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06 辺境の町
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***
朝靄の残る村道を、鳥のさえずりが抜けていく。
「今日もいい天気ね」
窓から差し込む淡い光に、フィオレッタは目を細めた。
辺境の町、リントブル。
ここで「フィオ」と名乗って暮らすようになって、もうひと月が経つ。
王都を出た日のことが、夢のように遠く感じる。
けれど、夜明けの馬車の冷たい空気の中で胸に誓った言葉は、今も心の奥で静かに息づいていた。
自分のために、真っ直ぐ前を向くと決めた。
「フィオちゃーん、朝ごはん出来てるよー!」
「はい、すぐに行きます!」
階下から聞こえてくるのびやかな声に、フィオレッタは急いで返事をした。
この地を訪ねた日。古びた宿屋を営む夫妻は、リゼの筆跡を見ただけで目を見開き、次の瞬間には温かな笑みを向けてくれた。
それから、フィオレッタはこの宿屋の一室を借りて生活を始めたのだ。
(急がなくてはね)
屋敷にいた時と違い、手伝ってくれる侍女はいない。もっとも、あの屋敷でもフィオレッタの準備を手伝ってくれるのはリゼしかいなかったので、ある程度はひとりで出来るようになっていた。
なんとも皮肉なことだ。
そんなことを考えながら簡素なワンピースに身を包み、髪をひとつに結ぶと、フィオレッタは急いで階段を駆け下りた。
「おはようございます、マルタさん」
「おはよう、フィオちゃん! 今日はスープがとってもおいしく出来たのよ。冷めないうちにどうぞ!」
リゼの娘であるマルタに声をかけて、スープを受け取る。木のテーブルでは、茶髪の双子がすでにパンをちぎっていた。
リゼの孫のニコルとトールは、そっくりな笑顔で両頬にはパンくずがついている。
「フィオ姉ちゃん、おはよう!」
「フィオはねぼすけだな!」
礼儀正しい方が弟のトール、少し生意気なのが兄のニコルだ。最初は二人に人見知りをされてしまったが、今ではすっかり慣れたものだ。
「おはよう。二人とも、朝から元気ね」
ニコルの言うとおり、今日はちょっと起きるのが遅くなってしまった。
「こーらあんたたち! フィオちゃんは夜遅くまで繕いものをしてくれてたんだよ! あんたたちがすーぐ大きくなるから!」
マルタさんがカウンターからひょいと顔を出して二人にそう言うと、双子はさっとフィオレッタの方を見た。
「フィオ姉ちゃん、ありがとう」
「おいまさか、し、下着まで……?」
「どういたしまして、トール。もちろん下着もちゃんと繕ったから安心してね、ニコル」
「ありがとうねぇ」
「げーーーー!!」
二人に微笑めば、トールはにこにこと微笑み、ニコルは大声で騒ぎ出した。
どうしたというのだろう。そんなに嫌だったのだろうか。
正直なところ、こうして市井に出てもフィオレッタには何も出来ないと思っていた。でも、刺繍を頑張ってきたおかげで繕いものは出来たし、読み書きや計算が出来るだけでも村では重宝される。
(本当に……毎日ありがたいわ)
少しのことでも、村の人たちはフィオレッタに感謝の言葉をかけてくれる。
それはずっと、フィオレッタがもらったことのない言葉だらけで、どうしようもない気持ちになったことをよく覚えている。
「ほおら、ニコル。お姉さんにパンツを見られて恥ずかしいのは分かったからパンでも食って落ち着け!」
厨房から声を上げたのはマルタの夫だ。たくましい腕に焼きたてのパンが乗った天板を持ち、額にはうっすら汗が光っている。
「父ちゃん! ヨケーなこと言うな!」
「ははは! かわいいなあニコルは」
「父ちゃん、ボクは~?」
「お? そりゃあもちろんトールもかわいいさ!」
「えへへ~!」
プリプリと頬を膨らませるニコルと、嬉しそうなトール。そしてそんな二人を見て眉尻を下げる宿屋の主人。
そんな三人を見ていると、フィオレッタは自然に頬がゆるむ。
「フィオちゃん、ちゃんと食べてるかい? いくら食べても細っこいから心配だよ」
マルタが隣に座り、フィオレッタを心配そうに覗き込んでくる。その困り顔にいつも優しかったリゼのことを思い出して、なぜだか泣きそうになってしまった。
(ここは、とても温かいわ)
「はい。いただいています」
「フィオちゃんの口に合わないかもしれないけど……いやでも、材料は質素でも料理の腕には自信があるからね」
