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第十五夜に深淵を越える - ①
「ごめんなさいっ」
千紘はその姿を認めるとすぐに、畳に額を擦り付けるように正座し頭を下げていた。
土下座をしたのは人生でもちろん初めてだった。自然と気づいたらその姿勢になっていたのだ。
「ご実家にまで押しかけて来て、ごめんなさい。迷惑も考えずに……本当に、ごめんなさい」
頭を下げたまま、続けて謝った。
一之瀬は思いもかけない千紘の態度に驚いた様だった。
一瞬固まったが、しかしすぐに言葉をかける。
「いや……頭を上げて」
それでも千紘は頭を上げようとしない。
千紘の態度を見て一之瀬が一歩近づいた。
「ううん。一方的に来てしまって、本当に…申し訳ありません」
それに気づかずに千紘はまた謝る。
頑なな態度を崩さない千紘に一之瀬は苦笑すると、部屋へ入り障子を閉めて、傍へ寄って来た。
「いいんだ。大丈夫」
静かにしゃがみ込むと、千紘の肩を抱くようにそっと横から両手で起き上がらせた。
千紘がそのまま顔を上げ横を見ると、一之瀬のブラウンの瞳が目の前にあった。
とくん、と心臓が音を立てた。
「迷惑なんかじゃないよ」
目を見つめて一之瀬はやさしく否定してくれた。
「相変わらず……真っ直ぐなんだな」
小さい声で一之瀬は言い、二人は久しぶりに見つめ合って、お互いの瞳をのぞき込んだ。
瞳の中にお互いの心を探し合ったあの頃のようだった。
千紘を見つめる一之瀬の目元が、やさしく愛おしそうに緩む。
次に申し訳なさそうな哀しそうな瞳をした。
「むしろ、ここまで千紘にさせてしまって……申し訳ないと、思っている」
「いえ……」
首を振って、千紘は下を向いた。
謝られるとは思ってもいなかった。そんな対応は予想していなかったので、どんな顔をしてよいのかわからない。
そこに上から意外な言葉が降って来た。
「合格、おめでとう」
「えっ?」
思わず顔を上げると、一之瀬の例えようもない深くやさしい瞳があった。
好きだと言ってくれた時の。
――前に見た、あの瞳。
「おめでとう。よく頑張ったね」
見知った瞳に、安心感が込み上げる。
「知って……」
「うん、気になってたから」
涙が、込み上げてきた。
千紘の赤くなった目と目尻にあふれてきた涙を見て、一之瀬の手が動きかけた。
『トントン……』
その時、階段が鳴る音がまたしてきた。
音を聞いて、二人は顔を見合わせた。二人のその反応は、まるで悪いことが見つかった時の共犯者の様だった。
「座って」
素早く小さい声で一之瀬が囁いた。
「うん」
千紘は座布団に座り直し、慌てて目尻を拭く。
一之瀬は座卓の反対側に、急いで腰を下ろした。
「入るわよ」
陽日がお茶を持って入ってきた。
「どうぞ」
一之瀬が何でもない顔と声で答えた。
「日本茶とコーヒー、両方持ってきたわ。千紘さんはどちらがお好みか、わからなかったから」
「そんな…恐れ入ります。かえってお気を遣わせてしまい、申し訳ありません」
千紘も取り澄まして言った。
「いいのよ。私はもうチェックインの時間だから、旅館に戻らないといけないの。これ以上、お構いができないから。どうぞごゆっくりしてらしてね」
言いながらお菓子と共に座卓に並べて千紘を見ると、陽日は微笑んだ。
「ありがとうございます」
千紘も微笑んで頭を下げた。
顔を見られて、心配になる。
泣いていたってバレていないだろうか。
「水樹、もしよかったら、今晩泊まっていっていただけば? 積もる話もあるでしょうし」
陽日が水樹を見て言った。
「そうだね」
水樹の返事に千紘は驚いて遠慮する。
積もる話って…自分のことを陽日はどんな捉え方をしているのか、心配になってきた。
「そんな! 結構です。帰ります」
「いいのよ。今から話をして帰るのは大変よ。話す時間がなくなっちゃうわ。ね? 水樹。たくさんお話したいでしょう?」
「うん」
まるで幼子が頷くかのように、水樹が相づちを打つ。
