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32 ヴェルフリート その2
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王宮を後にし、貸し馬車に揺られて宿に着くころには、夜気がいっそう冷たくなっていた。
街の明かりが遠ざかるにつれ、胸の奥に沈んでいたざわめきが浮かび上がる。
噂、記憶、そして疑念。
どれも整理のつかないまま、心に棘のように残っている。
(……冷静になれ)
自分にそう言い聞かせながら宿の階段を上がったときだった。
廊下の奥からバタバタと足音が響き、誰かがこちらへ駆けてくる。
「あっ、ヴェルフ。早かったな」
顔を上げると、クラウスが息を切らしながらこちらへ歩いてきた。
宿に残っているはずだった彼が外へ出ていたことに、ヴェルフリートは眉をわずかに動かす。
「クラウス……? 出かけていたのか」
「ああ、まあちょっと、気になることがあってな。それより、ヴェルフに話があるんだ」
「奇遇だな。俺もお前に話がある」
言葉が完全に重なり、二人は数拍だけ見つめ合った。
「クラウスから言うか?」
「いや、まずはそちらからどうぞ」
譲り合うように一歩ずつ間合いが近づく。
だが、ヴェルフリートの表情の重さを見て、クラウスが目を細めた。
「ただ事じゃないって顔だな。部屋に入ろう」
クラウスは肩をすくめながら、借りている一室へと足を踏み入れる。その後にヴェルフリートが続いた。
「王宮で……妙な噂を聞いた」
クラウスの表情が即座に引き締まる。
廊下の静けさが、二人の間に緊張を落とした。
「噂、ですか」
「『第三王子の婚約者だった元公爵令嬢が浪費癖の悪女で、追放された』とみながそう言っていた。くだらない話だったが、その令嬢の名はフィオレッタというそうだ」
言葉を口にするたび、胸の奥が熱くなる。あの温室で見た令嬢がフィオレッタだとしたら。
「フィオとその元公爵令嬢は、もしかしたら同一人物なのではと直感で思ったんだが」
「……ああ~」
ヴェルフリート言い終えた途端、クラウスが頭を抱えるようにして、気まずげに視線を逸らした。
「クラウス?」
「いや、その……うんうん」
「お前はこのことを知っていたのか?」
低く落ちた声に、クラウスがビクリと肩を揺らした。ヴェルフリートの眉間には深い皺が寄っている。
「まさか、フィオから直接聞いたのか」
その問いの奥には、説明できない何かがあった。
胸の奥がわずかにざわつく。理由などわからない。ただ、フィオが自分ではなくクラウスを頼ったのだとしたら——それが妙に、嫌だった。
「いやいや、ちょっと待て、なんでヴェルフは怒ってるんだよ!?」
クラウスは両手をぶんぶん振り、まるで獣に遭遇したかのように後ずさった。
「威嚇すんなって! 目が怖いんだよ今の!」
「……威嚇などしていない」
「してる!! 完全に『俺を差し置いてお前に相談したのか』って目だぞ!」
思いがけず核心を突かれ、ヴェルフリートはほんのわずかだけ言葉に詰まる。
「………………違う」
「いや絶対図星だろ!?」
クラウスの叫びが部屋に響いた。
しかし、彼はすぐに真面目な顔に戻り、ひとつ息をつく。
「安心しろ。フィオ様から聞いたんじゃない。色々と気になるところがあったからオレが独自に調べて、辿り着いただけだ」
ヴェルフリートの胸に渦巻いていた妙な苛立ちは、少しだけ形をなくした。
それでも残るざらつきに、自分でも説明のつかない感情が混じっている。
「そうか」
その短い返答の奥に、わずかな安堵が滲んだのをクラウスは見逃さなかった。
「まったく……ヴェルフもわかりやすいな」
「何か言ったか?」
「いえッ! 余計なことはなんにも!」
クラウスは深く息をつき、部屋の壁にもたれながら続ける。
「ヴェルフ。奥様……フィオ様のことは、最初からずっと気になってたんだ」
「気になっていた?」
「ああ。あの人の立ち振る舞い、言葉選び、礼儀……あれはただの平民じゃ絶対に無理だろう?」
クラウスの言葉に、ヴェルフリートも静かに頷く。貴族相手でも物怖じしない凛とした姿は、ただ眩しく見えた。
「だから調べ始めたんだよ。そんでヨエルの宿屋で、あの人が王都から来たと聞いたんだ」
