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43 だいじなひと
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王家の紋章入りの馬車の扉が、ぎい、と音を立てて開いた。
中から現れたのは、濃紺の礼服に身を包んだ男だった。胸元には監察局の紋章を模したブローチが光っている。整えられた口髭に、冷たい湖面のような灰色の瞳。
「なぜこんなところに監察局が……?」
フィオレッタが小さく息を呑む横で、周囲の人々がざわりと声を潜めた。
「なんでこんなところに役人が?」
「何かあったのか……?」
男の後ろから、同じ紺色の制服を着た従者が数名降りてくる。彼らの動きは無駄がなく、広場の中央を空けるよう人々を静かに下がらせていった。
「ティナ、こっちへ」
フィオレッタはティナの肩にそっと手を置き、人波から少し離れた噴水のそばへ移動する。様子をうかがおうとした瞬間、その灰色の瞳がまっすぐこちらを射抜いてきた。
「グラシェル公爵家元令嬢、フィオレッタ・グラシェルだな」
広場に、よく通る声が響く。
ざわめきが、一瞬で静まり返る。
(今、私の名前を)
思わず背筋が強張る。
男は一礼だけは欠かさず、しかし微塵も笑わないまま続けた。
「貴女がエルグランド辺境伯領に潜伏中との報を受け、王都より派遣されました。監察局所属の調査官トーマスと申します」
丁寧な言葉遣いなのに、そこには冷たい空気が滲んでいる。
フィオレッタはティナの小さな手を握りしめ、静かに一歩後ろに下がった。
「ああ。そういえばこちらでは『フィオ』と名乗っているそうですね」
ここで否定しても意味がないとすぐに分かった。迷いなくフィオレッタの方に進んでくるその足取りは確かなものだ。
「フィオおねえちゃま……」
ティナの瞳が不安に揺れている。フィオレッタは彼女を安心させるためにそっと頭を撫でて、それから高圧的な調査官に向き直った。
「私に、王都からわざわざ何のご用でしょうか」
男は手にしていた巻紙を広げた。上部には見慣れた王家の紋章と、鮮やかな朱の印章が押されている。
「フィオレッタ・グラシェル前令嬢。あなたを、公金の私的流用の容疑により拘束いたします」
広場にはっきりとした言葉が通り、空気が凍った。
「こ、公金……?」
誰かが小声で繰り返した。すぐそばで、屋台の主人が手にしていた布袋を落とす音がする。
「お待ちください。私は公金に関わるような立場ではありません。王都でも辺境伯家でも——」
「王都に送られた告発状には、こうあります」
調査官の声は終始穏やかだ。だが、言葉の端々に「どうせ言い逃れだろう」という色が混じっている。
男は巻紙の一枚を抜き取ると、わざとらしく咳払いをした。
「『グラシェル公爵家を追放された悪女が、辺境伯家に取り入り、領主を惑わせております』」
悪女、という単語が、広場にじくりと滲むように響く。フィオレッタは唇をきゅっと結んだ。背後で領民たちがざわめくのを、はっきりと感じる。
「『領主不在の折に帳簿を改変し、自身の趣味嗜好に公金を流用している疑いが濃い。放置すれば辺境伯家及び王家の威信にもかかわる』と」
淡々と読み上げられる文面。そこに並ぶ言葉は、あまりにも悪意に満ちていた。
(オルドフ……あの言葉はそういうことだったのね)
書庫から立ち去る際、彼は捨て台詞を述べていた。それに王都にも滞在していた。そのとき、こうやって密告したのだろう。なにもかも根拠がなく、そして彼の罪を被せるためのものだ。すべてが一本の線で繋がっていく。
「告発の首謀者については申し上げませんが、信頼ある家臣が身を賭して告発した。重く見ないわけにはいきません」
調査官の灰色の瞳は、冷ややかな勝ち誇りを宿している。
「もちろん、すでに王都でもあなたの噂は有名ですな。辺境なら上手くいくとお思いでしたか?」
