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しおりを挟む「遅ぇ」
倫子からメールで指定された時間より五分程遅れて到着した俺にかけられたのは、一際不機嫌で、そして低い低い──男の声だった。
「……」
やけに厚い底のついた革のブーツに、黒いジーンズを履いた脚は日本人離れして長く、普通のファミレスの一席に座るには狭苦しいのか通路側に組んで投げ出されている。ソファ席ではなく椅子の席に座れば良かったのにと思ったが、奥まっていて他の席から見えにくいこの席は倫子が好きでいつも指定していた席だ。パッと見ですら分かる程度に男はかなりの美形で、サングラスでもかけていれば芸能人といわれても疑わない。
グレーのニットは服に疎い俺でもパッと見で分かる仕立ての良さで、触れなくとも滑らかで柔らかいのが見て取れた。灰色がかったくすみのある金髪は前髪もろとも後ろに流して撫で付けられ、正確な長さが分からない。こちらを睨みつける眼光は鋭く、切れ長の三白眼がさらに眇められる。深い二重はその真上の色の薄い眉と相まって、外国人かハーフなのか、純日本人顔・体型の俺のコンプレックスを刺激するには十分だった。
足先から頭の先まで眺めて、男で間違いないな、と確認してから、無言でコートのポケットからスマートフォンを取り出す。
着信履歴からは全て消してしまっていたが、彼女の電話番号は指が覚えていた。自分から電話をしようと何度も押し、そして幾度も消していた番号。まさか、主従関係が解消されてから初めてかけることになるとは。
『──こんばんわ。良い夜ね、ユギ』
数コールの後、余裕を含んだ倫子の声がスピーカーから滑り落ちてきた。
「男がいる。どういう事」
言葉少なに怒気を孕んだ俺の声に、受話器の向こうの倫子がくすくすと笑った気配がした。
『あら、書かなかったかしら。忘れてたのね、ごめんなさい』
元は奴隷だった相手にでもさらっと謝ってしまう倫子の潔さが、しかし今は憎らしい。スピーカーモードで通話しつつ、倫子からのメールを確認すると、確かに性別は書かれていなかった。
「俺、男の相手なんて出来ない」
『男、じゃないわ。ご主人様、よ』
倫子の声が、プレイ中のそれに切り替わる。倫子の声は、不思議だ。例えるなら、水中で鳴らされるハンドベル。水の外の人間には聞こえないそれは、だが同じ水に棲む特殊な性癖の人間を誘蛾灯のごとく引き寄せる。そう、俺のような、マゾの人間を。
「でも……」
主従関係にあった過去に、彼女へ反抗の言葉を吐いた事なぞ無い。声を震わせる俺に、倫子はそれすらも電話越しに見通すように優しく。
『こういう件を安心して頼めるの、やっぱり貴方だけなのよ』
「……っ!」
『それじゃあ、よろしくね』
ズルい。いつも『どこに出しても恥ずかしい奴隷』と誉めてくれてはいたが、頼るような事を言われるのは初めてだ。息を呑んだ一瞬のうちに、通話が切られてしまった。
「話は済んだか」
俺がいきなり通話を始めたのを止めようともせず、男はコーヒーを飲みながら興味深そうにこちらを観察していた。電話を切ってすぐ、立ち上がって会計用紙を手に席を後にしようとする。
「ちょっと待って下さい、少し話をしませんか。聞いていた話と違っていて、混乱しているので」
明らかな年下に、しかし丁寧に言葉を選んで席へ戻るよう促す。彼の反応をあえて待たず、素早く対面の席へと身体を滑りこませた。いつまでも着席しない俺に、注文をとりに来るべきか迷っていたらしいウエイトレスに向けて軽く手を挙げ、「コーヒーを」と頼んでしまう。
やや強引だったか、と思いつつも笑顔を作り、不承不承といった体で立ち上がりかけた身をソファに戻す男に軽く頭を下げた。
「すみません。まずは確認なのですが、貴方のお名前は、カナメさんで間違いないですか」
「ああ。白田 要だ」
淀みなく本名であろう名を名乗ってしまう彼に、笑顔を保ちつつも内心頭を抱えた。こいつ、本気で素人だ……。
SMなんて趣味が周りにバレて、好感度が下がる事はあっても上がる事は無いだろう。お互い個人情報は極力漏らさず聞かず、がマナーの世界である。
「僕は倫子さんのお願い……命令で、貴方としばらく主従関係を結ぶようにと言われて来たのですが、男性とは聞いていなかったんです。カナメさんは聞いていたんですか?」
「僕? さっきの電話じゃ、俺って言ってなかったか。それに、口調が堅苦しい」
俺の質問を丸きり無視して、カナメと名乗った男は訝しげにこちらを睨む。
「一応、初対面ですし。これからご主人様としてお仕えするかもしれない方ですので、失礼の無いようにと思いまして」
目を細め唇の両端を上げてわざとらしい笑みを見せる。できるだけ卑屈そうに、苦笑のように、しかし傲慢に。Mのくせに、自分は『選ぶ側』なのだと。
対面に座る彼がごくりと喉を鳴らした。それまでのこちらを見定めるような飄々とした表情から、獲物を見つけた獣のような、獰猛なそれに変わる。倫子も、関わってきた他のS達も、俺のこの笑い方がとても好きだと言っていた。嬲り壊して泣かせてみたい、そういう気分にさせるのだと。
「……倫子からのメールっての、見せてみろ」
視線を絡ませたまま、不意にカナメはそう言ってこちらに掌を向けてくる。
「どう伝えたのか、俺も興味がある」
どういう意味か測りかねる台詞に、しかしどうやら相手が同性である事は彼も承知の上らしい。初対面の相手にスマフォを預けるのも心許なく、メール画面を開いて自分の手に持ったまま相手に見えるようそちらへ手を伸ばす。
