リントヴルムの魔法紡ぎ

小津カヲル

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二章 魔法使いの意地

10 ラルフェルト

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「じゃあ私はこれ片付けてくるから、あなたはラルフェルト様のお相手をおねがいね、リズ」
「え? 片付けなら私が……ヒルデさん?」
「悪いけれど、他の仕事の打ち合わせもあるのよ、すぐ戻るからそれまでよろしくね!」

 ラルフへの対応を丸投げしたヒルデさんは、私の持ってきた鞄をひょいと持ち上げ、さっさと二階の作業場に行ってしまった。私はどうしたらいいのか分からず、でも彼をそのままにはできないと一応頭を下げる。

「あの、いらっしゃいませラルフ……あ、ラルフェルト様。どうぞこちらへ」

 ヒルデさんの真似そのままで、奥のスペースに手招きしてみる。一応従業員だし、他のみんなも彼をそう呼ぶから、私も仕事中は馴れ馴れしすぎるのもどうなのかな、って考えたすえの対応だったのに。
 どう見ても、不機嫌な顔がさらに増しているのは、どうしてなの?
 だが不機嫌そうな顔をしつつも、ラルフはなにも言わずに奥のスペースに進み、どさりとソファに座った。
 ええと、この対応で良かったということなのだろうか。私は慌てて彼の向かいに収まる。

「今日はどうしましたか、なにか注文ですか?」
「リズ」
「はい?」
「ラルフでいい」
「……でも、お客様ですし」
「リズ、それ以外は認めない」

 ラルフは豪華な織りの生地を使ったソファに深く座り、長い足を組んでいた。不機嫌そうだといつもより美人に見える顔を右手の甲で支え、肘は深い茶の塗りが艶やかな肘掛けにのせられている。
 まるで一枚の芸術品のような姿で、私に求めたことはまるで……。
 小さなラルフもそういえば、同じようなことを最初に言ったような覚えがある。ただし、もっと可愛らしく頬をふくらませて、だったけれども。

「なにがおかしい?」
「昔を、小さかったラルフを思い出して、つい」

 私が笑ったのが面白くなかったようだ。
 だけどもう怖くない。ラルフは昔と同じように、照れているとしか見えないから。
 彼はおもむろに上着を脱ぐと、私に渡してきた。

「直してくれ」

 よく見ると、袖口にあるボタンが外れかけている。その周囲の折り返し部分に縫い付けてある飾り紐が、何かに擦れたのか、損傷している。
 ……また、危ないお仕事があったのだろうか。
 私はすぐそばにある、裁縫道具の入った引き出しを開ける。そこには簡単な修繕ができる程度の糸や針、その他の道具が用意されているのだ。
 それから自分のエプロンのポケットから小さな箱を取りだし、中に入れてある髪留めで邪魔なサイドをとめ、指ぬきをつけた。

「もうラルフは、お仕事を再開しているの?」
「忙しいからな」

 膝に彼の制服を置き、痛んだ飾り紐を外すために袖下から手を入れ押さえると、ほんのりと残るラルフの体温を指に感じる。
 今ここで脱いだのだから当たり前なのだけれど、どうしてか緊張してしまう。
 糸を用意しながら、話をふってみようかしらと考えたら、これしか思い浮かばなかった。

「体調はどう?」

 ヒルデさんの二番煎じだけど、最も気になることだ。

「リズが心配するほどヤワじゃない」
「……吐血しといてよく言うわ、心配したんだからね!」
「いや、あれは……別に」

 むっとして強く言えば、ラルフが怯んだ。ということは図星で、あまり良くない状況だったのだろう。

「すごくビックリしたのよ。もう気を付けてね、ラルフ」
「……分かっている、しつこい」

 ふと手元からラルフへ視線を上げると、彼は口許をおさえてそっぽ向いていた。
 その姿に、ちょっと慣れなれしすぎだったかもしれないと反省。いくら幼い頃に遊んだ仲とはいえ、たった数日、しかも十年も前のことだし。
 でも、ラルフは私をここに導いてくれた。それは私の夢だったのだから、本当に感謝している。口調はくだけたままでも、一定の礼儀は弁えねばと心にとめる。

