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山神様の霊験
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霞の権蔵は激痛に身を捩りながらも、目が吸い付いているかの如くじっと見ていたが、不意に激しい憎悪に満ちた目ではたとお市兎を睨みつけ、忌々し気に告げた。
「山神様、本当に居たのかい。ならよ、今更何でしゃしゃり出て来やがるっ。助けてくれって、祈って祈って祈り倒して、蛆に集られながら死んでいく、腹を空かせた無宿の餓鬼共には応えねぇくせによぉ。まあいい。どうせ俺はもう終いだ」
皺を造りながら牙を剥き唸る狼達を眺めると、不敵な笑みを霞の権蔵は浮かべた。
灰王はそんな権蔵を静かに見据えながら、「わふっ」と群れに、辺りの山人の賊たちを更に見つけだして、襲うように指示をし、狼達は其れに応えてぱっと散る。
そんな狼達を見て、次は自分だと、動ける山人の賊たちは我先に逃げ出した。
「た、助けてくれぇ」「もう、山で悪さはしねえ」そんな事を口々に、中には悲鳴を上げている者までいた。
「悪いことしかしねえ奴には天罰かい。悪は生きたまま喰われるのも仕方ねえってか。だがな、山神様、悪さどころか虫も殺さねえ様な連中に襲いかかる不幸は、止められるのかい」
お市がピクリと耳を動かす。
「へっ、アンタが気にかけているあの餓鬼どもの不幸、止めて見せな、山神様。地獄でしっかりと見ておいてやるよ」
権蔵はそう吐き捨てると、口の中で何かを嚙もうとしたが、突如現れた辰吉がすかさず樹の枝を差し込み、口の中から何か取り出し、放り投げた。
藤次郎は手拭に石を包み込んで、飛礫をいつでも放てるよう辺りを窺い、手足を力強く噛み裂いて抑えている狼達は、より強く手足を噛み押さえつける。
「味方だとは言え、こいつはこいつで、中々の迫力だな」
藤次郎の美丈夫ぶりと、狼達の様相に驚きを隠さないまま、辰吉は、懐から手拭を取り出して猿轡を噛ませ、
「安心しろ。毒なんかじゃあ死なせやしない。お前さんにこんなに楽に死なれちゃあ、安兵衛兄いに姐さんも許しちゃあくれまい。獄門台に晒されるその日まで、付きっ切りで死なせねえ。後な、嬢に坊の里の家には代官所直参の侍達に詰めて貰っている。山人風情にゃあ手も足も出せやしねえよ」
そう言いながら、いつの間にやら切り出していた蔦を縄代わりに、霞の権蔵を雁字搦めにすっかりと縛り上げた。
そうして、周りを取り囲んでいる狼達へしっかりと頭を下げる。
「助かったよ。有難うな。命の恩は誰が相手でも忘れない。約束するよ。取りあえずこの野郎は任してくれ」
狼達はその場から離れ、入れ替わるようにゆるりと灰色の大きな狼が近付いてくる。
辰吉は、その背に立つ野兎に眼を遣った。
「命を助けてくれてありがとう。お嬢」
辰吉は確信をもって野ウサギに言った。
野兎は白い腹毛をなびかせながら、力強くうんうんと頷いた。
「兎はそんな風に頷いちゃなんねえよ。お嬢」
ごめんなさいと、前足を拝むように揃える兎に、
「だから、駄目って言ってるだろう。化け兎が出るって絵草紙にまた書かれるぞ。」
と、小声で囁くと、横たわっている若い十手持ちの亡骸の身形を手厚く整え、
「済まねえ。いつかそっちで詫びを入れるから、それまで穏やかに、待っていてくれ」
手を合わせて頭を垂れた。
そして、振り返ると木挽きの小屋へ声を掛けた。
「小春さん、清七さん。もう出来ても大丈夫だ」
声を聞きつけ、木挽きの小屋から小春が顔を覗かせ、恐る恐る様子を窺っている。
「辰吉様っ、ご無事でっ」
小春は大きな声をあげながらも、小きょろきょろと目を皿のようにして、辺りを注意深く見回していた。
と、灰色の大きな狼と目が合い、度肝を抜かれて小さく悲鳴を上げる。
その声に、ぐったりとした清七が薄目を開けた。
「こりゃあ、どうしたことだ……」
