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愛してるゲーム、しよう。
しおりを挟むこっそり忍ばせた携帯用のナイフがある。これを使えばきっと鱗の一枚でも手に入るだろうと考えた。なぜか鱗を手に入れなければならない気がしたのだ。鱗さえあれば、と、中毒症状を起こした患者はこういう感情なのだろうかと目を瞑る。額から一筋冷たい汗が流れて、不規則に脈を打つのを感じる。震える手でナイフを握ると、俺は背後から人魚の丸めた背中を狙った。勢いをつけて振り被り、人魚の鱗目掛けてそのナイフの切っ先を、
人魚が、掴んだ。
白い指先は桜貝の淡い桃色に染めていた。手のひらは存外肉付きがなく、骨と筋肉と若干の脂肪があるかないかという体をしていたが、じんわりとその手のひらから鮮血を垂らした。ここで初めて、俺は人肉を刺す感覚を覚えてしまって、突然下腹部から気持ち悪さが上ってきた。無性に喉も渇く。浅い息でなんとか酸素を取り込むことが精一杯だった。
人魚はナイフを掴んだ後ゆっくりとこちらを向いた。肌も手や指と同様、一度も陽の光を浴びたことがないような白さだった。長い睫毛と色素の薄い金髪がふわっと風に揺れる。間近で見る程にその美しさが際立って、俺は今こんな美しいものに殺意を向けていたのかと我に返った。いや、魅了された。悔しくも、憎くも、魅了された。
「人間。いいわよね、儚い命なのに愛や権力やお金のために簡単に無駄にするんだもの」
「……!」
人魚も言語を発するという事実と、その言語が互いに通じ合っているという事実はひとまず置いておく。今明確に危険なのは、俺が人魚に向けた殺意を一瞬で捉え、それを無駄だと否定されたことだ。反論をすれば、一溜りもなく手心も加えず惨殺されるだろう。冷たい色の目がそう言っていた。目が笑っていないとはよく言うが、人魚は笑顔すら知らない冷酷さを持つように見えた。
「ああ可哀想。でも私ね、人間は好きなの」
「……え」
「あなた、わたしを愛してくれるふりをするんでしょう?」
ふり、って、と息だけが抜けていく。声になって彼女に届くことはない。浅く吸って恐る恐る吐いた息だけが、細く抜けていく。
「そう、振りなの。愛してくれる振りをして、最後はこうやって殺意を顕にする」
言葉が出てこない。言いたい事と思考だけは脳内をぐるぐる回っているのに、それをうまく息に乗せて、声帯を震わせることができない。呼吸すら苦しい。落ち着け、冷静になれ。相手は共通の言語が通じる。大丈夫だ。
「苦しいのね。分かってるの。ひとは、人魚の存在なんてただ物珍しい生き物だとしか思ってないのよ」
鮮血が垂れる。
「それにあなた、本当は私の一族が犯した罪じゃなくて、私自身を恨みたくて必死なだけでしょう」
鮮血が俺の頬を伝って冷たく流れていく。
「あなたがしたいのはね、復讐じゃなくて、愛憎なの。歪んでいても愛なのよ」
白い手のひらが不気味な鮮血に滲んで、俺を見下ろす。
「だからごめんなさい、あなたのことは愛せないわ」
俺が掴んでいたナイフは、いつの間にか手から滑り落ちていた。人魚ちゃんは血みどろになった片手をもう片方の手でそっと撫でると、みるみるうちに傷口を塞いだ。そしてその手で俺の頬を柔く包むと、目を細めて言った。
「でも、好きよ。その執着は」
人間らしくてね、生々しいの。
──明るい紫に暗雲がかかったようだった。影がかかって、光の消えた目はそう語るようで、俺のことを捉えてはくれなかった。むしろ、何も映していなかった。
その後のことはよく覚えていない。目が覚めたら自宅のベッドで横たわっていて、弟が必死に声をかけてくれていたことを知って、あれは夢だったのかと思い込むことにした。
しかし今思えば夢ではなかった。今現実として目の前に人魚が、俺が人魚ちゃんと呼称する彼女が、目の前で息をしている。そして彼女は色が見えないのではなく、きっと何も見えないのだと悟った。物のかたちさえ捉えられず、曖昧な世界を目に映して何百年と過ごしてきたのだ。
だから美羽のことも、きっと見えていないのだろう。かたちを取ることすら、彼女には叶わない。
それなのにあんなに強い殺意と絶望を持った冷たい目ができるのか。それなら彼女の言う通り、「愛しているふり」をしてもいいとまで思った。これは賭けだ。もし彼女が、人魚ちゃんが俺に惚れたら俺の勝ち。人魚ちゃんがいつか俺を殺すような事があったとしても、美羽が居るからそれは未然に防がれる。決まりだ。
愛してるゲームしよう。俺が先行な。
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