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第四章 尾張の覇者
第四話 弟の決起! 兄を討て!!
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弘治二年八月――、末森城の櫓の上で信行は空を仰いだ。
今日も暑くなりそうな、青霄(※雲がなく、よく晴れている)である。
眼下は、雄大な濃尾平野である。
濃尾平野は木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)と庄内川により形成され、美濃南西部から尾張北西部と、伊勢国北部の一部にかけて広がる平野だという。
西は伊吹山地と養老山地、東は尾張丘陵、北は両白山地に囲まれ、南は伊勢湾に面し、南西部の木曽三川の河口付近で伊勢平野とつながっているらしい。
信行の心は、揺れていた。
末森城主として、弾正忠家後継として、そして大和守に代わる守護代として、己の決断が果たして正しいのか。
本当なら、信行は兄と戦いたくはないのだ。
だがもう、信行では末森の家臣たちは止められない。しまいには、信長の側だと思っていた那古野城の林兄弟が信行に膝を折った。
彼らの話によると信長は、守護・斯波義銀を担ぎ、守護代になろうと画策しているという。確かに信長がいる清州城には、守護・義銀がいる。
さらに周囲の者たちはこうも言った。
これまでうつけを演じて我々を油断させ、尾張を牛耳るつもりなのだと。
はたして信長にそんな思惑があるのか定かではないが、信行にはもう信長が信じられなかった。
いや――、違う。
信行は外の景色に背を向け、唇を噛む。
信長が、信じられないのではない。これは、嫉妬だ。
「殿――」
具足に身を固めた柴田勝家が、膝を折る。
「どうした? 勝家」
「林秀貞どのから報せが参りました。信長さまの領地・篠木三郷を奪取したと」
信行はその報せを聞いても驚くこともなく、怒ることもなく落ち着いていた。
昔に戻れるなら戻りたいが、それはもう叶いそうにもなかった。
――兄上……。
「出陣の許可を」
勝家に促され、信行は声を張った。
「兄を――、清州城主・織田信長を討て!」
◆
この頃――、信長は窮地に立たされていた。
尾張上四郡守護代・伊勢守が敵対してきたというのもあるが、尾張には今川派と呼ばれる人間がまだいる。
父・信秀が倒した那古野主・今川氏豊(※今川義元の弟)は、織田一族が尾張へ来る以前から、幕府奉公衆として、尾張守護の権限が及ばない独自の領地や家臣を持っていたという。
織田家より長く那古野に君臨し、その家臣だった尾張東部の国人衆は、未だに今川に親近感があるようだ。
さらに美濃の斎藤義龍、南に下って尾張岩倉の織田伊勢守家、那古野城の林秀貞・通具兄弟、今川側という大脇城、米野城と対立相手は一向に減らない。
信長は首の後ろを扇子で叩きつつ、地図を睨んだ。
「万事休す――といった具合だな」
「国内の今川派は、大元を断つしかないでしょう」
上段の間と向き合う形で座る恒興が、眉を寄せる。
「やはり、義元を倒すしか駆逐できそうもないな」
「彼らが動くとすれば、今川が尾張侵攻を始めたときかと。ですが、美濃と伊勢守家の動きは読めません」
「――申し上げます。末森城の信行さま以下、那古野城の林秀貞、林通具らが篠木三郷の土地を奪取しましてございます」
「殿――」
恒興が、信長を振り返る。
篠木三郷の地は、信長の直轄地である。
奪取した者の名に弟・信行がいたのは、信長もさすがに息を呑んだ。
――人の心は、変わるものでございます。
信長は以前、沢彦宗恩に言われた言葉を思い出す。
やはり信行とは、対立は避けられないようだ。
「戦の用意だ!」
信長の命令に、恒興が踵を返した。
◆◆◆
弘治二年八月二十二日――、末森側の動きに際し、信長は庄内川を渡った名塚(※現在の名古屋市西区)に砦を築かせた。
聞くところによると、末森軍は総勢千七百。
