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四
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大学の食堂。どうしても提なければならない書類があったので渋々訪れると、仏頂面をした平野に有無を言わさず食堂に連行された。たいして食欲もなかったので冷奴を一つ買った俺とは対照的に、女は大盛りのかつ丼を二つ乱暴に机の上に乗せ無言で貪り始めた。いつも以上の早食いに、絶対太るだろうお前、とか思いつつも、ゆっくりと冷え切った豆腐を口に入れていく。醤油もなにも付けていないそれは酷く味気なかったものの、たいして気にならない。そもそも、最近、飯の味すら、曖昧になりはじめていたから。そうしながら、さっさと帰りたいなぁ、と思いつつも、去ろうとすれば平野に頬を引っ叩かれ席に戻されるのはわかっていたので、とりあえずは座ったままでいる。
それから十分ほどが経った。二つのどんぶりがものすごい速さで胃に消えていく早送り映像をぼぅっと眺めてから、ようやく振り向いた平野の据わった目を見つめ返した。
ねぇ、アキヒロ。なんでぼくが怒っているかわかる。
身を乗り出しながら、こちらを射抜く眼差しは、強い怒りの感情を窺わせた。しかし、何も答えないし答えられない。もう、どう答えていいのかもわからなかった。
今の自分が、どんな顔をしてるか知ってる。
ああ。
いつも嫌でも目に入ってくる。二つのガラス玉に反射したものに映った顔はだらしなく、うつろな目をしているのだと。
目に生気はないし、頬も痩せこけてる。まるで麻薬でもやったみたいじゃないか。なんで、そんなになるまで放っておいたんだよ。
麻薬。平野の言葉のほとんど聞き流しながらも、実に的確な表現だと舌を巻く。たしかに、彼女の舌先も、挟んでくれる二つの膨らみも、適度に締め付けくれる穴も、どこもかしこももう忘れられそうもないのだから。
アキヒロ、言ったよね。大丈夫だよ、って。ぼくはその言葉を信頼して今日までなにも言わなかった。電話やメールが返ってこないのだって我慢してた。だけど、そんな顔を見たら、もう我慢できない。我慢できる自信がない。
こちらを貫くぎらついた視線。とても熱く、そして温かいものだった。少し前まで、わずかに歩み寄れば手に入ったもの。それなりに求めていた小さな幸せ。そういうものが、大好きだった。そのはずだったのだが。
今日からアキヒロの世話をする。嫌って言われても、いっぱい食べたり休んだりして、元のアキヒロに戻ってもらうからね。
もう、いいんだよ、平野。
口を挟んだ瞬間、間の抜けた声が上がるのを聞いた気がしたが、かまわず口を動かすことにする。
俺は別に無茶しているわけでもなければ、元気がないわけでもないんだ。
嘘だよ。見た目からしてそんなにぼろぼろになってるじゃないか。付き合いが長いんだから、それくらいわかるよ。
厳しげな眼差しに籠っている力に、こいつ人がいいな、なんて思いながらも、言葉が沁み込んでこないのがわかる。平野の熱意が足りないわけじゃない。俺が冷めているだけなのだろう。
たしかにそう見えるかもしれないけど、あくまで見た目だけだ。むしろ、今までにないくらい気力に満ち溢れている。
淡々と本当のことを告げる。こんなことに労力を割くのが面倒臭くなりはじめていたが、黙っていたら黙っていたで、もっと疲れそうだったので、仕方なく言葉を足していく。女は顔を真っ赤にしたまま、こっちを睨みつけている。しばらく待ったが何も言ってこないので、億劫ながら口を開いた。
やりたいことがあるんだ。だから、他の事に割く時間なんてないんだ。
