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第十一夜 如法暗夜の闇の中 - ②
しおりを挟むその名を聞いて、千紘は小さくびくっと震えた。
「始めは感心なさそうだったのに、辞めるかもっていう噂には敏感だったじゃないか。下世話な噂は許せないんだろう? エクスターンシップも、やらなくてもいい仕事を結局最後までやり通したしな。何気に正義感も責任感も強いんだよ、お前は。…俺はさ、放っておけばと思うよ。色々とさ。今の自分にそんな余裕ないし。深い関係もないし。でも、お前は怒った。ただの噂に。そういうことに真剣に悩むだろう、舛森は。接点を持ったからだよ。一之瀬と。人との繋がりを大切に思うことができる、それで悩むことができる、それだけで一種の才能だと思う」
芹沢は捲し立てるだけ捲し立てて、急に押し黙ってしまった。
芹沢の言葉が、胸の深くまで少しずつ入り込んでいく。入り込んで、凍てついた感情を少しずつ溶かしていく。
「舛森はさ、いろいろとよくやってるよ。上から目線だけどさ、そう思うよ。それに俺…やっぱ、お前のこと好きだわ」
その言葉に驚いて千紘は芹沢を見た。
芹沢は千紘を見ずに自分の分のミネラルウォーターを開け、飲んでひと息ついて続けた。
「大学入ってすぐ、お前、噂になってたんだよ」
「……?」
千紘は少し怪訝そうな顔をした。
「可愛い男の子がいるって。なのに、あんまり話さないし、勉強できるっぽいし、どうやって攻略しよう? って、女の子達が言ってた。実際一匹オオカミみたいなとこあったじゃん。で、一部のヤツは、それが気に入らないってなってて。で、法曹コースも選択してないし、見掛け倒しだろって言ってるヤツがいて。でも、前期試験終わって、舛森ダントツに成績良かったろ?」
同意を求めるように、芹沢がちらっと千紘を見た。
千紘は返事をしなかった。
「……」
「"可愛い顔してほんとにヤル気あんのかよ?"って締め上げられてるのに、"見ろよ、ヤル気しかないよ"って啖呵切ってるみたいでさ、面白かったんだよね。舛森はさ、本当は放っておいて欲しいんだろう? 普通に生きていきたいんだよな。なのに、周りはそうさせない。惹きつけるんだよ。それで距離の取り方がわからなくなる」
芹沢は眩しいものを見る顔になる。
「生きにくそうにしてるのに、話すとお前、いいヤツだったしさ。そんなヤツが普通に四年勉強する理由が、大学生活を楽しみたいからって、仲良くなったあと話してくれて、なんか不器用で見た目とか態度で誤解されやすいけど真っ直ぐ生きてるところがいいなって思ってさ。こんなヤツもいるんだなって。だから俺も法曹コース辞めちゃった。ウチの事なんてどうでもよくなっちゃって。もっと舛森のこと知りたくて。一緒にいてみたくなって。で、今もお前といる」
千紘に衝撃が走った。
だから成績がいいのに、今年願書を出さなかったのか。いくら聞いても教えてくれなかった解答がわかった気がした。
芹沢の家は医者の一家なのだ。色々あるようで反発して法学部へ入った。その事情から短期の合格を目指していたはずなのに、自分が芹沢の人生を変えてしまったのか…それ程自分を思ってくれていたのか。
「……一緒に、受かりたい。同期に、なりたい。隣で、歩んで行きたいんだ」
そう言われて、とうとう千紘の目が赤くなって目尻から滴が溜まってきた。
「……なあ、一之瀬と何かあった? ……俺にしとけよ」
真っ直ぐに芹沢に見つめられ、目尻に溜まっていた涙が滴となってこぼれ落ちた。
一度こぼれると止まらない。次々とあふれ出す。
「おま…、何、泣いてるんだよ」
芹沢が慌てて怒ったように言って、近くにあったティッシュボックスを投げて寄越した。
「……泣いてない」
千紘が強がりを言う。
「じゃあ、その目尻の涙はなんだよ?」
「……ゴミが入ったんだ」
「はいはい、そうですか」
「そうだよ。痛い」
痛い。そう、痛い。本当に痛いのは胸だ。苦しくて苦しくて、痛いっていう事自体を封印してきた。
やっとその痛みが感じられる位に、感情が戻って来たのだろう。意外にお節介で素直な芹沢の言葉で。
「言っとけ。ほら、何か食うぞ。その様子じゃ、何も食べてないんだろう? 俺も腹ペコだ」
芹沢はタマゴサンドを千紘に押し付けると、自分はカツサンドを勢いよく開けた。
先ほどの告白に千紘はまだ追いついていなかったが、芹沢は言うだけ言ってもっと先に行ってしまったように思った。
「ここのカツサンド、うまいんだよ。お前は胃にもたれるから、俺が処理する」
芹沢は青々とした顔をして、笑って頬張った。
「タマゴサンド、好きだろ? お前も食えよ」
「ああ…そうだな」
やっと千紘は口を開き、サンドイッチのプラ容器に付いたシールを引っ張った。
「うまいだろ?」
芹沢が得意満面の顔で千紘を覗き込む。
「パンがパサパサだ」
「文句の多い奴だなぁ。まあ、照れ隠しだろ?」
「違っ!」
「いいって、わかってるって」
ニヤける芹沢と対照的に、千紘は仏頂面で残りをかっ込んだ。
芹沢のおかげで、千紘は多くの人に助けられて、自分はここにいることを実感する。
返事を強要せずに、そのあといつものように振舞ってくれることに感謝した。
一之瀬にしたってそうだ。一緒に過ごした時間は本物だし、教えられたことは数多くある。
勇気ももらった。たくさんのことを彼からもらったのだ。何もそれまで自分から汚して手放してしまうことはない。
人は人とのかかわりの中でかけがえのないものを手に入れていくのだから。そうやって年を重ねていくのだ。自分の道を作っていくのだ。
今自分にできる精一杯のことをしようと誓ったことを思い出す。一之瀬に追いつきたいと願った自分。あの想いは本物だ。
自分の足で歩いていこう。彼に誇れる自分であるために。
きっと今も彼は戦っているはずだから。
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