柴田勝家率いる本隊千名は、末盛城から矢田川沿いに西に進軍してきたようだ。
林通具率いる残りの七百は、那古野城から稲生街道に入ってきたのだろう。
信長が率いる清須軍は、末森軍より数が少ない。
恒興は、腕を組む信長の背後に控えた。
「信長さま」
「敵陣に――、信行はいないようだな」
「今回の指揮をしているのは、柴田勝家さまとみられます」
信行がいないことにほっとし、信長は臨戦態勢に入った。
「父上とともに戦場を駆けてきた男だ。これは激戦になるぞ。勝三郎」
「元より、皆覚悟しております」
かくして翌――二十三日、稲生の地で織田家家臣同士が睨み合うという戦い(※稲生の戦い)は始まった。
「謀反人の首を取れ!」
「黙れ! 我が殿こそ、弾正忠家当主ぞ」
この際、どちらが真の当主などどうでもいい。
信長は自ら長槍を持ち、敵陣の中を駆けた。
「雑魚に構うな!」
信長は甲冑に緋の外套を翻し、一人また一人と長槍で末森軍を減らしていく。
しかしやはり柴田勝家が指揮する本隊は手強く、信長軍は佐々成政の兄・佐々孫介など主力武将に犠牲者が出るばかりだ。
勝家軍が、本陣まで退却していた信長の前に迫ってくる。
「殿……!」
腰を上げた信長を、恒興が制す。
「まだ勝敗はついてはいない!」
信長は長槍を手に、馬に乗る。
此方側に吹いていた風が、敵陣に向かえといわんばかりに逆風になる。
「――柴田勝家は何処だ!!?」
信長の迫力に、本隊は一歩後ろに下がった。
それに答えたのは、恒興だった。
「殿、勝家どのは戦線を離れた様子」
「あの勝家がか?」
「どうやら負傷され、戦えぬ状態になったかも知れません」
信長軍の佐久間信盛たちも、途中から柴田勝家を見ていないという。
「となると、残りは林兄弟か――」
林兄弟たちは、信長たちのいる場所から南に下った位置にいた。
「通具!!」
信長の声に、林通具は不敵に笑った。
「信長さまが相手とはこの林美作守通具、武将冥利につきまする」
「通具!」
近くにいた通具の兄・秀貞が叫んだが、通具の躯を信長の槍が貫通していた。
「ぐ……ぁ」
林通具は討ち取った。
これにより、末森軍は総崩れとなった。
大将がいなくなったのだから、当然である。
だがこの戦いの余波が、数日後にやってきた。
「――柴田勝家が来たぁ?」
さすがの信長も驚いた。
ついこの間まで、こちらに戦いを挑んできた男である。
稲生の戦い後、信長は母・土田御前から末森城に呼ばれたという。
聞けば土田御前は信行以下、勝家と林秀貞を許してほしいと言ったらしい。
信長は聞き入れたそうだが、これは思わぬ展開である。
「何しに来たんでしょうね……? 佐久間さま」
前田利家が、佐久間信盛に聞くが信盛は眉を顰める。
「あの男は俺にもよくわからん」
「――此度の寛大なる処置、心より感謝致しまする」
勝家は、そう言って低頭する。
「いや、お前の行動は弾正忠家を思ってのことだろう。詫びに来るほどではない」
「――殿」
信長が、胡乱に目を細める。
勝家が信長を「殿」と呼んでくることに、その場にいる誰もが意外そうな顔をしていた。
彼にとって主君は、末森城の信行のはずである。
信行を弾正忠家当主と推していたのも、彼だったらしい。
恒興はこれまで数回末森城に言ったことがあるが、そのとき勝家は信長を「信長さま」としか呼ぶことはなかった。
しかし信長は、弟・信行のことが気になるらしい。
「――信行はどうしている?」
「あれ以来、部屋に籠もっておりまする」
「そうか……」
信長にとって、信行との対立は望んだものではなかろう。
「この権六(※勝家の通称)、人を見抜く才に欠けておりました。確かに信行さまは温厚な方、ですが――、それではこの世は生きてはいけませぬ。此度の戦も、ご自身の決断ではなく、林美作守に押されてのこと」
「そんなことはわかっている」
「人の意見が、必ずしも正しいとは限りませぬ。殿」
勝家の口ぶりから、どうも信長につこうとしているらしい。
信長側の家臣たちにとって味方が多くなるのは喜ばしいことだが、信行の心中はどうだろうか。
