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07 小さな女の子
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***
教会までは、宿屋から歩いて十五分ほどの距離だ。
朝の光に照らされた石畳を踏みしめながら、フィオレッタは胸いっぱいに冷たい空気を吸い込む。
(今日もきっと、いい一日になるわ)
王都の喧騒も、貴族たちの視線もここにはない。ただ小鳥の声と、薪を割る音だけが響く。
白い尖塔が見えてくると、自然と足が早まった。
「おはようございます、神父様」
「おや、フィオさん。今日も早いねぇ」
扉の前を掃いていた老神父が、目尻を下げて笑う。
「昨日の礼拝で使った花を片づけようと思いまして」
「ああ、助かるよ。腰が痛くてな、重い壺を動かすのが大変で」
「ふふ、お任せください」
フィオレッタは袖をまくり、礼拝堂の奥へと進んだ。
ステンドグラスを透かした朝の光が、床に七色の模様を描いている。
その光の中で、花瓶の水を替え、祭壇布のほつれを縫い直し、古いカーテンの端を整える。
華やかさもない、ただの奉仕作業だ。
(不思議と心が落ち着くわ)
王都では完璧な令嬢でいようと、常に肩に力が入っていたのだろう。
今はただ、何もないフィオだ。それが逆に心地よく、身軽な気がする。
「今日も助かったよ、フィオさん。貴女は本当になんでも出来るねえ」
「いえ、こんなことしか出来ませんから」
「そう謙遜しなくともいいんだよ。自分のことをもっと褒めてあげてごらんなさい」
「神父様……」
神父の瞳は慈愛に満ちていて、フィオレッタは何度も瞬きをする。
「ああそうだ。川沿いの花畑が咲き始めているらしいよ。風も気持ちよくていい場所だよ。歩いてみるといい」
「まあ、そうなんですね。では少し、帰りに寄ってみます」
昼の鐘が鳴るころ、教会の仕事はすべて終わった。神父に頭を下げ、フィオレッタは外に出る。
陽はやわらかく、風は花の香りを運んでいた。
空を仰げば、青がどこまでも澄んでいる。
(いつもと違う道を歩こう。せっかくだもの)
フィオレッタは教会から続く小道を抜け、川辺へと向かう。
この町を流れる川は、リントブルの人々にとって命の水だ。
洗濯をする人、釣りをする子どもたち、談笑する老夫婦――穏やかな日常の光景が広がっている。
その静けさの中で、ふと、風にまぎれて小さな泣き声が聞こえた。
「……?」
耳を澄ますと、すすり泣くような声が草の陰から届く。
フィオレッタは足を止め、そっとそちらへ歩み寄った。
川辺の柳の木の根元に、小さな女の子が座りこんでいた。
淡い亜麻色のくるくるした髪が風に揺れ、すみれ色の瞳が涙で濡れている。
その小さな腕の中には、腕が裂けたクマのぬいぐるみが抱かれていた。
「どうしたの?」
フィオレッタがしゃがみこむと、少女は驚いたように顔を上げる。
「くっ、クマちゃんが、壊れちゃったの……!」
そう言うと、少女はまたぶわりとその大きな瞳から涙をこぼす。ポロポロととめどなく流れる大粒の涙に、フィオレッタはあわててハンカチを取り出した。
「大丈夫よ、まずは涙を拭きましょうね」
跪いて、女の子の涙をそっと拭ってあげると、その子はこくりと頷いたあと、じっとされるがままになっていた。
(ニコルやトールよりも小さいわ。あまり見ない顔ね)
フィオレッタはその小さな女の子をまじまじと観察する。
このひと月で、近くに住む人たちとは大体挨拶を済ませている。ニコルやトールたちと同い年の子供たちが遊んでいるのを見かけたりもしたけれど、この子と会ったことはない。
(着ているものも、良い生地のものだわ。この子がつけているものも、このぬいぐるみに使われているリボンも質がいい)
近所の子ではないのかもしれない。もしくは、もっと特別な――。
「もしよければ、そのぬいぐるみを私に見せてもらえるかしら?」
そっと声をかけると、少女は胸に抱えたぬいぐるみをおずおずと差し出した。
縫い目が裂け、片腕の付け根から綿がのぞいている。それを抱く小さな手はとても大切そうで、指先がふるえていた。
「かわいいクマさんね。……うん、これなら直せそうだわ」
「なおせるの……?」
少女が涙の跡を残した頬を上げる。
そのすみれ色の瞳が希望にきらめいた。
「ええ。少しだけ待っていてちょうだい。針と糸は持っているの」
そう言って、フィオレッタはポーチから小さな裁縫道具を取り出した。
