【本編完結】水曜日の迷いごと

咲月千日月

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第八日目 夜光雲をまとって

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 一之瀬のマンションから帰って来ると、いつもの自分の部屋の風景なのに何か違和感を感じる。
 ジャケットをハンガーに掛け、ネクタイも一緒につるすと部屋を見渡した。

 山積みの教科書とプリントなどの紙類、あちこちに散らばった出しっぱなしの問題集、脱いで椅子に掛けたままのシャツ、寒いときに羽織ったソファの上のパーカー、飲みっぱなしのコップとペットボトル。

「あ…」

 幸せいっぱいの心の感覚と現実の違和感だ。

 それはまるで…夢の世界から帰還した時に感じる相違の違和感なのだと思い当たった。
 女子がアイドルのライブの後や、夢の国で遊んだ後で嘆いていたのはこれだったのかと、彼女たちの言葉を思い出した。今の千紘のこの気分と、似たようなものなのだろう。

 整然としていた一之瀬の部屋を思い描き、身体が自然と掃除を始めていた。
 ゴミは分別して片付け、服を洗濯機にかける。途中で、まだスーツのスラックスを履いたままだったことに気づき、上も下も部屋着に着替えた。動いていると気分が良かった。しかも掃除をしていることで自分がちゃんとした人間に思えてくる。

(たまにはいいよな。こういうの)

 スケジュール通りに進める生活なんて、どこかにツケが回ってくるのだ。爆発する前に発散しなければ。
 心のままに今日は動くことに決めて、窓を全開にして掃除機をかけた。
 
 本をきちんと並べ、紙類は軽く目を通してもう必要がなさそうなものはまとめた。途中で洗濯機に呼ばれたので、夕方になるけれど外へ干した。姉が酔っ払って買ってきて、そのまま置いていった小さなサボテンに久々に少し水をやる。
 水回りやキッチンまできれいにしてしまってから、ふと、さすがに疲れを感じ、久々に湯を張って風呂に浸かることにした。


「入浴剤とか、入れちゃおうかな」

 確かこれまた姉が置いていったものがあったはずだ。洗面台の下から引っ張り出してきて、浴槽に入れた。白濁した湯に変わる。これで、非日常の気分がまだ続いた気がした。
 
 裸になりシャワーを出そうとして、風呂場の鏡に映る自分を見て千紘は声を上げた。

「ああっ…!」

 首筋のキスマークが目に入る。一カ所だけでなく、数カ所ついていた。

「こんなにいっぱいつけて! ”ここ見て思い出して”って、言ってて……どれだよ?!」

 いや、突っ込みどころはそこじゃない。よな?
 
 これ程たくさんマーキングされてたなんて、ついぞ知らなかった。
 涼しい顔して、一カ所しかつけてないようなことを言っておいて……やられた。

「これじゃ、しばらくTシャツは着られないよ…」

 つぶやいた言葉とは裏腹に、にやけた自分が鏡に映っていた。

 風呂場の鏡に映った一之瀬のキスマーク付きの自分を見て、千紘は一気に昨夜のことを思い出した。
 掃除に夢中になって、一心不乱に格闘していた間は忘れていた夢の心地よさが思い返される。

「水樹さん……」

 首元のキスマークを指でなぞると、一之瀬の舌の感覚を思い出した。
 今度は唇を触り、一之瀬の唇を思い出す。
 下っ腹がうずいた。勃ちそうになり慌てて頭からシャワーを浴びた。
 それでも、連れ去られるように昨夜の記憶に支配される。

『ポチャン』

 湯船に入ると、浮遊感も温かさも一之瀬に全身抱きしめられたように心地よかった。
 そう思っている自分に苦笑する。なんでも一之瀬に結びつけてしまう自分が別人になったようだった。
 
 手を湯から出して眺める。
 この手を一之瀬は握ってくれたのだ。指を絡ませて。

 そして唇をまた触る。
 この唇にキスをしてくれた。

 千紘の指は首筋を辿り、キスマークが残った場所を辿り、乳首に行き着く。
 親指と人差し指でキュッとつまんだ。
 
 今まで自分で乳首なんて触れたことがなかったが、一之瀬のさわり方を思い出して触ってみる。
 むずがゆい感じがして、だんだんと気持ちよくなってきた。

(知らなかった。感じるんだ)

