になったので退場を希望します!

ユウ
恋愛
平凡な伯爵令嬢のリネットは優しい婚約者と妹と穏やかで幸福な日々を送っていた。 相手は公爵家の嫡男であり第一王子殿下の側近で覚えもめでたく社交界の憧れの漆黒の騎士と呼ばれる貴族令息だった。 結婚式前夜、婚約者の妹に会いに学園に向かったが、そこで事件が起きる。 現在学園で騒動を起こしている第二王子とその友人達に勘違いから暴行を受け階段から落ちてしまう… その時に前世の記憶を取り戻すのだった… 「悪役令嬢の兄の婚約者って…」 なんとも微妙なポジション。 しかも結婚前夜で傷物になる失態を犯してしまったリネットは婚約解消を望むのだが、悪役令嬢の義妹が王子に婚約破棄を突きつける事件に発展してしまう。

無自覚人たらしマシュマロ令嬢、王宮で崇拝される ――見た目はぽっちゃり、中身は只者じゃない !

恋せよ恋
ファンタジー
 富豪にして美食家、オラニエ侯爵家の長女ステファニー。  もっちり体型から「マシュマロ令嬢」と陰口を叩かれる彼女だが、  本人は今日もご機嫌に美味しいものを食べている。  ――ただし、この令嬢、人のオーラが色で見える。  その力をひけらかすこともなく、ただ「気になるから」と忠告した結果、  不正商会が摘発され、運気が上がり、気づけば周囲には信奉者が増えていく。  十五歳で王妃に乞われ、王宮へ『なんでも顧問』として迎えられたステファニー。  美食を愛し、人を疑わず、誰にでも礼を尽くすその姿勢は、  いつの間にか貴族たちの心を掴み、王子たちまで惹きつけていく。  これは、  見た目はぽっちゃり、されど中身は只者ではないマシュマロ令嬢が、  無自覚のまま王宮を掌握していく、もっちり系・人たらし王宮譚。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 エール📣いいね❤️励みになります! 🔶表紙はAI生成画像です🤖

【完結】転生したらラスボスの毒継母でした!

白雨 音
恋愛
妹シャルリーヌに裕福な辺境伯から結婚の打診があったと知り、アマンディーヌはシャルリーヌと入れ替わろうと画策する。 辺境伯からは「息子の為の白い結婚、いずれ解消する」と宣言されるが、アマンディーヌにとっても都合が良かった。「辺境伯の財で派手に遊び暮らせるなんて最高!」義理の息子など放置して遊び歩く気満々だったが、義理の息子に会った瞬間、卒倒した。 夢の中、前世で読んだ小説を思い出し、義理の息子は将来世界を破滅させようとするラスボスで、自分はその一因を作った毒継母だと知った。破滅もだが、何より自分の死の回避の為に、義理の息子を真っ当な人間に育てようと誓ったアマンディーヌの奮闘☆  異世界転生、家族愛、恋愛☆ 短めの長編(全二十一話です) 《完結しました》 お読み下さり、お気に入り、エール、いいね、ありがとうございます☆ 

前世の記憶を取り戻した元クズ令嬢は毎日が楽しくてたまりません

Karamimi
恋愛
公爵令嬢のソフィーナは、非常に我が儘で傲慢で、どしうようもないクズ令嬢だった。そんなソフィーナだったが、事故の影響で前世の記憶をとり戻す。 前世では体が弱く、やりたい事も何もできずに短い生涯を終えた彼女は、過去の自分の行いを恥、真面目に生きるとともに前世でできなかったと事を目いっぱい楽しもうと、新たな人生を歩み始めた。 外を出て美味しい空気を吸う、綺麗な花々を見る、些細な事でも幸せを感じるソフィーナは、険悪だった兄との関係もあっという間に改善させた。 もちろん、本人にはそんな自覚はない。ただ、今までの行いを詫びただけだ。そう、なぜか彼女には、人を魅了させる力を持っていたのだ。 そんな中、この国の王太子でもあるファラオ殿下の15歳のお誕生日パーティに参加する事になったソフィーナは… どうしようもないクズだった令嬢が、前世の記憶を取り戻し、次々と周りを虜にしながら本当の幸せを掴むまでのお話しです。 カクヨムでも同時連載してます。 よろしくお願いします。

なりゆきで妻になった割に大事にされている……と思ったら溺愛されてた

たぬきち25番
恋愛
男爵家の三女イリスに転生した七海は、貴族の夜会で相手を見つけることができずに女官になった。 女官として認められ、夜会を仕切る部署に配属された。 そして今回、既婚者しか入れない夜会の責任者を任せられた。 夜会当日、伯爵家のリカルドがどうしても公爵に会う必要があるので夜会会場に入れてほしいと懇願された。 だが、会場に入るためには結婚をしている必要があり……? ※本当に申し訳ないです、感想の返信できないかもしれません…… ※他サイト様にも掲載始めました!