陽日の勢いに押されっぱなしだ。
(ええっ……)
千紘は内心で驚愕した声をあげた。
「平日で部屋が余ってるし、少しだけご恩返しのつもり。受けてくれると助かるわ」
「でも……」
「泊まるところは決まっていないんだろう。帰る手間より、ここへ泊まって、今晩はゆっくりしたらいい」
一之瀬が言うので、千紘はつい頷いた。
「……ありがとうございます。お世話になります」
「よかった! 嬉しいわ。それにね……」
陽日がいたずらっ子のようにとびきりの笑顔をした。
「タイミング良く、今日は特別室のキャンセルが出たのよ! ぜひ、そちらに泊まってらして」
「それはさすがに……」
いきなり来ただけでも迷惑をかけているのに、お値段も跳ね上がる良いお部屋など、泊まらせていただくわけにはいかない。
「大丈夫。お料理も無駄にならなくて助かるわ」
一歩も引かない陽日は、一之瀬を見て言った。
「水樹。あなたも一緒に泊まりなさい。それなら気兼ねなく、お泊まりいただけるでしょう?」
「えっ……」
さすがに一之瀬が、驚いて慌てた様子をみせた。
「あなた、来てからなんだかんだ言って、一度もお休みとってないじゃない。いい機会よ」
「……それは」
「労働基準法」
戸惑う一之瀬に、すかさず陽日が圧をかけていく。
「ちょこちょこ手伝うだけだからって言うけどね、皆の手前もあるのよ。いざ頼りたい時に頼れないじゃない」
「ごめん」
「台帳操作してるこっちの身にもなってもらわないと。弁護士なんだから」
「でも…」
「私に、逆らうの?」
「いや……。…そうさせて、いただきます」
陽日の剣幕に、一之瀬が負けて折れた。
やっぱり姉は、姉なのだ。
「よし。用意はしておくから、いつでも声をかけてね」
「ありがとう」
一之瀬が言う。
「千紘さん、またね。どうぞごゆっくり」
優雅に一礼して、陽日は出て行った。
「本当に、甘えてもいいんでしょうか……」
千紘は逡巡して聞く。
「ああ、遠慮するな。ささやなか合格祝いとでも思えばいい」
軽い調子で、一之瀬は答えた。
「ささやかなって……だいぶ豪勢ですけど。それに……」
千紘には今の流れでもう一つ、気になって聞きたいことがある。
「……それに、俺と…一緒で……いいんですか」
正面から一之瀬を見つめて聞いた。
一之瀬は微笑んで、千紘を見て言った。
「もちろんだよ。千紘は……?」
「願ったり叶ったりです」
千紘の言い方に、一之瀬は屈託ない顔で笑った。
「じゃあ、決まりだな」
「水樹さん……ありがとうございます」
「こちらこそ、わざわざ来てもらってありがとう」
一之瀬が頭を下げるので、おかしくなって二人で笑った。
少し、千紘は肩の荷が降りた気がした。
「水樹さん、さっきから気になってました。…髪!」
一通り笑い合って、一之瀬に気になっていたことを指摘した。
緊張が解けたのか、千紘はここに来て自分の言いたいように初めて言葉を発した気がした。
「あ。ああ……」
戸惑いながら思い当たって一之瀬が頷く。
「こんな時間に、どうしてお風呂なんですか」
「走りに行っていたんだ。この時間は空くから」
なるほどと千紘は頷いて、心配になって言った。
「そんなに濡れたままだと、風邪を引きます」
「急いで風呂から出てきたから……」
「申し訳ありません。俺のせいですね」
一之瀬の言葉を聞いて、再び千紘が頭を下げる。
慌てて一之瀬は否定する。
「いや! 違うよ」
「責任を取ります。ドライヤーを持ってきてください」
有無を言わさない口調で言った千紘に、一之瀬が思わず聞き返した。
「え?」
命令口調で千紘は言った。
「ドライヤー。早く!」
「………? ……わかった」
千紘に言われるがままにドライヤーを取りに、一之瀬がわけのわからない様子で戸惑いながら部屋から出て行った。
そんな一之瀬の久しぶりの後ろ姿を見て、千紘はクスッと笑みをこぼした。
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