信行のことを思うと、勝家が味方がなかったことを素直に喜べぬ信長であった。
今日も暑くなりそうな、青霄(※雲がなく、よく晴れている)である。
眼下は、雄大な濃尾平野である。
濃尾平野は木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)と庄内川により形成され、美濃南西部から尾張北西部と、伊勢国北部の一部にかけて広がる平野だという。
西は伊吹山地と養老山地、東は尾張丘陵、北は両白山地に囲まれ、南は伊勢湾に面し、南西部の木曽三川の河口付近で伊勢平野とつながっているらしい。
信行の心は、揺れていた。
末森城主として、弾正忠家後継として、そして大和守に代わる守護代として、己の決断が果たして正しいのか。
本当なら、信行は兄と戦いたくはないのだ。
だがもう、信行では末森の家臣たちは止められない。しまいには、信長の側だと思っていた那古野城の林兄弟が信行に膝を折った。
彼らの話によると信長は、守護・斯波義銀を担ぎ、守護代になろうと画策しているという。確かに信長がいる清州城には、守護・義銀がいる。
さらに周囲の者たちはこうも言った。
これまでうつけを演じて我々を油断させ、尾張を牛耳るつもりなのだと。
はたして信長にそんな思惑があるのか定かではないが、信行にはもう信長が信じられなかった。
いや――、違う。
信行は外の景色に背を向け、唇を噛む。
信長が、信じられないのではない。これは、嫉妬だ。
「殿――」
具足に身を固めた柴田勝家が、膝を折る。
「どうした? 勝家」
「林秀貞どのから報せが参りました。信長さまの領地・篠木三郷を奪取したと」
信行はその報せを聞いても驚くこともなく、怒ることもなく落ち着いていた。
昔に戻れるなら戻りたいが、それはもう叶いそうにもなかった。
――兄上……。
「出陣の許可を」
勝家に促され、信行は声を張った。
「兄を――、清州城主・織田信長を討て!」
◆
この頃――、信長は窮地に立たされていた。
尾張上四郡守護代・伊勢守が敵対してきたというのもあるが、尾張には今川派と呼ばれる人間がまだいる。
父・信秀が倒した那古野主・今川氏豊(※今川義元の弟)は、織田一族が尾張へ来る以前から、幕府奉公衆として、尾張守護の権限が及ばない独自の領地や家臣を持っていたという。
織田家より長く那古野に君臨し、その家臣だった尾張東部の国人衆は、未だに今川に親近感があるようだ。
さらに美濃の斎藤義龍、南に下って尾張岩倉の織田伊勢守家、那古野城の林秀貞・通具兄弟、今川側という大脇城、米野城と対立相手は一向に減らない。
信長は首の後ろを扇子で叩きつつ、地図を睨んだ。
「万事休す――といった具合だな」
「国内の今川派は、大元を断つしかないでしょう」
上段の間と向き合う形で座る恒興が、眉を寄せる。
「やはり、義元を倒すしか駆逐できそうもないな」
「彼らが動くとすれば、今川が尾張侵攻を始めたときかと。ですが、美濃と伊勢守家の動きは読めません」
「――申し上げます。末森城の信行さま以下、那古野城の林秀貞、林通具らが篠木三郷の土地を奪取しましてございます」
「殿――」
恒興が、信長を振り返る。
篠木三郷の地は、信長の直轄地である。
奪取した者の名に弟・信行がいたのは、信長もさすがに息を呑んだ。
――人の心は、変わるものでございます。
信長は以前、沢彦宗恩に言われた言葉を思い出す。
やはり信行とは、対立は避けられないようだ。
「戦の用意だ!」
信長の命令に、恒興が踵を返した。
◆◆◆
弘治二年八月二十二日――、末森側の動きに際し、信長は庄内川を渡った名塚(※現在の名古屋市西区)に砦を築かせた。
聞くところによると、末森軍は総勢千七百。
柴田勝家率いる本隊千名は、末盛城から矢田川沿いに西に進軍してきたようだ。
林通具率いる残りの七百は、那古野城から稲生街道に入ってきたのだろう。
信長が率いる清須軍は、末森軍より数が少ない。
恒興は、腕を組む信長の背後に控えた。