藤次郎がすぐさま駆け寄り、横たわらせて具合を見る。
「清七さんっ。お気を確かに。藤次郎です」
藤次郎の慌てた声に、お市の気持ちは益々慌てた。
(清七さんっ。無事なのっ、怪我はどんななのっ、清七さんっ)
ひとしきり不安を大いに煽られたお市兎が、背中でキーキー騒ぐのを煩く思った灰王は、お市が心配している人間の男を怖がらせないように、ゆっくりと歩を進めて近付いていった。
小春は目を瞠った。
体つきがとても大きく恐ろし気な狼が、悠々と清七に近付いていくのだ。しかも、藤次郎も辰吉も助けようとしない。
「嫌っ、喰らうなら私をっ。その代わりこの人だけは、この人だけは……」
藤次郎や辰吉が声をかける間も無いほどに、瞬時に、迷いなく大きな狼の前に体を差し込み、体を張って清七を庇う小春に、さしものお市も気が付いた。
ああ、小春さんは清七さんを心底好いているんだ。
そんな小春を、ぐいっと押し退け清七が更に割って入る。
大怪我をして、痛みのあまり、意識を失いそうになっていたとは思えない程の、力強さであった。
「……駄目……だ。喰われるなら、この……私を。小春は、命に替えても……頼む……喰らうなら死にぞこないの……私にしておくれ。この通り」
震える手で小春を必死に庇い建てし、灰王を見上げながら頼み込む清七。
お市は空を見上げて、泣きたくなった。
皆が無事であった事。
怖い事がやっと終わった事。
自分が清七のことを、憎からず思っていたこと。
そして、同時にそれは最早叶わぬものであるという事も。
その全てをたった今思い知ったのだ。
辰吉は、大きく咳ばらいを一つすると、全員の耳に入るように口上した。
「山神様に畏み畏み、申し上げ奉ります。これなる男、清七は、何分深手の故、すぐさま人界の医者に診せたく存じます。霊験あらたかなご神威をお示し、悪人を懲らしめ、お救い戴きましたこと、まずは言上を持って御礼申し上げ、御眼汚しとご無礼の段、平にお詫び申し上げます。何卒、憐れを思し召しになり、お怒りをお納め下さい。命ばかりはお助け下さいます様、お願い申し上げ奉ります」
大音声で芝居がかった口上であった。
目敏い藤次郎は、駄目押しで、黒丸に
「黒っ、わをーんっ」
と遠吠えを促した。
「わおーんっ」
黒丸が高らかに、そして誇らしげに遠吠えを上げた。
その遠吠えに、灰王が堂々たる遠吠えを返した。一斉に他の狼達も灰王に倣い、遠吠えを行い、一帯に木霊する。
その効果は覿面であった。
残って居た山人達は、元々の異常な様相と、狼達の遠吠えによる威容に、すっかりと震えあがり、得物を投げ捨てると観念した。
意気消沈していたお市は、芝居ががった口調に、自分を取り戻し、髭を棚引かせながら、片手ならぬ片足を挙げ、
(分かっているわよ。まだ踏ん張る)
と藤次郎に伝えた。
「ありゃあ…何だ」
「兎が狼の背に跨っている」
狼の背に、野兎が跨っている事に、ようやく気が付いた清七と小春は、大層驚き、清七に至っては、驚きの余り、痛みを忘れるほどであった。
「山神様……」
呟く小春の手を清七はしっかりと握りしめていた。
お市はその様子を苦々しく、反して嬉しくもある複雑な胸中で眺めていた。
(ここは、せいぜい神様の振りをしてあげるわ)
お市は長い耳をピンっと立て、灰王の背でふんぞり返った。
(周りのみんな、姿を見せて、近くまで来て。血の匂いはもうさせないから。お願い)
ざわざわと樹々が蠢き、狼達のみならず、狸に鹿に猪といった、お市を心配して集まっていた、近在の獣達が、お市の呼び掛けに応え、続々と顔を出した。
兎のお市はここぞとばかり、鹿や猪達に山人たちを突かせ、手の器用な熊や狸に、弓矢に刀、槍などを取り上げさせた。
鉄砲に至っては、先に狼たちが咥えて持ち運んでいる。
「すすす、済まねえことをしました」
「金輪際、悪さしません。殺生、辞めます」
