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一章 神さびた参道の伝え話
番外 民俗備忘録 告知義務
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梅雨の湿気が室内にまで滲み込んでいた。
蛍光灯の青白さに照らされながら、羽賀修司は机の上に無造作に積まれた書類をめくっていた。グレーのスラックスと地味なブルーのシャツ。年齢の割にくたびれた目元。小さな不動産管理会社『佐東住宅』の事務所は、彼のような地味な男には妙に似合っていた。
「羽賀。空いたぞ、例の部屋」
振り向けば、上司の岸川が書類の束を一枚だけ抜いて掲げていた。
「……またですか?」
「まただよ。だが一年持ったから、まだマシってもんだ」
羽賀は黙って書類を受け取る。物件名の横に、赤い付箋が貼られていた。手書きで『告知必要、調査済』とある。
──レジデンス築森609号室。
見覚えがあった。いや、なるべく忘れようとしていた部屋だった。
「あそこの入居者は……」
「縊死。職場で首吊りだと。自死の前は男の一人暮らしだったみたいだな。滝本剛、三十七歳。遺書なし、変死扱いだったが検死結果は自殺で処理されたみたいだ」
岸川は事務的に言い放ち、缶コーヒーを開けた。
「事故物件ってだけなら今さら驚かんが、こう定期的に部屋が開くとなると評判がな……だが、今回も部屋で首吊りしなかったのは幸いだった。これで三年。告知義務はなくなる。下げてた賃料も元に戻していいだろ」
その非情にも、不謹慎にも思える言葉に羽賀は何を言うでもなく、手元の書類に目を落とした。間取り図、契約履歴、原状回復の進行状況。すべては整っていた。だが、そこにあるのは事務的な情報だけで、どこかに綻びがあるような気がしてならないのは実情を知っているからだろうか。そう感じさせる不気味さが、紙面の白地部分には潜んでいた。
「現場確認やってくれ」
「……俺ですか」
「他に誰がいる。今時の新人はああいう部屋回したらすぐ辞めちまうしな」
羽賀は深く息を吐いた。
事故物件。それは管理会社にとって避けがたい仕事のひとつだ。誰かが死んだ部屋にも、誰かが住まなければならない。そうしないと金が回らない。部屋は部屋であり、死者は金を払ってはくれない。死者の事情など不動産事業には関係がなかった。
……はずだった。
書類に添えられていた内覧写真の一枚。芳賀はそこに妙な違和感を覚えた。目を細めてよく見る。リビングの壁紙に付いた小さな影のようなシミ。いや、ただの照明の加減かもしれない。けれど、それが人の横顔に見えてしまった瞬間──ゾワッと、羽賀の背に冷たいものが流れた。
──その夜、羽賀は家に帰っても、なかなか寝つけなかった。
『縊鬼って知ってるか?』
浅い眠り。微睡みの中。かすかな記憶の奥で、今はもう辞めてしまった先輩がそう囁いたような気がした。
§
羽賀がレジデンス築森に着いたのは、昼の二時過ぎだった。
築十年、鉄筋コンクリート造六階建ての中堅マンション。白い外壁はところどころ補修の跡があるが、手入れは行き届いているほうだろう。
エントランスのオートロックが無機質な音を鳴らして開いた。周囲には目立った異常は特にない。昼過ぎのまだ人間達が働く時間帯──それが羽賀の感覚をわずかに鈍らせていた。
エレベーターは正常。若干古く、動き出しのたびに軋む音が小さく鳴る。六階。降りた瞬間、頭が重くなり──イィン……と耳鳴りがした。そして廊下の空気がひどく湿っていることに気づく。
天気のせいだろう、と自分に言い聞かせながら、609号室の前に立つ。なんの変哲も無いドア。鍵を差し込み、回す。扉が重たい音を立てて開いた。
玄関からリビングへと続く空間は、リフォーム清掃が済んでいた。白いクロス、木目調の床板。芳香剤の香りが漂っている。
しかし、足を踏み入れた瞬間、羽賀はわずかな違和感に気づいた。時期のせいもあるだろうが空気が重い。防音性能が高いのか外の車の走行音も聞こえない。静寂も相まって異質に感じる。
羽賀は書類を手に、各部屋を点検していく。風呂、洗面所、キッチン──異常なし。
そして、リビング。
部屋の中央、天井の物干し金具をふと見上げた瞬間、胸の奥がぎゅっと絞られた。
視界の端──そこに、『何かの影』がぶら下がっていた気がした。
