婚約破棄されたら、辺境伯とお試し結婚することになりました

ミズメ

文字の大きさ
6 / 54

◆閑話 文官たちのざわめき

しおりを挟む

 王都にある執務塔の一角。
 窓の外では、春風が王城の尖塔をなでている。

 しかし執務局の空気は、季節とは裏腹にどこか重たかった。

「……あれから、もうひと月か」
「本当のところを知っている俺たちからすれば……冗談にもならん」
「資料整理の大半を担っていたのはあの方だ。いま、誰が代わりをやっていると思う?」

 インクの染みた袖をまくりながら、文官たちは疲れた目で積まれた書類の山を睨む。
 いつも穏やかだった職場は、今やため息と愚痴で満ちていた。

 一様に目の下は隈をこしらえ、もはやフラフラだ。一体何日家に帰っていないだろうか。

「殿下は、フィオレッタ様は役立たずだったとおっしゃったそうですよ」
「……あの方がいれば、ここの書類は三日で片付いたことだろう」
「はは、言えてる……」

 皮肉めいた声に、苦笑すら起きなかった。もはや疲労困憊を越えて虚無である。

 フィオレッタ・グラシェル――公爵令嬢で第三王子の婚約者。

 彼女がいた頃は、山のような案件が驚くほど滑らかに処理されていた。
 だが今、その穴を埋める者はいない。

 その時、扉がノックされる音が響いた。

「第三王子殿下、御入室!」

 慌てて全員が立ち上がり、頭を下げる。
 悠々と歩み入ってきたのは、黄金の髪を揺らす若き王子。
 隣には、絹のドレスをまとった令嬢がいる。

 フィオレッタとの婚約解消とエミリアとの婚約が公に伝えられたのは同時だった。

「ご苦労。ずいぶんな紙の山だな」

 第三王子は軽く笑うと、文官たちの疲弊した視線を一瞥することもなく、エミリアの手を取った。

「お前たちにもエミリアを紹介しておこうと思ってな。これから顔を合わせる機会も多いだろう」

 文官たちはこのひと月ほとんどこの執務塔から出ておらず、当然の事ながらエミリア本人とは会ったことはない。

「エミリア・グラシェルですぅ。よろしくお願いしますっ」

 桃色の髪を揺らして、エミリアがにこりと笑う。
 鈴のような声に、数人の若い文官たちがぽうっと頬を染めた。

 その隣で、ルシアン第三王子が満足げに微笑む。

「ほらエミリア。君の可憐さに文官どもも見蕩れているぞ」
「まあ、殿下……もう、そんなあ」

 エミリアがわざとらしく両手を頬に当てて身をよじる。
 ルシアンはその仕草に楽しげに目を細め、周囲の空気を気にも留めずに続けた。

「彼女は最近、僕の補佐の勉強を始めたばかりでね。フィオレッタのように無愛想ではなく、場を明るくしてくれるんだ」

 わざわざその名を出され、室内の空気が一瞬ひやりと凍る。

 文官たちは机に視線を落とし、誰も口を開こうとしなかった。
 だが、ルシアンだけはそんな沈黙を心地よい余韻とでも思っているようだった。

「ねえ、ルシアンさま。今日のお仕事って、もう終わりですか?」
「うん、もう少しだけだ。だが、君の見たいドレスの件も気になるな」
「えっ、いいんですの? また一緒に見に行けるなんてうれしい!」

 エミリアが無邪気に笑い、ルシアンはその肩に手を置く。
 目の前で繰り広げられる軽薄なやり取りに、文官たちは互いに視線を交わした。

 ――いつまで続くんだろう、この茶番は。

 ようやく二人の笑い声が一段落したころ、ルシアンは思い出したように後ろの侍従から書類を受け取る。

「そうだ、これを頼んでおく。南部のラトゥール地方――あそこの商会のドレスを調べておけ」
「ラトゥール地方、でございますか?」
「そうだ。父上が興味を持たれている件でな。……いや、僕としても少々気になる」

 気になる、と口にしながら、ルシアンの視線は明らかにエミリアに向けられている。

 どう考えても、私的な案件なのではないか。
 そう思っても、王族に対して表立って口にすることはできない。

「期日は三日以内だ。詳しい報告をまとめておけ。では、頼んだぞ」

 それだけ言い残し、ルシアンはエミリアの腰に手を回した。
 エミリアはくすぐったそうに笑いながら、「もう、殿下ったら」と小さく肩を叩く。

 扉が閉まると同時に、重い沈黙が戻ってきた。
 積み上がった書類の山と、置き去りにされたため息。

 第三王子はこうしてふらりと訪れては、徒に仕事を増やしてゆく。
 これまで自分たちの仕事が滞りなく行えていたのは、フィオレッタのおかげだったのだ。

 それをこれまで気が付かずにいた。

 厳しく書類をチェックする彼女を、疎ましいと思っていた者すらいたのだ。

「……“悪女”を追い出した後の方が、よほど地獄じゃないか」

 誰かが小さく呟く。

 返す声はない。だが、誰もが心の中で頷いていた。
しおりを挟む
感想 29

あなたにおすすめの小説

乙女ゲームの悪役令嬢の兄の婚約者に転生しましたが傷物になったので退場を希望します!

