エージェント・サイファー

黒陽 光

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Execute.01:少年、ゼロの狭間に揺蕩う -Days of Lies-

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 保健室でシャーリィと別れた後、今日も今日とて大して変化も無く、ただただ気怠い一日が過ぎて。午前の課程を終えて昼休みになれば、零士は独り、旧校舎の屋上で頭上の空を仰いでいた。
 基本的に、神北学園も他の学園の例に違わず、校舎の屋上に入ることは禁じられている。だがこの学園の旧校舎に関して言えばその例外の一つ、入ろうと思えば生徒の身分でも入ることの出来る、そんな屋上だった。
 勿論、幾ら旧校舎だからといっても屋上に立ち入ることは禁じられている。だが零士はその持ち前のスキルを――悪い言い方をすれば、悪用――最大限に生かし、屋上へ通ずるドアの鍵を入学直後にピッキングで破った後に鍵を複製。そして今では、ある意味で学園に於ける零士だけの場所になっているのが、この場所だった。
 幸いなことに、教師どもが見回りに来ることは無い。それに昼休みにわざわざ旧校舎の、しかもこんなところまでやって来る物好きな生徒もまた、他には居ないのだ。だからこそ零士が勝手に出入りしても見咎める者も居ないし、この場所の秘密が誰かに漏れることもない。気怠い学生生活の中で唯一息抜きが出来て、それでいてたまには授業をサボって逃げ込める場所。それが、この旧校舎の屋上なのだ。
 まあ、とはいっても小雪にだけはこの屋上のことを知られてしまっている。何せ小雪に限っては、前述した零士のピッキング現場に居合わせているのだ。彼女に発見された時は零士も流石に冷や汗を掻いたが、幸いにして彼女がそれを咎めたり、教師に報告したりすることはなかった。
「……しゅ、趣味でちょっと覚えてみたんだ」
 と、これが零士が小雪に向かって破れかぶれに言った言い訳。この言い訳が通用してしまったのが未だに納得のいかないところなものの、結局は彼女にも複製した此処の鍵を渡してやることで穏便に済み。今では昼休みになると、気分次第で此処まで出向いて昼食、というのが二人にとっての日常になっていた。
「…………」
 だが、今こうして無言で空を見上げている零士の横に、小雪の姿は無かった。少し独りになりたい気分だったこともあって、敢えて彼女は撒いて来たのだった。小雪には色々と感謝している節もあるが、たまにはひとりきりになりたいこともある。それが、男なんてどうしようもない生き物の、謂わばさがのようなものなのだ。
「もう、一年以上経ってるんだよな」
 見上げる蒼穹そらの青々とした色を、そんな蒼いキャンバスに点々と浮かぶ白い雲の色を遠くに眺めながら、零士はポツリとひとりごちて。何処か遠くを見るように眼を細めながら、独り物思いに耽る。
 ――――今の自分の立場は、神北学園・二年A組の学生である椿零士の姿は、所詮は仮初めの姿なのだ。
 それもこれも、彼が秘密諜報機関・SIAのトップ・エージェント、コードネーム・サイファーであることが関係している。
(SIA、か。なんだか随分と聞き慣れた気がする)
 ……SIA、シークレット・インテリジェンス・エージェンシー(秘密諜報機関)。世界の裏に存在している、国境なき秘密組織。それが、零士の雇い主である組織の名だった。
 ――――先の大戦、第二次世界大戦の終結後、世界は東西冷戦という冷えた時代を迎えながら、しかし微妙なパワーバランスの元で確かな均衡を保っていた。それは冷戦崩壊後、対テロ非対称戦争の時代に発展したこの複雑怪奇な現代でも、とりあえずのところは変わらない。
 その均衡を保ってこられたのは、SIAという組織の尽力があったからからこそのことだ。西側を中心とした先進国家間の秘密協定の元に生まれた、世界を裏側から監視し、そして均衡を保つ為に存在する影の秘密組織。それが、SIAという超法規的な極秘組織なのだ。