公爵令息様を治療したらいつの間にか溺愛されていました

Karamimi
恋愛
マーケッヒ王国は魔法大国。そんなマーケッヒ王国の伯爵令嬢セリーナは、14歳という若さで、治癒師として働いている。それもこれも莫大な借金を返済し、幼い弟妹に十分な教育を受けさせるためだ。 そんなセリーナの元を訪ねて来たのはなんと、貴族界でも3本の指に入る程の大貴族、ファーレソン公爵だ。話を聞けば、15歳になる息子、ルークがずっと難病に苦しんでおり、どんなに優秀な治癒師に診てもらっても、一向に良くならないらしい。 それどころか、どんどん悪化していくとの事。そんな中、セリーナの評判を聞きつけ、藁をもすがる思いでセリーナの元にやって来たとの事。 必死に頼み込む公爵を見て、出来る事はやってみよう、そう思ったセリーナは、早速公爵家で治療を始めるのだが… 正義感が強く努力家のセリーナと、病気のせいで心が歪んでしまった公爵令息ルークの恋のお話です。

【完結】女嫌いの公爵様に嫁いだら前妻の幼子と家族になりました

香坂 凛音
恋愛
ここはステイプルドン王国。 エッジ男爵家は領民に寄り添う堅実で温かな一族であり、家族仲も良好でした。長女ジャネットは、貴族学園を優秀な成績で卒業し、妹や弟の面倒も見る、評判のよい令嬢です。 一方、アンドレアス・キーリー公爵は、深紅の髪と瞳を持つ美貌の騎士団長。 火属性の魔法を自在に操り、かつて四万の敵をひとりで蹴散らした伝説の英雄です。 しかし、女性に心を閉ざしており、一度は結婚したものの離婚した過去を持ちます。 そんな彼が、翌年に控える隣国マルケイヒー帝国の皇帝夫妻の公式訪問に備え、「形式だけでいいから再婚せよ」と王に命じられました。 選ばれたのは、令嬢ジャネット。ジャネットは初夜に冷たい言葉を突きつけられます。 「君を妻として愛するつもりはない」 「跡継ぎなら、すでにいる。……だから子供も必要ない」 これは、そんなお飾りの妻として迎えられたジャネットが、前妻の子を真心から愛し、公爵とも次第に心を通わせていく、波乱と愛の物語です。 前妻による陰湿な嫌がらせ、職人養成学校の設立、魔導圧縮バッグの開発など、ジャネットの有能さが光る場面も見どころ。 さらに、伝説の子竜の登場や、聖女を利用した愚王の陰謀など、ファンタジー要素も盛りだくさん。前向きな有能令嬢の恋の物語です。最後には心あたたまるハッピーエンドが待っています。 ※こちらの作品は、カクヨム・小説家になろうでは「青空一夏」名義で投稿しております。 アルファポリスでは作風を分けるため、別アカウントを使用しています。 本作は「ほのぼの中心+きつすぎないざまぁ」で構成されています。 スカッとする場面だけでなく、読み終わったあとに幸福感が残る物語です。 ちょっぴり痛快、でも優しい読後感を大切にしています。 ※カクヨム恋愛ランキング11位(6/24時点) 全54話、完結保証つき。 毎日4話更新:朝7:00/昼12:00/夕17:00/夜20:00→3回更新に変えました。 どうぞ、最後までお付き合いくださいませ。

愛のない結婚をした継母に転生したようなので、天使のような息子を溺愛します

美杉日和。(旧美杉。)
恋愛
目が覚めると私は昔読んでいた本の中の登場人物、公爵家の後妻となった元王女ビオラに転生していた。 人嫌いの公爵は、王家によって組まれた前妻もビオラのことも毛嫌いしており、何をするのも全て別。二人の結婚には愛情の欠片もなく、ビオラは使用人たちにすら相手にされぬ生活を送っていた。 それでもめげずにこの家にしがみついていたのは、ビオラが公爵のことが本当に好きだったから。しかしその想いは報われることなどなく彼女は消え、私がこの体に入ってしまったらしい。 嫌われ者のビオラに転生し、この先どうしようかと考えあぐねていると、この物語の主人公であるルカが声をかけてきた。物語の中で悲惨な幼少期を過ごし、闇落ち予定のルカは純粋なまなざしで自分を見ている。天使のような可愛らしさと優しさに、気づけば彼を救って本物の家族になりたいと考える様に。 二人一緒ならばもう孤独ではないと、私はルカとの絆を深めていく。 するといつしか私を取り巻く周りの人々の目も、変わり始めるのだったーー

処理中です...