BLACK NODE ―確定されなかった都市―

もちうさ

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葛西の昭和、まだ生きてる

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 観覧車がゆっくりと回る、午後三時の葛西臨海公園。
 冬の午後の光は低く、海面に柔らかい金色の筋を描く。空は青というよりも灰色がかった蒼色で、わずかに漂う雲が光を受けて淡く光る。海と空の境界は曖昧で、風が吹くたびに潮の香りと砂の匂いが混ざり合い、どこか懐かしい気持ちを呼び起こす。佐久間剛(さくま たけし)、72歳。元通信技師で、今は年金暮らしの独居老人──だが本人にはその自覚はない。若い頃は国家の極秘通信プロジェクトに従事し、世界の最先端技術と日々向き合っていた。

 年を重ねた今、外見は小柄で痩せている。薄くなった髪を手で撫でながら、彼はゆっくりと公園を歩く。観覧車のゴンドラが一つずつ空に溶け込むように回り、その動きに合わせて遠くから風の音が届く。波の音と混ざり合い、穏やかな午後の空気が、かつての緊張した日々とはまるで別の世界を作っていた。

 公園の入り口付近には小さなコーヒーショップがあり、佐久間はその店に足を運ぶ。店内の暖かい空気が外の冷たい風と混ざり、彼の頬を柔らかく温めた。カウンターの上には色とりどりの紙カップが並ぶ。彼はトレーを受け取り、紙カップを手に取る。

「トール」とか「グランデ」とか、店員の言葉が耳に入る。しかし、意味はさっぱりわからない。結局、口を突いて出たのは「ホット、いちばん小さいやつ」
 店員は微笑んだ。「ショートですね」──その微笑みに、佐久間の胸の奥が少しだけ温かくなる。若い頃ならこういうやり取りに少し照れたこともあったが、今はそれを受け止めるだけで心が満たされる。

「昔はな、喫茶店に入れば『ブレンドひとつ』で済んだもんだ……」
 紙のフタを外し、少し冷ましたコーヒーをすする。熱すぎず、冷たすぎず、ちょうどよい温度の液体が喉を通ると、思わず目を細める。海風と混ざった香りが、心を落ち着かせる。

 彼はベンチに腰を下ろす。公園には観光客もまばらで、遠くの砂浜には数組の親子連れやカップルがいるだけだ。かつて外国語が飛び交っていた光景は、今では静寂に包まれ、時間がゆっくりと流れているように感じられる。

 佐久間はゆっくりと息を吐き、目を閉じる。手にした紙カップの温かさが体に伝わり、冬の冷たい風に反して体の芯が温まる。若き日の記憶が、脳裏に静かに蘇る。東京湾の地下施設で徹夜の通信実験に明け暮れた日々。仲間たちとの議論、失敗、成功、そして笑い──そのすべてが、今の静かな午後の風景と重なり合う。

 観覧車の軋む音、波の音、遠くで遊ぶ子供たちの声、紙コップを持つ手の感触──五感のすべてが、過去と現在をつなぐ架け橋となる。彼はふと、自分の孤独を感じる。年を重ね、友人や仲間は散り散りになった。しかし、あの時の熱はまだ消えていない。心の奥に、再び火を灯すべき何かが残っているのを感じる。

 紙カップを片手に、佐久間は立ち上がる。バッグにはBCLノートと、スカイセンサー5900──昔の受信機だ。頑丈で無骨なその姿は、現代のスマートフォンにはない安心感を与える。ダイヤルを回すたびに微かに感じる感覚は、彼を若き日の自分へと導く。

「久々に回してみっか」

 木陰のベンチに腰を下ろし、受信機のダイヤルをゆっくりと回す。遠い記憶に耳を澄ますと、ノイズの中に懐かしい音が混じっていた。ジー……ジジ……ピー……
 その微かな信号は、若き日の自分を突き動かしていた探究心と興奮を、胸に呼び戻す。

