婚約破棄されたら、辺境伯とお試し結婚することになりました

ミズメ

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31 ヴェルフリート その1

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***

 その日、辺境伯ヴェルフリートは、招かれた夜会で会場の端に立っていた。

 王都の夜は、光が多すぎる。なにもかもが華美で、必要以上に飾り立てられている。

(まったく、貴族というものは面倒だな)

 肩章も紋章も最小限。軍服のような礼装は、きらめく燕尾の群れの中で目立つのか目立たないのか、自分でも判断しかねる。

 必要があって出席はしたが、長居をするつもりはない。挨拶を済ませれば、すぐに宿へ戻るつもりだった。

 フィオとの結婚誓約書については、無事に処理されていた。それを嗅ぎつけたらしい王太子に呼び出され、夜はこうして夜会に参加させられている。

 古くからの友人でもある。ティナとフィオを置いて来ることになるため悩んだが、新たに辺境伯となったからには少なくとも一回は顔を出せというお達しだった。

「おお~これはこれは辺境伯殿、王都は久しぶりですかな?」
「そうですね。滞在期間は短いですが」
「さすがご多忙だ。ところで噂はお耳になりましたかな?」
「噂……?」

 傍に来た貴族の男が、杯を持ったまま目だけで近くの輪を示す。そこでは、赤い羽飾りの婦人たちが、楽しげに囁きを交わしていた。

「元公爵令嬢のことをご存知? ほら、悪名高い——」
「フィオレッタ様でしょう? 浪費癖で家を傾けた上に、殿下を振り回したとか」
「あら、わたくしは国のお金に手をつけたと聞きましたわ。文官たちの給与を横領していたとか」
「全て露見して最後は追放、でしょう? あれだけ澄ました顔をしていたんだもの、それくらい仕方がないわね」
「身から出た錆というやつですわね」

 ふわり、と笑いが弾ける。砂糖をまぶした菓子のように軽やかな笑いだ。だが、その軽さが彼の耳にはひどく重かった。

 元公爵令嬢。悪女。追放。すでにそれだけで、喉の奥が固くなる。

「それでね、聞いた? カジノ通いの話」
「ええ、夜明けまで賭け札を切っていたんですって。しかも支払いは婚約者の勘定。おそろしいわ」

 また笑いが生まれる。嘲るように口角を上げる者も、眉だけを楽しげに歪める者もいた。誰もが、自分の足元が揺らぐことはないと信じ切った顔をしている。

 ヴェルフリートは杯を卓に戻した。葡萄酒には口をつけていない。
 喉が渇いているのに、何も飲み込める気がしない。

(くだらない)

 そう心の中で呟いた声は、思ったよりも荒かった。

「失礼する」

 彼は群れから半歩退いた。壁際の柱の陰に寄り、空気を変えるように深く息を吸う。鼻の奥に残る甘い匂いが、さらに苛立ちを煽る。

「ルシアン殿下はどうしているのかしら」
「まあ、妹がその座に収まったというじゃない」
「あらあら」

 その名が出た瞬間、周囲の笑いが一段濃くなる。彼らの愉悦は、他人の不幸に甘い砂糖を振りかけるときに最も輝く。王都では、それを社交と呼ぶのだろう。

 扉の外に出れば、ひやりとした夜気が頬に触れてようやく息をつくことができた。

(もう十分だろう、ティナとフィオはどうしているだろうか)

 ヴェルフリートの脳裏にティナの笑顔が浮かぶ。花冠を編む小さな指。くしゃりと笑って「フィオおねえちゃま、おひめさまだよ」と言った声。
 そしてその横に、まっすぐ座って彼を見上げていたフィオ。

 彼女は他の令嬢たちのように不躾な視線をヴェルフリートに向けることはない。
 「綺麗だ」と伝えたら、いつも冷静なその頬に朱が差して愛らしかった。

 そんなことを考えながら息をついたところで、背後から軽い足音が響いた。

「やあ、やっぱり外にいたか。相変わらず帰りが早いな、ヴェルフ」

 聞き慣れた声に振り返ると、王太子セドリックが片手を上げて立っていた。
 金の髪を乱し気味に、気取らない笑みを浮かべている。

「殿下。ご無沙汰しております」
「まったくだ。まさかお前が結婚するとは思ってもいなかったよ。しかも平民の娘だと聞いて驚いたぞ。どこかの令嬢を押し付けられるのかと思っていたのにな」

 からかうような口ぶりに、ヴェルフリートは軽く息を吐いた。
 反論も否定もせず、静かに言葉を返す。

「おかげで、今夜は不快な噂話ばかり耳にしました。失礼ながら、少し気分が悪くなりまして」
「ははっ、変わらないな。お前らしいよ」

 セドリックは愉快そうに笑う。
 どこか兄のような眼差しを向けながら、肩をぽんと叩いた。

「まあ、来てくれただけで十分だ。こういう場は、私だって好きじゃない。——帰るなら、この廊下をまっすぐ行け。左に曲がると厨房だぞ」
「心得ています」
「前もそう言って、王妃の庭園に迷い込んだだろう? ロズベルト家でも奥まった場所にいたと聞いたぞ」
「……」
「やっぱり変わってないな、迷子の達人」
「ご忠告感謝します。真っ直ぐ進みます」
「はははっ」

 セドリックの笑い声を背に、ヴェルフリートは回廊を歩き出す。
 その言葉に導かれるように、今まで思い出しもしなかったその光景が鮮明に頭に浮かんだ。

 ——数ヶ月前、ロズベルト侯爵家の茶会に招かれたときのことだ。
 会場を抜けたつもりが、気づけば温室に迷い込んでいた。陽光を透かすガラスの中で、男に絡まれている女性を見かけた。

 思わず足が動き、気づけば相手の腕をねじ上げていた。フィオのような美しい赤い髪が、光を受けて揺れていた。緑の瞳は怯えたようにしながらも、まっすぐ凛としていた。

 立ち去り際に「迷子には気をつけろ」とだけ言って、そのまま去ったのだが。

(……フィオ?)

 赤髪と、意思のある瞳。その女性を知っている気がした。
 だがあれは貴族のお茶会だ。ロズベルト侯爵家は中立の家門であるから、顔をつないでおくのがいいと言われて参加した。

 だったら、あの場に招かれている女性は、貴族令嬢のはずだ。
 だが、ヴェルフリートの知るフィオはそうではない。しかし、隠しきれない品格があるのはわかっていた。

「くそっ、どういうことだ……?」

 どうして今まで思い出さなかったのだ、と自分自身に悪態をつく。
 すべてが線でつながっていくような、不思議な感覚だ。

 彼女がいつもどこか諦めていて、一歩引いている気がするのは、このせいなのか。


 まもなく最初の期限が来ることは分かっていて、ヴェルフリートはまたフィオに城にいてほしいと頭を下げるつもりだった。この予定が入らなければ、すぐにそうするつもりだったのに。

 
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