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第一夜 夜が深まって続く- ①
しおりを挟むC棟五階にある一人一人に与えられた席のある自習室に戻ってくると、足早に千紘は自分の席に向かった。
夕食時のせいか、珍しく周りは誰もいない。ドカッと雑に腰を下ろした。
(割り切れない)
今経験してきたことで頭の中がごちゃ混ぜになり、記憶が呼び覚まされてしまった。
(忘れろって、言われたって……)
実は千紘にも、身に覚えがあるのだ。
千紘は眼が黒目がちで大きく唇が厚く、身体は色が白く線が細い。鍛えてもなかなか大きな筋肉にならない。そんな見た目から男子校だった千紘はお姫様扱いされ同姓から告白されることもあった。
告白ならまだかわいいものだ。
放課後の空き教室で、素行の悪い複数の上級生から面白半分に襲われそうになった事がある。
あの時は千紘も反撃し、さらに千紘がたまに厄介事に巻き込まれるのを知っていた同級生が、一緒に帰る約束をしていたのにいなくなった千紘を探し回り、すぐ見つけてくれて大事にならなかった。でもしばらくは精神的ダメージが抜けなかった。
その時の事が浮かんで、胸に重く圧し掛かる。
(理不尽なこと、ばっかりだ)
どうして自分ばかりが…、そんな疑問と憤りをいつも胸の片隅に千紘は留めて生きてきた。
ちょっとどこかに迷い込めば、簡単に日常からは外れるかもしれない。標準や常識の定義は、一人一人にはあてはまらないのかもしれない。
でも、世の中はこんなにもみんなが守る決まり事でありふれた“普通”に溢れているのに。
ハズレはなぜかいつも自分に回ってくるのだ。
机に頬杖をついて、千紘は釈然としない思いでいた。繰り返し一之瀬の事を考えてしまう。
(先生、大丈夫かな。ちゃんと帰れたかな。無理やりにでも付いて行けばよかった。あ、タクシー呼ぶとか)
形に出来ない何かが千紘の中でぐるぐると黒く渦巻いていた。自習室に来たものの、とてもこのまま勉強する気にはなれなかった。
でも一之瀬に言われた通りすべてを忘れ気分を勉強の方へ向けようと択一の問題集を開いた。自分の中の鬱々とした気持ちと戦おうとした。
なのに思考はどんどん悪いほうへループを描いていく。連鎖して自分の抱えている負の感情を湧き上がらせていった。一之瀬のことをきっかけに、一気に押し出されてしまったようだ。
(なんかもう、全部やめちゃおうかな…)
千紘は机に突っ伏した。
最近、本当に自分は弁護士になりたいのだろうかと、ふと疑問に思ってしまうことがある。
父と十五歳年上の姉が弁護士であり、その姿を見て育ってきた千紘は、当然自分もそうなるものとして法学部に進んだ。
しかしそれは自分の意思だったのだろうか。流されているだけではないのか。
そんな疑問が沸き起こってきたのだ。それが抑えても抑えても、微かにできた心の隙間から流れ出てきて脳裏を掠める。
さらに周りで起こるいざこざが余計に気持ちを萎えさせる。どう考えても周りの人間も自分も人間が出来ていないのに、人を裁いたりする一端を担っていいのだろうかと。
ただ勉強するだけの毎日の中で迷子になり目標を見失ってしまったようで、すべてを放り出してしまいたくなってきていた。
(考えるな!)
必死に気分を切り替えようとする。必死になるあたり、まだまだ精進が足りないなぁ、とも思う。離れようと思うほど、本当は離れられなくなるものだ。
(忘れろ! 忘れろ!)
呪文のように唱えてみるけれど、やり場のない思いが二乗三乗になっていく。
そして一之瀬が浮かぶ。
心配と共に、乱れた一之瀬の姿が脳裏から離れなかった。ちらちらと頭の中を掠めていく。
憂鬱さに加え、また思考は一之瀬へ辿り着いた。
思い出すと心臓の鼓動が早くなる。
それは千紘を今まで経験したことがなく言いようのない焦燥感に駆り立てた。
「舛森」
いきなり肩をトントンと軽く叩かれ、名を呼ばれた。
「ん!」
驚いて小さく叫び、ガバッと跳ね起きて見上げた。
同じく既修二年の、大学から一緒だった持ち上げ組の芹沢が立っていた。千紘の派手なリアクションに、逆に芹沢は驚いたようで、一歩退いて慌てた様子をみせた。
「なんだよ!」
声を上げた後芹沢はハッとした表情をすると、急いで周りを見渡す。ここは自習室だ。大声を出してはいけない。
「びっくりした~。大丈夫か、舛森?」
今度は小声で近づいてくる。
「ああ、ごめん、ちょっと考え事」
「いいけどさ、寝てたら悪かったかなと思って」
「いや、平気。何?」
「メシ食った?」
「まだ」
「一緒にどう?」
「……いいよ、行こう」
千紘は一瞬躊躇した後、肯定の返事をした。気分転換にちょうどいい。
芹沢は無言で頷くと入り口を親指で指差し、歩き出した。千紘は後から続く。
「なんか舛森、変じゃないか?」
「え」
「大丈夫か?」
「何が?」
「上の空みたいだからさ」
自習室のドアを出て、エレベーターホールへ移動する。
「そうかな。なんでもないよ」
「ふーん。ならいいけど。今日さ、残ってる人数少なくね?」
「夕飯じゃない?」
「かもな」
自習室は朝六時から、夜十時まで開いている。たまに図書館で勉強というヤツもいるが、自習室勉強組と自宅勉強組に分かれるので、大抵残っているメンバーは限られてくるのだ。
エレベーターのボタンを押すと、芹沢が尋ねてきた。
「なに食う?」
あまり食欲はない。
「……そうだな。…うどん」
「うどん~?! もっとがっちりした物がいい」
「じゃあ、定食屋行く?」
「そうしよう」
話がまとまると、そのタイミングを見計らったかのようにちょうどエレベーターが来た。
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