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第11話 婚約しても、私は図書室から出ません
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平和とは、勝ち取るものではなく、死守するものだ。
婚約発表から三日が経った。
王都はまだ、その話題で持ちきりらしい。
『氷の宰相』と呼ばれたクロード様が、まさか元婚約破棄された令嬢を選ぶなんて。
そんな噂話が風に乗って、この王宮の北外れにある塔まで届いてくる。
私は窓の隙間から、そっと外を覗いた。
普段なら鳥と庭師くらいしか通らない小道に、今日は色とりどりのドレスや騎士服が見える。
「……増えてる」
昨日までは三人だった野次馬が、今日は10人に増えている。
彼らは遠巻きに塔を眺め、ヒソヒソと何かを話している。
動物園のパンダになった気分だ。
もっとも、パンダのように愛想を振りまくつもりは毛頭ないけれど。
私はカーテンをピシャリと閉めた。
「ミナさん、今日のランチの買い出しは中止にしましょう。備蓄の乾パンで凌ぎます」
私は心の中で、下町のアパートにいる大家さんに詫びた。
外に出れば、囲まれる。
質問攻めにされる。
そして、「王弟殿下との馴れ初めは?」などと聞かれ、適当に答えた言葉が翌日の新聞で歪曲されて掲載される。
そんな未来が容易に想像できる。
私は机に向かい、筆を執った。
そして、達筆な文字で一枚の張り紙を書いた。
『当図書室は、資料整理のため完全予約制となりました。
なお、現在予約は受け付けておりません。
御用の方は、扉の前で回れ右をしてお帰りください』
これを入り口の扉に貼る。
これで完璧だ。
私は満足げに頷き、お湯を沸かした。
籠城戦の始まりである。
◇
午後二時。
厳重に施錠された扉が、規則正しく三回ノックされた。
合言葉代わりのリズムだ。
私は鍵を開けた。
隙間から入ってきたのは、いつものクマさん――ではなく、私の婚約者となったクロード様だ。
今日もまた、少し着崩した騎士服姿である。
「……すごい人だかりだったよ」
彼は苦笑しながら、差し入れの紙袋を渡してくれた。
中からは、焼きたてのクロワッサンの香りがする。
「ありがとうございます。バリケードを突破しての補給、感謝します」
「君が餓死していないか心配でね。……張り紙、見たよ。『回れ右』というのは、少々辛辣じゃないか?」
「親切心です。待っていても無駄だと早めに教えてあげるのが、互いのためですから」
私はポットから紅茶を注いだ。
湯気が立ち上る。
この香りだけが、私の心を落ち着かせてくれる。
クロード様はいつものソファに深く座り込み、ふぅ、と息を吐いた。
婚約しても、私たちの過ごし方は変わらない。
彼は公務の合間の休憩に。
私は管理業務(という名の読書)の合間のティータイムに。
ただ、以前と違うのは、彼が私の隣に座り、自然と手を握ってくることくらいだ。
「……エリアナ。実は、相談があるんだ」
彼が私の指先を弄びながら言った。
嫌な予感がする。
その口調は、大抵「面倒な案件」を持ち込む時のものだ。
「却下します」
「まだ何も言っていない」
「どうせ、『夜会に出ろ』とか『茶会を開け』とか、そういう話でしょう? 契約書をお忘れですか? 私の勤務時間は一七時まで。時間外労働は致しません」
私は断固として言った。
ここで譲歩すれば、なし崩し的に公務が増える。
前世のブラック企業で学んだ教訓だ。
『一度のサービス残業は、百回の残業の呼び水になる』。
クロード様は困ったように眉を下げた。
「いや、公務ではないんだ。……兄上が、君に会いたがっていてね」
「兄上……陛下ですか?」
「ああ。私の婚約者となった女性がどんな人物か、どうしても一目見たいと。……昨夜から、執務室で駄々をこねられていて、仕事にならないんだ」
国王陛下。
ルイ・ルテティア。
噂では、豪快で武闘派、そして弟であるクロード様を溺愛していると聞く。
「……謁見、ということですか」
「堅苦しい場ではない。内輪の茶会だ。三人で、少し話すだけでいい」
少し話すだけ。
その言葉に騙されてはいけない。
相手は一国の王だ。
「少し」の会話の中に、どれほどの政治的意図と品定めの視線が含まれているか。
緊張で胃に穴が空く未来が見える。
そして何より、準備が面倒だ。
