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第16章
人の手が届く場所で
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第1診療所の前は、ひっきりなしに人が行き交っていた。
担架、声、布の擦れる音。
血と消毒の匂いが、空気に混じっている。
桜は、特別師団の護衛――ノイン・バルクスを伴い、診療所の中へ入った。
普段、ノインは第1診療所内の扉付近で待機する。
だが今日は違った。
不特定多数が出入りするこの場所では、常に桜の半歩後ろに立ち、
必要とあらばすぐに身体を差し出せる距離を崩さない。
「失礼します」
そう言って、ノインは通路を塞がないよう身体をずらしながら、
簡易ベッドの位置を調整し、
看護師に頼まれて患者の体位を変え、
包帯を押さえる。
ぎこちないが、手は丁寧だった。
桜は、医師から声がかかるたびに動いた。
処置に付き添い、
手術室に入れば、器具を渡し、治療の手伝いをする。
判断は医師がする。
桜は、その判断が滞りなく実行されるよう、
最大限に手助けするだけだった。
そのときだった。
「第2診療所から、搬送!」
張り詰めた声が走る。
担架が、慌ただしく運び込まれてくる。
乗せられていたのは、十代の少年だった。
付き添ってきた診療所の医師によると、腕と肩の打撲。
当初は軽傷と判断されていた。
だが、年齢を考慮し、念のため王宮へ――
そうして、ここにいる。
少年は、呼吸をしていなかった。
「心停止」
誰かが短く告げる。
桜は、すでに少年のそばにいた。
言葉は要らなかった。
桜が、胸に手を当てる。
心臓マッサージを開始する。
規則的に、確実に。
力を込めすぎず、だが迷いなく。
その間に、国立病院から来ていた医師が、
魔力式の簡易レントゲンを展開する。
光の輪郭が、少年の腹部をなぞる。
「……腹腔内、出血量が多すぎる」
低い声だった。
内部損傷。
おそらく、初動の転倒か、見えない場所での打撲。
医師は、すぐに別の医師を呼ぶ。
二人、三人。
誰もが、同じ像を見て、同じ結論に至る。
「……難しい」
それは、諦めではなく、判断だった。
桜の手は、止まらない。
だが、胸の奥で、別の考えが浮かぶ。
――日本なら。
輸血がある。
集中治療室がある。
なにより注射薬がある。
最新式の器具がある。
助かる可能性は、
ゼロではないかもしれない。
この世界には、ない。
魔力だけでは、
どうにもならない領域がある。
「……」
少年の身体が、わずかに反応を失っていく。
「……ここまでだ」
医師が、そう告げた。
桜は、ゆっくりと手を離した。
少し遅れて、母親が診療所に駆け込んでくる。
状況を理解するより早く、
その場に崩れ落ちた。
声にならない嗚咽。
桜は、一歩、そちらへ向かいかける。
だが、その前に、別の医師に呼び止められた。
「こちら、手を貸してもらえるか」
桜は、立ち止まり、
一瞬だけ母親を見る。
そのとき、
年配の介護人が、何も言わずに母親のそばへ膝をついた。
肩を抱き、
母親が一人にならないよう、そばにいる。
桜は、深く息を吸い、
医師のもとへ向き直った。
その後も、桜は、
死亡例にも、重症から重体へと転じる例にも関わった。
ほんの数時間のうちに、だ。
日本で救急外来に立っていても、
これほど多くの患者を、
これほど短時間で診ることは、まだなかった。
多くても、重症が1名、重体が1名、ほとんとは軽症者だ。
それでも現場は張り詰める。
ここでは違う。
重症が続き、
重体が続き、
そして、救えなかった命が、静かに積み重なっていく。
桜は、自分の呼吸が浅くなっているのを感じながら、
それでも手を止めずに動いた。
周囲の医療関係者は、驚くほど冷静だった。
声を荒げる者はいない。
泣き崩れる者もいない。
ただ、淡々と、
次の判断と次の処置へ進んでいく。
――すごい。
その言葉が、何度も胸に浮かぶ。
彼らは、特別なのではない。
慣れているのだ。
魔物に常に国を脅かされる世界で、
「一度に多くを救えない状況」が、
現実として存在する世界で、
判断する覚悟を、日常の中で積み重ねてきた。
平和な世界で生きてきた自分とは、
背負っている前提が違う。
桜自身、トリアージの概念は理解している。
教科書で学び、
研修で聞き、
頭では分かっていた。
だが――
実際に、その場に立ったことは、日本ではなかった。