「ねえ、ラルフ。どうしてこのお店に紹介してくれようとしたの? 私が針子の仕事を探しているって知らなかったよね?」
「なにを言っている? 俺に、針子になる予定だと言っていただろう」
「……そうだっけ?」
「ああ、それに将来の夢は、いろいろな服を作って着てもらうとか、お姫様の格好がしたいから自分で作るとか、歌って踊れる衣装で舞台に……」
「わーわーわーっ! それ以上はやめてええぇ!」

 私は針を放り出してラルフの口を塞ぐべく、叫んでいた。
 お、思い出した。
 そういえばラルフに、将来はコスプレーヤーを目指しているとしか思えない妄想を、熱く語ったような……。
 ああ、今すぐラルフをなんとかして記憶喪失にしたいくらいだ。なんて妄想を垂れ流したの、幼いリズ! ああ、まだ前世の記憶を呼び覚ましていないにもかかわらず、私は確かに私だった、ということか。
 冷や汗をかきながら、必死に話題を変える。

「じゃ、じゃあ、私がリズだっていつ気づいたの? 手紙を読んだとしても、私がこの街に来たことは書いてないはずよ?」
「いや、おまえが縫ったこれを着た時点で、すぐにリズだったと分かった」
「……え?」

 ラルフが指差すのは、いま縫っている袖口ではなく、私の膝上に置かれた肩部分だった。
 これを着ただけでって、どういうことだろう。
 するとラルフは私を驚かせるようなことを口にした。

「匂いでわかった」
「におい……!」

 それは、今日イリーナさんから聞いたのとまったく同じ表現。
 さすがに、それが言葉そのままの意味ではないことは分かっている。でもラルフの肩を修繕したのは、単なる縫い合わせで護符じゃない。
 ラルフは胸のメダリオンを片手で押さえ、私をじっと見ながら重ねて言う。

「これと同じ匂いだった。いつも肌身離さずいる、間違うはずはない」
「肌身って……」

 いやいや、単にハンカチの端切れを、メダリオンに入れて首にかけているだけ。私はなにを赤くなっているの。
 目を細めて呟くラルフが憂いたっぷりだったので、思わず焦ってしまった。だけどそんなことよりも、今こそ聞きたい。

「ねえ教えてラルフ、そのメダリオンの中に入っている刺繍。それがあなたの魔力酔いに効いたって言っていたけど、それ本当?」
「ああ、間違いない」
「どうして? 私は魔法使いじゃないよ、それも母さんに教わって刺したものだし。だいいち護符にするなら、もっと正確に縫う必要があるって、ここで教わったわ……でもそれは違う」
「リズが、俺のためを想って作ったからだろう?」
「な……それは」
「違うのか?」

 いや、そうだけど。ここにきて何なの、そのふわっとした精神論的な理由は。そんなので効果があれば『マルガレーテ』は苦労しないのでは。
 まだ聞きたいことはある。

「イリーナさんも、私の刺繍を同じ匂いって言っていたのよね。魔法使いって、動物的嗅覚でものを例えるものなの?」
「……だれ?」
「え? イリーナさんは今しがた会ってきたお客さん……だけど?」

 ふいに穏やかだった表情が、すっと失せてしまったラルフ。

「どこに行った、リズ?」
「え、と。ヒルデさんの鞄持ちでミルヴェーデン家に……」
「へえ、エリザベートがおまえを呼んだんだな、わざわざ」

 ラルフの薄笑いが怖い。なんでいきなり不機嫌に戻ってしまうのだろうか。いつものことだけど、理由がさっぱり分からないよラルフ。

「わあラルフ、これ金でできているのかなあ、重いのねぇ」

 余計なことを言ってしまったのだろう、私は話題を変えるべく、糸で縫おうとしていたボタンを持ち上げてみせた。
 恐らく彫金が得意なミロスラフさんが作ったボタンなのだろう。細かい凹凸で、魔法騎士団の紋章を彫り上げてある。ずっしりと手に重みを感じるのは……あれ?
 もしかしたらこれって本当に金でできているのかしら。さっきとは違う意味で手に汗をかく。
 しかしせっかくの話題そらしも無駄だったようで。