ドレスを着て、髪を結い上げ、化粧をして、王宮のメイン棟まで移動する。
往復と準備で三時間はかかる。
「お断りします」
私はクロワッサンを一口かじりながら答えた。
「なっ……国王の呼び出しだぞ?」
「契約書の第三条。『王族としての儀式への参加免除』。これには、私的な家族の集まりも含まれると解釈しております」
「あれは公式行事の話だろう? 兄上は家族だ」
「家族だからこそ、距離感は大切です。……それに、私、今はとても悲しいのです」
「悲しい?」
クロード様が目を丸くした。
私は机の上に置いてある、分厚い本を指差した。
「昨日、この『西方大陸年代記・全二十巻』を読み終えてしまったのです。……一ヶ月かけて旅してきた物語が、終わってしまった。この喪失感、分かりますか?」
「……は?」
「心に穴が空いているのです。物語の登場人物たちとの別れを惜しみ、余韻に浸る時間が必要です。……いわば、喪中です」
「喪中……」
クロード様が絶句した。
呆れているのが分かる。
だが、私は本気だ。
素晴らしい物語の読了後は、現実に戻るのにリハビリ期間が必要なのだ。
そんな繊細な時期に、筋肉質と噂される国王陛下と対面などしたら、情緒が乱れてしまう。
「というわけで、陛下にはよろしくお伝えください。『今は心の整理がつかないので、またの機会に』と」
私はにっこりと微笑んだ。
クロード様はしばらく天井を仰ぎ、それから深いため息をついた。
「……君らしいな。普通なら、不敬罪で首が飛ぶところだ」
「貴方が守ってくださるのでしょう? 私の平穏を」
「ああ、誓ったからな。……分かった。兄上には私が上手く言っておく」
彼は私の髪を一撫でし、諦めたように笑った。
その笑顔に、私は少しだけ罪悪感を覚えた。
……少しだけ、だ。
◇
しかし、国王陛下は諦めの悪い方だったらしい。
翌日の午前中。
一通の封書が届いた。
差出人は王室侍従長。
中身は、金箔の押された正式な招待状だった。
『親愛なる義妹、エリアナ嬢へ。
明日の午後、白の離宮にて茶会を催す。
最高の菓子を用意して待つ。
来ない場合は、こちらから迎えに行く』
最後の一文が、もはや脅迫である。
迎えに行く、というのは、衛兵に担がれて連行されるという意味だろうか。
それとも、王自らこの図書室に突撃してくるという意味だろうか。
どちらにせよ、私の静寂が脅かされることに変わりはない。
私は招待状を机に置き、腕組みをした。
行くべきか。
いや、ここで行けば「押せば来る」と思われてしまう。
私の「断固たる拒絶」の姿勢を見せつけなければ、これからの結婚生活はずるずると公務に侵食されていく。
私はペンを執った。
返信用のカードに、丁寧に、しかし容赦なく文字を綴る。
『国王陛下。
過分なご招待、恐悦至極に存じます。
しかしながら、昨日の喪失感はいまだ癒えず、涙で枕を濡らす日々を送っております。
腫れ上がった瞼で陛下の御尊顔を拝見することは、失礼にあたると存じます。
つきましては、誠に残念ながら欠席させていただきます。
追伸:お菓子は郵送していただければ、涙と共に美味しく頂戴いたします』
これでよし。
「喪中(読書ロス)」という設定を貫き通す。
一貫性は信頼を生むはずだ。
私はこの手紙を、図書室に来た使いの侍従に渡した。
侍従は手紙の内容を確認し、顔面を蒼白にさせていたが、私は知らんぷりをした。
「……エリアナ様。本当によろしいのですか? これは、陛下への……」
「事実ですから。嘘をついて参上する方が、陛下に対して不誠実でしょう?」
「は、はあ……」
侍従は震える手で手紙を受け取り、逃げるように去っていった。
私は扉を閉め、鍵をかけた。
カチャリ、という音が心地よい。
これで、少なくとも明日は静かに過ごせるはずだ。
陛下もまさか、こんなふざけた理由で断られるとは思っていないだろう。
怒るなら怒ればいい。
その時は、クロード様に土下座して守ってもらうだけだ。
私は新しい本――『東方帝国見聞録』を棚から取り出し、ソファに寝転がった。
「さて、次の世界へ旅立ちましょうか」
ページをめくる。
紙の匂い。
活字の羅列。
これこそが、私の求めていた平穏だ。
……まさか、その手紙を読んだ国王陛下が、「面白い! これほど肝の据わった令嬢は初めてだ!」と大爆笑し、興味を倍増させてしまうとは、この時の私は露知らず。