誰を先に送るか。
誰を待たせるか。
誰を「後」に回すか。
それが、目の前の人間として存在するとき、
その重さは、知識とはまるで別物だった。
日本の救急医が、
「トリアージは難しい」と言っていた言葉を、
桜はこの瞬間、ようやく本当の意味で理解した。
難しいのは、判断そのものではない。
判断したあとも、
次の患者に手を伸ばし続けなければならないことだ。
桜は、もう一度、深く息を吸った。
そして、呼ばれた声に応え、
次の処置へと向かう。
ここでは、立ち止まる余裕はない。
■リーゼ視点
リーゼは、途中からノインと交代し、
桜のそばに付き添いながら、ノインと同じように患者の対応を手伝っていた。
部屋の警護。
それが、彼女に与えられることの多い役目だった。
女性騎士であることへの配慮もある。
それに――
リーゼも、桜に文字を教える護衛騎士の一人であり、
自然と、親しみも感じていた。
リーゼは、いつも通り背筋を伸ばし、
静かに周囲を見渡していた。
診療所の中では、まだ人は動いている。
だが、少しずつ、慌ただしさが和らぎ始めているのが分かる。
担架の往復が減り、
呼ばれる声の間隔が、わずかに長くなった。
――峠は、越えつつある。
そう判断した、そのときだった。
桜の足取りが、ほんの少しだけ、遅い。
肩の位置が、わずかに落ちている。
リーゼは、気づいた瞬間、視線を外せなかった。
(……限界が、近い)
体力だけではない。
精神の方も、削れている。
それは、騎士として訓練を受けてきた自分だからこそ、
分かる種類の兆候だった。
「サクラ様」
声は、いつも通り、丁寧だった。
敬語も、崩さない。
「本日は、ここまでになさってください」
桜は、少し驚いたように、リーゼを見る。
「まだ、動けます」
その言葉が、すぐに返ってくること自体が、
もう無理をしている証だった。
ただ、桜なら、こう答えるだろうとも思えた。
リーゼは、一歩、距離を詰める。
「明日も、結界の調整が必要です」
「今日、ここで倒れられるわけにはいきません」
声音は静かだが、
引く気はなかった。
ほとんど、強制に近い提案だった。
そのとき、
少し離れた場所から、エルンストの視線を感じる。
言葉はない。
だが、その一瞥だけで十分だった。
――休ませろ。
診療所の中も、
ちょうど、ひと段落がつき始めた頃合いだ。
リーゼは、もう一度だけ、桜を見る。
「……こちらで、責任をもってお送りいたします」
桜は、しばらく何も言わなかった。
そして、ようやく、小さく息を吐く。
「……分かりました」
その返事を聞いて、
リーゼは、ようやく、ほんのわずかに肩の力を抜いた。
守るべき人を、
無理に立たせ続けることは、
警護ではない。
リーゼはそう、はっきりと理解していた。
■人の手が届いた、そのあとで
部屋に戻ると、
ようやく、外の音が遠のいた。
扉が閉まり、
廊下の気配が遮断される。
リーゼは、扉の前に立ち、
一度だけ外を確認してから、静かに声をかけた。
「……少し、お話しされますか」
問いかけというより、
許可を求めるような声音だった。
桜は、リーゼにも腰掛けるように促してから、
自分も腰を下ろす。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……たくさん、亡くなりました」
それだけだった。
リーゼは、返事をしなかった。
ただ、そこにいる。
「重症だった方が、
途中で、重体に変わるのも……何人も見ました」
言葉が、途切れる。
「日本では……
あんな短時間で、
見ることは、ありません」
事実を、置いていくような話し方だった。
桜は、言葉を探すように視線を落とす。
「……ずっと病院という場所で働いてきて、
何度経験しても、つらいものですね」
リーゼは、少しだけ、顎を引いた。
「はい」
短い返事だった。
「つらさに慣れてしまうものでは、ありません」
それは、慰めではない。
ただの、事実だった。
「……それで、いいのだと思います」
桜は、少しだけ、目を瞬いた。
リーゼは、桜を見ない。
あえて、視線を外したまま、続ける。
「つらさに慣れないままでいられる方が、
人を、守れますから」
しばらく、沈黙が落ちる。
やがて、桜は、
ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
「……ありがとうございます」
リーゼは、答えない。