「リズにちょっかいを出すとは、余計なことをする……」
「純粋な仕事だから……舌打ちは下品よ、ラルフ」

 音こそ聞こえなかったけれど、図星だったようでラルフからの反論はなかった。
 でもラルフとエリザベートさんはやはりただの顔見知り程度ではなかったようだ。エリザベートさんが広場で彼に微笑みかけていたから、なんとなくそんな気はしていた。

「彼女は仕事の関係上、顔を会わせることがある。娘のイリーナも知っている」
「そうだ、イリーナさんって、なんだか辛そうだった。それで新しい服に、私の刺した刺繍を使わせてもらうことになったの。まだ勉強中なのに初仕事よ?」
「リズ……いまやっているそれは?」
「あ……」
 ラルフが指差すのは、ボタンを縫い付けている最中の私の手元。そうでした、仕事に大きいも小さいもないよね。しっかり仕上げますとラルフに宣言。
 ラルフから「ふうん」と疑い深い返事が返ってくると、みんながラルフのことを、厄介なお客さんと称していたのを思い出す。
 せっかくの王子様のような容姿なのだから、もったいないな。態度もレオナルさんみたいに紳士的で、いつも笑顔を振り撒いていたら完璧なのに。

「イリーナはどうしておまえに護符を依頼した?」

 針仕事を再開した私に、ラルフは話を戻す。
 ボタンの始末を終えてから、外した飾り紐を同じ色の糸で合わせて補強する。それから再び紺色の生地へ縫い付けながら報告する。

「ええと、前に広場で会ったときにシャルが持っていたぬいぐるみを、私が直してあげたの。それと今日持っていった護符の試作品を見て、同じ匂いがするって、あなたと同じことを言ったわ」
「……そういうことか。それでその護符の試作品とやらは? 見せてみろ」
「それが、イリーナさんに渡してきて今はありません」

 今度はあからさまに舌打ちをしたラルフ。

「エリザベートに利用されたな」
「利用って……気に入ってくれたから服ができるまで渡しておくって、ヒルデさんが言ったのよ?」
「だからだ。エリザベートは研究をしている」
「研究? 学者をしているというのは、ご本人から聞いているわ。なにを研究されているのかしら」

 ちょうどそこへ、お茶を持ってミロスラフさんがやってきて、ラルフの代わりに答えをくれた。

「彼女は魔法化身アバタール発生のしくみを学術的に研究している第一人者だよ、彼女はとても良心的でいい人間だろう、リズ? お茶をどうぞお二人とも」
「はい、とっても優しい方でした……それで、その魔法化身アバタールの研究と、ラルフの不機嫌が関係あるの?」
「彼女は魔力酔いを防ぐ方法を知りたいんだよ、かわいい娘のためにね。そのために僕も以前、解剖されるんじゃないかってくらい、調べられちゃったのね」

 ミロスラフさんが怖いことを口にしながら、にんまりと笑う。
 丸い幼な顔の口が大きく弧を描き、頬が少し膨らんだ。大きな瞳が、いつもより大きく、そして濡れて見えたのは、気のせいだろうか。

「リズを脅かすな」
「おお、こわ。ベリエスのように僕は頑丈じゃありませんから、殴るのはやめてくださいねラルフェルト様」
「暴れなければな」

 二人の会話の意味が分からず、私がきょとんとしていると。

「こいつも魔法化身アバタールだ、リズ。知らなかったのか?」

 ラルフが驚きの事実をなにげなく告げるものだから、私はなおさらそれを理解するのに、しばらくの時間を要した。
 ミロスラフさんがアバタール…………えええ?!
 にんまりと笑いながらミロスラフさんは、ほんの一瞬だけ本当の姿を私に見せてくれた。

「蛙……」
「ふふふ。じゃあ、あんまり邪魔すると僕も殴られそうだから、そういうことで」

 にこにこしながら、ミロスラフさんはさっさと盆を持って帰ってしまう。
 私は結局、ラルフに聞くしかない。

「その、こういうのってグラナートでは普通なの?」
「そんなわけない。ここが普通じゃないだけだ」
「……そう」

 なんだか凄いところに就職しちゃったなと思いながら、私は最後の糸を始末した。裏表を確認し、持ち上げて糸屑を念入りに払う。シワもなく仕上がったし、我ながらなかなかの出来栄えだ。
 立ち上がったラルフに、肩口を持って着せる。

