鍵盤上の踊り場の上で

紗由紀

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第1章 Encounter

葛藤

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ふと、音楽が聞こえた。ピアノの音でなく、放送機材から流れる音楽が。それは、僕らの帰宅を促す音色だった。時計に目をやると、長針は最終下校時刻に近づいている。知らない間に、時計が仕事をしていたようだ。
「もう最終下校時刻だし、帰ろうか」
「うん」
そう言って僕らは音楽室を出た。
昇降口までの数分間、水瀬はずっと話していた。ピアノや、音楽のことを。
その姿を見て、目を細めたくなる。
眩しい。
いつかの僕の姿を見ているようだった。ピアノが大好きで、ピアノについてずっと語っていたくて、ピアノの前に座ると、胸の中の高揚感が抑えきれなかった、そんな頃の自分を。
なのに、今の僕は。
ピアノのことを語りたいとは思えない。ピアノの前に座っても、心は冷えきっている。指は勝手に震えるし、「大好き」という気持ちは、過去のどこかへと置いてきてしまった。
いつかの自分のように、ピアノをまた愛したかった。
僕はいつか、水瀬のようになれるだろうか。
…いや、水瀬は僕のようにならないだろうか。
そんな希望と不安が入り交じった、不思議な感覚だった。
立ち止まってしまった僕を、水瀬はただ見つめていた。純粋な眼差しを向けられた僕は、ただ聞きたくなった。
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