ユウ
恋愛
平凡な伯爵令嬢のリネットは優しい婚約者と妹と穏やかで幸福な日々を送っていた。 相手は公爵家の嫡男であり第一王子殿下の側近で覚えもめでたく社交界の憧れの漆黒の騎士と呼ばれる貴族令息だった。 結婚式前夜、婚約者の妹に会いに学園に向かったが、そこで事件が起きる。 現在学園で騒動を起こしている第二王子とその友人達に勘違いから暴行を受け階段から落ちてしまう… その時に前世の記憶を取り戻すのだった… 「悪役令嬢の兄の婚約者って…」 なんとも微妙なポジション。 しかも結婚前夜で傷物になる失態を犯してしまったリネットは婚約解消を望むのだが、悪役令嬢の義妹が王子に婚約破棄を突きつける事件に発展してしまう。

無自覚人たらしマシュマロ令嬢、王宮で崇拝される ――見た目はぽっちゃり、中身は只者じゃない !

恋せよ恋
ファンタジー
 富豪にして美食家、オラニエ侯爵家の長女ステファニー。  もっちり体型から「マシュマロ令嬢」と陰口を叩かれる彼女だが、  本人は今日もご機嫌に美味しいものを食べている。  ――ただし、この令嬢、人のオーラが色で見える。  その力をひけらかすこともなく、ただ「気になるから」と忠告した結果、  不正商会が摘発され、運気が上がり、気づけば周囲には信奉者が増えていく。  十五歳で王妃に乞われ、王宮へ『なんでも顧問』として迎えられたステファニー。  美食を愛し、人を疑わず、誰にでも礼を尽くすその姿勢は、  いつの間にか貴族たちの心を掴み、王子たちまで惹きつけていく。  これは、  見た目はぽっちゃり、されど中身は只者ではないマシュマロ令嬢が、  無自覚のまま王宮を掌握していく、もっちり系・人たらし王宮譚。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 エール📣いいね❤️励みになります! 🔶表紙はAI生成画像です🤖

【完結】転生したらラスボスの毒継母でした!

白雨 音
恋愛
妹シャルリーヌに裕福な辺境伯から結婚の打診があったと知り、アマンディーヌはシャルリーヌと入れ替わろうと画策する。 辺境伯からは「息子の為の白い結婚、いずれ解消する」と宣言されるが、アマンディーヌにとっても都合が良かった。「辺境伯の財で派手に遊び暮らせるなんて最高!」義理の息子など放置して遊び歩く気満々だったが、義理の息子に会った瞬間、卒倒した。 夢の中、前世で読んだ小説を思い出し、義理の息子は将来世界を破滅させようとするラスボスで、自分はその一因を作った毒継母だと知った。破滅もだが、何より自分の死の回避の為に、義理の息子を真っ当な人間に育てようと誓ったアマンディーヌの奮闘☆  異世界転生、家族愛、恋愛☆ 短めの長編(全二十一話です) 《完結しました》 お読み下さり、お気に入り、エール、いいね、ありがとうございます☆ 

前世の記憶を取り戻した元クズ令嬢は毎日が楽しくてたまりません

Karamimi
恋愛
公爵令嬢のソフィーナは、非常に我が儘で傲慢で、どしうようもないクズ令嬢だった。そんなソフィーナだったが、事故の影響で前世の記憶をとり戻す。 前世では体が弱く、やりたい事も何もできずに短い生涯を終えた彼女は、過去の自分の行いを恥、真面目に生きるとともに前世でできなかったと事を目いっぱい楽しもうと、新たな人生を歩み始めた。 外を出て美味しい空気を吸う、綺麗な花々を見る、些細な事でも幸せを感じるソフィーナは、険悪だった兄との関係もあっという間に改善させた。 もちろん、本人にはそんな自覚はない。ただ、今までの行いを詫びただけだ。そう、なぜか彼女には、人を魅了させる力を持っていたのだ。 そんな中、この国の王太子でもあるファラオ殿下の15歳のお誕生日パーティに参加する事になったソフィーナは… どうしようもないクズだった令嬢が、前世の記憶を取り戻し、次々と周りを虜にしながら本当の幸せを掴むまでのお話しです。 カクヨムでも同時連載してます。 よろしくお願いします。

なりゆきで妻になった割に大事にされている……と思ったら溺愛されてた

たぬきち25番
恋愛
男爵家の三女イリスに転生した七海は、貴族の夜会で相手を見つけることができずに女官になった。 女官として認められ、夜会を仕切る部署に配属された。 そして今回、既婚者しか入れない夜会の責任者を任せられた。 夜会当日、伯爵家のリカルドがどうしても公爵に会う必要があるので夜会会場に入れてほしいと懇願された。 だが、会場に入るためには結婚をしている必要があり……? ※本当に申し訳ないです、感想の返信できないかもしれません…… ※他サイト様にも掲載始めました!