ヴェルフリートの眉がわずかに動く。
仮にも公爵家の令嬢だった若い娘が一人で宿屋で働く。それがどれほど信じられないことか、ヴェルフリートでも分かる。
クラウスもヴェルフリートの感情を読み取ってか、一度息をついてから続けた。
「確信したのは最近だ。ちょっと前に雇った若い文官が二人いるだろう? 王都の文官詰所から回ってきたって連中が」
「ああ。お前が引き入れたのだったな」
「この前、廊下で初めてフィオ様とすれ違ったときにあいつら、明らかにたじろいだんだよ」
「たじろいだ?」
「目を見開いて固まって、フィオ様も驚いた顔をしていた。だから、今ヴェルフの話を聞いた瞬間に、点と点が全部つながっちゃったんだよ」
「……」
クラウスの言葉に、ヴェルフリートは静かに息を吐いた。
その表情は、怒りではなく——痛みに近い何かが浮かんでいる。
「だが彼女は、あの噂話のような人間ではない」
ただそれだけ。ヴェルフリートはポツリと言葉をこぼした。
彼女と過ごした時間は長い人生においては短いが、それでも信頼をこつこつ築けていると思っている。
他ならぬティナが、全幅の信頼を寄せているのだ。語られているような悪女であるはずがない。
公爵令嬢フィオレッタ。それが彼女の正体だと知っても、心はひとつも揺れなかった。むしろ、欠けていた何かが、ひとつ腑に落ちたような感覚すらあった。
「ヴェルフならそう言うと思ってたよ」
クラウスは背筋を伸ばし、にやりとした。
「オレも同じ意見。奥様は、いい人だ。ティナ様にも優しいしな」
「……ああ」
短く返した声が、自分でも思ったより柔らかかった。
クラウスはわざとらしくため息をつくと、肘で軽くヴェルフリートの腕をつついてくる。
「できれば、この先も奥様がずーっと辺境伯領にいてくれると助かるんだけどな! なんとかできない? 領主サマ」
「……努力、する」
ぽつりと返した瞬間、自分で自分に驚いた。
胸の奥がわずかに跳ねる。
(何を言っている)
だが否定はしなかった。そうであってほしいという想いが、確かにあったからだ。
クラウスはにやりと笑い、その変化を見逃さない。
「よし、じゃあそっちはヴェルフに頑張ってもらおっと。で、オレの方から別の報告があってさ」
「なんだ?」
声が自然と低くなる。
クラウスは急に真剣な目つきになり、周りを軽く見回してから口を開いた。
「オルドフのことなんだけど」
「……オルドフだと?」
予想外の名に、ヴェルフリートは眉を寄せた。辺境伯家に父の代から勤める家令の名がここで出てくるとは思わなかった。
クラウスは頷き、続ける。
「そう。さっき外をぶらついてたら、偶然オルドフらしき男を見かけてさ。やけに人目を避けてて、それに急いでるもんだから……つい、後をつけたんだけど」
クラウスがなんてこともないように言うが、通常は気づかれないように追跡するのは難しい。
先程のフィオの調査もそうだが、クラウスにしかできない芸当だ。
「首尾はどうだった」
「おう。そしたらよくわからない建物に入っていったんだ。表向きは普通の店みたいに見えるけど、人の出入りも少なくて……なんというか、裏仕事の匂いがする」
ヴェルフリートの表情が、わずかに険しくなった。
クラウスはさらに、言葉を落とす。
「最近、オルドフの金回りが妙に良い気がしてさ。給金だけでは説明のつかない買い物や、無駄に王都へ行く回数の多さ……どうにも不自然だなーって」
「確かに。親類が病気と言っては度々休んでいるが、どうにも不自然だ」
ヴェルフリートが同意すると、クラウスも頷く。
「しばらく張ってたんだけどさ、その後でそこに立派な馬車が停まったんだよ。んで、仮面をつけた高貴そうな男が入っていった。サラサラ金髪の。殴れば吹っ飛びそうだった」
「なるほど。調べる必要があるな」
ヴェルフリートはゆっくり息を吐いた。
フィオのこと、オルドフのこと、それからフィオレッタの元婚約者だと言う第三王子のこと。調べることはたくさんありそうだ。
「クラウス。フィオの件とオルドフの件について、どちらも引き続き調査を頼めるか?」
「もちろん。オレに任せとけ!」
そうしてクラウスは、急に明るい声で肩を叩いた。
「じゃっ、暗い話はここまでだ。明日はティナ様と奥様にお土産買って帰ろうな!」
その言葉に、ヴェルフリートの胸の底がふっと温かくなる。