そう。俺はもっと長い時間彼女の傍にいたい。極力離れたくないと思う。今この瞬間だって、さっさと見切りをつけて立ち去りたいし、できることなら大学だってやめてしまいたい。それを実現するために、嫌々ながら、家の外に出た。一つ一つ、切り離していくために。
そのやりたいことって、そんなになってまで続けたいって思うわけ。
女にしては低めの声が耳に響くのを鬱陶しいと思いながら、一つ頷く。
ちゃんと言葉にして答えてよ。それとも口にできないのは後ろめたいと思っているからかな。
不機嫌そうに眉に皺をよせて詰め寄ってくる女を見ながら、口を開く。
やりたいよ。少なくともここでこうしているよりはずっとな。
正直、労力を割きたくなかっただけだったのだが、平野の言葉の調子から、誤解を残すのは良くないと判断し、はっきりと告げる。表情を消した女を見て、これでいいか、というような視線を送る。向かい合うつぶらな瞳はうるみ始めていて、黙ったまま抗議をしているようだった。またしても言葉を失った女をぼぅっと眺めながら、頭の中で浮かべているのは常に彼女のことだった。
そのままの体勢が続いたあと、こちらの言うべきことはだいたい口にしたのもあり、俺を腰を上げようとする。これ以上この場にいる意味はなかった。
待ってよ、アキヒロ。
新たに言葉を放った女の方へ向き直る。何かあるなら、さっさと済ませて欲しかった。
アキヒロにやりたいことがあるっていうのはわかったよ。だけど、そんなになったアキヒロを見過ごすことなんてやっぱりできない。だからせめて、アキヒロが疲れ過ぎないように、お手伝いさせてくれないかな。
先程まで泣きそうだった目には、一つの炎が宿っていた。表情の下には、俺のやりたいことに対する不満がありありと窺えたが、それを一旦棚に置いたうえで手伝うと言ってくれているらしい。
こう見えてもそれなりに体力はあるし、家事とか軽い力仕事とかだったら、できるし。だから、ね。
俺が何も答えないのをどう受け取ったのか、女は自らの薄らとした胸板を自分で叩きながら、自分勝手に話を進めようとする。思わず溜め息が漏れた。
どうやら、さっきの俺の言い方が曖昧だったみたいだな。お前ははっきりとしたのが好みらしいから、お望みどおりにしてやる。
女の勝手は許してやるわけにはいかない、という思いから、気だるさを覚えつつも、すっと息を吸いこんで口にする。
お前はいらないんだ。
誰かに割く心の余裕などどこにも存在しないとはっきり告げ、席を立った。今度こそ、言い残したことはなかった。そのまま、踵を返して、食堂を出ていこうとする。直後にシャツを引っ張られた。
待ってよ、アキヒロ。
女の大きな声は明らかに余裕を欠いていた。
嘘だよね。アキヒロ、一人は嫌いでしょ。
大丈夫、お前に心配されるまでもなく、彼女、がいるんだから。そう思いながら前へ進もうとするものの、シャツの背中の部分は掴まれたままだった。
ぼく、なにか悪いことしたのかな。知らないうちに、アキヒロを傷つけちゃったのかな。だったら言って。なんだって直すから。だから。ねぇ。
縋るような声。きっと、こいつは俺の中に居場所を作ろうとしているんだろう。そこを確固たる自分の場所として。それを改めて確認した後。
どけ、お前は邪魔だ。
身体全体を使って女を突き飛ばした。小さな悲鳴が上がり、机にぶつかったと思しき音が聞こえたが、もうどうでもいいと思い、足を早める。一刻も早く、帰りたかった。
家の扉を開けてから、後ろ手で鍵とチェーンをかける。息を切らしながら見れば、人魚は尾鰭を使って玄関の前に立っていた。彼女の胸元は屋台の男に渡された海藻を模した薄緑色のブラに覆われている。よく、絵本などで目にする組み合わせは、肌を隠すという用途が逆に彼女の大ぶりな胸の端の方を零れさせ、結果的に見えない部分を想像させ強調していた。男の言った通り、人魚はこれを胸元に付けることに抵抗は示さずに、むしろ積極的に自分の両手で取り付けていた。