迷信深い山人達は口々に詫びや悲鳴を上げると、逃げ出す意気地すらすっかりと失くしてしまい、震え上がったままだ。
藤次郎が此処に来る前に発した報せで、峠の奥むこうから押っ取り刀の助っ人の里人と役人達が、駆け寄って来るのを認めて、辰吉は立ち上がり両手を振った。
「おおーいっ。こっちだぁ」
その足下には縛り上げられた霞の権蔵がいる。沢山の山人達も。
道端で寝かされている若い十手持ちに、お市は手向けの野菊を摘むと、そっと捧げた。
(有難うございます。守って下さって。極楽浄土へ迷わずにお向かい下さい)
「お、おいっ、あ、ありゃあ何事だ。獣が一堂に会しているぞ」
「なんなんだ、こ、こりゃあ」
騒ぐ、役人や里人を尻目に、お市はウサギながら、ふうと一息、安堵のため息をついた。
(みんな、有難う。森に帰ろう。灰王、本当に有難うございました。約束は決して違えないから、困ったら頼って来てね)
とお市は、灰王の背から飛び降りた。
灰王は、野ウサギのお市を親愛の情をもってぺろりと舐めると、満足げな表情を浮かべ、仲間を引き連れ樹々の中へと消えていった。
お市は人が歩くように、二本足で小春のもとへ近づいた。
驚きと恐怖で固まっている小春に、落ちている松葉を拾うとその手に押し付けて、ぽんぽんと清七の肩を叩いた後、鼻の頭を思いっきり叩いて、山の中へと駆け込んだ。
駆け込む姿は、只の兎の姿だ。
「痛たた」
「清七さん……」
ひっしと抱き合っている二人の目と目が重なり合う。
「いいところ、無粋で申し訳ない」
優しく声を掛けられ、我に返るとそこには笑顔の辰吉が居た。
「このまま放っておいたら、清七さんは下手したらあの世行きになっちまう。手当させてくれな」
顔を真っ赤にする小春と清七に、優しく辰吉は微笑んだ。
「俺が不甲斐ないばかりに、怖い思いをさせちまった」
ぶんぶんと激しく首を振る、小春の手にある松葉を、辰吉は眺めた。
「松は待つ。しかも揃いの二枚松葉だ。山神様が二人の行く末の報告を待っているってよ」
頷く清七と小春は、お市兎が消えた森の方角に手を合わせていた。
藤次郎は役人たちへの説明の立ち回りで、掻き消えたお市の仄かな想いなどに気付くことなどなかった。
「山神様、本当に居たのかい。ならよ、今更何でしゃしゃり出て来やがるっ。助けてくれって、祈って祈って祈り倒して、蛆に集られながら死んでいく、腹を空かせた無宿の餓鬼共には応えねぇくせによぉ。まあいい。どうせ俺はもう終いだ」
皺を造りながら牙を剥き唸る狼達を眺めると、不敵な笑みを霞の権蔵は浮かべた。
灰王はそんな権蔵を静かに見据えながら、「わふっ」と群れに、辺りの山人の賊たちを更に見つけだして、襲うように指示をし、狼達は其れに応えてぱっと散る。
そんな狼達を見て、次は自分だと、動ける山人の賊たちは我先に逃げ出した。
「た、助けてくれぇ」「もう、山で悪さはしねえ」そんな事を口々に、中には悲鳴を上げている者までいた。
「悪いことしかしねえ奴には天罰かい。悪は生きたまま喰われるのも仕方ねえってか。だがな、山神様、悪さどころか虫も殺さねえ様な連中に襲いかかる不幸は、止められるのかい」
お市がピクリと耳を動かす。
「へっ、アンタが気にかけているあの餓鬼どもの不幸、止めて見せな、山神様。地獄でしっかりと見ておいてやるよ」
権蔵はそう吐き捨てると、口の中で何かを嚙もうとしたが、突如現れた辰吉がすかさず樹の枝を差し込み、口の中から何か取り出し、放り投げた。
藤次郎は手拭に石を包み込んで、飛礫をいつでも放てるよう辺りを窺い、手足を力強く噛み裂いて抑えている狼達は、より強く手足を噛み押さえつける。
「味方だとは言え、こいつはこいつで、中々の迫力だな」
藤次郎の美丈夫ぶりと、狼達の様相に驚きを隠さないまま、辰吉は、懐から手拭を取り出して猿轡を噛ませ、