薄紫の針山、細い金糸。令嬢教育で学んだ裁縫の技術が、こんな場所で役に立つとは思わなかった。
「おねえちゃま、まほうつかい?」
「ふふ、魔法じゃないのよ。ただの針仕事。ほら、こうして一針ずつ縫っていけば――」
指先が器用に動くたびに、糸が小さく光を弾く。幼い少女は息をするのも忘れたように見つめていた。
「はい、できたわ」
最後の糸を結び、ほつれた部分を丁寧にならす。
ぬいぐるみのクマは、すっかり元の姿を取り戻していた。
「わぁ……すごい! ほんとうに、なおってる!」
少女の顔がぱっと明るくなった。ついさっきまで泣いていたとは思えないほどの輝くような笑顔に、フィオレッタもほっと胸をなで下ろす。
「ありがとう、おねえちゃま。あのね、わたしティナっていうの!」
涙で濡れた頬が、春の光のようにやわらかく色づく。小さな手でぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる仕草がとてもかわいらしい。
「ティナね。とっても素敵なお名前だわ」
「えへへ! おねえちゃまは?」
「私は……フィオよ」
「フィオおねえちゃま!」
ぱっと花が咲いたように笑うティナに、フィオレッタも思わず笑みをこぼした。
元気になったようで良かった。裁縫道具を持ち歩いていたことと、ちょうど川辺を歩いていたこと、その両方に感謝したい。
「ねえねえ、フィオおねえちゃま。ティナね、いいところをしってるの」
「いい所?」
「うん! ひみつのばしょなの。おれいに、そこにあんないしてあげる!」
亜麻色のくるくるした髪が、風にふわりと踊った。
ティナのすみれ色の瞳が、いたずらっぽくきらめいている。
( 秘密の場所……もしかしたら、そこにこの子の保護者がいるのかもしれないわ)
きっと、はぐれてしまって探しているに違いない。小さな子はパニックになりやすいから、できるだけ調子を合わせたほうがいいとマルタも言っていた。
このまま一人でいたら、危険だ。
そう判断したフィオレッタは、ひとまずティナについて行くことにした。
「それじゃあ、ティナ。その秘密の場所へ案内してもらえるかしら?」
「うんっ! こっちだよ!」
ティナは片手にぬいぐるみを抱えたまま、もうひとつの手でフィオレッタの手をつかむ。
その小さな手のひらの柔らかな温かさを感じながら、彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩くことにした。
教会までは、宿屋から歩いて十五分ほどの距離だ。
朝の光に照らされた石畳を踏みしめながら、フィオレッタは胸いっぱいに冷たい空気を吸い込む。
(今日もきっと、いい一日になるわ)
王都の喧騒も、貴族たちの視線もここにはない。ただ小鳥の声と、薪を割る音だけが響く。
白い尖塔が見えてくると、自然と足が早まった。
「おはようございます、神父様」
「おや、フィオさん。今日も早いねぇ」
扉の前を掃いていた老神父が、目尻を下げて笑う。
「昨日の礼拝で使った花を片づけようと思いまして」
「ああ、助かるよ。腰が痛くてな、重い壺を動かすのが大変で」
「ふふ、お任せください」
フィオレッタは袖をまくり、礼拝堂の奥へと進んだ。
ステンドグラスを透かした朝の光が、床に七色の模様を描いている。
その光の中で、花瓶の水を替え、祭壇布のほつれを縫い直し、古いカーテンの端を整える。
華やかさもない、ただの奉仕作業だ。
(不思議と心が落ち着くわ)
王都では完璧な令嬢でいようと、常に肩に力が入っていたのだろう。
今はただ、何もないフィオだ。それが逆に心地よく、身軽な気がする。
「今日も助かったよ、フィオさん。貴女は本当になんでも出来るねえ」
「いえ、こんなことしか出来ませんから」
「そう謙遜しなくともいいんだよ。自分のことをもっと褒めてあげてごらんなさい」
「神父様……」
神父の瞳は慈愛に満ちていて、フィオレッタは何度も瞬きをする。
「ああそうだ。川沿いの花畑が咲き始めているらしいよ。風も気持ちよくていい場所だよ。歩いてみるといい」
「まあ、そうなんですね。では少し、帰りに寄ってみます」
昼の鐘が鳴るころ、教会の仕事はすべて終わった。神父に頭を下げ、フィオレッタは外に出る。
陽はやわらかく、風は花の香りを運んでいた。
空を仰げば、青がどこまでも澄んでいる。
(いつもと違う道を歩こう。せっかくだもの)
フィオレッタは教会から続く小道を抜け、川辺へと向かう。
この町を流れる川は、リントブルの人々にとって命の水だ。
洗濯をする人、釣りをする子どもたち、談笑する老夫婦――穏やかな日常の光景が広がっている。