そして、私の「来ないなら行く」という予感が、最悪の形で的中することになる。
王がやってくるのだ。この狭い図書室に。
婚約発表から三日が経った。
王都はまだ、その話題で持ちきりらしい。
『氷の宰相』と呼ばれたクロード様が、まさか元婚約破棄された令嬢を選ぶなんて。
そんな噂話が風に乗って、この王宮の北外れにある塔まで届いてくる。
私は窓の隙間から、そっと外を覗いた。
普段なら鳥と庭師くらいしか通らない小道に、今日は色とりどりのドレスや騎士服が見える。
「……増えてる」
昨日までは三人だった野次馬が、今日は10人に増えている。
彼らは遠巻きに塔を眺め、ヒソヒソと何かを話している。
動物園のパンダになった気分だ。
もっとも、パンダのように愛想を振りまくつもりは毛頭ないけれど。
私はカーテンをピシャリと閉めた。
「ミナさん、今日のランチの買い出しは中止にしましょう。備蓄の乾パンで凌ぎます」
私は心の中で、下町のアパートにいる大家さんに詫びた。
外に出れば、囲まれる。
質問攻めにされる。
そして、「王弟殿下との馴れ初めは?」などと聞かれ、適当に答えた言葉が翌日の新聞で歪曲されて掲載される。
そんな未来が容易に想像できる。
私は机に向かい、筆を執った。
そして、達筆な文字で一枚の張り紙を書いた。
『当図書室は、資料整理のため完全予約制となりました。
なお、現在予約は受け付けておりません。
御用の方は、扉の前で回れ右をしてお帰りください』
これを入り口の扉に貼る。
これで完璧だ。
私は満足げに頷き、お湯を沸かした。
籠城戦の始まりである。
◇
午後二時。
厳重に施錠された扉が、規則正しく三回ノックされた。
合言葉代わりのリズムだ。
私は鍵を開けた。
隙間から入ってきたのは、いつものクマさん――ではなく、私の婚約者となったクロード様だ。
今日もまた、少し着崩した騎士服姿である。
「……すごい人だかりだったよ」
彼は苦笑しながら、差し入れの紙袋を渡してくれた。
中からは、焼きたてのクロワッサンの香りがする。
「ありがとうございます。バリケードを突破しての補給、感謝します」
「君が餓死していないか心配でね。……張り紙、見たよ。『回れ右』というのは、少々辛辣じゃないか?」
「親切心です。待っていても無駄だと早めに教えてあげるのが、互いのためですから」
私はポットから紅茶を注いだ。
湯気が立ち上る。
この香りだけが、私の心を落ち着かせてくれる。
クロード様はいつものソファに深く座り込み、ふぅ、と息を吐いた。
婚約しても、私たちの過ごし方は変わらない。
彼は公務の合間の休憩に。
私は管理業務(という名の読書)の合間のティータイムに。
ただ、以前と違うのは、彼が私の隣に座り、自然と手を握ってくることくらいだ。
「……エリアナ。実は、相談があるんだ」
彼が私の指先を弄びながら言った。
嫌な予感がする。
その口調は、大抵「面倒な案件」を持ち込む時のものだ。
「却下します」
「まだ何も言っていない」
「どうせ、『夜会に出ろ』とか『茶会を開け』とか、そういう話でしょう? 契約書をお忘れですか? 私の勤務時間は一七時まで。時間外労働は致しません」
私は断固として言った。
ここで譲歩すれば、なし崩し的に公務が増える。
前世のブラック企業で学んだ教訓だ。
『一度のサービス残業は、百回の残業の呼び水になる』。
クロード様は困ったように眉を下げた。
「いや、公務ではないんだ。……兄上が、君に会いたがっていてね」
「兄上……陛下ですか?」
「ああ。私の婚約者となった女性がどんな人物か、どうしても一目見たいと。……昨夜から、執務室で駄々をこねられていて、仕事にならないんだ」
国王陛下。
ルイ・ルテティア。
噂では、豪快で武闘派、そして弟であるクロード様を溺愛していると聞く。
「……謁見、ということですか」
「堅苦しい場ではない。内輪の茶会だ。三人で、少し話すだけでいい」
少し話すだけ。
その言葉に騙されてはいけない。
相手は一国の王だ。
「少し」の会話の中に、どれほどの政治的意図と品定めの視線が含まれているか。
緊張で胃に穴が空く未来が見える。
そして何より、準備が面倒だ。
ドレスを着て、髪を結い上げ、化粧をして、王宮のメイン棟まで移動する。
往復と準備で三時間はかかる。
「お断りします」
私はクロワッサンを一口かじりながら答えた。
「なっ……国王の呼び出しだぞ?」