フィオレッタが元公爵令嬢であることは、この夫妻だけが知っている。
すぐに娘用の服を集めて、フィオレッタを迎え入れてくれたこの家族には感謝しかない。
「こうやって、みんなで温かいものを食べるのはとても楽しくて、とても美味しいです」
だからフィオレッタは、笑顔でそう答えた。
社交辞令でもお世辞でもなんでもなく、心からそう思うのだ。
「フィオちゃん……。あっこら、トール! どさくさに紛れてこっそり野菜をニコルの皿に移すんじゃないよ!」
「あっ、バレちゃった~」
「なにすんだよ、トール!」
マルタがトールを叱ると、ペロっと舌を出してかわいらしく笑っている。それにニコルがまた怒っていて。
そんなやり取りを見ながら、フィオレッタはそっと笑った。
「本当に、仲の良いご家族ですね」
「仲が良いのかどうかは怪しいけどね」
マルタが肩をすくめ、照れくさそうに笑う。
「でも、喧嘩できるうちは平和なのさ」
笑いの絶えない家族のやりとりを見て、フィオレッタの胸がふっと締めつけられた。
誰かを叱るときも、褒めるときも、二人は同じ目線で子どもたちを見ている。
――それが、家族というものの本来の姿なのだろう。
(ああ……私の家は、きっと少し、おかしかったのね)
静かにそう思った。
母が妹を抱きしめる光景はよく覚えている。けれど、自分がそうされた記憶はほとんどない。
それでも不思議と、もう痛みはない。
毎日が針のむしろだったあの日々と比べたら、とても楽しいのだから。
「そうだ、フィオちゃん。今日は教会のお手伝いだったっけ?」
マルタがスープ皿を片づけながら、ふと思い出したように尋ねる。
「はい。昼までに終わる予定です。その後はこちらに戻ってきてお手伝いできると思います」
「川辺は風が強いから、帽子を飛ばされないようにね」
「はい、ありがとうございます」
「お、オレも行きたい!」
マルタのアドバイスに頷いていると、ニコルが意を決したように手を挙げた。
「だめだよ、ニコル。今日はボクたち、干し草の手伝いがあるでしょ~」
「ちぇっ」
それでもトールが穏やかにそれをとがめると、すっかり口を尖らせてしまった。
小さな木の窓から差し込む朝の光が、辺りをきらきらと照らす。
今日もまた、穏やかであたたかな一日が始まる。
(今日も、しっかり働かなくちゃ)
そう心に言い聞かせて、フィオレッタ――今はフィオとして生きる彼女は、食器を片づけて立ち上がった。
朝靄の残る村道を、鳥のさえずりが抜けていく。
「今日もいい天気ね」
窓から差し込む淡い光に、フィオレッタは目を細めた。
辺境の町、リントブル。
ここで「フィオ」と名乗って暮らすようになって、もうひと月が経つ。
王都を出た日のことが、夢のように遠く感じる。
けれど、夜明けの馬車の冷たい空気の中で胸に誓った言葉は、今も心の奥で静かに息づいていた。
自分のために、真っ直ぐ前を向くと決めた。
「フィオちゃーん、朝ごはん出来てるよー!」
「はい、すぐに行きます!」
階下から聞こえてくるのびやかな声に、フィオレッタは急いで返事をした。
この地を訪ねた日。古びた宿屋を営む夫妻は、リゼの筆跡を見ただけで目を見開き、次の瞬間には温かな笑みを向けてくれた。
それから、フィオレッタはこの宿屋の一室を借りて生活を始めたのだ。
(急がなくてはね)
屋敷にいた時と違い、手伝ってくれる侍女はいない。もっとも、あの屋敷でもフィオレッタの準備を手伝ってくれるのはリゼしかいなかったので、ある程度はひとりで出来るようになっていた。
なんとも皮肉なことだ。
そんなことを考えながら簡素なワンピースに身を包み、髪をひとつに結ぶと、フィオレッタは急いで階段を駆け下りた。
「おはようございます、マルタさん」
「おはよう、フィオちゃん! 今日はスープがとってもおいしく出来たのよ。冷めないうちにどうぞ!」
リゼの娘であるマルタに声をかけて、スープを受け取る。木のテーブルでは、茶髪の双子がすでにパンをちぎっていた。
リゼの孫のニコルとトールは、そっくりな笑顔で両頬にはパンくずがついている。
「フィオ姉ちゃん、おはよう!」
「フィオはねぼすけだな!」
礼儀正しい方が弟のトール、少し生意気なのが兄のニコルだ。最初は二人に人見知りをされてしまったが、今ではすっかり慣れたものだ。
「おはよう。二人とも、朝から元気ね」
ニコルの言うとおり、今日はちょっと起きるのが遅くなってしまった。
「こーらあんたたち! フィオちゃんは夜遅くまで繕いものをしてくれてたんだよ! あんたたちがすーぐ大きくなるから!」