その挑発めいた一言に、胸の奥がひやりと冷える。
だが、フィオレッタは俯かなかった。むしろ背筋を伸ばし、王都の貴族として培ってきた矜持を静かに纏い、まっすぐ調査官を見返す。
「その噂は虚偽ですもの。私が行ったことではございません」
声は震えていない。凛と澄んでいる。
「私は、私の行いに一点のやましさもございません。陰口や悪意で歪められた虚像に、弁明する必要も感じませんわ」
その言葉は、言い訳でも反論でもなかった。ただひとりの人間として、誇りを持って立つ者の宣言だった。
周囲でひそめていた人々のざわめきが、わずかに静まる。
トーマスは目を細め、薄い笑みを浮かべた。
「——ほう。存外、強いお方だ。しかし、身に覚えがあるかどうかを判断するのは、あなたではなく王都の調査です」
調査官は微笑みさえ浮かべた。礼儀正しいその笑みは、氷より冷たい。
「『一見、領地のためを思うような行動を取りつつ、裏では己の利益のために数字を操る女』だと告発状にも書いてありましたのでね」
その瞬間、フィオレッタの中で何かがすっと冷えた。ここで何を言っても、この男ははじめから結論を決めている。
(私の話を聞く気などない人だわ。両親やルシアン殿下と同じ)
悔しさよりも、静かな諦めが胸の奥をかすめる。
周囲で見守っていた人々の間にも、不安の色が広がり始めていた。
顔見知りのパン屋の夫婦、宿屋の女将マルタの姿も見える。皆、固い表情で様子を見ている。
「では、どうしたらいいというのでしょう」
調査官が軽く右手を上げると、後ろの騎士たちが一歩前へ進み出た。
剣の柄に手を添え、フィオレッタを囲むように配置を変える。そしてそれに対抗するように、辺境伯家の騎士がフィオレッタとティナを守るように立ち塞がる。
「な、なんですか、お前たちは。我々は王家の命により、あなたを一時拘束し、王都まで同行していただきます。抵抗するならお前らも同罪だぞ!」
「お待ちください」
フィオレッタは一歩前に出て、王家の騎士たちを見回す。
「無関係の民が大勢いるこの場所で剣を手にするおつもりですか? 私は、この場で暴れるつもりはありません。ここにはティナもいますし、町の皆さんに危険が及ぶことは望みません」
騎士たちの手が、わずかに柄から離れる。調査官も、細い眉をわずかに持ち上げた。
「それは賢明なご判断です」
「ただ一つだけ、確認させてください」
フィオレッタは静かに息を吸った。
「この件について、ヴェルフリート様——エルグランド辺境伯のご意思はあるのでしょうか」
調査官の視線が、微かに冷たさを増す。
「領主閣下には、おって王都からの通達が行くでしょう。あなたを拘束し、調査に協力を仰ぐこと。それが王命です」
「つまり、あの方の意思はここにはない、ということですね」
「王命の前に、個人の意思は関係がありません」
言下に切り捨てられる。
調査官は広場の人々へ向き直り、よく通る声で告げた。
「王家の権威のもとに行う正当な手続きです。皆さま、ご協力をお願い致します。——さあ、フィオレッタ様」
再び、騎士の一人がフィオレッタの腕に手を伸ばした。
その瞬間、きゅっと、掌に小さな力がこもる。
「フィオおねえちゃま……」
見下ろせば、ティナが大きな瞳でこちらを見上げている。
唇を噛みしめ、今にも泣き出しそうな顔。
「ティナ。大丈夫よ」
できる限り柔らかい声で告げる。
本当は、自分でも大丈夫と言い切れる状況ではないのに、それでもこの子の前だけでは不安を出したくなかった。
「少しだけ、王都に行って話をしてくるわ。そうしたらすぐに——」
言い終える前に、ティナはフィオレッタの腕を離した。
くるりと身体の向きを変え、調査官と騎士たちの前へと、小さな体で飛び出していく。
「ティナ!」
呼び止める声も聞こえないかのように、ティナは両手を広げてフィオレッタの前に立ちふさがった。
その背中は、震えているのに、まっすぐだった。
「フィオおねえちゃまを、つれていかないで!」
