エージェント・サイファー

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Execute.03:ノエル・アジャーニ -Noelle Adjani-

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 とまあ、零士がキッチンに立つこと小一時間も経たない内に、おおよその料理が出揃っていた。
 何だかんだで自炊歴の長い零士にしてみれば、この程度は簡単なものだ。まして職業柄、刃物の扱いには常人離れしているほどに慣れている。そんなこんながあって、零士の手際は凄まじく早いものだった。それこそ、カウンターから覗き見るノエルが時折「おぉ……」と感嘆の声を漏らしていた程には。
「――――よし、待たせたなノエル」
 ノエルに手伝って貰いながら、ダイニングテーブルに料理の盛られた食器を並べ。そうすれば零士はふぅ、と大きく息をつき、ノエルと対面になるようにしてダイニングテーブルに座った。
 出した料理は、先程出してきたサーロイン・ステーキを中心とした感じだ。余っていた野菜を適当に放り込んで、小皿で量は多くないが野菜炒めなんかも置いてある。簡素だが、ステーキが分厚いお陰で中々のボリュームだ。
 とはいえ、ステーキ肉は完全に零士の好みに合わせた分量だ。半キロ以上は優にある恐ろしい分量を、ましてこんなほっそりと華奢な女の子に食べさせるのは酷というものだろう。そう思い、零士は見た目では分からぬように苦心しつつ、ノエルの分は上手い具合に二〇〇グラム前後の量に切り分けてやっておいた。この程度なら、細身な彼女でも無理をすることなく、満足できる範囲に収まっていることだろう。ちなみに二人とも、焼き加減はミディアム・レアだ。
「なんか、ごめんね? レイに全部作らせちゃって」
 零士が席に着けば、対面のノエルがまた申し訳なさそうに言う。とはいえ視線は手元の料理群にチラチラと向いている辺り、空きっ腹も限界なのだろう。
 そんな風なノエルを見て、零士はフッと表情を緩めはにかむと。申し訳なさそうな顔をするノエルに「いいから、いいから」と言い、
「それより、腹ペコなんだろ? だったら、早く頂こう」
「う……。まあでも、そうだね。レイ、ありがとっ」
「仮にも、俺はこの家のホストだ。なら客人にこれぐらい振る舞うのは当然……だろ?」
「えへへ……」
 ニッと二人で笑い合った後で、二人は各々の食器を手に取り。どちらからでもなく、目の前にある料理に手を付け始めた。
「んー♪ 美味しい、美味しいよレイっ!」
 とすれば、ノエルは一口を味わっただけで舌鼓を打ち、嬉しそうに話しかけてくる。
「なら良かった、ホッとしたぜ」
 そんなノエルの褒め言葉を、零士は言葉のままに受け取り。少しだけ嬉しくなって小さくはにかむと、自分も自分でまた、ナイフとフォークで切り分けたサーロイン・ステーキの切れ端を口に運んだ。
「……うん、今日も良い出来だ」
 焼き具合も丁度、ベストな具合だ。本当ならこれに赤ワインでもあれば言うこと無かったのだが、生憎と今日はそんな気分にはなれなかったから、出していない。
「でも、ホントに美味しいなあ。レイって料理上手いんだね」
「まあな」と、零士。「色々あって、昔から自炊を強いられてたんだ。最初はそりゃあ苦労したもんだけど、今じゃこんな具合だよ」
「僕も負けてられないね。今度、お返しじゃないけれど、僕が何か作るよ」
「楽しみにしてるよ、首をうんと長くしてな」
「うん、分かった。……それにしても、ホントに美味しいなあ。えへへ…………」
 そんな、ご機嫌そうな顔で舌鼓を打つノエルの笑顔を見て。零士も零士で、少しだけ嬉しくなっていた。その嬉しさが作り手だからなのか、それとも純粋にノエルの笑顔を見ているのが心地良いからなのか。それは、今は敢えて気にするべきことではないだろう。
 こんな具合に、今日の夕飯は零士にとっては新鮮で、異質で。そしてノエルにとっても、零士にとっても。二人にとって、楽しく美味しい夕飯のひとときだった。
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