「安心しろ。毒なんかじゃあ死なせやしない。お前さんにこんなに楽に死なれちゃあ、安兵衛兄いに姐さんも許しちゃあくれまい。獄門台に晒されるその日まで、付きっ切りで死なせねえ。後な、嬢に坊の里の家には代官所直参の侍達に詰めて貰っている。山人風情にゃあ手も足も出せやしねえよ」
そう言いながら、いつの間にやら切り出していた蔦を縄代わりに、霞の権蔵を雁字搦めにすっかりと縛り上げた。
そうして、周りを取り囲んでいる狼達へしっかりと頭を下げる。
「助かったよ。有難うな。命の恩は誰が相手でも忘れない。約束するよ。取りあえずこの野郎は任してくれ」
狼達はその場から離れ、入れ替わるようにゆるりと灰色の大きな狼が近付いてくる。
辰吉は、その背に立つ野兎に眼を遣った。
「命を助けてくれてありがとう。お嬢」
辰吉は確信をもって野ウサギに言った。
野兎は白い腹毛をなびかせながら、力強くうんうんと頷いた。
「兎はそんな風に頷いちゃなんねえよ。お嬢」
ごめんなさいと、前足を拝むように揃える兎に、
「だから、駄目って言ってるだろう。化け兎が出るって絵草紙にまた書かれるぞ。」
と、小声で囁くと、横たわっている若い十手持ちの亡骸の身形を手厚く整え、
「済まねえ。いつかそっちで詫びを入れるから、それまで穏やかに、待っていてくれ」
手を合わせて頭を垂れた。
そして、振り返ると木挽きの小屋へ声を掛けた。
「小春さん、清七さん。もう出来ても大丈夫だ」
声を聞きつけ、木挽きの小屋から小春が顔を覗かせ、恐る恐る様子を窺っている。
「辰吉様っ、ご無事でっ」
小春は大きな声をあげながらも、小きょろきょろと目を皿のようにして、辺りを注意深く見回していた。
と、灰色の大きな狼と目が合い、度肝を抜かれて小さく悲鳴を上げる。
その声に、ぐったりとした清七が薄目を開けた。
「こりゃあ、どうしたことだ……」
藤次郎がすぐさま駆け寄り、横たわらせて具合を見る。
「清七さんっ。お気を確かに。藤次郎です」
藤次郎の慌てた声に、お市の気持ちは益々慌てた。
(清七さんっ。無事なのっ、怪我はどんななのっ、清七さんっ)
ひとしきり不安を大いに煽られたお市兎が、背中でキーキー騒ぐのを煩く思った灰王は、お市が心配している人間の男を怖がらせないように、ゆっくりと歩を進めて近付いていった。
小春は目を瞠った。
体つきがとても大きく恐ろし気な狼が、悠々と清七に近付いていくのだ。しかも、藤次郎も辰吉も助けようとしない。
「嫌っ、喰らうなら私をっ。その代わりこの人だけは、この人だけは……」
藤次郎や辰吉が声をかける間も無いほどに、瞬時に、迷いなく大きな狼の前に体を差し込み、体を張って清七を庇う小春に、さしものお市も気が付いた。
ああ、小春さんは清七さんを心底好いているんだ。
そんな小春を、ぐいっと押し退け清七が更に割って入る。
大怪我をして、痛みのあまり、意識を失いそうになっていたとは思えない程の、力強さであった。
「……駄目……だ。喰われるなら、この……私を。小春は、命に替えても……頼む……喰らうなら死にぞこないの……私にしておくれ。この通り」
震える手で小春を必死に庇い建てし、灰王を見上げながら頼み込む清七。
お市は空を見上げて、泣きたくなった。
皆が無事であった事。
怖い事がやっと終わった事。
自分が清七のことを、憎からず思っていたこと。
そして、同時にそれは最早叶わぬものであるという事も。
その全てをたった今思い知ったのだ。
辰吉は、大きく咳ばらいを一つすると、全員の耳に入るように口上した。
「山神様に畏み畏み、申し上げ奉ります。これなる男、清七は、何分深手の故、すぐさま人界の医者に診せたく存じます。霊験あらたかなご神威をお示し、悪人を懲らしめ、お救い戴きましたこと、まずは言上を持って御礼申し上げ、御眼汚しとご無礼の段、平にお詫び申し上げます。何卒、憐れを思し召しになり、お怒りをお納め下さい。命ばかりはお助け下さいます様、お願い申し上げ奉ります」
大音声で芝居がかった口上であった。
目敏い藤次郎は、駄目押しで、黒丸に
「黒っ、わをーんっ」