「……どうかな?」
「いい」

 短いけれど良い返事をもらえたみたいで、私も満足だった。
 だけど気になることが。

「ねえラルフ? それはもっとちゃんと直した方がいいと思うよ」

 先日破れた肩の部分が、私の繕いそのままになっているのが、気になって仕方がなかったのだ。
 さすがに生地が破れたので、すぐにでも袖を付け替えるかなにかして、すっかり直っているとばかり思っていた。だけど、今日もまだ縫い合わせたまま。まさか替えの制服がないわけでもあるまいに。
 仮留めだって告げたはず。

「いい、このままにしておく」
「だめよ、だって縫い目も見えるのよ?」
「大丈夫だ、これがある」

 ラルフは片側の腕だけを通す、特殊な騎士団のマントを纏う。けれど全く隠れてしまうわけではなくて……。
 彼はどんなに作り直すようすすめても、私が気にしているのが不思議と言わんばかり。

「リズの匂いがせっかく濃くなったのに、どうして変えなくてはいけない?」
「だから、その匂いって、もっと違う表現ないの?」
 
 私の言い分がようやく理解できたのか、しばらくラルフが何かを思案するそぶりを見せてくれた。
 それならとラルフが提案したことに、私は絶句する。

「なら、これから毎日ここに来る。少しずつリズのものに護符を変えていこう。そうして全てが入れ替わったら、この袖を替えてもいい」
「…………は?」

 毎日?
 ラルフは今日つけ直した袖を口許に寄せる。
 それはそれは妖艶な笑みで、私が縫った糸に唇を寄せた。まるで私に見せつけるように。

「じゃあまた、明日な、リズ」

 顔を真っ赤に染める私を残し、ラルフは店を去っていった。
 前言撤回。
 だめ、だと思う。ラルフの容姿で微笑みは、凶器だと「じゃあ私はこれ片付けてくるから、あなたはラルフェルト様のお相手をおねがいね、リズ」
「え? 片付けなら私が……ヒルデさん?」
「さっきの仕事の打ち合わせもあるから、すぐ戻るからそれまでよろしくね!」

 ラルフへの対応を丸投げしたヒルデさんは、私の持ってきた鞄をひょいと持ち上げ、さっさと二階の作業場に行ってしまった。私はどうしたらいいのか分からず、でも彼をそのままにはできないと一応頭を下げる。

「あの、いらっしゃいませラルフ……あ、ラルフェルト様。どうぞこちらへ」

 ヒルデさんの真似そのままで、奥のスペースに手招きしてみる。一応従業員だし、他のみんなも彼をそう呼ぶから、私も仕事中は馴れ馴れしすぎるのもどうなのかな、って考えたすえの対応だったのに。
 どう見ても、不機嫌な顔がさらに増したのは、なんでなの?
 だが不機嫌そうな顔をしつつも、ラルフはなにも言わずに奥のスペースに進み、どさりとソファに座った。
 ええと、この対応で良かったということなのだろうか。私は慌てて彼の向かいに収まる。

「今日はどうしましたか、なにか注文ですか?」
「リズ」
「はい?」
「ラルフでいい」
「……でも、お客様ですし」
「リズ、それ以外認めない」

 ラルフは豪華な織りの生地を使ったソファに深く座り、長い足を組んでいた。不機嫌そうだといつもより美人に見える顔を右手の甲で支え、肘は深い茶の塗りが艶やかな肘掛けにのせられている。
 まるで一枚の芸術品のような姿で、私に求めたことはまるで……。
 小さなラルフもそういえば、同じようなことを最初に言ったような覚えがある。ただし、もっと可愛らしく頬をふくらませて、だったけれども。

「なにがおかしい?」
「昔を、小さかったラルフを思い出して、つい」

 私が笑ったのが面白くなかったようだ。
 だけどもう怖くない。ラルフは昔と同じように、照れているとしか見えないから。
 彼はおもむろに上着を脱ぐと、私に渡してきた。