 冷たい金属の感触が手のひらに伝わると同時に古い記憶が鮮明に蘇る。
 この受信機は若き日の彼の相棒だ。国家プロジェクトの極秘通信実験に従事していた頃、夜通しダイヤルを回し、わずかな信号を逃さぬよう耳を澄ませた日々。あの時の興奮、緊張、そして仲間たちと共有した喜び──すべてが、今、手元の無骨な機械に宿っているようだった。

 一瞬、何もないかのように思えた。しかし、微かな変化があった。わずかにリズムを持ったピーッという音が混ざる。

「……ん?」
 手が止まる。目の奥が瞬間的に光を帯びた。
 周波数は135.4MHz──若き日の極秘通信実験で使われた帯域だ。今では使われることはないはずの特殊な周波数。しかも、この信号は聞き覚えのある、あのURAYASU-83の特徴的なパターンを持っていた。

 胸が小さく高鳴る。
「消えたはずの波……なんで、今?」

 佐久間はノートを取り出した。手が震え、ペンを握る指先に力が入る。
 周波数の微細な揺らぎ、信号の周期、変調のリズム──すべてを記録に残さねばならない。40年以上前、彼らはこの技術を「国家の秘密」として扱った。だが、今、この波はまるで彼を呼ぶかのように現れたのだ。

 ノイズの中に埋もれた信号を慎重に聞き取り、佐久間は口ずさむ。
「……URAYASU-83……」
 口に出すだけで、あの暗い地下施設の空気と、仲間たちの熱気が蘇る。鳥井、間宮、本庄──皆、若き日の彼の戦友。プロジェクトは突然中止され、データは破棄され、関係者は解散。技術そのものも、存在しなかったことになった──はずなのに。

 佐久間は受信機のダイヤルを微調整しながら、信号のパターンを何度も確認する。
 ジー……ジジ……ピー……
 耳を澄ますと、信号には不規則な間隔があり、規則的なデータ転送の痕跡がわずかに残っていた。これは単なるノイズではない。何かが、確かに意図的に送られている。

「間宮……てめーか!」

 間宮はかつてプロジェクトの中核を担った優れた技術者だったが、国家と対立し極秘データを持ち出したと言われている。

「これ……偶然じゃねぇな」
 薄暗い午後の光の下で、老いた手が小刻みに震える。胸の奥で再び、かつての技術者の血が騒ぎ始めた。

 ふと、ノートのページの間から小さな紙切れが落ちる。黄色く変色した紙には、数字と記号が並んでいた。
 URAYASU-83 起動ログ
 2023/06/01 03:11 JST
 【データ転送成功・通信正常】

「誰が……こんなものを……」

 砂浜に押し寄せる波の音、観覧車の軋む音、そして風の匂い。佐久間は深呼吸し、手の震えを抑えながら決意を固めた。

「やるしかない……もう一度だけ、技術屋に戻るか」

 午後三時の公園で、観覧車は静かに回り続ける。佐久間の心の中では、長年封印されてきた何かが再び灯ろうとしていた。過去と未来をつなぐ波を前に、彼は一歩踏み出す覚悟を固めたのだった。

 目を閉じると、公園前に広がる午後の海も、観覧車の音も、すべてが遠のき、意識は40年前に飛んでいく。
 あの夜、東京湾臨海部の地下施設──鉄とコンクリートに囲まれた冷たい空間で、彼らはひたすら通信の波と格闘していた。URAYASU-83。超長波と中波を組み合わせ、通常のラジオ波では到達できない範囲でデータを転送する、異例のハイブリッド方式。若き日の佐久間は、まだ全貌を知らず、部分的な設計と試作の担当に過ぎなかった。
「ピーッ、ジーッ……」
 耳に残る微かな音が、あの地下室の匂いを蘇らせる。油の匂い、機械の焦げる匂い、冷たい鉄の手触り──暗闇の中で仲間たちの呼吸だけが響いた。
 仲間の鳥井はいつも落ち着いていて、どんなトラブルにも冷静に対応する技術者だった。
「佐久間、このノイズのパターン、変だぞ」
 彼の声は低く、しかし確かな指示力を持っていた。間宮は観察力が鋭く、機器のどんな微細な変化も見逃さない能力の持ち主だった。
「ここの波形、再調整が必要だ」
 間宮が言えば、誰も逆らえなかった。本庄はデータ解析担当。膨大な数値を瞬時に計算し、異常を指摘する力を持っていた。佐久間はその横で、ダイヤルを回し、計算結果を信号に反映させる作業に集中していた。