その静けさの中で、ふと、風にまぎれて小さな泣き声が聞こえた。
「……?」
耳を澄ますと、すすり泣くような声が草の陰から届く。
フィオレッタは足を止め、そっとそちらへ歩み寄った。
川辺の柳の木の根元に、小さな女の子が座りこんでいた。
淡い亜麻色のくるくるした髪が風に揺れ、すみれ色の瞳が涙で濡れている。
その小さな腕の中には、腕が裂けたクマのぬいぐるみが抱かれていた。
「どうしたの?」
フィオレッタがしゃがみこむと、少女は驚いたように顔を上げる。
「くっ、クマちゃんが、壊れちゃったの……!」
そう言うと、少女はまたぶわりとその大きな瞳から涙をこぼす。ポロポロととめどなく流れる大粒の涙に、フィオレッタはあわててハンカチを取り出した。
「大丈夫よ、まずは涙を拭きましょうね」
跪いて、女の子の涙をそっと拭ってあげると、その子はこくりと頷いたあと、じっとされるがままになっていた。
(ニコルやトールよりも小さいわ。あまり見ない顔ね)
フィオレッタはその小さな女の子をまじまじと観察する。
このひと月で、近くに住む人たちとは大体挨拶を済ませている。ニコルやトールたちと同い年の子供たちが遊んでいるのを見かけたりもしたけれど、この子と会ったことはない。
(着ているものも、良い生地のものだわ。この子がつけているものも、このぬいぐるみに使われているリボンも質がいい)
近所の子ではないのかもしれない。もしくは、もっと特別な――。
「もしよければ、そのぬいぐるみを私に見せてもらえるかしら?」
そっと声をかけると、少女は胸に抱えたぬいぐるみをおずおずと差し出した。
縫い目が裂け、片腕の付け根から綿がのぞいている。それを抱く小さな手はとても大切そうで、指先がふるえていた。
「かわいいクマさんね。……うん、これなら直せそうだわ」
「なおせるの……?」
少女が涙の跡を残した頬を上げる。
そのすみれ色の瞳が希望にきらめいた。
「ええ。少しだけ待っていてちょうだい。針と糸は持っているの」
そう言って、フィオレッタはポーチから小さな裁縫道具を取り出した。
薄紫の針山、細い金糸。令嬢教育で学んだ裁縫の技術が、こんな場所で役に立つとは思わなかった。
「おねえちゃま、まほうつかい?」
「ふふ、魔法じゃないのよ。ただの針仕事。ほら、こうして一針ずつ縫っていけば――」
指先が器用に動くたびに、糸が小さく光を弾く。幼い少女は息をするのも忘れたように見つめていた。
「はい、できたわ」
最後の糸を結び、ほつれた部分を丁寧にならす。
ぬいぐるみのクマは、すっかり元の姿を取り戻していた。
「わぁ……すごい! ほんとうに、なおってる!」
少女の顔がぱっと明るくなった。ついさっきまで泣いていたとは思えないほどの輝くような笑顔に、フィオレッタもほっと胸をなで下ろす。
「ありがとう、おねえちゃま。あのね、わたしティナっていうの!」
涙で濡れた頬が、春の光のようにやわらかく色づく。小さな手でぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる仕草がとてもかわいらしい。
「ティナね。とっても素敵なお名前だわ」
「えへへ! おねえちゃまは?」
「私は……フィオよ」
「フィオおねえちゃま!」
ぱっと花が咲いたように笑うティナに、フィオレッタも思わず笑みをこぼした。
元気になったようで良かった。裁縫道具を持ち歩いていたことと、ちょうど川辺を歩いていたこと、その両方に感謝したい。
「ねえねえ、フィオおねえちゃま。ティナね、いいところをしってるの」
「いい所?」
「うん! ひみつのばしょなの。おれいに、そこにあんないしてあげる!」
亜麻色のくるくるした髪が、風にふわりと踊った。
ティナのすみれ色の瞳が、いたずらっぽくきらめいている。
( 秘密の場所……もしかしたら、そこにこの子の保護者がいるのかもしれないわ)
きっと、はぐれてしまって探しているに違いない。小さな子はパニックになりやすいから、できるだけ調子を合わせたほうがいいとマルタも言っていた。
このまま一人でいたら、危険だ。
そう判断したフィオレッタは、ひとまずティナについて行くことにした。
「それじゃあ、ティナ。その秘密の場所へ案内してもらえるかしら?」
「うんっ! こっちだよ!」
ティナは片手にぬいぐるみを抱えたまま、もうひとつの手でフィオレッタの手をつかむ。
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