 その存在意義は、先に述べた通りに世界均衡の維持にある。それを維持する為に相手を問わず多種多様な情報を収集し、そして世界のパワーバランスを崩しかねないモノがあれば、未然に阻止するべく、暴力の行使といった非合法な手段の行使ですら厭うことはない。目的はただ、微妙なバランスの上に成り立つ世界の均衡を、この仮初めの平和を永遠のものとすることにあるのだ。
 そうした手段をも行使してきた結果、過去の四半世紀以上に於いてSIAは、その優秀なエージェントたちの奮闘により、世界の破滅すらもたらすような絶対的な危機を幾度となく未然に封じ込めてきたのだ。中には1962年のキューバ危機だとかの、SIAですら未然に防ぎきれなかった危機もあったものの、とりあえずは何とかなってきている。
(それでも、俺たちの成果が表に出ることは有り得ない)
 だとしても、SIAが世界の裏側に潜む秘密組織であるという性質上、エージェントたちの命を賭けた活躍が表沙汰になることは永遠に有り得ないのだ。どれだけの犠牲を払おうとも、どれだけの無理難題を達成してみせたとしても。SIAの活躍が歴史の表舞台に現れることは決して無い。人知れず影に生まれ、そして消えていく。それが、SIAの存在意義でもあるのだから。
 そのことに関して、零士は別段哀しいと思ったことは無かった。寧ろ、自分たちが表舞台に出てはいけないとすら思う。民衆の目に触れない場所、水面下だからこそ出来ることもあるのだということは、他でもないSIA最強と噂されているエージェント、コードネーム・サイファーである彼自身が最も良く理解していることなのだから……。
「――――あーっ! やーっぱり零士ってば、こんなところに居たぁーっ!!」
 と、零士が物思いに耽っている最中のことだった。バンッと屋上の扉が勢いよく開く音が聞こえてくるとともに、小雪のそんな声が零士の鼓膜を揺さぶったのは。
「ん、小雪か」
「「ん、小雪か」じゃないってーの! 昼休みになった途端に零士、どっかに消えちゃうんだもん。今の今まで探してたの!」
「そりゃあ悪かったな」と、苦笑いしながら振り向く零士。「たまには独りになりたい時もあるんだよ、赦せ小雪」
「気持ちは分かるけどさー、それだと私が独りぼっちになっちゃうじゃないの」
「嫌か?」
「いやなの!」
 むくーっと小雪が頬を膨らませる。それこそ、水風船みたいに。そんな仕草をしているのが小雪なせいか、妙に可愛らしく見えてしまい。零士は自然と湧き上がってくる笑みが零れていることに気付いていなかった。
「嫌だよー、だって独りぼっちでお昼ご飯って、なんか寂しい子みたいじゃないのさ!」
「事実だろ?」
「ちがーうっ!」
「だってさ、小雪が俺以外に絡んでるトコ、そこまで見たことねえし」
「それは零士だって同じことでしょ!?」
「うぐ、墓穴掘っちまったか……なーんとでも言うと思ったか馬鹿め。俺のは意図的だよ、意図的」
「うー! 零士の馬鹿、人嫌いめ!」
「馬鹿はさておき、後半を否定する気はさらさらないけどね」
「いいから、私とお昼食べるの! 良いよね、良いって言うの! 拒否権ナシ!」
「はいはい……」
 とまあ、こんな具合で小雪は零士の横にちょこんと座り込み。何だかんだで零士は結局、例によって今日もまた小雪とこうして共に昼食と洒落込むことになってしまった。
「んふふー♪ 今日のお弁当は良い出来だぁ♪」
「おっ、美味そうだな」
「零士も要る?」
「折角だ、頂こう」
「はいはい、ちょっと待ってね……。――はい、あーん♪」
 零士が下手に興味を示したばっかりに、小雪は自前の弁当箱の中からだし巻きと思われる卵焼きを箸で掴み。それを、笑顔で零士の方に差し出してきた。
「……冗談だろ?」
「ん?」戸惑う零士に、きょとんと小雪が首を傾げる。「良いじゃん別に、他に誰か見てるってワケでもないし」
「君はそれで良いのか……」
「良いじゃん良いじゃん、零士と私の仲なんだしっ。……ほらほら、早く口開けてって!」
「分かった、分かったよ。ったく、泣かせるぜホントによ……」
 仕方なしに、小雪の箸で卵焼きを口に放り込まれる零士。咀嚼してみれば、確かに見た目通りに中々奥深い味をしているものだから、何だか却って腹が立つ。