公爵令息様を治療したらいつの間にか溺愛されていました

Karamimi
恋愛
マーケッヒ王国は魔法大国。そんなマーケッヒ王国の伯爵令嬢セリーナは、14歳という若さで、治癒師として働いている。それもこれも莫大な借金を返済し、幼い弟妹に十分な教育を受けさせるためだ。 そんなセリーナの元を訪ねて来たのはなんと、貴族界でも3本の指に入る程の大貴族、ファーレソン公爵だ。話を聞けば、15歳になる息子、ルークがずっと難病に苦しんでおり、どんなに優秀な治癒師に診てもらっても、一向に良くならないらしい。 それどころか、どんどん悪化していくとの事。そんな中、セリーナの評判を聞きつけ、藁をもすがる思いでセリーナの元にやって来たとの事。 必死に頼み込む公爵を見て、出来る事はやってみよう、そう思ったセリーナは、早速公爵家で治療を始めるのだが… 正義感が強く努力家のセリーナと、病気のせいで心が歪んでしまった公爵令息ルークの恋のお話です。

【完結】女嫌いの公爵様に嫁いだら前妻の幼子と家族になりました

香坂 凛音
恋愛
ここはステイプルドン王国。 エッジ男爵家は領民に寄り添う堅実で温かな一族であり、家族仲も良好でした。長女ジャネットは、貴族学園を優秀な成績で卒業し、妹や弟の面倒も見る、評判のよい令嬢です。 一方、アンドレアス・キーリー公爵は、深紅の髪と瞳を持つ美貌の騎士団長。 火属性の魔法を自在に操り、かつて四万の敵をひとりで蹴散らした伝説の英雄です。 しかし、女性に心を閉ざしており、一度は結婚したものの離婚した過去を持ちます。 そんな彼が、翌年に控える隣国マルケイヒー帝国の皇帝夫妻の公式訪問に備え、「形式だけでいいから再婚せよ」と王に命じられました。 選ばれたのは、令嬢ジャネット。ジャネットは初夜に冷たい言葉を突きつけられます。 「君を妻として愛するつもりはない」 「跡継ぎなら、すでにいる。……だから子供も必要ない」 これは、そんなお飾りの妻として迎えられたジャネットが、前妻の子を真心から愛し、公爵とも次第に心を通わせていく、波乱と愛の物語です。 前妻による陰湿な嫌がらせ、職人養成学校の設立、魔導圧縮バッグの開発など、ジャネットの有能さが光る場面も見どころ。 さらに、伝説の子竜の登場や、聖女を利用した愚王の陰謀など、ファンタジー要素も盛りだくさん。前向きな有能令嬢の恋の物語です。最後には心あたたまるハッピーエンドが待っています。 ※こちらの作品は、カクヨム・小説家になろうでは「青空一夏」名義で投稿しております。 アルファポリスでは作風を分けるため、別アカウントを使用しています。 本作は「ほのぼの中心+きつすぎないざまぁ」で構成されています。 スカッとする場面だけでなく、読み終わったあとに幸福感が残る物語です。 ちょっぴり痛快、でも優しい読後感を大切にしています。 ※カクヨム恋愛ランキング11位(6/24時点) 全54話、完結保証つき。 毎日4話更新:朝7:00/昼12:00/夕17:00/夜20:00→3回更新に変えました。 どうぞ、最後までお付き合いくださいませ。

愛のない結婚をした継母に転生したようなので、天使のような息子を溺愛します

美杉日和。(旧美杉。)
恋愛
目が覚めると私は昔読んでいた本の中の登場人物、公爵家の後妻となった元王女ビオラに転生していた。 人嫌いの公爵は、王家によって組まれた前妻もビオラのことも毛嫌いしており、何をするのも全て別。二人の結婚には愛情の欠片もなく、ビオラは使用人たちにすら相手にされぬ生活を送っていた。 それでもめげずにこの家にしがみついていたのは、ビオラが公爵のことが本当に好きだったから。しかしその想いは報われることなどなく彼女は消え、私がこの体に入ってしまったらしい。 嫌われ者のビオラに転生し、この先どうしようかと考えあぐねていると、この物語の主人公であるルカが声をかけてきた。物語の中で悲惨な幼少期を過ごし、闇落ち予定のルカは純粋なまなざしで自分を見ている。天使のような可愛らしさと優しさに、気づけば彼を救って本物の家族になりたいと考える様に。 二人一緒ならばもう孤独ではないと、私はルカとの絆を深めていく。 するといつしか私を取り巻く周りの人々の目も、変わり始めるのだったーー

処理中です...