「直してくれ」

 よく見ると、袖口にあるボタンが外れかけている。その周囲の折り返し部分に縫い付けてある飾り紐が、何かに擦れたのか、損傷している。
 ……また、なにかあったのだろうか。
 私はすぐそばにある、裁縫道具の入った引き出しを開ける。そこには簡単な修繕ができる程度の糸や針、その他の道具が用意されているのだ。
 それから自分のエプロンのポケットから小さな箱を取りだし、中に入れてある髪留めで邪魔なサイドをとめ、指ぬきをつけた。

「もうラルフは、お仕事を再開してるの?」
「忙しいからな」

 膝に彼の制服を置き、痛んだ飾り紐を外すために袖下から手を入れ押さえると、ほんのりと残るラルフの体温を指に感じる。
 今ここで脱いだのだから当たり前なのだけれど、どうしてか緊張してしまう。
 糸を用意しながら、話をふってみようかしらと考えたら、これしか思い浮かばなかった。

「体調はどう?」

 ヒルデさんの二番煎じだけど、気になることで。

「リズが心配するほどヤワじゃない」
「……吐血しといてよく言うわ、心配したんだから」
「いや、あれは……別に」

 むっとして強く言えば、ラルフが怯んだ。ということは図星で、あまり良くない状況だったのだろう。

「すごくビックリしたんだから。もう気を付けてね、ラルフ」
「……分かっている、しつこい」

 ふと手元からラルフへ視線を上げると、彼は口許をおさえてそっぽ向いていた。
 その姿に、ちょっと慣れなれしすぎだったかもしれないと反省。いくら幼い頃に遊んだ仲とはいえ、たった数日、しかも十年も前のことだし。
 でも、ラルフは私をここに導いてくれた。それは私の夢だったのだから、本当に感謝している。口調はくだけたままでも、一定の礼儀は弁えねばと心にとめる。

「ねえ、ラルフ。どうしてこのお店に紹介してくれようとしたの? 私が針子の仕事を探しているって知らなかったよね?」
「なに言ってる。昔俺に、針子になる予定だと言っていた」
「……そうだっけ?」
「ああ、それに将来の夢は、いろいろな服を作って着てもらうとか、お姫様の格好がしたいから自分で作るとか、歌って踊れる衣装で舞台に……」
「わーわーわーっ! それ以上はやめてええぇ!」

 私は針を放り出してラルフの口を塞ぐべく、叫んでいた。
 お、思い出した。
 そういえばラルフに、将来はコスプレーヤーを目指してるとしか思えない妄想を、熱く語ったような……
 ああ、今すぐラルフをなんとかして記憶喪失にしたいくらいだ。なんて妄想を垂れ流したの、幼いリズ! ああ、まだ前世の記憶を呼び覚ましていないにもかかわらず、私は確かに私だった、ということか。
 冷や汗をかきながら、私は必死に話題を変える。

「じゃ、じゃあ、私がリズだっていつ気づいたの? 手紙を読んだとしても、私がこの街に来たことは書いてないはずよ?」
「いや、おまえが縫ったこれを着たとき、すぐにリズだったと分かった」
「……え?」

 ラルフが指差すのは、いま縫っている袖口ではなく、私の膝上に置かれた肩部分だった。
 これを着ただけでって、どういうことだろう。
 するとラルフは私を驚かせるようなことを口にした。

「匂いでわかった」
「におい……!」

 それは、今日イリーナさんから聞いたのとまったく同じ表現。
 さすがに、それが言葉そのままの意味ではないことは分かっている。でもラルフの肩を修繕したのは、単なる縫い合わせで護符じゃない。
 ラルフは胸のメダリオンを片手で押さえ、私をじっと見ながら重ねて言う。

「これと同じ匂いだった。いつも肌身離さずいる、間違うはずはない」
「肌身って……」

 いやいや、単にハンカチの端切れを、メダリオンに入れて首にかけてるだけ。私はなにを赤くなっているの。
 目を細めて呟くラルフが憂いたっぷりだったので、思わず焦ってしまった。だけどそんなことよりも、今こそ聞きたい。