「『婚約する事になったから関係を終了します。お詫びとして、経験の浅いご主人様を紹介してあげるから好みに育てなさい。名前はカナメ。来週土曜20時』。……これだけか?」
簡潔簡素、業務連絡のような文面だが、俺はその裏の意味も読み取らねばならない。
倫子が他のご主人様を紹介する、というのは初めてではない。そして大抵が厄介な、頭でっかちでネットやエロ本の知識だけを詰め込んで自信満々でこの世界へ入ってきた、倫子曰く『犬の糞にも劣るクソサド気取り』であった。
具体的に言うなら、M女は全て強姦されれば喜ぶと思っているとか、初心者なのに高難易度の縛りをした挙句解けなくなって救急車を呼びMの腕を壊死寸前にしたとか。縛ったままMの同意もなく乳首にピアスを開け、配偶者にバレて離婚、慰謝料問題に発展した奴もいた。
そういう奴らに、現実のSMはどういうものなのか、どういう行為が嫌がられてどんなMなら自分の性癖を許容してもらえるのか、プレイを通して教えてやり、矯正できる奴はしてやり、できそうにない奴は二度とSMをする気にもならないようプライド叩き折る。いわば、Sの調教師ーーそういう役割をさせられてきた。
問題は、それらは全て女性だった。俺はマゾだが、異性愛者だ。セックスする訳ではないといえ、叩いてくれれば性癖を問わないなんてのは無理。……だと思う。
さて目の前の男はどんな歪んだ性癖の持ち主なのかーーいつもなら大体の事情は教えて貰える筈だが、今回はそれが無い。できれば本人の口から聞きたいものだが、と考えを巡らせる。
「失礼ですが、ゲイですか?」
それならば、この話は無かった事にして即刻帰らねばならない。自分で言うのも何だが、俺は顔立ち自体は地味だが不細工ではない。やけに色気がある、と男のSに誘われた事も多々ある。だが、往々にして男のSは最終的な『ご褒美』はセックス──挿入してやる事、と捉えている。尻の穴に男のアレを入れるなんて、想像するだけで怖気が立つ。
そんなのは絶対嫌だ、と直球で聞けば、カナメは心外そうに首を振った。
「俺は巨乳派だ」
そんな事はどうでもいいのだが、とりあえずホッと平らな胸を撫で下ろす。
しかしコイツ、いちいち受け答えが面倒くさいな。素直にハイかイイエで応えればいいのに。
「良かった。俺、調教としても尻NGなんで」
「NG?」
「マゾだって、されたら嫌な事はあるんですよ」
わざと挑発するように笑うと、カナメはフンと鼻を鳴らして俺から視線を逸らさず受けて立つ。
「んなもん、調教次第じゃねえの」
「何を勘違いされているか分かりませんが、身体を縛っても心までは縛れませんよ?」
くすくす笑い声を溢す俺に、カナメは面食らったようだ。
俺は、世間一般で想像されるMとは少し違う。だからこそ、こういう面倒な役柄が回ってくるのだが。
「さて、ではお互いのNGと好みを出して、プレイ内容を相談しましょうか。それから、プレイ中止のサインも決めないと」
「んな面倒な事しないで、さっさ行こうぜ」
彼の行きたい場所がラブのつくホテルである事は明白で、そしてこうして話し合いを拒否されるのもいつもの事だ。妄想に頭を支配された自称サド達は、何故か皆『サドとマゾならそれだけで万事うまくいく』と思っている。
「コーヒーくらい飲ませて下さいよ。仕事上がりで疲れてるんです」
ため息を吐いて素を見せるみたいに肩を落とせば、カナメはボソリと「俺だってそうだ」と呟いた。服装や見た目の若さから、およそ大学生かとアタリをつけていたのだが、意外だ。
ちょうどウエイトレスがコーヒーを持ってやってきて、俺の前に手を震わせながらゆっくりと置いた。って、ちょっと震え過ぎじゃないのか。いつ受け皿からカップが落ちてもおかしくない震度だったぞ。
具合でも悪いのかとウエイトレスを見ると、俺の方なぞ目もくれず、真っ赤な顔をしてカナメの方へ「あの……っ」と小さく声を掛けた。
なんだそういう事かと、興醒めしてコーヒーカップを持ち、口に含む。……ぬるい。視線を回してみれば、どうやら厨房らしきところから数名のウエイトレスがこちらの様子を悔しげに窺っている。クソ、絶対誰が行くかでジャンケンしてやがったな。
何事か話しかけようとしたウエイトレスの様子を察知したのか、カナメはそれまでの表情を一転させて咲き誇るような笑顔に変え、人差し指を唇の前に置き、「しー」のポーズをしながらウインクした。
ブッフォオ! と飲み下せなかったコーヒーをもろにカナメに向けて吹き出してしまい、ウエイトレスも、カナメすら唖然として俺を見る。
「いや、あっ、わ、悪い!」
慌てて立ち上がっておしぼりで汚してしまった彼のニットを拭きだすと、ウエイトレスももっとおしぼりを持ってきます、と更に大慌てで走っていった。
頬にも軽く飛沫がかかってしまって、そちらも拭こうと伸ばした手首をぐいと掴まれる。面白がるような、じっと見つめる瞳に熱が篭もった。
「やっぱりな」
「ん?」
何が、と聞く前におしぼりだけ取られてカナメはさっさと席を立つ。そして更に数を増やして大量のおしぼりを持ってきたウエイトレス達に先程の輝くような笑顔を見せつつ、「席を汚してごめんね」と腰低く手早く会計を済ませ、俺の背を押すようにして店を出たのだった。
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