婚約破棄されたら、辺境伯とお試し結婚することになりました

ミズメ

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18 寝室

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 老人の眉間に、わずかに皺が寄る。
 それでも、ティナのためには一歩も引けない。

「……あなたは、なんなのですかな。見ない顔だ」

 問いは静かだが、その声の奥には「何者が口を出しているのだ」という棘が含まれていた。
 だが、フィオレッタは怯まず、穏やかに微笑んだ。

「私はフィオと申します。先ほどヴェルフリート様からエルグラント辺境伯夫人になるよう仰せつかりました。以後お見知り置きを」
「……な」

 嘘は言っていない。異論があるならばヴェルフリートに言ってほしいものだ。
 そう思いながら老人をじっと見ていると、老人の顔色が明らかに変わった。
 固まったように背筋を伸ばし、わずかにたじろぐ。

「……っ、それは失礼をいたしました」

 まるで言葉を探すように口を開け閉めしたあと、頭を下げかけたとき。

「まぁまぁ、オルドフさん! ここにいらしたんですか」

 明るい声とともに、廊下の向こうからヘルマが小走りでやってきた。
 ふくよかなその笑顔に、重くなりかけていた空気がふっと和らぐ。

「まあ、ティナ様もフィオ様もここに。お花、とってもかわいいですよねえ」

 ヘルマに穏やかに言われて、オルドフの表情がわずかに引きつる。
 居心地が悪そうに咳払いをして、彼はわずかに頭を下げた。

「……このたびは、無礼を。私の早合点でした。お許しを」

 それだけを言い残し、オルドフは足早にその場を去っていった。
 黒い背が角を曲がって見えなくなると、ティナがようやくフィオレッタの背中から顔を出す。

「……オルドフ、もういない?」
「ええ、大丈夫よ」

 フィオレッタは優しく言いながら、ティナの髪を撫でた。
 それから、そっと隣に立つヘルマに目を向ける。

「ヘルマさん、あの方がこの城の家令でしょうか」
「はい。オルドフといいます。あたしと同じく長くこのお屋敷に勤めていて……まあ、少しばかり厳しいんです。でも本当は、とてもいい人なんですよ」
「そうなのですね」

 フィオレッタは静かに頷いた。
 確かに言葉は辛辣だったけれど、ヘルマの信頼を得ているということは、それだけ責任感が強いのだろう。第一印象だけで決めつけるのも良くない――そう思い直す。

 そんな彼女の心の内を察したように、ヘルマはぱん、と手を打った。

「さあさ、もう暗くなりますし、そろそろ夕食にいたしましょう! 厨房の方も準備が整っておりますよ」
「わあ! ごはん! フィオおねえちゃま、いこう!」

 ティナがぱっと笑顔を取り戻し、フィオレッタの手を引く。
 その小さな掌の温もりに、フィオレッタの胸がふっと緩んだ。

「ええ、行きましょう」

 三人の足音が、石畳の廊下に軽やかに響く。
 夕陽が差し込む回廊の先で、ようやく一日の緊張がほどけていくようだった。


***


 食堂の扉を開けると、温かな香りがふわりと漂ってきた。
 テーブルの上には、素朴ながらも心のこもった夕食が並んでいる。焼きたてのパンに、野菜のスープ、香草をまぶした肉のソテー。

「うわぁ~! おいしそう!」

 ティナが椅子によじ登るようにして座ると、ぱちぱちと両手を合わせた。

「フィオおねえちゃま、いっしょにおいのりしよ!」
「ええ、もちろん」

 二人でそろって手を合わせる。
 それから一緒に目を開けて、お互いに微笑みあった。

 ティナはスープをひとくち飲むなり、「あっちゅい!」と目を丸くして、フィオレッタを見上げる。

「ふうふうってするの、わすれちゃった」
「もう、あわてんぼうさんね。ほら、こうやって……」

 フィオレッタがスプーンを取って見本を見せると、ティナは真似して小さく息を吹きかけ、慎重に口をつける。あたたかなスープに芯からあたたまるようだ。

 パンの欠片をちぎって渡すと、ティナがそれを「どうぞ」とクマのぬいぐるみに差し出す。

「クーちゃんもいっしょにたべるの!」
「ふふ、クーちゃんもお腹いっぱいね」
「うん。フィオおねえちゃまもいっぱいたべてね!」

 その屈託のない笑顔に、フィオレッタは自然と頬をゆるめた。
 食堂の灯りがやさしく揺れ、笑い声が小さく弾む。

 食事が終わると、湯浴をすることになった。なんとこの城には浴場があり、温泉が湧き出ているのだという。

(知らなかったわ。それに、温泉ははじめて)

「みてみておねえちゃま!」

 ティナはちゃぷちゃぷとお湯をすくい、楽しそうに笑っている。
 まだ出会って数時間しか経っていないのに、ティナはすっかりフィオレッタに懐いてくれている。それがくすぐったくて、うれしい。

「ティナ、暴れないの」
「むう~~」
「ほほ、ティナ様はフィオ様にべっとりですねえ」

 湯から上がり、ティナはヘルマにタオルで拭かれている。フィオレッタ自身は、自分でできるからと手伝いは遠慮させてもらった。
 小さな口を尖らせて、ティナが眠そうに目をこする。ご飯を食べて、お風呂であたたまったから眠たくなったのだろう。

「さあさ、お部屋に戻っておやすみしましょう。クーちゃんも待ってますよ」

 ヘルマがすかさず柔らかな声で促す。

「……うん」

 ようやく頷くと、ティナは名残惜しそうにフィオレッタの腕にしがみつき、ふわりと抱きついた。
 その温もりが胸に残って、フィオレッタは思わず目を細める。

「おやすみなさい、フィオおねえちゃま」
「ええ。おやすみなさい、ティナ」

 ティナは小さな足でとことこと廊下を歩き、ヘルマに手を引かれて角を曲がっていった。その背を見送ると、静かな夜の気配が一気に降りてくる。

「奥様。寝室はこちらでございます」

 浴室をでたフィオレッタは、ヘルマに指示を受けたらしい侍女に部屋へと案内される。案内されたのは、天蓋つきの立派なベッドがある寝室だった。

 中央にある寝具に手を触れると、ふわりと上質なリネンの手触りがする。
 そのままベッドに大の字になる。体が沈み込み、全身がやさしく包み込まれるようだった。
 目を閉じれば、ティナの笑顔と、湯気の中の柔らかな光景が思い浮かぶ。

 今日一日、怒涛のような出来事だった。
 まさか自分がこの城で暮らすことになるなんて。
 ティナの笑顔を思い出しながら、胸の奥にまだ少し現実味のない温かさが残っている。

 疲れていたのか、フィオレッタもすぐにうとうとと眠たくなる。それに抗わずに目を閉じようとしたそのときだった。

――がちゃり、と扉のノブが回る音がした。
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