また、ないてる

はまだかよこ

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また、ないてる

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『ネコ立ち入り禁止 糞尿被害多く困っています』
 我が家の道を挟んだ前のお宅の塀に張り紙を見つけたのは、去年の9月のある朝のことだった。
「ネコが字読めるの?」
 そう言いながら、私は震える指で、グループラインを送信した。
 そしてすぐに、集まった5人で謝りに行ったのだ。

 8年前、2013年の初夏、近所の猫好きの主婦5人が小さなグループをつくった。近くに、野良猫に庭でエサを与えている方がいて、増えていく子猫を何とかしなければという思いからだった。50,60代のおしゃべり仲間が集まって、近所で寄付を頂いたり自分たちで出し合ったりして始めた。住宅街のごく限られた地域だけれど、たくさんの猫を捕獲、避妊手術、元に放すという活動を続けた。慌ただしい中でも、5人仲良く日が過ぎて行った。
 
 『張り紙』のお宅は、芝生をきれいに刈り込み、美しくお庭を整えておられるすてきなお家だ。
「勤めに出る前に野良猫のフンの始末をしなければならない。臭いし不衛生で、腹立たしい」
 ご主人がひどく立腹されていて、お気持ちが分かるだけに、ただただ恐縮する。
「申し訳ありません、でもあの猫は野良猫ではなく地域猫なんです」
「チ、イ、キ、ネコ?何ですか、それ」
 私たちは平身低頭して、市が配布している少し厚みのあるパンフレットを差し出した。
『人と猫の共生に関するガイドライン』
 ひとりが説明する。
「条例もできているんです。この猫たちは避妊手術もして地域でみていければと思いまして。私たち、市にも登録して活動しています」
「そんなことは知らないですよ。大事な税金をそんなつまらないことに使ってるんですか、この市は」
「トイレもいろいろ砂を置いたりしているのですがうまくいかなくて、本当に申し訳ありません」
「うちの庭に置いている撃退グッズにいくら支払ったと思いますか。野良猫なんかどこか人里離れたところへ捨ててくればいいんだ」
 謝りに謝って、猫の嫌う匂いのパックをとりあえず置いて帰ってきた。 
 きれいに手入れしている庭で野良猫がフンをしたら、それは腹立たしいだろう。心からそう思う。世の中猫嫌いの方も多いことは十分承知しているつもりだった。本当に申し訳ないと思う。でも、でもと、落ち込んでしまう。
 それから話し合って、とにかく我が家ではエサやりはしないことを決めた。
「へーちゃんたちどうするの?」
 私は小さくつぶやいた。

 へーちゃんという猫との付き合いは8年になる。グループをつくる前から走り回っていた黒っぽい三毛猫だ。我が家に『ふー』という三毛がいたので
「『ふ』の次は『へ』よね」
 と、安直に名付けた。
 そのへーちゃんが子猫を5匹生んだ。引き取れる者は引き取り、知り合いに頼んで5匹の飼い主が決まった。我が家にいるチャトラのジュンはそのときの一匹だ。
 さあいよいよ、へーちゃんの捕獲作戦開始だ。はじめてのことで緊張した。ガレージの隅に捕獲器を置き、おいしそうな匂いの唐揚げを吊るす。猫が食べようと下の網を踏んだら出口が閉まる仕組みだ。私は、よく眠れずにいた明け方、激しい鳴き声を聞いた。こわごわ見に行くと、へーちゃんが鳴き叫び暴れている。ゆれる捕獲器にシーツを被せた。朝になって、二人で車に乗せ、少し遠い猫専門病院へ運んだ。ここは破格で避妊手術をして入院もさせてくれるのだ。数日経ち、迎えに行っていつもエサをもらっているお宅の前に放した。元気になったへーちゃんは、それからもよく遊びに来たが、エサはたっぷりもらっているようで、気持ちよさそうに昼寝を終えると、さっさと帰って行った。
 ところが、4年前、エサをやっておられた方が急に亡くなられ、ノラたちは、グループの一人が主に面倒をみてくれるようになった。エサ、寝床、トイレの世話だ。
 猫も集団になると厄介だ。へーちゃんは面倒見がよく、仲間を上手にさばいていたが、ボス猫があらわれ、争いが絶えなくなってしまった。だからか、へーちゃんは、我が家にいることが長くなってきて、エサも食べるようになった。連れ合いのオスとじいさん猫とやって来ては、仲良く食べ眠った。夜はいつものお宅に帰り、朝早くからドアの前でじっと待っていた。
「はいはい待ってね。今日の缶詰おいしそうよ」
 などと、私も機嫌よくエサを与えていた。
「へーちゃん、ほらこんなに大きくなったよ」
 ガラス窓からジュンを抱いて見せても、素知らぬ顔をして通り過ぎ、大あくびをして眠った。
 そんな毎日が続いていた時の9月の『事件』だったのだ。

「へーちゃんたちどうするの?」
 私はまたつぶやいた。
「ここでもらえないと分かると何とかうちの方へ来ると思うから。時間はかかるけど仕方がないわね」
 私は、三つのエサのおわんと水入れのボールを片付け、燃えないゴミの袋を括った時、ぽたっと涙が落ちた。
 その日の夕方、いつものように庭の室外機の上で三匹が昼寝をしていた。私が洗濯物を取りに出ると、大急ぎで走って来た。目を合わさないようサササッと家に入る。それから洗濯物は二階に干すようにした。そして、用事は夫に頼み、もう庭に出ないと決めた。朝、新聞を取ろうとドアを開けると、へーちゃんが寄って来てニャーニャーとないた。無視して素早く入る。ドアの前でずっと待っていたようだ。
(ああつらい。ドアを開けたくない。ほんのちょっとだけエサをやってみようか。いやだめだめ。みんなに迷惑がかかる)
 出かけようとしてそっとドアを開けると、へーちゃんがどこからか走って来る。ミャーミャー必死になき叫ぶ。私が泣きたい。
(早くご飯用意しているうちがあるから行って。へーちゃん覚えてるでしょ。元のおうちだよ)
 目を合わさないように声に出さないように話しかける。外出先から戻って来ると、遠くから走って来てなき叫ぶ。無視してドアを閉める。

 あれから一年が過ぎ、へーちゃんの姿を見なくなった。グループの人によると、以前のお宅で食べて寝ているそうだ。
 やれやれと思うのとさびしいのとが入り混じる。
 人間の勝手に振り回される猫たちが哀れだ。
「ごめんね、へーちゃん、あなたの息子のジュンももう八才過ぎたよ。ちょっと腎臓悪くしてね、点滴に通ってるの。でもとっても元気だよ、安心してね」
 そう、心の中で話しかけた。
 今日、久しぶりに庭に洗濯物を干した。そして夕方、取り入れようとドアを開けた。
「あっ」
 門の所にいたへーちゃんと目が合ってしまった。大慌てで洗濯物を腕いっぱいに抱えて家に入る。か細い声でなきながら追いかけて来たへーちゃん。その声もしばらくすると聞こえなくなった。私はドアの内側でまたちょっと泣いてしまった。
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みんなの感想(2件)

tkuiko40
2021.10.24 tkuiko40

「地域猫」初めて聞いた言葉です。本当にネコがお好きなんですね(^^)
 “じゅん”の生立ち初めて知りました。

解除
tkuiko40
2021.10.24 tkuiko40

「地域猫」初めて聞きました。勉強になりました。本当にネコがお好きなんですね(^^)
 ’じゅん’の生立ちも初めて知りました。

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