靴を脱ぎ散らかしてからフローリングに上がれば、人魚は一旦寝転がり、鰭を器用に使いながら、こちらに近付いてくる。俺が屈みこんで手を広げると、細長い身体が躊躇いなく飛び込んできた。途端に鼻の中に広がる潮の匂いに、条件付けよろしく、頭がくらくらししてきた。
程なくして、吸いついてきた唇から、一匹の細長い蛇が侵入してくる。それが巻き付いてくるのに合わせて俺もまた自らの口の中にいる蛇を絡めていく。最初は、ただただ捕食されるばかりだったが、今ではともに楽しむ余裕みたいなものが生まれはじめている。普段通り圧し掛かられつつ、絶えずにお互いの唾液を交換する。彼女の口の中にある隙間がどんな形をしているのかということを俺より知っている人間はいないだろうし、逆に彼女ほど俺の口の中を感じ尽くしているものもいないだろう。
舌先からじわじわと体中に広がっていく激痛もまた反転している。体を離す前は二度と味わいたくないと思っていたはずなのに、いざ透明な液体の橋ができあがって切れた後には、もう、終わってしまったのかという喪失感に襲われ、結果的に自ら針山に上りに行くみたいに、また唇を啄む。これを繰り返しているうちに、この繋がりは生活になくてはならないものになっていた。
どれだけの間、息を止めて舌を絡めていたのか。離れた時には、酸素と癒しを求めて激しく息を吸い込んでいた。外に目をやると、帰ってきた時よりも陽は落ちているようで、換気扇下の網戸越しに入ってくる光は橙色だった。ここ最近はありがちな所感。時間の流れがやたらと速く、注意していなければ、どれだけ経過したのかも見逃してしまう。ただただ、濃い時が真横を流れていく。
見下ろしているガラス玉のような目が再び近付いてくる。いまだに、彼女は感情を露にしない。それでも気分を、なんとなくこうかな、と察することくらいはできるようになってきている。口にする言葉を持たない人魚は瞳で告げる。
まだ、足りない。もっと、寄越せと。
顔が見えなくなり、やってくる柔らかさと時を置いて絡んだ舌の上に訪れる剃刀にずたずたにされるような感覚。病みつきになったそれに身を沈めながら、自らの口の中に付いた蛇を暴れさせる。まだまだ、時間はたっぷりあるのだ。
夜も深くなった。上に圧し掛かったほどよく軽い細見の存在を強く感じながら、ひたすら腰を突き上げる。その度に、室内の蒸すような暑さによってできた汗が頬に一つ一つと落ちてくる。元々、塩水寄りだったそれは、濃さと匂いのせいかもはや海水といって差し支えない。俺自身も締め付けられるものを中心として広がる痛みと達せられないもどかしさを感じながら、燃え上がるように熱くなった全身から絶えず脂汗を流し続ける。
気だるさの中で視線を上げれば、彼女の顔は見える。表情こそ、マグロのように少しも動かしていなかったものの、身体が元々持ち合わせる反射のせいか、月明かりが照らす頬は上気するように朱色に染まっていた。それを目にするとともに、この人魚とともにあるという意識が強まり、頭の中が心地良く痺れた。
お互いに荒い息を吐きながら、穴の中で出し入れを繰り返す。その度に、俺と彼女を包み込む炎は益々激しさを増していき、身体は熱病にでも冒されたように逃げ場を求め、結局救われるにはここでことを終える以外には方法はないのだと悟る。まるで、岩の上に座る美女の身体に群がるように、下にいるはずの俺の方も必死になって相手とより深く繋がろうと腰を動かしていく。
果てるのはいつも唐突だ。ぐちゃぐちゃになった穴の中で一旦止まりながら、上にある身体の方が震えるのを目にする。もう、何度出したかすら覚えていない。