と遠吠えを促した。
「わおーんっ」
黒丸が高らかに、そして誇らしげに遠吠えを上げた。
その遠吠えに、灰王が堂々たる遠吠えを返した。一斉に他の狼達も灰王に倣い、遠吠えを行い、一帯に木霊する。
その効果は覿面であった。
残って居た山人達は、元々の異常な様相と、狼達の遠吠えによる威容に、すっかりと震えあがり、得物を投げ捨てると観念した。
意気消沈していたお市は、芝居ががった口調に、自分を取り戻し、髭を棚引かせながら、片手ならぬ片足を挙げ、
(分かっているわよ。まだ踏ん張る)
と藤次郎に伝えた。
「ありゃあ…何だ」
「兎が狼の背に跨っている」
狼の背に、野兎が跨っている事に、ようやく気が付いた清七と小春は、大層驚き、清七に至っては、驚きの余り、痛みを忘れるほどであった。
「山神様……」
呟く小春の手を清七はしっかりと握りしめていた。
お市はその様子を苦々しく、反して嬉しくもある複雑な胸中で眺めていた。
(ここは、せいぜい神様の振りをしてあげるわ)
お市は長い耳をピンっと立て、灰王の背でふんぞり返った。
(周りのみんな、姿を見せて、近くまで来て。血の匂いはもうさせないから。お願い)
ざわざわと樹々が蠢き、狼達のみならず、狸に鹿に猪といった、お市を心配して集まっていた、近在の獣達が、お市の呼び掛けに応え、続々と顔を出した。
兎のお市はここぞとばかり、鹿や猪達に山人たちを突かせ、手の器用な熊や狸に、弓矢に刀、槍などを取り上げさせた。
鉄砲に至っては、先に狼たちが咥えて持ち運んでいる。
「すすす、済まねえことをしました」
「金輪際、悪さしません。殺生、辞めます」
迷信深い山人達は口々に詫びや悲鳴を上げると、逃げ出す意気地すらすっかりと失くしてしまい、震え上がったままだ。
藤次郎が此処に来る前に発した報せで、峠の奥むこうから押っ取り刀の助っ人の里人と役人達が、駆け寄って来るのを認めて、辰吉は立ち上がり両手を振った。
「おおーいっ。こっちだぁ」
その足下には縛り上げられた霞の権蔵がいる。沢山の山人達も。
道端で寝かされている若い十手持ちに、お市は手向けの野菊を摘むと、そっと捧げた。
(有難うございます。守って下さって。極楽浄土へ迷わずにお向かい下さい)
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「なんなんだ、こ、こりゃあ」
騒ぐ、役人や里人を尻目に、お市はウサギながら、ふうと一息、安堵のため息をついた。
(みんな、有難う。森に帰ろう。灰王、本当に有難うございました。約束は決して違えないから、困ったら頼って来てね)
とお市は、灰王の背から飛び降りた。
灰王は、野ウサギのお市を親愛の情をもってぺろりと舐めると、満足げな表情を浮かべ、仲間を引き連れ樹々の中へと消えていった。
お市は人が歩くように、二本足で小春のもとへ近づいた。
驚きと恐怖で固まっている小春に、落ちている松葉を拾うとその手に押し付けて、ぽんぽんと清七の肩を叩いた後、鼻の頭を思いっきり叩いて、山の中へと駆け込んだ。
駆け込む姿は、只の兎の姿だ。
「痛たた」
「清七さん……」
ひっしと抱き合っている二人の目と目が重なり合う。
「いいところ、無粋で申し訳ない」
優しく声を掛けられ、我に返るとそこには笑顔の辰吉が居た。
「このまま放っておいたら、清七さんは下手したらあの世行きになっちまう。手当させてくれな」
顔を真っ赤にする小春と清七に、優しく辰吉は微笑んだ。
「俺が不甲斐ないばかりに、怖い思いをさせちまった」
ぶんぶんと激しく首を振る、小春の手にある松葉を、辰吉は眺めた。
「松は待つ。しかも揃いの二枚松葉だ。山神様が二人の行く末の報告を待っているってよ」
頷く清七と小春は、お市兎が消えた森の方角に手を合わせていた。
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