「教えてラルフ、そのメダリオンの中に入ってる刺繍。それがあなたの魔力酔いに効いたって言っていたけど、それ本当?」
「ああ、間違いない」
「どうして? 私は魔法使いじゃないよ、それも母さんに教わって刺したものだし。だいいち護符にするなら、もっと正確に縫う必要があるって、ここで教わったわ……でもそれは違う」
「リズが、俺のためを想って作ったからだろう?」
「な……それは」
「違うのか?」

 いや、そうだけど。ここにきて何なの、その精神論的な理由は。そんなので効果があれば『マルガレーテ』は苦労しないのでは。
 まだ聞きたいことはある。

「イリーナさんも、私の刺繍を同じ匂いって言ってたのよね。魔法使いって、動物的嗅覚でものを例えるものなの?」
「……だれ?」
「え? イリーナさんは今しがた会ってきたお客さん……だけど?」

 ふいに穏やかだった表情が、すっと失せてしまったラルフ。

「どこに行った、リズ?」
「え、と。ヒルデさんの鞄持ちでミルヴェーデン家に……」
「へえ、エリザベートがおまえを呼んだんだな、わざわざ」

 ラルフの薄笑いが怖い。なんでいきなり不機嫌に戻ってしまうのだろうか。いつものことだけど、理由がさっぱり分からないよラルフ。

「わあラルフ、これ金でできてるのかなあ、重いのねぇ」

 余計なことを言ってしまったのだろう、私は話題を変えるべく、糸で縫おうとしていたボタンを持ち上げてみせた。
 恐らく彫金が得意なミロスラフさんが作ったボタンなのだろう。細かい凹凸で、魔法騎士団の紋章を彫り上げてある。ずっしりと手に重みを感じるのは……あれ?
 もしかしたらこれって本当に金でできているのかしら。さっきとは違う意味で手に汗をかく。
 しかしせっかくの話題そらしも無駄だったようで。

「リズにちょっかい出すとは、余計なことをする……」
「純粋な仕事だから……舌打ちは下品よ、ラルフ」

 音こそ聞こえなかったけれど、図星だったようでラルフからの反論はなかった。
 でもラルフとエリザベートさんは知り合いだったようだ。エリザベートさんが広場で彼に微笑みかけていたから、なんとなくそんな気はしていた。

「彼女は仕事の関係上、顔を会わせることがある。娘のイリーナも知っている」
「そうだ、イリーナさんって、なんだか辛そうだった。それで新しい服に、私の刺した刺繍を使わせてもらうことになったの。まだ勉強中なのに初仕事よ?」
「リズ……いまやっているそれは?」
「あ……」
 ラルフが指差すのは、ボタンを縫い付けている最中の私の手元。そうでした、仕事に大きいも小さいもないよね。しっかり仕上げますとラルフに宣言。
 ラルフから「ふうん」と疑い深い返事が返ってくると、みんながラルフのことを、厄介なお客さんと称していたのを思い出す。
 せっかくの王子さまのような容姿なのだから、もったいない。態度もレオナルさんみたいに紳士的で、いつも笑顔を振り撒いていたら完璧なのに。

「イリーナはどうしておまえに護符を依頼した?」

 針仕事を再開した私に、ラルフは話を戻す。
 ボタンの始末を終えてから、外した飾り紐を同じ色の糸で合わせて補強する。それから再び紺色の生地へ縫い付けながら報告する。

「ええと、前に広場で会ったときにシャルが持っていたぬいぐるみを、私が直してあげたの。それと今日持っていった護符の試作品を見て、同じ匂いがするって、あなたと同じことを言ったわ」
「……そういうことか。それでその護符の試作品とやらは? 見せてみろ」
「それが、イリーナさんに渡してきて今はありません」

 今度はあからさまに舌打ちをしたラルフ。

「エリザベートに利用されたな」
「利用って、気に入ってくれたから渡したんじゃないかと思う」
「だからだ。エリザベートは研究をしている」
「研究? 学者をしているというのは、ご本人から聞いてるわ。なにを研究されているのかしら」