ゆっくりと息を吐きだしていく彼女は、目蓋を固く瞑りながら、軽い喘ぎ声を洩らす。喋らない人魚が、唯一声を出すのは、繋がりが一時中断される時くらいだった。俺は僅かな小休止に身を任せる。
ガラス玉が開く。眼は、まだまだ満足していない、と告げていた。彼女の眼球に捕らえられると俺の欲望が再び膨らんでいくのを感じて、腰を動かす。どろどろになった身体を僅かに不快に思いながら、ぼぅっとした意識の中に溺れていった。
それから十分ほどが経った。二つのどんぶりがものすごい速さで胃に消えていく早送り映像をぼぅっと眺めてから、ようやく振り向いた平野の据わった目を見つめ返した。
ねぇ、アキヒロ。なんでぼくが怒っているかわかる。
身を乗り出しながら、こちらを射抜く眼差しは、強い怒りの感情を窺わせた。しかし、何も答えないし答えられない。もう、どう答えていいのかもわからなかった。
今の自分が、どんな顔をしてるか知ってる。
ああ。
いつも嫌でも目に入ってくる。二つのガラス玉に反射したものに映った顔はだらしなく、うつろな目をしているのだと。
目に生気はないし、頬も痩せこけてる。まるで麻薬でもやったみたいじゃないか。なんで、そんなになるまで放っておいたんだよ。
麻薬。平野の言葉のほとんど聞き流しながらも、実に的確な表現だと舌を巻く。たしかに、彼女の舌先も、挟んでくれる二つの膨らみも、適度に締め付けくれる穴も、どこもかしこももう忘れられそうもないのだから。
アキヒロ、言ったよね。大丈夫だよ、って。ぼくはその言葉を信頼して今日までなにも言わなかった。電話やメールが返ってこないのだって我慢してた。だけど、そんな顔を見たら、もう我慢できない。我慢できる自信がない。
こちらを貫くぎらついた視線。とても熱く、そして温かいものだった。少し前まで、わずかに歩み寄れば手に入ったもの。それなりに求めていた小さな幸せ。そういうものが、大好きだった。そのはずだったのだが。
今日からアキヒロの世話をする。嫌って言われても、いっぱい食べたり休んだりして、元のアキヒロに戻ってもらうからね。
もう、いいんだよ、平野。
口を挟んだ瞬間、間の抜けた声が上がるのを聞いた気がしたが、かまわず口を動かすことにする。
俺は別に無茶しているわけでもなければ、元気がないわけでもないんだ。
嘘だよ。見た目からしてそんなにぼろぼろになってるじゃないか。付き合いが長いんだから、それくらいわかるよ。
厳しげな眼差しに籠っている力に、こいつ人がいいな、なんて思いながらも、言葉が沁み込んでこないのがわかる。平野の熱意が足りないわけじゃない。俺が冷めているだけなのだろう。
たしかにそう見えるかもしれないけど、あくまで見た目だけだ。むしろ、今までにないくらい気力に満ち溢れている。
淡々と本当のことを告げる。こんなことに労力を割くのが面倒臭くなりはじめていたが、黙っていたら黙っていたで、もっと疲れそうだったので、仕方なく言葉を足していく。女は顔を真っ赤にしたまま、こっちを睨みつけている。しばらく待ったが何も言ってこないので、億劫ながら口を開いた。
やりたいことがあるんだ。だから、他の事に割く時間なんてないんだ。
そう。俺はもっと長い時間彼女の傍にいたい。極力離れたくないと思う。今この瞬間だって、さっさと見切りをつけて立ち去りたいし、できることなら大学だってやめてしまいたい。それを実現するために、嫌々ながら、家の外に出た。一つ一つ、切り離していくために。
そのやりたいことって、そんなになってまで続けたいって思うわけ。
女にしては低めの声が耳に響くのを鬱陶しいと思いながら、一つ頷く。
ちゃんと言葉にして答えてよ。それとも口にできないのは後ろめたいと思っているからかな。
不機嫌そうに眉に皺をよせて詰め寄ってくる女を見ながら、口を開く。
