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第一夜 - ③
しおりを挟む「わっ」
顔の近さに驚いて飛び退き、思わず千紘は後ろ手をついた。
一瞬にも関わらず、一之瀬のブラウンがかった瞳が妙に印象に残る。
千紘の驚いた様子を見て、一之瀬は目を見張った後、少し笑顔になった。
「なんだよ…おかしなヤツだな」
「す、すみません!」
後に手をついたままで千紘は謝る。
「さっきから、謝ってばかりだぞ」
「すみません」
指摘されたばかりなのに、咄嗟に口をついて出たのはまたもや謝罪の言葉だった。
「またか……まあいい。水が飲みたい。デスクの上にあるヤツ、とってもらえるか?」
「はいっ」
千紘は勢いよく立ち上がり、パソコンの横にあるミネラルウォーターを掴む。
容器の周りに付いた水滴が握った途端に千紘の手を濡らした。なので、ちょうど近くにあったデスクの上のティッシュを数枚取り容器を綺麗に拭った。
その濡れた紙を見て、やっと冷静になってきた千紘は自分のすべきことを思い出したように、そのティッシュの箱ごと持った。
そして一之瀬にまず水を手渡した。
「どうぞ」
「ありがとう」
続けざまにティッシュの箱も渡す。もしかしたら、下半身に掛けたジャケットと一緒に、一番はじめにすぐ渡すべきものだったのかもしれない。
先ほどの出来事の生々しさを思い出させてしまうかなと恐る恐る差し出した。
「これも。…よかったら」
「うん……悪いね。ありがとう」
一之瀬が差し出した手は近くで見ると、ほんの少し震えていた。加えて、手首の周りから上にかけてついた赤くなった痣の跡が、彼に与えた衝撃の強さを物語っていて痛々しかった。
対称的にむき出しのままの一之瀬の上半身は、鍛え上げた男を感じさせる、無駄な肉が一切ついてない締まった身体をしていた。
一之瀬は千紘から受取ったミネラルウォーターのキャップを外すと、一切を振り払うかのように一気に飲み干した。
「はーっ」
身体の脇に空の容器を置き、一之瀬は勢いよく息を一回吐いた。吐いた後にひと呼吸置くと、今度は鼻から息をゆっくり吸い吐き出した息をまた押し戻すかのように左手で口を押さえ、右手をきゅっと握った。
しばらくそのままでいたと思うと、一瞬目を閉じ、顔を上げた。
表情が、変わっていた。
教壇に立っている時の毅然とした顔と同じ顔……多分、一之瀬の外向きの顔なのだろうと千紘は感じた。
「そこに座って」
一之瀬が目の前のソファーを指差した。
「……はい」
千紘は大人しくその言葉に従う。
「君が来てくれてよかった」
「いえ、そんな……」
短い言葉の中に隠れている素直な感謝を感じて、何も出来ない自分が恥ずかしくて俯いてしまう。
「君には……助けられてばかりだな」
「そんな。大したことはしていません」
千紘は慌てて手を振って否定した。
一之瀬のこの言葉に、千紘は微かな引っ掛かりを感じた。言われた物を渡しただけで、助けられてばかりと言えるほどの事はしていない。なんて大げさな言い様だろう? と思う。
確かに、アイツ等を追い払いはしたけれど。
これじゃいつも千紘が一之瀬を助けているようだ。直接話すのは初めてだし、自分は単なる学生、相手は先生だっていうのに。
それよりも、大丈夫ですかと、一之瀬の身体を気遣ってもいいのだろうかと千紘は考えた。
きっと、一之瀬は大丈夫と答えるだろう。
でも、気持ちまで大丈夫とは限らない。
さっき表情が変わったのは、学生である自分がいるからだ。問えば無理をさせて嘘を答えさせてしまう気がした。
「君は何をしに?」
「ああ、…ええと、僕、既修ニ年の舛森千紘です。すみません、昨日期限のレポートを提出しに来ました。遅れて申し訳ありませんでした。期限切れなので、本来なら受け取ってはもらえないとわかってはいるのですが、どうしても諦めきれなくて伺いました。……よろしくお願いします!」
最後は大声で、千紘は一之瀬に向かって上体を大きく曲げて、思い切り頭を下げた。
続いて立ち上がり、入り口に落ちたままになっているレポートを慌てて取りに走る。拾って来て、一之瀬に頭を下げつつ手渡した。
一之瀬は紙の束を受け取り、チラッと表紙を見た。
「……レポート…か。謝ってばかりいた理由はこれか?」
「いえっ…。そういう訳では…」
千紘は首を大きく横に振った。
「どうして遅れたんだ?」
「内容に納得がいかなくて、書き直しました」
「………」
なんて陳腐な言い訳だろう。端から聞いていたら、その場限りの嘘で固めたものだと言っているようなものだ。
社会に出たら期限切れは一切認められない。何度も聞いた言葉だ。
だめだろうな。この沈黙は、諦めろって事なんだろうな。例外はないって……。
「……まあいい。いつもなら期限切れは受け付けないけど、今回は大目に見よう」
以外にも、一之瀬はあっさりと受け取ってくれた。千紘は驚いて頭をあげた。
一之瀬は机の上に千紘のレポートを置くと、さっと横に顔を逸らし、小声で付け加えた。
「……その、助けてもらった礼だ」
一之瀬の普段とは違う側面を見たようで、千紘は一瞬目を見開いたが、大きな声で礼を言った。
「ありがとうございます!」
勢いのいい千紘の声に一之瀬はふっと小さく笑うと、いつもの威厳を取り戻す。
「但し、採点基準までは甘くしないよ」
「はいっ」
(よかった。いつもの先生らしい)
その言い様を聞いて、千紘は内心で胸を撫で下ろした。
続いて一之瀬は一言、低く声を響かせた。
「座って」
「はい」
千紘が素直に腰をおろすと、一之瀬に正面からじっと見つめられた。
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