「信長さま」
「敵陣に――、信行はいないようだな」
「今回の指揮をしているのは、柴田勝家さまとみられます」
信行がいないことにほっとし、信長は臨戦態勢に入った。
「父上とともに戦場を駆けてきた男だ。これは激戦になるぞ。勝三郎」
「元より、皆覚悟しております」
かくして翌――二十三日、稲生の地で織田家家臣同士が睨み合うという戦い(※稲生の戦い)は始まった。
「謀反人の首を取れ!」
「黙れ! 我が殿こそ、弾正忠家当主ぞ」
この際、どちらが真の当主などどうでもいい。
信長は自ら長槍を持ち、敵陣の中を駆けた。
「雑魚に構うな!」
信長は甲冑に緋の外套を翻し、一人また一人と長槍で末森軍を減らしていく。
しかしやはり柴田勝家が指揮する本隊は手強く、信長軍は佐々成政の兄・佐々孫介など主力武将に犠牲者が出るばかりだ。
勝家軍が、本陣まで退却していた信長の前に迫ってくる。
「殿……!」
腰を上げた信長を、恒興が制す。
「まだ勝敗はついてはいない!」
信長は長槍を手に、馬に乗る。
此方側に吹いていた風が、敵陣に向かえといわんばかりに逆風になる。
「――柴田勝家は何処だ!!?」
信長の迫力に、本隊は一歩後ろに下がった。
それに答えたのは、恒興だった。
「殿、勝家どのは戦線を離れた様子」
「あの勝家がか?」
「どうやら負傷され、戦えぬ状態になったかも知れません」
信長軍の佐久間信盛たちも、途中から柴田勝家を見ていないという。
「となると、残りは林兄弟か――」
林兄弟たちは、信長たちのいる場所から南に下った位置にいた。
「通具!!」
信長の声に、林通具は不敵に笑った。
「信長さまが相手とはこの林美作守通具、武将冥利につきまする」
「通具!」
近くにいた通具の兄・秀貞が叫んだが、通具の躯を信長の槍が貫通していた。
「ぐ……ぁ」
林通具は討ち取った。
これにより、末森軍は総崩れとなった。
大将がいなくなったのだから、当然である。
だがこの戦いの余波が、数日後にやってきた。
「――柴田勝家が来たぁ?」
さすがの信長も驚いた。
ついこの間まで、こちらに戦いを挑んできた男である。
稲生の戦い後、信長は母・土田御前から末森城に呼ばれたという。
聞けば土田御前は信行以下、勝家と林秀貞を許してほしいと言ったらしい。
信長は聞き入れたそうだが、これは思わぬ展開である。
「何しに来たんでしょうね……? 佐久間さま」
前田利家が、佐久間信盛に聞くが信盛は眉を顰める。
「あの男は俺にもよくわからん」
「――此度の寛大なる処置、心より感謝致しまする」
勝家は、そう言って低頭する。
「いや、お前の行動は弾正忠家を思ってのことだろう。詫びに来るほどではない」
「――殿」
信長が、胡乱に目を細める。
勝家が信長を「殿」と呼んでくることに、その場にいる誰もが意外そうな顔をしていた。
彼にとって主君は、末森城の信行のはずである。
信行を弾正忠家当主と推していたのも、彼だったらしい。
恒興はこれまで数回末森城に言ったことがあるが、そのとき勝家は信長を「信長さま」としか呼ぶことはなかった。
しかし信長は、弟・信行のことが気になるらしい。
「――信行はどうしている?」
「あれ以来、部屋に籠もっておりまする」
「そうか……」
信長にとって、信行との対立は望んだものではなかろう。
「この権六(※勝家の通称)、人を見抜く才に欠けておりました。確かに信行さまは温厚な方、ですが――、それではこの世は生きてはいけませぬ。此度の戦も、ご自身の決断ではなく、林美作守に押されてのこと」
「そんなことはわかっている」
「人の意見が、必ずしも正しいとは限りませぬ。殿」
勝家の口ぶりから、どうも信長につこうとしているらしい。
信長側の家臣たちにとって味方が多くなるのは喜ばしいことだが、信行の心中はどうだろうか。
信行のことを思うと、勝家が味方がなかったことを素直に喜べぬ信長であった。
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