やりたいよ。少なくともここでこうしているよりはずっとな。
正直、労力を割きたくなかっただけだったのだが、平野の言葉の調子から、誤解を残すのは良くないと判断し、はっきりと告げる。表情を消した女を見て、これでいいか、というような視線を送る。向かい合うつぶらな瞳はうるみ始めていて、黙ったまま抗議をしているようだった。またしても言葉を失った女をぼぅっと眺めながら、頭の中で浮かべているのは常に彼女のことだった。
そのままの体勢が続いたあと、こちらの言うべきことはだいたい口にしたのもあり、俺を腰を上げようとする。これ以上この場にいる意味はなかった。
待ってよ、アキヒロ。
新たに言葉を放った女の方へ向き直る。何かあるなら、さっさと済ませて欲しかった。
アキヒロにやりたいことがあるっていうのはわかったよ。だけど、そんなになったアキヒロを見過ごすことなんてやっぱりできない。だからせめて、アキヒロが疲れ過ぎないように、お手伝いさせてくれないかな。
先程まで泣きそうだった目には、一つの炎が宿っていた。表情の下には、俺のやりたいことに対する不満がありありと窺えたが、それを一旦棚に置いたうえで手伝うと言ってくれているらしい。
こう見えてもそれなりに体力はあるし、家事とか軽い力仕事とかだったら、できるし。だから、ね。
俺が何も答えないのをどう受け取ったのか、女は自らの薄らとした胸板を自分で叩きながら、自分勝手に話を進めようとする。思わず溜め息が漏れた。
どうやら、さっきの俺の言い方が曖昧だったみたいだな。お前ははっきりとしたのが好みらしいから、お望みどおりにしてやる。
女の勝手は許してやるわけにはいかない、という思いから、気だるさを覚えつつも、すっと息を吸いこんで口にする。
お前はいらないんだ。
誰かに割く心の余裕などどこにも存在しないとはっきり告げ、席を立った。今度こそ、言い残したことはなかった。そのまま、踵を返して、食堂を出ていこうとする。直後にシャツを引っ張られた。
待ってよ、アキヒロ。
女の大きな声は明らかに余裕を欠いていた。
嘘だよね。アキヒロ、一人は嫌いでしょ。
大丈夫、お前に心配されるまでもなく、彼女、がいるんだから。そう思いながら前へ進もうとするものの、シャツの背中の部分は掴まれたままだった。
ぼく、なにか悪いことしたのかな。知らないうちに、アキヒロを傷つけちゃったのかな。だったら言って。なんだって直すから。だから。ねぇ。
縋るような声。きっと、こいつは俺の中に居場所を作ろうとしているんだろう。そこを確固たる自分の場所として。それを改めて確認した後。
どけ、お前は邪魔だ。
身体全体を使って女を突き飛ばした。小さな悲鳴が上がり、机にぶつかったと思しき音が聞こえたが、もうどうでもいいと思い、足を早める。一刻も早く、帰りたかった。
家の扉を開けてから、後ろ手で鍵とチェーンをかける。息を切らしながら見れば、人魚は尾鰭を使って玄関の前に立っていた。彼女の胸元は屋台の男に渡された海藻を模した薄緑色のブラに覆われている。よく、絵本などで目にする組み合わせは、肌を隠すという用途が逆に彼女の大ぶりな胸の端の方を零れさせ、結果的に見えない部分を想像させ強調していた。男の言った通り、人魚はこれを胸元に付けることに抵抗は示さずに、むしろ積極的に自分の両手で取り付けていた。
靴を脱ぎ散らかしてからフローリングに上がれば、人魚は一旦寝転がり、鰭を器用に使いながら、こちらに近付いてくる。俺が屈みこんで手を広げると、細長い身体が躊躇いなく飛び込んできた。途端に鼻の中に広がる潮の匂いに、条件付けよろしく、頭がくらくらししてきた。