その代わり、
椅子から立ち上がり、扉の向こうへと消えていった。
守る役目は、
もう少しだけ、続く。
■まだ帰れない場所で
村の外れで、
クロトは報告を受け続けていた。
倒壊した建物や、畑。
焼けた地面。
村で死亡を確認された遺体。
事後処理は、戦闘よりも時間がかかる。
村人にも、騎士団にも、死者が出ている。
そのどちらも、クロトの視界から外れることはなかった。
この日は、村に滞在する予定だった。
帰還は翌日。
事後処理担当が到着してからになる。
復旧作業のため、交代要員として他の師団も来る予定になっている。
夕刻、
通信石が、短く震えた。
リーゼの声。
続いて、ノイン。
桜が医療現場に入り、
多くの死と、重体への移行を見て、
リーゼの判断で休ませたこと。
必要な報告だけ。
感情は、ほとんど混じっていない。
それでも――
クロトは、しばらく、通信石を握ったまま動けなかった。
胸の奥に、
鈍い痛みが走る。
桜は、きちんと支えられていた。
それを理解していても、痛みは消えなかった。
頭では、すべて分かっている。
それでも、
あの場にいなかったことが、
心に重くのしかかる。
桜は、
今日もまた、
自分の役目を果たしたのだ。
おそらく、限界まで。
クロトは、ゆっくりと息を吐いた。
――明日、帰る。
それだけを、
自分に言い聞かせる。
村には、まだやるべきことが残っている。
だから今は、動けない。
通信石をしまい、
クロトは再び、村へと向き直った。
夜は、まだ長い。
■普段通りの距離で
翌々日。
結界の修正は、予定より長引いた。
引き継ぎを終え、
桜が制御室を出ると、
廊下の先に、見慣れた背中があった。
クロトだった。
「……お疲れさまです」
声は、いつも通りだった。
「そちらも」
それだけのやり取り。
桜は、一瞬、
何か言うべきか迷い――
結局、何も言わなかった。
クロトも、何も聞かない。
だが、すれ違う瞬間、
ほんのわずかに、歩調を合わせる。
それだけで、十分だった。
役目は、まだ続く。
だが、ひとりではないことも、確かだった。
■幕間 王への報告
王宮の会議室は、静かだった。
誰かが声を荒げることもなく、
重たい沈黙が、最初から用意されているような空間だった。
宰相が一歩前に出る。
「セシリア村付近で発生した中規模事案について、
現時点での総括をご報告いたします」
視線が、自然と王へ向く。
国王は、頷くだけだった。
軍務卿が続く。
「初動に遅れがありました。
魔物の発生地点が村に近すぎたこと、
揺らぎの検知が間に合わなかったことが原因です」
淡々とした声だった。
「しかし、師団の崩壊はありません。
特別師団、第三師団、第五師団の連携は機能しました」
成功とも、失敗とも言わない言い方だった。
次に、エルンストが前へ出る。
「被害状況を報告します」
一瞬だけ、間を置く。
「死亡者は十五名から二十五名。
重体は十名から十五名。
重症三十名から五十名。
中等症七十名から百名。
軽症は二百名程度と推定されます」
数字が並ぶ。
誰も、息を呑まなかった。
「医療搬送は途中から循環に入りました。
トリアージは、概ね想定通りに機能しています」
「最善ではありません。
ですが、破綻はしていません」
それだけを付け加え、エルンストは下がった。
内務卿エルザ・ハインリヒが口を開く。
「復旧は三段階で進めます」
声は低く、よく通る。
「第一に、遺体の収容と埋葬。
第二に、生活の再開。
第三に、恒久的な再建です」
「第一段階はすでに着手しています。
村は戻ります。時間はかかりますが、戻ります」
誰も反論しなかった。
神殿長が、短く補足する。
「結界は安定しています。
完全ではありませんが、崩壊の兆候はありません」
「民心への影響については、慎重に見ています」
最後に、外務大臣。
「アグライア側からの抗議、照会はありません」
一拍置いて、続ける。
「現時点では、国境情勢に変化は見られません。
本件は、国内事案として受け止められているようです」
王は、しばらく黙っていた。
報告書に視線を落とし、
数字を追い、
そして、顔を上げる。
「……重いな」
誰も否定しなかった。
「だが、この規模で崩れなかった理由は何だ」
宰相が答える。
「個人ではなく、役割と仕組みで動いたからです」
王は、深く息を吐いた。
「そうか」
それだけで、会議は終わった。
多くを失ったが、国自体は守りきれた。
担架、声、布の擦れる音。
