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おしくら古本
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ひな子は、ぷーと頬をふくらませた。
(また私の本、隅においやられてる)
夫の直夫(ただお)は、古本集めが趣味で、気に入った本があるとうれしそうに買ってくる。それはまあ諦めているのだが、狭い家の限られたスペースで、二人の本の置き場のバトルが繰り返されているのだ。どこかの国の国境侵犯のようだ。
姫路に生まれ、大阪で就職した直夫は、もともと本は好きだったけれど、サラリーをもらうようになって、やっと好きな本が買えるようになった。
大阪阪急の古本街を歩いていたある日、ふと『飾磨郡史』が目に留まった。パラパラとめくってみると、自分の先祖(といってもたかだか江戸時代だが)の記述があるのに、胸が高鳴った。これが今に至る古本集めの最初の一歩だ。
実家のある姫路でも、店主と親しくなった店もでき、『姫路市史』とか『播磨風土記考』などといった古本を集めるのに夢中になった。
もともとコレクターの資質があったようで、とにかく全巻揃えたくてたまらない。日焼けを防ぐためにきちんと硫酸紙で包装し、本棚に並べた時の満足感は格別だった。
結婚しても、この趣味は続いた。
「まあたくさんある本で私が読みたい本一冊もないね」
とは初めて直夫の本棚を見た時のひな子の弁だ。逆に、その時の人気の本や、絵本に童話と幅広いカラフルなひな子の本棚を見ても、直夫も読みたい本はほとんどなかった。
(おあいこやな)
そう思ったが、賢明にも黙っていた。
結婚して間もない頃、こんなこともあった。
出勤する前に
「本が届くかもしれんから、受け取っておいて」
そう言うと直夫は、慌ただしく会社に向かった。
昼過ぎ、古本屋の主人が配達に来た。
「ご苦労様です」
そう言って、ひな子は少しかさのある本を受け取った。
「申し訳ありませんが代金頂戴できますか?」
「はいはい、もちろんです」
財布を持って玄関に出たひな子だったが、
「十万二千円です」
との声に顔が引きつった。
「じゅ、十万!」
青くなって赤くなったひな子は、二階に駆け上がった。たまたま高額の支払予定があった分とあちこち引き出しを開けてなんとかお金を集めた。
(なに! この薄汚い本三冊で、お給料一か月分! あの人何考えてんの)
腹を立てるより驚いたひな子だったが、
(自分のへそくりでやりくりするつもりなんだろうけど、うわ! 高すぎるやん)
帰宅して、顛末を聞いた直夫も驚いた。古本屋の店主が直接持って来るとは思ってもいなかったのだ。
(目録で注文したから、ほんとに支払ってくれるのか分からんかったからやろな。ひな子びっくりさせて悪かったけど、金額はナイショやったんやけどばれてもた)
それからだ。ひな子の古本へ向ける視線が冷たくなったのは。
どんどん増えていく本、本、本。
ひな子の目には、直夫の本は薄汚く、臭いとまでは言わないが、地味で愛らしさの微塵もないやたら分厚い本ばかりだ。
直夫の『古本熱』はどんどんヒートアップして、毎日のように『古書通信』の類が何種類も送られてきた。
直夫は、古本市にはできるだけ足を運び、三宮の大好きな古書店では、床に座り込んで目当ての本がないか探したりした。
二人の本たちが本箱でおしくらまんじゅうをしている。直夫の本は重量級だから、追いやられた本に気づくと、ひな子はむすっとする。それでも、直夫は苦労して集めた本とは別れがたい。
直夫にとって我慢がならないのは、ひな子の本の並べ方だ。作者も出版社もなんの脈絡もなくただ置いている。ひな子は読んでしまった本に何の執着もなく、直夫とは対極にある。図書館で借りることも多く、買った本も読み終えると、さっさと友だちに送ってしまう。直夫には信じられない行為だ。整理して並べてこその本だろうにと、ため息がでる。
『読んでこその本』
『集めて整理しきちんと並べたい本』
直夫とひな子は相いれない。
あるとき、ひな子がつぶやいた。
「こんなにたくさんの本、読む時間ないでしょ」
「定年退職したらゆっくり読む」
そう自信満々に答えた直夫だったが、その有り余る時間を手にした今、もう気力がない。背表紙を眺めるだけで忸怩たる想いがよぎる。
そんなとき、
「ねえ、これだけ集めて、この本は失敗やったなっていう本ある?」
「いや、この趣味全部が失敗や」
そう言って直夫は、苦笑いをした。今はインターネットで古書の注文もできる便利な時代だ。だが、一度詐欺にひっかっかった。払い込んでも届かなかったのだ。
「やられた―!」
若い頃、古書はもっと値打ちの出るものだという想いもあった。しかし、紙の本の読者が減っている時代だ。なんだかずっと壮大な詐欺にかかっていたような気分だ。