マルタさんがカウンターからひょいと顔を出して二人にそう言うと、双子はさっとフィオレッタの方を見た。
「フィオ姉ちゃん、ありがとう」
「おいまさか、し、下着まで……?」
「どういたしまして、トール。もちろん下着もちゃんと繕ったから安心してね、ニコル」
「ありがとうねぇ」
「げーーーー!!」
二人に微笑めば、トールはにこにこと微笑み、ニコルは大声で騒ぎ出した。
どうしたというのだろう。そんなに嫌だったのだろうか。
正直なところ、こうして市井に出てもフィオレッタには何も出来ないと思っていた。でも、刺繍を頑張ってきたおかげで繕いものは出来たし、読み書きや計算が出来るだけでも村では重宝される。
(本当に……毎日ありがたいわ)
少しのことでも、村の人たちはフィオレッタに感謝の言葉をかけてくれる。
それはずっと、フィオレッタがもらったことのない言葉だらけで、どうしようもない気持ちになったことをよく覚えている。
「ほおら、ニコル。お姉さんにパンツを見られて恥ずかしいのは分かったからパンでも食って落ち着け!」
厨房から声を上げたのはマルタの夫だ。たくましい腕に焼きたてのパンが乗った天板を持ち、額にはうっすら汗が光っている。
「父ちゃん! ヨケーなこと言うな!」
「ははは! かわいいなあニコルは」
「父ちゃん、ボクは~?」
「お? そりゃあもちろんトールもかわいいさ!」
「えへへ~!」
プリプリと頬を膨らませるニコルと、嬉しそうなトール。そしてそんな二人を見て眉尻を下げる宿屋の主人。
そんな三人を見ていると、フィオレッタは自然に頬がゆるむ。
「フィオちゃん、ちゃんと食べてるかい? いくら食べても細っこいから心配だよ」
マルタが隣に座り、フィオレッタを心配そうに覗き込んでくる。その困り顔にいつも優しかったリゼのことを思い出して、なぜだか泣きそうになってしまった。
(ここは、とても温かいわ)
「はい。いただいています」
「フィオちゃんの口に合わないかもしれないけど……いやでも、材料は質素でも料理の腕には自信があるからね」
フィオレッタが元公爵令嬢であることは、この夫妻だけが知っている。
すぐに娘用の服を集めて、フィオレッタを迎え入れてくれたこの家族には感謝しかない。
「こうやって、みんなで温かいものを食べるのはとても楽しくて、とても美味しいです」
だからフィオレッタは、笑顔でそう答えた。
社交辞令でもお世辞でもなんでもなく、心からそう思うのだ。
「フィオちゃん……。あっこら、トール! どさくさに紛れてこっそり野菜をニコルの皿に移すんじゃないよ!」
「あっ、バレちゃった~」
「なにすんだよ、トール!」
マルタがトールを叱ると、ペロっと舌を出してかわいらしく笑っている。それにニコルがまた怒っていて。
そんなやり取りを見ながら、フィオレッタはそっと笑った。
「本当に、仲の良いご家族ですね」
「仲が良いのかどうかは怪しいけどね」
マルタが肩をすくめ、照れくさそうに笑う。
「でも、喧嘩できるうちは平和なのさ」
笑いの絶えない家族のやりとりを見て、フィオレッタの胸がふっと締めつけられた。
誰かを叱るときも、褒めるときも、二人は同じ目線で子どもたちを見ている。
――それが、家族というものの本来の姿なのだろう。
(ああ……私の家は、きっと少し、おかしかったのね)
静かにそう思った。
母が妹を抱きしめる光景はよく覚えている。けれど、自分がそうされた記憶はほとんどない。
それでも不思議と、もう痛みはない。
毎日が針のむしろだったあの日々と比べたら、とても楽しいのだから。
「そうだ、フィオちゃん。今日は教会のお手伝いだったっけ?」
マルタがスープ皿を片づけながら、ふと思い出したように尋ねる。
「はい。昼までに終わる予定です。その後はこちらに戻ってきてお手伝いできると思います」
「川辺は風が強いから、帽子を飛ばされないようにね」
「はい、ありがとうございます」
「お、オレも行きたい!」
マルタのアドバイスに頷いていると、ニコルが意を決したように手を挙げた。
「だめだよ、ニコル。今日はボクたち、干し草の手伝いがあるでしょ~」
「ちぇっ」
それでもトールが穏やかにそれをとがめると、すっかり口を尖らせてしまった。
小さな木の窓から差し込む朝の光が、辺りをきらきらと照らす。
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