血と消毒の匂いが、空気に混じっている。
桜は、特別師団の護衛――ノイン・バルクスを伴い、診療所の中へ入った。
普段、ノインは第1診療所内の扉付近で待機する。
だが今日は違った。
不特定多数が出入りするこの場所では、常に桜の半歩後ろに立ち、
必要とあらばすぐに身体を差し出せる距離を崩さない。
「失礼します」
そう言って、ノインは通路を塞がないよう身体をずらしながら、
簡易ベッドの位置を調整し、
看護師に頼まれて患者の体位を変え、
包帯を押さえる。
ぎこちないが、手は丁寧だった。
桜は、医師から声がかかるたびに動いた。
処置に付き添い、
手術室に入れば、器具を渡し、治療の手伝いをする。
判断は医師がする。
桜は、その判断が滞りなく実行されるよう、
最大限に手助けするだけだった。
そのときだった。
「第2診療所から、搬送!」
張り詰めた声が走る。
担架が、慌ただしく運び込まれてくる。
乗せられていたのは、十代の少年だった。
付き添ってきた診療所の医師によると、腕と肩の打撲。
当初は軽傷と判断されていた。
だが、年齢を考慮し、念のため王宮へ――
そうして、ここにいる。
少年は、呼吸をしていなかった。
「心停止」
誰かが短く告げる。
桜は、すでに少年のそばにいた。
言葉は要らなかった。
桜が、胸に手を当てる。
心臓マッサージを開始する。
規則的に、確実に。
力を込めすぎず、だが迷いなく。
その間に、国立病院から来ていた医師が、
魔力式の簡易レントゲンを展開する。
光の輪郭が、少年の腹部をなぞる。
「……腹腔内、出血量が多すぎる」
低い声だった。
内部損傷。
おそらく、初動の転倒か、見えない場所での打撲。
医師は、すぐに別の医師を呼ぶ。
二人、三人。
誰もが、同じ像を見て、同じ結論に至る。
「……難しい」
それは、諦めではなく、判断だった。
桜の手は、止まらない。
だが、胸の奥で、別の考えが浮かぶ。
――日本なら。
輸血がある。
集中治療室がある。
なにより注射薬がある。
最新式の器具がある。
助かる可能性は、
ゼロではないかもしれない。
この世界には、ない。
魔力だけでは、
どうにもならない領域がある。
「……」
少年の身体が、わずかに反応を失っていく。
「……ここまでだ」
医師が、そう告げた。
桜は、ゆっくりと手を離した。
少し遅れて、母親が診療所に駆け込んでくる。
状況を理解するより早く、
その場に崩れ落ちた。
声にならない嗚咽。
桜は、一歩、そちらへ向かいかける。
だが、その前に、別の医師に呼び止められた。
「こちら、手を貸してもらえるか」
桜は、立ち止まり、
一瞬だけ母親を見る。
そのとき、
年配の介護人が、何も言わずに母親のそばへ膝をついた。
肩を抱き、
母親が一人にならないよう、そばにいる。
桜は、深く息を吸い、
医師のもとへ向き直った。
その後も、桜は、
死亡例にも、重症から重体へと転じる例にも関わった。
ほんの数時間のうちに、だ。
日本で救急外来に立っていても、
これほど多くの患者を、
これほど短時間で診ることは、まだなかった。
多くても、重症が1名、重体が1名、ほとんとは軽症者だ。
それでも現場は張り詰める。
ここでは違う。
重症が続き、
重体が続き、
そして、救えなかった命が、静かに積み重なっていく。
桜は、自分の呼吸が浅くなっているのを感じながら、
それでも手を止めずに動いた。
周囲の医療関係者は、驚くほど冷静だった。
声を荒げる者はいない。
泣き崩れる者もいない。
ただ、淡々と、
次の判断と次の処置へ進んでいく。
――すごい。
その言葉が、何度も胸に浮かぶ。
彼らは、特別なのではない。
慣れているのだ。
魔物に常に国を脅かされる世界で、
「一度に多くを救えない状況」が、
現実として存在する世界で、
判断する覚悟を、日常の中で積み重ねてきた。
平和な世界で生きてきた自分とは、
背負っている前提が違う。
桜自身、トリアージの概念は理解している。
教科書で学び、
研修で聞き、
頭では分かっていた。
だが――
実際に、その場に立ったことは、日本ではなかった。
誰を先に送るか。
誰を待たせるか。
誰を「後」に回すか。
それが、目の前の人間として存在するとき、
その重さは、知識とはまるで別物だった。
日本の救急医が、
「トリアージは難しい」と言っていた言葉を、
桜はこの瞬間、ようやく本当の意味で理解した。
難しいのは、判断そのものではない。
判断したあとも、