程なくして、吸いついてきた唇から、一匹の細長い蛇が侵入してくる。それが巻き付いてくるのに合わせて俺もまた自らの口の中にいる蛇を絡めていく。最初は、ただただ捕食されるばかりだったが、今ではともに楽しむ余裕みたいなものが生まれはじめている。普段通り圧し掛かられつつ、絶えずにお互いの唾液を交換する。彼女の口の中にある隙間がどんな形をしているのかということを俺より知っている人間はいないだろうし、逆に彼女ほど俺の口の中を感じ尽くしているものもいないだろう。
舌先からじわじわと体中に広がっていく激痛もまた反転している。体を離す前は二度と味わいたくないと思っていたはずなのに、いざ透明な液体の橋ができあがって切れた後には、もう、終わってしまったのかという喪失感に襲われ、結果的に自ら針山に上りに行くみたいに、また唇を啄む。これを繰り返しているうちに、この繋がりは生活になくてはならないものになっていた。
どれだけの間、息を止めて舌を絡めていたのか。離れた時には、酸素と癒しを求めて激しく息を吸い込んでいた。外に目をやると、帰ってきた時よりも陽は落ちているようで、換気扇下の網戸越しに入ってくる光は橙色だった。ここ最近はありがちな所感。時間の流れがやたらと速く、注意していなければ、どれだけ経過したのかも見逃してしまう。ただただ、濃い時が真横を流れていく。
見下ろしているガラス玉のような目が再び近付いてくる。いまだに、彼女は感情を露にしない。それでも気分を、なんとなくこうかな、と察することくらいはできるようになってきている。口にする言葉を持たない人魚は瞳で告げる。
まだ、足りない。もっと、寄越せと。
顔が見えなくなり、やってくる柔らかさと時を置いて絡んだ舌の上に訪れる剃刀にずたずたにされるような感覚。病みつきになったそれに身を沈めながら、自らの口の中に付いた蛇を暴れさせる。まだまだ、時間はたっぷりあるのだ。
夜も深くなった。上に圧し掛かったほどよく軽い細見の存在を強く感じながら、ひたすら腰を突き上げる。その度に、室内の蒸すような暑さによってできた汗が頬に一つ一つと落ちてくる。元々、塩水寄りだったそれは、濃さと匂いのせいかもはや海水といって差し支えない。俺自身も締め付けられるものを中心として広がる痛みと達せられないもどかしさを感じながら、燃え上がるように熱くなった全身から絶えず脂汗を流し続ける。
気だるさの中で視線を上げれば、彼女の顔は見える。表情こそ、マグロのように少しも動かしていなかったものの、身体が元々持ち合わせる反射のせいか、月明かりが照らす頬は上気するように朱色に染まっていた。それを目にするとともに、この人魚とともにあるという意識が強まり、頭の中が心地良く痺れた。
お互いに荒い息を吐きながら、穴の中で出し入れを繰り返す。その度に、俺と彼女を包み込む炎は益々激しさを増していき、身体は熱病にでも冒されたように逃げ場を求め、結局救われるにはここでことを終える以外には方法はないのだと悟る。まるで、岩の上に座る美女の身体に群がるように、下にいるはずの俺の方も必死になって相手とより深く繋がろうと腰を動かしていく。
果てるのはいつも唐突だ。ぐちゃぐちゃになった穴の中で一旦止まりながら、上にある身体の方が震えるのを目にする。もう、何度出したかすら覚えていない。
ゆっくりと息を吐きだしていく彼女は、目蓋を固く瞑りながら、軽い喘ぎ声を洩らす。喋らない人魚が、唯一声を出すのは、繋がりが一時中断される時くらいだった。俺は僅かな小休止に身を任せる。
ガラス玉が開く。眼は、まだまだ満足していない、と告げていた。彼女の眼球に捕らえられると俺の欲望が再び膨らんでいくのを感じて、腰を動かす。どろどろになった身体を僅かに不快に思いながら、ぼぅっとした意識の中に溺れていった。
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