保険はミカタ?

はまだかよこ

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保険はミカタ?

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 連日の「真夏日報道」も収まり、やっと涼風が立ち始めたある日、郵便受けに私宛の茶封筒を見つけた。自動車保険会社からだった。
 『今回の事故で、膵胆管合流異常の手術に対して保険金のお支払いはできません』
 それは何とも素っ気ないものだった。既に交通事故から八ヶ月が経っていた。
 もやもやとした気持ちのまま文面から目を離すと、あの寒い朝の光景がよみがえってきた。
  
  突然の衝撃!車の後部座席にいた私の目の前いっぱいに青いものが突っ込んできた。ガラスの破片が降りかかって,一瞬記憶が途切れた。
「痛い!痛い!」
 自分の声を遠くに感じながら、近づいてくる救急車の音を聞いていた。

 救急病院の診察室で、真っ青になって駆けつけた夫から話を聞き、何が起こったのかおぼろげに分かった。
 交差点に進入した時に、信号無視の軽トラックが左から突っ込んで来たらしい。
 背骨三か所と肋骨全部の骨折、血気胸で絶対安静との診断を受け、即入院。運転していた娘婿が軽傷ですんだのはせめてもの救いだった。
 痛いし、身動きできないし、家の中はきっとぐちゃぐちゃだろうしと、頭の中で泥の渦がまいていた。じたばたしてもどうしようもなく、白い天井の碁盤目をひたすら数えた。

 一週間が過ぎ、大きなコルセットをはめてならベッドから起き上がれるようになったその日、激しい腹痛に襲われた。医師も首をかしげるばかりで、あれやこれやの検査。絶食絶水の二週間が過ぎた。結果、ついた病名は、膵胆管合流異常症。
 そう言えば、思い出した。二十数年前、近所のかかりつけ医師から、先天性の胆管の形成異常と指摘されていた。その後、ずっと診てもらっていたがなんの異常もなく、年に一度の検査結果も良好で、元気に暮らしていたのだ。事故の衝撃で胆汁が逆流し合流異常を起こしたのだろうという見立てだった。手術の必要ありとのことで、医大附属病院へ転院が決まり、ベッド待ちで絶食絶水のまま、二週間が過ぎていった。

 何もできず、不安と焦燥で天井の碁盤目も黒や紫に揺れていた。
 やっとたどりついた医大でも、また検査検査。整形医からストップがかかり、手術の日がなかなか決まらない。管から出てくる真っ黒な自分の胆汁をながめているしかなかった。
 夜、洗面所の鏡に映ったモノを見て思わず叫びそうになり、口を押えた。その妖怪は、白髪振り乱しガリガリに痩せさらばえていた。痛くてだるくて眠れない。そんな苛立ちを毎日見舞ってくれる夫にぶつけた。理屈の通らない無理難題である。初めて、自分がどんなに堪え性がなくてダメ人間かを思い知った。
 

 窓から春の陽が射しこんだ朝、手術室に向かった。そして、胆嚢と胆管を切除した。麻酔が覚めてもせん妄が起こり怪しげなことを口走っていたそうだ。しばらくは、お腹の傷を分厚いガーゼで覆い、大きなコルセットをつけた管だらけの体を、点滴棒にすがってよろよろと運んだのだった。

 
 封筒を握りしめたまま、はっと我に返り、その文をもう一度読んだ。とうてい納得できる内容ではなかった。
 夫は、猛烈に怒り奮起した。本来なら弁護士に依頼するようだが、知り合いの行政書士に相談することにした。Tさんという交通事故賠償に詳しい温厚で信頼できる方だ。
 夫はTさんに相談をし、アドバイスによって保険会社に質問状を送った。
 しかし、何日も待った書面回答は、『医大から胆管の手術は今回の事故との関連性は極めて低いとの連絡があった。救急病院と見解が違ったので、顧問医の見解を採用する。もともと持っていた私病がたまたま悪化しただけと考えられる』というものであった。

 大量の書類を準備した夫が、面談を申し込んだ。しかし、保険会社は頑として譲らず、
『お答えできません』のみ。予告なく診療費の支払いも打ち切られた。

 退院する直前、主治医はベッドの私を見下ろして平坦な口調で言った。
「これからも何度も熱が出るかもしれません。これはあなたの宿命です」
 その予言通り、何度も高熱を出しながら夏を乗り越え、通院が続いているのにもかかわらずだ。不信感は大きくなるばかりであった。

 Tさんの
「こちらはなんの過失もない被害者です。なんとか認めさせたいと思います。がんばりましょう」
 という言葉に励まされて、夫も私も本を読み、パソコンで色々調べていた。被害者が証明しなければ賠償請求は認められないことを知った。そして、それはものすごく長い道のりであることも。

 かかりつけ医は同情して下さった。
「おかしいなあ。あなたになんの落ち度もないよ。僕がずっと二十年以上も診てきたんだから。事故がなければ手術の必要なんてなかったよ。かわいそうやなあ。」

 そんなある日、夫とTさんがインターネットで見つけたのだ。ある大学で9月に開かれた学会での「興味ある症例」としての事例発表の論文である。10名の医師の名が列挙された論文の事例は、正に私そのものであった。難しい手術内容と数値、画像が並んだその論文は、こう結ばれていた。
 『今回我々は交通事故による多発外傷を契機として有症化した総胆管脳腫、膵胆管合流異常症の症例を経験した』
 三人は思わず目を見合わせた。保険会社へ通知した内容と全く違うことが、同じ時期に書かれている。どうしても信じられないけれど、確かな証拠になるはずだ。突破口が開けるのではないかと、消沈していた気持ちにはずみがついた。

 紆余曲折を経て、Tさんは医大の主治医にこの論文を提示して話を聞いた。前回と同様回りくどく説明していた主治医は、それを見てしぶしぶ認めた。診断書の訂正は無理なので『自動車損害賠償保険後遺障害診断書』を書いてもらうことで、Tさんは妥協した。
 
 今、自賠責保険にその書類を提出している。やはり大変そうで、東京本部にまで上がっていて、結論が出るまでまだまだ時間がかかるらしい。本音を言えば、慰謝料も大事だ。まだ続いている苦しみを償ってもらいたい。でも何よりあの不誠実な保険会社に一矢報いたいのだ。たとえちっぽけな矢でも。結果は分からないけれど、つらい毎日に、少し光が差し込んだ気がしている。


 金木犀が香ってきた。雑草ばかりの庭からでもなんだかうれしい。
「今夜は夫の大好物のサンマを焼こう。大根も酢橘もあるしね」
 などと、お腹のケロイドをなでながら考えている。事故のあと急に優しくなった夫に感謝を込めて。

   完結編 につづく
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