ハッとして確認するも、もちろん何もない。だが、金具の一部がわずかに色褪せている。そこだけが、他とは違う特徴を持っているようだった。清掃の手が届いていない金具の一点が、羽賀の視線を捕えて離さない。妙に気になって仕方が無かった。
羽賀は壁のスイッチに手を伸ばし、照明を消した。電気はまだ通っているらしい──照明を消すと昼時とはいえ、窓の向きのせいか薄暗く感じる。
その瞬間、窓付近に見えた『何か』の影が、こちらを向いていた。ボロボロのスーツを着たような何か……
羽賀は堪らずに部屋を出た。ドアを強く閉め、背を向けたまま深呼吸を繰り返す。理性が働く前に、体が危険を察知していた。
数秒後、ポケットの中のスマホが振動した。画面には、会社の上司の番号だった。羽賀は震える指で通話ボタンを押す。
「……羽賀です」
『ああ、お疲れ。どうだった? 例の部屋』
「清掃後で、外見上は問題ないです。ただ、ちょっと……」
『ちょっと?』
「……嫌な感じがします。空気が変というか。あと、物干し金具の部分が妙に……」
『物干し?』
「ええ。その、吊るした跡かと思いました。変な言い方ですが、まだ誰かがそこにいるような……」
電話の向こうで、岸川が一瞬黙った。
『……羽賀、お前さ』
「はい?」
『最近、眠れてるか? 夢に出たりしてないよな?』
「……どういう意味ですか」
『三人ともな。前の入居者、死ぬ前に同じこと言ってたらしい。誰かに見られてる、気分が重いってな』
羽賀は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
『早く帰って来い。お前はその部屋には長くいないほうがいい』
「はは……まさか、縊鬼ってやつですか?」
冗談めかして言ったつもりだった。だが、返事はなかった。電話の向こうで、ただ小さな呼吸音が続く。
『おい、誰から聞いた。……それを口に出すな。聞かれてるかもしれねぇぞ』
その声だけは、本気だった。
§
羽賀が部屋の引き渡しの為に彼女と会ったのは、会社近くのファミリーレストランだった。
八月半ばの午後。窓の外は雨、店内は静かに賑わっていた。けれど、羽賀の正面に座る女性──滝本真奈美は、一切の雑音からは隔たれているような陰鬱な空気を纏っていた。
彼女は前の入居者──滝本剛の実妹だった。
「……兄の部屋を、見たんですか?」
真奈美は開口一番、そう尋ねてきた。
「はい。管理会社の者として、確認だけ。リフォーム後なので表面上は──」
「綺麗になっていた?」
「……はい」
真奈美の表情は硬い。ただ、冷たく頷いた。
「私は、兄が自死する1週間前に電話で話しました。何かがおかしかった。声が遠くて、ぼそぼそ誰か部屋にいるって言ってたんです。酔っているのかと思ったけれど……違う。ずっと何かに怯えてた」
「何か、とは……?」
「……私が最後に話したとき、兄は言っていました。『もう引っ越そうと思っている』って。理由はずっと見てる奴がいるからって。なのに次の週には、何も連絡もなく突然自殺した。部屋にはダンボールがあって荷物が詰められていました。……引っ越しするつもりでいたのに、何で……」
「……」
彼女の手が震えていた。
『縊鬼って知ってるか?』
いつ、どこで聞いたのだったか……ふと、かつての先輩が言っていた言葉が蘇る。その先輩の名は岡野と言った。羽賀より五つ上で、無口で温和な男だった。
そうだ。とある深夜の残業の時に岡野がぼそりと言っていたのを芳賀は覚えていたのだ。
『人の死んだ部屋は空気が重いんだよ。特に……首縊りはな。ある物件で、現場確認に行かされてさ。そのあとから、ずっと夢に出て来やがる。天井から吊り下げられた何かが揺れて軋む音が聞こえて来るんだよ……』
芳賀は冗談めかして聞いた。
『先輩、幽霊とか信じてるんですか?』
『信じる信じないじゃねぇ。あれは……多分、縊鬼って呼ばれてる怨霊だ。自分が死んだ痛みを他人に押しつけてくる。代わりが欲しいんだ。ああいうのに目をつけられたら、いくら逃げても無駄だ』
岡野はその数ヶ月後、会社を辞めた。理由は言わなかった。ただ、夕方以降の一人での外回りを酷く嫌がるようになり、次第に覇気を失くしていったのを心配していた覚えがある。
──真奈美と別れてからも、芳賀はその言葉がどうしても頭から離れないままに事務所に戻ったのだった。
そんな事を一日中考えていたせいか、芳賀はその晩にひどい悪夢を見た。真っ暗な部屋の天井近くで、誰かが揺れている。何度も、何度も、ゆらゆらと。その誰かが突然クルリと回転し、顔が露わになり──