 自分の新たな部分を発見したようで、それを導き出した一之瀬を思う。

 一之瀬の舌の動きを再現するように、手をそのまま下へ動かし指を滑らせて、すでに屹立していた性器に触れた。ゆるゆると手を動かしながら、この中で吐き出してもお湯の色に紛れてしまうなと馬鹿な事を思い、目を瞑って一之瀬の舌の動きを思い出した。
 お湯の中は少しだけ、一之瀬の口の中の温かさを思い出させてくれた。


 汚してしまった湯の後片付けをしてシャワーを浴びて出ると、すっかり日が暮れかけていた。

「お腹すいたなぁ……」

 つぶやきつつ、ベランダの洗濯物を取り込んでいると、濃紺の空に輝く白い帯状の雲が見えた。
 日は落ちて遠くの地平線に少し赤みが残っているだけなのに、太陽の光なく昼間の様に白く輝く雲を見て不思議に思い、しばらく見惚れていた。

 まるで一之瀬のようだと思う。日が沈んだあとの暗闇の中でも輝いて存在を示し、辺りを照らし、行き先をも示してくれる。

 そんなことを考えながら眺めていたら、机の上のスマホが鳴った。

 知らない携帯番号が表示されていた。

「…はい?」

 普通なら出ないのだが、引き寄せられるように通話ボタンを押すと、嬉しいことが起こった。

「千紘?」

 懐かしいような、くすぐったい声が聞こえた。

「先…水樹、さん…?」
「そう」
「どうして……番号……?」
「教師の特権、かな」
「ああ…職権濫用」
「まさか教えてくれないつもりだったのかなぁ。千紘もこの携帯に連絡してくれ」
「はい」

 軽口を叩く会話に嬉しくなって心が弾んだ。
 改めて思い出す。そういえば、連絡先を教えあう時間さえも昨夜はなかった。

「今日はどうだった? ちゃんと起きられたか?」
「はい。目覚まし、ありがとうございました」
「体調はどうだ?」
「大丈夫です。気を遣わせてしまって、すみません。あ、鍵は……」
「いいよ。持っていてくれて。それは予備だから。いつか渡すはずの」
「……はい」

 なんだか恋人同士みたいだ。
 自然と笑みが零れる。今間違いなく自分の顔は赤いのだろうと千紘は思う。

「会いたい、と言いたいところだけど、今週はダメそうだな。色々とバタついていて。今日もごめんな。先に出てしまって」
「……大丈夫です。お忙しいのはよくわかっているつもりです」
「ふはっ…! そうか、事務所に来てたもんな。…嬉しかったよ。先週は千紘が傍にいてくれて」
「っ……」

 千紘の顔から火が吹いた。

「どうした?」
「いや、そんな甘々なセリフを吐く人だとは、思っていなかったので」
「言うなぁ、千紘は」
「まだ現実感がわかないだけです。急展開過ぎて」
「そうだな、千紘はそう思うんだろうな。俺の中では、そんなこともないけどな」

 一之瀬の表現が『私』から『俺』に変わっていた。
 近くにいるんだ。些細な変化も、じんわりと千紘の心を暖める。
 それにしても、一之瀬のなかではそうでもないとはどんな意味だろう?

「どういう……?」
「恋に落ちるのはいつも突然、だろ?」

 そういうことか。
 気づかずにしていた自分でもよくわからない期待が急速に減速した。

「それにしても、突然過ぎます」
「そんなことないさ。前から千紘の事は気に掛けてた」
「えっ? いつからですか?」

 再び心が浮き立つ。

「いつからだったかな?」
「…は?」
「それは内緒だ」
「また、そんな言い方…」
「今度、機会があった時に教えるよ」

 電話口の向こうで、一之瀬は笑っていた。
 本当にストレートで豪快で素直な人なんだなぁと千紘は思った。真っ直ぐさが眩しいくらいだ。

「今度って、いつですか」
「気が向いた時に」
「ええっ!?」
「別に焦る必要はないだろう? 始まったばかりなんだから。先は長いさ」
「はい……」

 そんな風に言われれば、それ以上何も言えなくなってしまう。
 これからもずっと、ということ。形のある約束が本当に嬉しい。

「また、電話するよ。ゆっくり今日は休みなさい」
「はい」
「おやすみ」
「はい。おやすみなさい」

 一之瀬との電話を切ると、また夜空を見上げた。

 もう先ほどの雲はなくなり、すっかり濃い藍色の夜の空に変わっていた。
 調べたらその雲は、”夜光雲“というらしい。

 今度は一之瀬と一緒にゆっくりと、珍しいというその幻想的な雲の浮かぶ、色の変わっていく夜へ向かいゆく空を眺めたいと思った。

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