次の患者に手を伸ばし続けなければならないことだ。
桜は、もう一度、深く息を吸った。
そして、呼ばれた声に応え、
次の処置へと向かう。
ここでは、立ち止まる余裕はない。
■リーゼ視点
リーゼは、途中からノインと交代し、
桜のそばに付き添いながら、ノインと同じように患者の対応を手伝っていた。
部屋の警護。
それが、彼女に与えられることの多い役目だった。
女性騎士であることへの配慮もある。
それに――
リーゼも、桜に文字を教える護衛騎士の一人であり、
自然と、親しみも感じていた。
リーゼは、いつも通り背筋を伸ばし、
静かに周囲を見渡していた。
診療所の中では、まだ人は動いている。
だが、少しずつ、慌ただしさが和らぎ始めているのが分かる。
担架の往復が減り、
呼ばれる声の間隔が、わずかに長くなった。
――峠は、越えつつある。
そう判断した、そのときだった。
桜の足取りが、ほんの少しだけ、遅い。
肩の位置が、わずかに落ちている。
リーゼは、気づいた瞬間、視線を外せなかった。
(……限界が、近い)
体力だけではない。
精神の方も、削れている。
それは、騎士として訓練を受けてきた自分だからこそ、
分かる種類の兆候だった。
「サクラ様」
声は、いつも通り、丁寧だった。
敬語も、崩さない。
「本日は、ここまでになさってください」
桜は、少し驚いたように、リーゼを見る。
「まだ、動けます」
その言葉が、すぐに返ってくること自体が、
もう無理をしている証だった。
ただ、桜なら、こう答えるだろうとも思えた。
リーゼは、一歩、距離を詰める。
「明日も、結界の調整が必要です」
「今日、ここで倒れられるわけにはいきません」
声音は静かだが、
引く気はなかった。
ほとんど、強制に近い提案だった。
そのとき、
少し離れた場所から、エルンストの視線を感じる。
言葉はない。
だが、その一瞥だけで十分だった。
――休ませろ。
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ちょうど、ひと段落がつき始めた頃合いだ。
リーゼは、もう一度だけ、桜を見る。
「……こちらで、責任をもってお送りいたします」
桜は、しばらく何も言わなかった。
そして、ようやく、小さく息を吐く。
「……分かりました」
その返事を聞いて、
リーゼは、ようやく、ほんのわずかに肩の力を抜いた。
守るべき人を、
無理に立たせ続けることは、
警護ではない。
リーゼはそう、はっきりと理解していた。
■人の手が届いた、そのあとで
部屋に戻ると、
ようやく、外の音が遠のいた。
扉が閉まり、
廊下の気配が遮断される。
リーゼは、扉の前に立ち、
一度だけ外を確認してから、静かに声をかけた。
「……少し、お話しされますか」
問いかけというより、
許可を求めるような声音だった。
桜は、リーゼにも腰掛けるように促してから、
自分も腰を下ろす。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……たくさん、亡くなりました」
それだけだった。
リーゼは、返事をしなかった。
ただ、そこにいる。
「重症だった方が、
途中で、重体に変わるのも……何人も見ました」
言葉が、途切れる。
「日本では……
あんな短時間で、
見ることは、ありません」
事実を、置いていくような話し方だった。
桜は、言葉を探すように視線を落とす。
「……ずっと病院という場所で働いてきて、
何度経験しても、つらいものですね」
リーゼは、少しだけ、顎を引いた。
「はい」
短い返事だった。
「つらさに慣れてしまうものでは、ありません」
それは、慰めではない。
ただの、事実だった。
「……それで、いいのだと思います」
桜は、少しだけ、目を瞬いた。
リーゼは、桜を見ない。
あえて、視線を外したまま、続ける。
「つらさに慣れないままでいられる方が、
人を、守れますから」
しばらく、沈黙が落ちる。
やがて、桜は、
ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
「……ありがとうございます」
リーゼは、答えない。
その代わり、
椅子から立ち上がり、扉の向こうへと消えていった。
守る役目は、
もう少しだけ、続く。
■まだ帰れない場所で
村の外れで、
クロトは報告を受け続けていた。
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焼けた地面。