 ちょうどそこへ、お茶を持ってミロスラフさんがやってきて、ラルフの代わりに答えをくれた。

「彼女は魔法化身《アバタール》発生のしくみを学術的に研究している第一人者なんだよ、彼女はとても良心的でいい人間だろう、リズ? お茶をどうぞお二人とも」
「はい、とっても優しい方でした……それで、その魔法化身《アバタール》の研究と、なにが関係あるの?」
「魔力酔いを防ぐ方法を知りたいんだよ、かわいい娘のためにね。そのために僕も以前、解剖されるんじゃないかってくらい、調べられちゃったのね」

 ミロスラフさんが怖いことを口にしながら、にんまりと笑う。
 丸い幼な顔の口が大きく弧を描き、頬が少し膨らんだ。大きな瞳が、いつもより大きく、そして濡れて見えたのは、気のせいだろうか。

「リズを脅かすな」
「おお、こわ。ベリエスのように僕は頑丈じゃありませんから、殴るのはやめてくださいねラルフェルト様」
「暴れなければな」

 二人の会話の意味が分からず、私がきょとんとしていると。

「こいつも魔法化身《アバタール》だ、リズ。知らなかったのか?」

 ラルフが驚きの事実をなにげなく告げるものだから、私はなおさらそれを理解するのに、しばらくの時間を要した。
 ミロスラフさんがアバタール…………えええ?!
 にんまりと笑いながらミロスラフさんは、ほんの一瞬だけ本当の姿を私に見せてくれた。

「蛙……」
「ふふふ。じゃあ、あんまり邪魔すると僕も殴られそうだから、そういうことで」

 にこにこしながら、ミロスラフさんはさっさと盆を持って帰ってしまう。
 私は結局、ラルフに聞くしかない。

「その、こういうのってグラナートでは普通なの?」
「そんなわけない。ここが普通じゃない」
「……そう」

 なんだか凄いところに就職しちゃったなと思いながら、私は最後の糸を始末した。裏表を確認し、持ち上げて糸屑を念入りに払う。シワもなく仕上がったし、我ながらなかなかの出来栄えだ。
 立ち上がったラルフに、肩口を持って着せる。

「……どうかな?」
「いい」

 短いけれど良い返事をもらえたみたいで、私も満足だった。
 だけど気になることが。

「ねえラルフ? それはもっとちゃんと直した方がいいと思うよ」

 先日破れた肩の部分が、私の繕いそのままになっているのが、気になって仕方がなかったのだ。
 さすがに生地が破れたので、すぐにでも袖を付け替えるかなにかして、すっかり直っているとばかり思っていた。だけど、今日もまだ縫い合わせたまま。まさか替えの制服がないわけでもあるまいに。
 仮留めだって告げたはず。

「いい、このままにしておく」
「だめよ、だって縫い目も見えるのよ?」
「大丈夫だ、これがある」

 ラルフは片側の腕だけを通す、特殊な騎士団のマントを纏う。けれど全く隠れてしまうわけではなくて……。
 彼はどんなに作り直すようすすめても、私が気にしているのが不思議と言わんばかり。

「リズの匂いがせっかく濃くなったのに、どうして変えなくちゃいけない?」
「だから、その匂いって、もっと違う表現ないの?」
 
 私の言い分がようやく理解できたのか、しばらくラルフが何かを思案するそぶりを見せてくれた。
 それならとラルフが提案したことに、私は絶句する。

「なら、これから毎日ここに来る。少しずつリズのものに護符を変えていこう。そうして全てが入れ替わったら、この袖を替えてもいい」
「…………は?」

 毎日?
 ラルフは今日つけ直した袖を口許に寄せる。
 それはそれは妖艶な笑みで、私が縫った糸に唇を寄せた。まるで私に見せつけるように。

「じゃあまた、明日な、リズ」

 顔を真っ赤に染める私を残し、ラルフは店を去っていった。
 前言撤回。
 だめ、だと思う。ラルフの容姿で微笑みは、凶器だと分かった。

「あら、もうお帰りになったの?」

 ちょうどそこへヒルデさんが階段を降りてきた。
 私は熱くなった頬を手で冷やす。もちろんヒルデさんになるべく見えないようにしながら。

「あの……明日も来るそうです」
「あらまあ、大変」

 そしてヒルデさんは、にこやかな営業スマイルで、「じゃあ明日もよろしくねリズ」と付け加えたのだった。
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