張り裂けそうな声が、広場に響き渡る。
「わるいひとじゃないもん! フィオおねえちゃまは、やさしくてつよくてかっこいい……ティナのだいじなひとなんだから!!」
中から現れたのは、濃紺の礼服に身を包んだ男だった。胸元には監察局の紋章を模したブローチが光っている。整えられた口髭に、冷たい湖面のような灰色の瞳。
「なぜこんなところに監察局が……?」
フィオレッタが小さく息を呑む横で、周囲の人々がざわりと声を潜めた。
「なんでこんなところに役人が?」
「何かあったのか……?」
男の後ろから、同じ紺色の制服を着た従者が数名降りてくる。彼らの動きは無駄がなく、広場の中央を空けるよう人々を静かに下がらせていった。
「ティナ、こっちへ」
フィオレッタはティナの肩にそっと手を置き、人波から少し離れた噴水のそばへ移動する。様子をうかがおうとした瞬間、その灰色の瞳がまっすぐこちらを射抜いてきた。
「グラシェル公爵家元令嬢、フィオレッタ・グラシェルだな」
広場に、よく通る声が響く。
ざわめきが、一瞬で静まり返る。
(今、私の名前を)
思わず背筋が強張る。
男は一礼だけは欠かさず、しかし微塵も笑わないまま続けた。
「貴女がエルグランド辺境伯領に潜伏中との報を受け、王都より派遣されました。監察局所属の調査官トーマスと申します」
丁寧な言葉遣いなのに、そこには冷たい空気が滲んでいる。
フィオレッタはティナの小さな手を握りしめ、静かに一歩後ろに下がった。
「ああ。そういえばこちらでは『フィオ』と名乗っているそうですね」
ここで否定しても意味がないとすぐに分かった。迷いなくフィオレッタの方に進んでくるその足取りは確かなものだ。
「フィオおねえちゃま……」
ティナの瞳が不安に揺れている。フィオレッタは彼女を安心させるためにそっと頭を撫でて、それから高圧的な調査官に向き直った。
「私に、王都からわざわざ何のご用でしょうか」
男は手にしていた巻紙を広げた。上部には見慣れた王家の紋章と、鮮やかな朱の印章が押されている。
「フィオレッタ・グラシェル前令嬢。あなたを、公金の私的流用の容疑により拘束いたします」
広場にはっきりとした言葉が通り、空気が凍った。
「こ、公金……?」
誰かが小声で繰り返した。すぐそばで、屋台の主人が手にしていた布袋を落とす音がする。
「お待ちください。私は公金に関わるような立場ではありません。王都でも辺境伯家でも——」
「王都に送られた告発状には、こうあります」
調査官の声は終始穏やかだ。だが、言葉の端々に「どうせ言い逃れだろう」という色が混じっている。
男は巻紙の一枚を抜き取ると、わざとらしく咳払いをした。
「『グラシェル公爵家を追放された悪女が、辺境伯家に取り入り、領主を惑わせております』」
悪女、という単語が、広場にじくりと滲むように響く。フィオレッタは唇をきゅっと結んだ。背後で領民たちがざわめくのを、はっきりと感じる。
「『領主不在の折に帳簿を改変し、自身の趣味嗜好に公金を流用している疑いが濃い。放置すれば辺境伯家及び王家の威信にもかかわる』と」
淡々と読み上げられる文面。そこに並ぶ言葉は、あまりにも悪意に満ちていた。
(オルドフ……あの言葉はそういうことだったのね)
書庫から立ち去る際、彼は捨て台詞を述べていた。それに王都にも滞在していた。そのとき、こうやって密告したのだろう。なにもかも根拠がなく、そして彼の罪を被せるためのものだ。すべてが一本の線で繋がっていく。
「告発の首謀者については申し上げませんが、信頼ある家臣が身を賭して告発した。重く見ないわけにはいきません」
調査官の灰色の瞳は、冷ややかな勝ち誇りを宿している。
「もちろん、すでに王都でもあなたの噂は有名ですな。辺境なら上手くいくとお思いでしたか?」
その挑発めいた一言に、胸の奥がひやりと冷える。
だが、フィオレッタは俯かなかった。むしろ背筋を伸ばし、王都の貴族として培ってきた矜持を静かに纏い、まっすぐ調査官を見返す。