 1987年10月22日
 外は嵐、雷が海を照らす。地下施設の奥で、巨大な受信アンテナが揺れる音が響く。

「……本当にやるのか、賢治」
「都市はもう限界だ……」

 佐久間の指が震え、汗が額を伝う。間宮は黙々と機器を操作し、冷静にデータを分離する。
 信号が途切れ、機器の赤いランプが一斉に点滅する。
「大丈夫、波は安定しつつある」
 しばらく地下室に緊張の静寂が訪れたが、すべての装置がやがて正常動作を始めた。若き日の彼らは歓声を上げ、疲れ果てた体をベンチに投げ出した。しかし、その喜びも長くは続かなかった。その後の原因不明の機器の暴走により、プロジェクトは突然中止され、計画は頓挫した。

 なぜか。理由は誰にも告げられなかった。国家の方針か、予算の都合か、それとも未知の技術が引き起こす危険性か──真相は闇に包まれたまま。仲間たちは皆、沈黙を守った。だが、間宮だけは違った。彼は極秘データを持ち出し、ひそかに財団法人の顧問として技術を温存していたという噂があった。

 佐久間は再び目を開ける。現実に戻った公園の風景と、受信機の微かな振動が手に伝わる。紙切れに書かれたログ、URAYASU-83の信号、仲間の顔──すべてが一つに絡み合い、過去と現在を結ぶ線となった。

「やっぱり、偶然じゃねぇ……間宮が、まだ動かしてる」
 手の震えを抑えながら、佐久間は深呼吸する。
 心の奥で、再び技術者としての血が騒ぐ。
「もう一度、やるしかない……」

 彼の目の前には、未来の道筋がまだぼんやりとしか見えない。だが確かなのは、過去の仲間と技術の記憶が、今、彼の行動を導こうとしているということだった。

 観覧車の影が長く伸び、砂浜の波が静かに打ち寄せる午後の光景。その中で、佐久間の心は決意に満ちていた。そして長年封印されていた火が、再び灯ろうとしていた。

 紙切れを握りしめ、佐久間は深く息を吐いた。
 午後の光が傾き、観覧車のゴンドラは黄金色に染まる。だが、彼の視界にはもはや風景は映っていなかった。心は過去と未来の狭間に張られた波に捕らわれ、すべての感覚が研ぎ澄まされている。

 紙切れをノートに挟み込み、彼は立ち上がった。
 受信機をバックにしまい、ポケットにペンを差し込む。紙コップはもう空だ。観覧車が背後でゆっくりと回る音、砂浜に打ち寄せる波の音、風が頬をなでる感触──すべてが、彼の決意を後押しするかのようだった。

 公園を歩きながら、佐久間は次々と策を立てる。URAYASU-83の信号を解析し、間宮がどのような目的で再稼働させているのか、手がかりを探す。間宮の行動、施設、すべてに目を光らせる必要がある。だが、焦る必要はない。長年の経験と知識、そして冷静な観察力があれば、必ず突破口を見つけられるはずだ。

「ここからだ……」

 観覧車はゆっくりと回り続け、遠くの波音が静かに響く。
 佐久間の心はもう揺れない。新たな挑戦がいま始まろうとしていた。

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