「契約書の第三条。『王族としての儀式への参加免除』。これには、私的な家族の集まりも含まれると解釈しております」
「あれは公式行事の話だろう? 兄上は家族だ」
「家族だからこそ、距離感は大切です。……それに、私、今はとても悲しいのです」
「悲しい?」
クロード様が目を丸くした。
私は机の上に置いてある、分厚い本を指差した。
「昨日、この『西方大陸年代記・全二十巻』を読み終えてしまったのです。……一ヶ月かけて旅してきた物語が、終わってしまった。この喪失感、分かりますか?」
「……は?」
「心に穴が空いているのです。物語の登場人物たちとの別れを惜しみ、余韻に浸る時間が必要です。……いわば、喪中です」
「喪中……」
クロード様が絶句した。
呆れているのが分かる。
だが、私は本気だ。
素晴らしい物語の読了後は、現実に戻るのにリハビリ期間が必要なのだ。
そんな繊細な時期に、筋肉質と噂される国王陛下と対面などしたら、情緒が乱れてしまう。
「というわけで、陛下にはよろしくお伝えください。『今は心の整理がつかないので、またの機会に』と」
私はにっこりと微笑んだ。
クロード様はしばらく天井を仰ぎ、それから深いため息をついた。
「……君らしいな。普通なら、不敬罪で首が飛ぶところだ」
「貴方が守ってくださるのでしょう? 私の平穏を」
「ああ、誓ったからな。……分かった。兄上には私が上手く言っておく」
彼は私の髪を一撫でし、諦めたように笑った。
その笑顔に、私は少しだけ罪悪感を覚えた。
……少しだけ、だ。
◇
しかし、国王陛下は諦めの悪い方だったらしい。
翌日の午前中。
一通の封書が届いた。
差出人は王室侍従長。
中身は、金箔の押された正式な招待状だった。
『親愛なる義妹、エリアナ嬢へ。
明日の午後、白の離宮にて茶会を催す。
最高の菓子を用意して待つ。
来ない場合は、こちらから迎えに行く』
最後の一文が、もはや脅迫である。
迎えに行く、というのは、衛兵に担がれて連行されるという意味だろうか。
それとも、王自らこの図書室に突撃してくるという意味だろうか。
どちらにせよ、私の静寂が脅かされることに変わりはない。
私は招待状を机に置き、腕組みをした。
行くべきか。
いや、ここで行けば「押せば来る」と思われてしまう。
私の「断固たる拒絶」の姿勢を見せつけなければ、これからの結婚生活はずるずると公務に侵食されていく。
私はペンを執った。
返信用のカードに、丁寧に、しかし容赦なく文字を綴る。
『国王陛下。
過分なご招待、恐悦至極に存じます。
しかしながら、昨日の喪失感はいまだ癒えず、涙で枕を濡らす日々を送っております。
腫れ上がった瞼で陛下の御尊顔を拝見することは、失礼にあたると存じます。
つきましては、誠に残念ながら欠席させていただきます。
追伸:お菓子は郵送していただければ、涙と共に美味しく頂戴いたします』
これでよし。
「喪中(読書ロス)」という設定を貫き通す。
一貫性は信頼を生むはずだ。
私はこの手紙を、図書室に来た使いの侍従に渡した。
侍従は手紙の内容を確認し、顔面を蒼白にさせていたが、私は知らんぷりをした。
「……エリアナ様。本当によろしいのですか? これは、陛下への……」
「事実ですから。嘘をついて参上する方が、陛下に対して不誠実でしょう?」
「は、はあ……」
侍従は震える手で手紙を受け取り、逃げるように去っていった。
私は扉を閉め、鍵をかけた。
カチャリ、という音が心地よい。
これで、少なくとも明日は静かに過ごせるはずだ。
陛下もまさか、こんなふざけた理由で断られるとは思っていないだろう。
怒るなら怒ればいい。
その時は、クロード様に土下座して守ってもらうだけだ。
私は新しい本――『東方帝国見聞録』を棚から取り出し、ソファに寝転がった。
「さて、次の世界へ旅立ちましょうか」
ページをめくる。
紙の匂い。
活字の羅列。
これこそが、私の求めていた平穏だ。
……まさか、その手紙を読んだ国王陛下が、「面白い! これほど肝の据わった令嬢は初めてだ!」と大爆笑し、興味を倍増させてしまうとは、この時の私は露知らず。
そして、私の「来ないなら行く」という予感が、最悪の形で的中することになる。
王がやってくるのだ。この狭い図書室に。
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