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事後処理は、戦闘よりも時間がかかる。
村人にも、騎士団にも、死者が出ている。
そのどちらも、クロトの視界から外れることはなかった。
この日は、村に滞在する予定だった。
帰還は翌日。
事後処理担当が到着してからになる。
復旧作業のため、交代要員として他の師団も来る予定になっている。
夕刻、
通信石が、短く震えた。
リーゼの声。
続いて、ノイン。
桜が医療現場に入り、
多くの死と、重体への移行を見て、
リーゼの判断で休ませたこと。
必要な報告だけ。
感情は、ほとんど混じっていない。
それでも――
クロトは、しばらく、通信石を握ったまま動けなかった。
胸の奥に、
鈍い痛みが走る。
桜は、きちんと支えられていた。
それを理解していても、痛みは消えなかった。
頭では、すべて分かっている。
それでも、
あの場にいなかったことが、
心に重くのしかかる。
桜は、
今日もまた、
自分の役目を果たしたのだ。
おそらく、限界まで。
クロトは、ゆっくりと息を吐いた。
――明日、帰る。
それだけを、
自分に言い聞かせる。
村には、まだやるべきことが残っている。
だから今は、動けない。
通信石をしまい、
クロトは再び、村へと向き直った。
夜は、まだ長い。
■普段通りの距離で
翌々日。
結界の修正は、予定より長引いた。
引き継ぎを終え、
桜が制御室を出ると、
廊下の先に、見慣れた背中があった。
クロトだった。
「……お疲れさまです」
声は、いつも通りだった。
「そちらも」
それだけのやり取り。
桜は、一瞬、
何か言うべきか迷い――
結局、何も言わなかった。
クロトも、何も聞かない。
だが、すれ違う瞬間、
ほんのわずかに、歩調を合わせる。
それだけで、十分だった。
役目は、まだ続く。
だが、ひとりではないことも、確かだった。
■幕間 王への報告
王宮の会議室は、静かだった。
誰かが声を荒げることもなく、
重たい沈黙が、最初から用意されているような空間だった。
宰相が一歩前に出る。
「セシリア村付近で発生した中規模事案について、
現時点での総括をご報告いたします」
視線が、自然と王へ向く。
国王は、頷くだけだった。
軍務卿が続く。
「初動に遅れがありました。
魔物の発生地点が村に近すぎたこと、
揺らぎの検知が間に合わなかったことが原因です」
淡々とした声だった。
「しかし、師団の崩壊はありません。
特別師団、第三師団、第五師団の連携は機能しました」
成功とも、失敗とも言わない言い方だった。
次に、エルンストが前へ出る。
「被害状況を報告します」
一瞬だけ、間を置く。
「死亡者は十五名から二十五名。
重体は十名から十五名。
重症三十名から五十名。
中等症七十名から百名。
軽症は二百名程度と推定されます」
数字が並ぶ。
誰も、息を呑まなかった。
「医療搬送は途中から循環に入りました。
トリアージは、概ね想定通りに機能しています」
「最善ではありません。
ですが、破綻はしていません」
それだけを付け加え、エルンストは下がった。
内務卿エルザ・ハインリヒが口を開く。
「復旧は三段階で進めます」
声は低く、よく通る。
「第一に、遺体の収容と埋葬。
第二に、生活の再開。
第三に、恒久的な再建です」
「第一段階はすでに着手しています。
村は戻ります。時間はかかりますが、戻ります」
誰も反論しなかった。
神殿長が、短く補足する。
「結界は安定しています。
完全ではありませんが、崩壊の兆候はありません」
「民心への影響については、慎重に見ています」
最後に、外務大臣。
「アグライア側からの抗議、照会はありません」
一拍置いて、続ける。
「現時点では、国境情勢に変化は見られません。
本件は、国内事案として受け止められているようです」
王は、しばらく黙っていた。
報告書に視線を落とし、
数字を追い、
そして、顔を上げる。
「……重いな」
誰も否定しなかった。
「だが、この規模で崩れなかった理由は何だ」
宰相が答える。
「個人ではなく、役割と仕組みで動いたからです」
王は、深く息を吐いた。
「そうか」
それだけで、会議は終わった。
多くを失ったが、国自体は守りきれた。
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