君は春一番と共に…『セックスじゃなくて恋がしたかったの』と彼女は言った。

神楽耶 夏輝

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第二章 

終わりの始まり

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まだ帰りたくない。もっと一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。という思いは伝えられないまま。
 大通りで手をあげた智也の前に、タクシーはあっさりと止まった。
 後部座席のドアが自動的に開かれ、先に乗り込んだ智也に、私もノロノロと続く。

 智也がドライバーに私の家の住所を伝える。
 ドライバーは慣れた様子で軽く返事をして、車を発進させた。
 彼は後部座席の背もたれに深く背を預け、窓の外に視線を向けている。
 何か考え事でもあるのだろうか?
 ぴったりと体の側面を寄せて、肩に頭を乗せると、智也はそこに頬を寄せた。
 まだ帰りたくないの一言が言えない。

 スマホのバイブレーションが、スラックスのポケットの中で着信を知らせている。
 おもむろにポケットから取り出し画面を確認して、再び仕舞う。
「出なくていいの?」
 そう訊ねると、「LINEだから」と短く返事をして、少し笑った。

 根拠のない不安が押し寄せる。誰からのラインだろうか? 三田だったとしたら、あのアダルト動画のURLが送られてきたのではないだろうか。
 そんな事を考えていたら、怖くて言葉が出て来なくなった。

 およそ10分ほどで、マンションに到着。

「じゃあね。おやすみ」
 智也は優しくおでこにキスをくれた。

「上がっていかない? お茶でも淹れようか?」
 そう誘ってみたが、智也は首を横に振る。

「今日は、なおも疲れたでしょ。ゆっくりやす……。あ、ごめん。あき」

 慌てて訂正しても遅いよ。名前間違えるとか……。
 それでも、私は笑ってしまうのだ。

「バカね。その間違いだけはサイテーよ! 罰として明日、駅地下のチョコクロワッサン買って来て!」

 ちゃんと上手に笑えてるだろうか?

「本当にごめん。チョコクロワッサン100個買って来る」
 そう言って、両目をぎゅっと閉じて、両手を顔の前で合わせた。

「じゃあ、許してあげる。おやすみ」
「おやすみ」

 大丈夫。ちゃんと笑えてる。

 タクシーを降りると、ドアは名残惜しそうにゆっくりと閉じた。

 躊躇なく走り出すタクシー。
 見えなくなるのを確認して、私もエントランスの方へつま先を向ける。
 はぁーっと大きく息を吐いて、夜空を見上げた。
 手に届きそうな星が無数にまたたいていて、その場から動く事ができない。
 この星空をどうして智也と一緒に見上げなかったんだろう。一緒に見たかったな。
 疲れているはずの涙腺が、すぐに活発に動き出して、視界を歪ませる。
 こぼれないうちに、指先でそっと拭って一歩踏み出す。
 その直後、足を止めた。

『ミャ――ン』とどこかで小さな声が聞こえたのだ。まだ上手に鳴けない子猫のような鳴き声。キョロキョロと辺りを見回すが、姿が見えない。

「猫ちゃーん? 猫ちゃんなの?」
 そう声をかけながらエントランスへ続く浅い段差の脇を覗くと、ほわっとしたグレーの塊があった。
 すぐにこちらに顔を上げて、黄色い目を光らせる。
 人間をあまり怖がっていない様子。どこかで飼われていたのだろうか? それともまだ人間の怖さを知らないの?

 しゃがんで「おいで」と声をかけると、よちよちと寄ってきた。
 両手のひらにすっぽりと乗ってしまうぐらい小さな子猫。
 そっと抱き上げ、膝に乗せると私の顔を見ながら「みゃん、みゃー」と不器用に鳴いた。
「お腹が空いてるのかい?」

 指を口元にあてがうと、ちゅっちゅと吸い付く。
 小さな小さな爪をスカートに立てて、置いてかないでと訴える。
 可愛くて愛しい。
 幸いマンションでは、ペットの飼育が許されている。
「うちの子になるかい?」
 そういうと、子猫はぎゅっと目を閉じて「みゃー」と力強く鳴いた。

「よしよしいい子だね。おうちに行こうね」
 胸に抱き、立ち上がる。

 先ずはお風呂に入れて、ミルクをあげてみよう。猫砂や専用のお皿もいるな。キャットフードはどんなのがいいかしら?

 さっきまでの寂しさや不安はどこかに消えて、世話のやけそうな同居人の登場に気ぜわしさと喜びを感じていた。
 エントランスを軽やかな足取りで通り抜け、エレベーターに乗り5階を押す。
 深夜のマンションはひっそりと眠りについているようで、ひと気もない。
 バッグから部屋の鍵を取り出した。

 ほどなくして到着。開いたドアを出て――。

 息をのんだ。

 私の部屋の前に、がっしりとした体つきの、派手なシャツを着た短髪の男が立っていたからだ。
 その姿には見覚えがあり過ぎる。

 三田だ。

「待たせすぎだろー」
 三田はそう言って私の方に体を向けた。

「何しに来たの? 帰ってください」
 胸の子猫を守るようにぎゅっと抱きしめた。

 話の通じない獣のように、三田は私に迫って来る。

「いや……、やめて」

 拒絶も通じない。

 後ろからカットソーをがっちりと掴まれ強引に引きずられ、部屋のドアに叩きつけられた。
 ガシャンと派手な音が立ったが子猫は無事だった。何も知らずにきょとんと私の顔を見上げている。
「さっさと開けろ」
 部屋のドアに背を向け、首を横に振った。
「帰ってください」
 体中が震える。大きな声を出せば誰かが通報してくれるかしら。
 せめて騒ぎを聞きつけて誰か出てきてくれないか。

 そんな期待は大きく外れ、辺りは静かなまま。物音ひとつしない。

 三田の大きな手がこちらに迫る。
 恐怖で思わず目をぎゅっと閉じた。
 その瞬間、胸元の小さな体温がすっと消え、「みゃーみゃー」と鳴く声が激しくなった。
 そっと目を開けると、腰壁を小さな影が飛んで行った。
 三田が子猫を放り投げたのだ。

「いやぁぁぁーーーー」
 慌てて下を覗いたが暗くてよく見えない。
 破裂しそうな心臓をぎゅっと抑えてしゃがみ込んだ。

 お願い、誰かあの子を助けて――。

 手に持っていた鍵がコンクリートにぶつかり、チャリンと音を鳴らした。
 拾い上げたのは三田だ。

 全身の力は抜けて、抵抗する気力もなくなった。
 開かれたドアの中にずるずると、いとも簡単に引きずり込まれた。


第二章完
第三章に続く

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