「その噂は虚偽ですもの。私が行ったことではございません」
声は震えていない。凛と澄んでいる。
「私は、私の行いに一点のやましさもございません。陰口や悪意で歪められた虚像に、弁明する必要も感じませんわ」
その言葉は、言い訳でも反論でもなかった。ただひとりの人間として、誇りを持って立つ者の宣言だった。
周囲でひそめていた人々のざわめきが、わずかに静まる。
トーマスは目を細め、薄い笑みを浮かべた。
「——ほう。存外、強いお方だ。しかし、身に覚えがあるかどうかを判断するのは、あなたではなく王都の調査です」
調査官は微笑みさえ浮かべた。礼儀正しいその笑みは、氷より冷たい。
「『一見、領地のためを思うような行動を取りつつ、裏では己の利益のために数字を操る女』だと告発状にも書いてありましたのでね」
その瞬間、フィオレッタの中で何かがすっと冷えた。ここで何を言っても、この男ははじめから結論を決めている。
(私の話を聞く気などない人だわ。両親やルシアン殿下と同じ)
悔しさよりも、静かな諦めが胸の奥をかすめる。
周囲で見守っていた人々の間にも、不安の色が広がり始めていた。
顔見知りのパン屋の夫婦、宿屋の女将マルタの姿も見える。皆、固い表情で様子を見ている。
「では、どうしたらいいというのでしょう」
調査官が軽く右手を上げると、後ろの騎士たちが一歩前へ進み出た。
剣の柄に手を添え、フィオレッタを囲むように配置を変える。そしてそれに対抗するように、辺境伯家の騎士がフィオレッタとティナを守るように立ち塞がる。
「な、なんですか、お前たちは。我々は王家の命により、あなたを一時拘束し、王都まで同行していただきます。抵抗するならお前らも同罪だぞ!」
「お待ちください」
フィオレッタは一歩前に出て、王家の騎士たちを見回す。
「無関係の民が大勢いるこの場所で剣を手にするおつもりですか? 私は、この場で暴れるつもりはありません。ここにはティナもいますし、町の皆さんに危険が及ぶことは望みません」
騎士たちの手が、わずかに柄から離れる。調査官も、細い眉をわずかに持ち上げた。
「それは賢明なご判断です」
「ただ一つだけ、確認させてください」
フィオレッタは静かに息を吸った。
「この件について、ヴェルフリート様——エルグランド辺境伯のご意思はあるのでしょうか」
調査官の視線が、微かに冷たさを増す。
「領主閣下には、おって王都からの通達が行くでしょう。あなたを拘束し、調査に協力を仰ぐこと。それが王命です」
「つまり、あの方の意思はここにはない、ということですね」
「王命の前に、個人の意思は関係がありません」
言下に切り捨てられる。
調査官は広場の人々へ向き直り、よく通る声で告げた。
「王家の権威のもとに行う正当な手続きです。皆さま、ご協力をお願い致します。——さあ、フィオレッタ様」
再び、騎士の一人がフィオレッタの腕に手を伸ばした。
その瞬間、きゅっと、掌に小さな力がこもる。
「フィオおねえちゃま……」
見下ろせば、ティナが大きな瞳でこちらを見上げている。
唇を噛みしめ、今にも泣き出しそうな顔。
「ティナ。大丈夫よ」
できる限り柔らかい声で告げる。
本当は、自分でも大丈夫と言い切れる状況ではないのに、それでもこの子の前だけでは不安を出したくなかった。
「少しだけ、王都に行って話をしてくるわ。そうしたらすぐに——」
言い終える前に、ティナはフィオレッタの腕を離した。
くるりと身体の向きを変え、調査官と騎士たちの前へと、小さな体で飛び出していく。
「ティナ!」
呼び止める声も聞こえないかのように、ティナは両手を広げてフィオレッタの前に立ちふさがった。
その背中は、震えているのに、まっすぐだった。
「フィオおねえちゃまを、つれていかないで!」
張り裂けそうな声が、広場に響き渡る。
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