「んふふー、素直でよろしい♪」
「…………」
 …………実際のところ、零士は小雪が自分に向けてくる感情が、他とは比べものにならないほどの好意に満ちていることを自覚している。
 いや、ここまで来ればもう、好意なんて生半可なものではない。明らかに親愛の感情、それこそ愛の一種だ、小雪が向けてきてくれるこの甘酸っぱい感情は。その感情を過去に零士自身もまた知りすぎているからこそ、小雪が向けてくるこの想いは、痛いほどに理解出来る。
 寧ろ、これが分からなかったら鈍感だとか唐変木だとかを通り越して、本当に人間の心があるのかという段階すら疑ってしまうぐらいだ。彼女の幼馴染みのように気さくな態度も、何かに付けては零士と一緒に居たがる立ち振る舞いも。その全てが、零士に向けての想いから来ていることぐらい、当の本人たる零士が分からないはずがないのだ。
(……でも、小雪。俺は君の想いに応えてやれない。応えることは、赦されないんだ。決して)
 そう、赦されないのだ。幾ら小雪が好いていてくれていても、それを零士が気付いていても。零士がそれに応えることは、赦されないのだ。闇に生きる凄腕のエージェント、世界の裏側で暗躍するSIA最強のエージェント、コードネーム・サイファーという真実の顔を持つ零士が、ごく普通の女の子である小雪の想いに応えてやることは、絶対にあってはならないことなのだ。
 IFもしもの話だ。もしも、零士が秘密組織のエージェント、殺しのプロフェッショナルでなくて、何処にでも居るありふれた普通の男であれば。きっとそうであったのならば、小雪の想いに応えてやることも、そして零士が彼女に対して恋愛感情を抱くことも出来たのだろう。互いに愛し愛される恋人関係になり、転び方次第ではひょっとして、二人で結婚なんてこともあったかもしれない。
 だが、それはあくまでIFもしもの話でしかない。現実は違う。現実には、椿零士は確かに戦闘のプロフェッショナルで、SIA最強のコードネーム・サイファーの名を持つ男なのだ。その事実が変わることは、決して有り得ない。
 故に、小雪がどれだけ努力しても、その努力も想いも実ることなんて、未来永劫有り得ないことなのだ。
 可哀想なことなのかもしれない。しかし、それはある意味で小雪にとって幸せなことでもある。世界の裏側なんて余計な部分に首を突っ込むこともなく、愛していた男の後ろ暗い真実の顔を知ることも無く。ただ今のこの時間は過去の甘酸っぱい思い出となって消えて、彼女は陽の当たる場所で健やかに、そして平和に過ごしていく……。
 そんな平和を、陽の当たる場所に生きる小雪のような存在が平穏の中に生き、そして死んでいける世界。それを自分たちが裏側から支えているのだと思えば、零士も何となく救われる気分だった。彼女の想いに応えられなくても、彼女がこれから過ごして行くであろう安息の日々を護ることが出来る。自分のような人間は、それで良いとすら思えている。
 そうだ、その為に自分は戦うのだ。そう思っていれば、きっと。いなくなった・・・・・・彼女の……今はもういない彼女の人生にだって、きっと意味があったのだと思えるのだから。自分が未だにこうして生きていることにだって、意味があるのだと思えるから。
(……君と俺とでは、住む世界が違いすぎるんだ。どうしようもないほどに)
 そんな風に、零士が独り胸中に抱く思いも知らず。小雪の横顔は今日もまた、脳天気かと思えるほどにのほほんと明るかった。
「今日も良い天気だね、零士っ」
「ん? ……ああ、今日も良い天気だ」
 二人で見上げる、点々と白い雲の浮かぶ蒼穹そらの色に穢れなんてひとつもなく。彼方へと続くその蒼は、何処までも青々と透き通っていた。
「…………本当に、良い天気だ」
 この広い空の下、巡り巡ってきっと、繋がっている。いずれ別れが訪れたとしても、きっとこの出逢いにだって意味はあったのだ。
 ……今は、ただそう信じたい気分だった。
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