ティナが喜ぶ顔。フィオが少し控えめに笑う姿。
「ああ。そうだな」
早く帰りたいと、心の底からそう思った。
街の明かりが遠ざかるにつれ、胸の奥に沈んでいたざわめきが浮かび上がる。
噂、記憶、そして疑念。
どれも整理のつかないまま、心に棘のように残っている。
(……冷静になれ)
自分にそう言い聞かせながら宿の階段を上がったときだった。
廊下の奥からバタバタと足音が響き、誰かがこちらへ駆けてくる。
「あっ、ヴェルフ。早かったな」
顔を上げると、クラウスが息を切らしながらこちらへ歩いてきた。
宿に残っているはずだった彼が外へ出ていたことに、ヴェルフリートは眉をわずかに動かす。
「クラウス……? 出かけていたのか」
「ああ、まあちょっと、気になることがあってな。それより、ヴェルフに話があるんだ」
「奇遇だな。俺もお前に話がある」
言葉が完全に重なり、二人は数拍だけ見つめ合った。
「クラウスから言うか?」
「いや、まずはそちらからどうぞ」
譲り合うように一歩ずつ間合いが近づく。
だが、ヴェルフリートの表情の重さを見て、クラウスが目を細めた。
「ただ事じゃないって顔だな。部屋に入ろう」
クラウスは肩をすくめながら、借りている一室へと足を踏み入れる。その後にヴェルフリートが続いた。
「王宮で……妙な噂を聞いた」
クラウスの表情が即座に引き締まる。
廊下の静けさが、二人の間に緊張を落とした。
「噂、ですか」
「『第三王子の婚約者だった元公爵令嬢が浪費癖の悪女で、追放された』とみながそう言っていた。くだらない話だったが、その令嬢の名はフィオレッタというそうだ」
言葉を口にするたび、胸の奥が熱くなる。あの温室で見た令嬢がフィオレッタだとしたら。
「フィオとその元公爵令嬢は、もしかしたら同一人物なのではと直感で思ったんだが」
「……ああ~」
ヴェルフリート言い終えた途端、クラウスが頭を抱えるようにして、気まずげに視線を逸らした。
「クラウス?」
「いや、その……うんうん」
「お前はこのことを知っていたのか?」
低く落ちた声に、クラウスがビクリと肩を揺らした。ヴェルフリートの眉間には深い皺が寄っている。
「まさか、フィオから直接聞いたのか」
その問いの奥には、説明できない何かがあった。
胸の奥がわずかにざわつく。理由などわからない。ただ、フィオが自分ではなくクラウスを頼ったのだとしたら——それが妙に、嫌だった。
「いやいや、ちょっと待て、なんでヴェルフは怒ってるんだよ!?」
クラウスは両手をぶんぶん振り、まるで獣に遭遇したかのように後ずさった。
「威嚇すんなって! 目が怖いんだよ今の!」
「……威嚇などしていない」
「してる!! 完全に『俺を差し置いてお前に相談したのか』って目だぞ!」
思いがけず核心を突かれ、ヴェルフリートはほんのわずかだけ言葉に詰まる。
「………………違う」
「いや絶対図星だろ!?」
クラウスの叫びが部屋に響いた。
しかし、彼はすぐに真面目な顔に戻り、ひとつ息をつく。
「安心しろ。フィオ様から聞いたんじゃない。色々と気になるところがあったからオレが独自に調べて、辿り着いただけだ」
ヴェルフリートの胸に渦巻いていた妙な苛立ちは、少しだけ形をなくした。
それでも残るざらつきに、自分でも説明のつかない感情が混じっている。
「そうか」
その短い返答の奥に、わずかな安堵が滲んだのをクラウスは見逃さなかった。
「まったく……ヴェルフもわかりやすいな」
「何か言ったか?」
「いえッ! 余計なことはなんにも!」
クラウスは深く息をつき、部屋の壁にもたれながら続ける。
「ヴェルフ。奥様……フィオ様のことは、最初からずっと気になってたんだ」
「気になっていた?」
「ああ。あの人の立ち振る舞い、言葉選び、礼儀……あれはただの平民じゃ絶対に無理だろう?」
クラウスの言葉に、ヴェルフリートも静かに頷く。貴族相手でも物怖じしない凛とした姿は、ただ眩しく見えた。
「だから調べ始めたんだよ。そんでヨエルの宿屋で、あの人が王都から来たと聞いたんだ」
ヴェルフリートの眉がわずかに動く。
仮にも公爵家の令嬢だった若い娘が一人で宿屋で働く。それがどれほど信じられないことか、ヴェルフリートでも分かる。
クラウスもヴェルフリートの感情を読み取ってか、一度息をついてから続けた。