春の陽が本箱のガラス戸に反射して、『飾磨郡史』の黒い背表紙が、ムスッと苦笑いした気がした。
(また私の本、隅においやられてる)
夫の直夫(ただお)は、古本集めが趣味で、気に入った本があるとうれしそうに買ってくる。それはまあ諦めているのだが、狭い家の限られたスペースで、二人の本の置き場のバトルが繰り返されているのだ。どこかの国の国境侵犯のようだ。
姫路に生まれ、大阪で就職した直夫は、もともと本は好きだったけれど、サラリーをもらうようになって、やっと好きな本が買えるようになった。
大阪阪急の古本街を歩いていたある日、ふと『飾磨郡史』が目に留まった。パラパラとめくってみると、自分の先祖(といってもたかだか江戸時代だが)の記述があるのに、胸が高鳴った。これが今に至る古本集めの最初の一歩だ。
実家のある姫路でも、店主と親しくなった店もでき、『姫路市史』とか『播磨風土記考』などといった古本を集めるのに夢中になった。
もともとコレクターの資質があったようで、とにかく全巻揃えたくてたまらない。日焼けを防ぐためにきちんと硫酸紙で包装し、本棚に並べた時の満足感は格別だった。
結婚しても、この趣味は続いた。
「まあたくさんある本で私が読みたい本一冊もないね」
とは初めて直夫の本棚を見た時のひな子の弁だ。逆に、その時の人気の本や、絵本に童話と幅広いカラフルなひな子の本棚を見ても、直夫も読みたい本はほとんどなかった。
(おあいこやな)
そう思ったが、賢明にも黙っていた。
結婚して間もない頃、こんなこともあった。
出勤する前に
「本が届くかもしれんから、受け取っておいて」
そう言うと直夫は、慌ただしく会社に向かった。
昼過ぎ、古本屋の主人が配達に来た。
「ご苦労様です」
そう言って、ひな子は少しかさのある本を受け取った。
「申し訳ありませんが代金頂戴できますか?」
「はいはい、もちろんです」
財布を持って玄関に出たひな子だったが、
「十万二千円です」
との声に顔が引きつった。
「じゅ、十万!」
青くなって赤くなったひな子は、二階に駆け上がった。たまたま高額の支払予定があった分とあちこち引き出しを開けてなんとかお金を集めた。
(なに! この薄汚い本三冊で、お給料一か月分! あの人何考えてんの)
腹を立てるより驚いたひな子だったが、
(自分のへそくりでやりくりするつもりなんだろうけど、うわ! 高すぎるやん)
帰宅して、顛末を聞いた直夫も驚いた。古本屋の店主が直接持って来るとは思ってもいなかったのだ。
(目録で注文したから、ほんとに支払ってくれるのか分からんかったからやろな。ひな子びっくりさせて悪かったけど、金額はナイショやったんやけどばれてもた)
それからだ。ひな子の古本へ向ける視線が冷たくなったのは。
どんどん増えていく本、本、本。
ひな子の目には、直夫の本は薄汚く、臭いとまでは言わないが、地味で愛らしさの微塵もないやたら分厚い本ばかりだ。
直夫の『古本熱』はどんどんヒートアップして、毎日のように『古書通信』の類が何種類も送られてきた。
直夫は、古本市にはできるだけ足を運び、三宮の大好きな古書店では、床に座り込んで目当ての本がないか探したりした。
二人の本たちが本箱でおしくらまんじゅうをしている。直夫の本は重量級だから、追いやられた本に気づくと、ひな子はむすっとする。それでも、直夫は苦労して集めた本とは別れがたい。
直夫にとって我慢がならないのは、ひな子の本の並べ方だ。作者も出版社もなんの脈絡もなくただ置いている。ひな子は読んでしまった本に何の執着もなく、直夫とは対極にある。図書館で借りることも多く、買った本も読み終えると、さっさと友だちに送ってしまう。直夫には信じられない行為だ。整理して並べてこその本だろうにと、ため息がでる。
『読んでこその本』
『集めて整理しきちんと並べたい本』
直夫とひな子は相いれない。
あるとき、ひな子がつぶやいた。
「こんなにたくさんの本、読む時間ないでしょ」
「定年退職したらゆっくり読む」
そう自信満々に答えた直夫だったが、その有り余る時間を手にした今、もう気力がない。背表紙を眺めるだけで忸怩たる想いがよぎる。
そんなとき、
「ねえ、これだけ集めて、この本は失敗やったなっていう本ある?」
「いや、この趣味全部が失敗や」
そう言って直夫は、苦笑いをした。今はインターネットで古書の注文もできる便利な時代だ。だが、一度詐欺にひっかっかった。払い込んでも届かなかったのだ。
「やられた―!」
若い頃、古書はもっと値打ちの出るものだという想いもあった。しかし、紙の本の読者が減っている時代だ。なんだかずっと壮大な詐欺にかかっていたような気分だ。
春の陽が本箱のガラス戸に反射して、『飾磨郡史』の黒い背表紙が、ムスッと苦笑いした気がした。
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