「確信したのは最近だ。ちょっと前に雇った若い文官が二人いるだろう? 王都の文官詰所から回ってきたって連中が」
「ああ。お前が引き入れたのだったな」
「この前、廊下で初めてフィオ様とすれ違ったときにあいつら、明らかにたじろいだんだよ」
「たじろいだ?」
「目を見開いて固まって、フィオ様も驚いた顔をしていた。だから、今ヴェルフの話を聞いた瞬間に、点と点が全部つながっちゃったんだよ」
「……」
クラウスの言葉に、ヴェルフリートは静かに息を吐いた。
その表情は、怒りではなく——痛みに近い何かが浮かんでいる。
「だが彼女は、あの噂話のような人間ではない」
ただそれだけ。ヴェルフリートはポツリと言葉をこぼした。
彼女と過ごした時間は長い人生においては短いが、それでも信頼をこつこつ築けていると思っている。
他ならぬティナが、全幅の信頼を寄せているのだ。語られているような悪女であるはずがない。
公爵令嬢フィオレッタ。それが彼女の正体だと知っても、心はひとつも揺れなかった。むしろ、欠けていた何かが、ひとつ腑に落ちたような感覚すらあった。
「ヴェルフならそう言うと思ってたよ」
クラウスは背筋を伸ばし、にやりとした。
「オレも同じ意見。奥様は、いい人だ。ティナ様にも優しいしな」
「……ああ」
短く返した声が、自分でも思ったより柔らかかった。
クラウスはわざとらしくため息をつくと、肘で軽くヴェルフリートの腕をつついてくる。
「できれば、この先も奥様がずーっと辺境伯領にいてくれると助かるんだけどな! なんとかできない? 領主サマ」
「……努力、する」
ぽつりと返した瞬間、自分で自分に驚いた。
胸の奥がわずかに跳ねる。
(何を言っている)
だが否定はしなかった。そうであってほしいという想いが、確かにあったからだ。
クラウスはにやりと笑い、その変化を見逃さない。
「よし、じゃあそっちはヴェルフに頑張ってもらおっと。で、オレの方から別の報告があってさ」
「なんだ?」
声が自然と低くなる。
クラウスは急に真剣な目つきになり、周りを軽く見回してから口を開いた。
「オルドフのことなんだけど」
「……オルドフだと?」
予想外の名に、ヴェルフリートは眉を寄せた。辺境伯家に父の代から勤める家令の名がここで出てくるとは思わなかった。
クラウスは頷き、続ける。
「そう。さっき外をぶらついてたら、偶然オルドフらしき男を見かけてさ。やけに人目を避けてて、それに急いでるもんだから……つい、後をつけたんだけど」
クラウスがなんてこともないように言うが、通常は気づかれないように追跡するのは難しい。
先程のフィオの調査もそうだが、クラウスにしかできない芸当だ。
「首尾はどうだった」
「おう。そしたらよくわからない建物に入っていったんだ。表向きは普通の店みたいに見えるけど、人の出入りも少なくて……なんというか、裏仕事の匂いがする」
ヴェルフリートの表情が、わずかに険しくなった。
クラウスはさらに、言葉を落とす。
「最近、オルドフの金回りが妙に良い気がしてさ。給金だけでは説明のつかない買い物や、無駄に王都へ行く回数の多さ……どうにも不自然だなーって」
「確かに。親類が病気と言っては度々休んでいるが、どうにも不自然だ」
ヴェルフリートが同意すると、クラウスも頷く。
「しばらく張ってたんだけどさ、その後でそこに立派な馬車が停まったんだよ。んで、仮面をつけた高貴そうな男が入っていった。サラサラ金髪の。殴れば吹っ飛びそうだった」
「なるほど。調べる必要があるな」
ヴェルフリートはゆっくり息を吐いた。
フィオのこと、オルドフのこと、それからフィオレッタの元婚約者だと言う第三王子のこと。調べることはたくさんありそうだ。
「クラウス。フィオの件とオルドフの件について、どちらも引き続き調査を頼めるか?」
「もちろん。オレに任せとけ!」
そうしてクラウスは、急に明るい声で肩を叩いた。
「じゃっ、暗い話はここまでだ。明日はティナ様と奥様にお土産買って帰ろうな!」
その言葉に、ヴェルフリートの胸の底がふっと温かくなる。
ティナが喜ぶ顔。フィオが少し控えめに笑う姿。
「ああ。そうだな」
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