目覚めた時、羽賀の額は汗でびっしょりだった。
縊鬼が自分を見ている気がする。岡野の言ったことが現実味を帯びてくる。気の所為なのかもしれないが……部屋に入り、夢を見てから首に縄がかかっているような妙な感覚があった。
岡野は言っていた。
『──ああいうのに目をつけられたら、いくら逃げても無駄だ。……そういう時は、酒持ってって頭下げて許しを請え。何時間でも帰れって言われるまでしつこくだ。そんで自分の代わりを差し出せ』
羽賀は決断した──誰かに、住んでもらうしかないと。すぐに不動産仲介に強い営業と連絡を取った。
「……早速で悪いけど、確か夫婦で探してるっていう客がいたよな。駅近で家賃抑えめ希望の。……ああ、築森の609号、ちょうど空いた」
電話越しの声が明るい調子で答える。条件には合うけど、事故物件ってのは伏せとく感じで? という声が聞こえた。
「……もう三年経ってる。告知義務はない。内部資料にはそう書いておいてくれ。それと一度、紹介の為に来店するよう言ってくれ」
羽賀は静かに受話器を置いた。心に残るのは、微かな罪悪感と助かるかもしれないという希望。
──己の命には代えられない。そう、芳賀は自分に言い聞かせた。
昼過ぎ、ふと思い立ったように羽賀はロッカーからファイルを取り出した。退職した先輩、岡野が残していった資料だ。羽賀は以前、この築森の事故物件について尋ねたことがあった。そのとき、岡野はあまり多くを語らなかったが、こんな言葉を残した。
『あの部屋はな……誰かが引き継いでいくもんなんだろうよ』
意味が分からなかった。しかし、今は理解できる気がした。古い資料を読んでいると岡野が残したメモが挟まっており、こんな走り書きがあった。
『縊鬼は自分が生まれ変わるために、誰かに縊死を引き継がせている。──そう思ってた。でも違った。縊鬼は邪悪だった。縊死を愉しんでいる……あの部屋を通じて、憐れな贄を探している。目をつけられたら終わりだ。俺たちが縊鬼から逃れるには──誰かにその部屋を紹介し続けるしかない。このメモを見てる誰か覚えておけ。あの部屋には絶対に近づくな』
羽賀は震えた手でメモを握りしめた。
すでに自分は目をつけられている。あの夢に、首の違和感。それは『贄の対象』であるという印。もしかしたら岡野も──。
仲介の営業からはすぐに連絡があった。曰く、本日中に来店したいと。好条件の部屋は競争が激しい。モタモタしていたら、すぐに埋まってしまうとでも考えたのかもしれない。
来店する予定の夫婦は何も知らない。
羽賀は無表情のまま、ファイルを閉じた。それから、朗らかな笑顔の練習をする──この部屋は、駅にも近く、静かで、築浅のマンションです。最近空いたばかりで、おすすめですよ。
夫婦には、そう紹介するだけでいい。
告知義務はない。後で苦情が来ようが知ったことではない。それが、自分が贄の対象にならずに済む方法であるならば──
蛍光灯の青白さに照らされながら、羽賀修司は机の上に無造作に積まれた書類をめくっていた。グレーのスラックスと地味なブルーのシャツ。年齢の割にくたびれた目元。小さな不動産管理会社『佐東住宅』の事務所は、彼のような地味な男には妙に似合っていた。
「羽賀。空いたぞ、例の部屋」
振り向けば、上司の岸川が書類の束を一枚だけ抜いて掲げていた。
「……またですか?」
「まただよ。だが一年持ったから、まだマシってもんだ」
羽賀は黙って書類を受け取る。物件名の横に、赤い付箋が貼られていた。手書きで『告知必要、調査済』とある。
──レジデンス築森609号室。
見覚えがあった。いや、なるべく忘れようとしていた部屋だった。
「あそこの入居者は……」
「縊死。職場で首吊りだと。自死の前は男の一人暮らしだったみたいだな。滝本剛、三十七歳。遺書なし、変死扱いだったが検死結果は自殺で処理されたみたいだ」
岸川は事務的に言い放ち、缶コーヒーを開けた。
「事故物件ってだけなら今さら驚かんが、こう定期的に部屋が開くとなると評判がな……だが、今回も部屋で首吊りしなかったのは幸いだった。これで三年。告知義務はなくなる。下げてた賃料も元に戻していいだろ」
その非情にも、不謹慎にも思える言葉に羽賀は何を言うでもなく、手元の書類に目を落とした。間取り図、契約履歴、原状回復の進行状況。すべては整っていた。だが、そこにあるのは事務的な情報だけで、どこかに綻びがあるような気がしてならないのは実情を知っているからだろうか。そう感じさせる不気味さが、紙面の白地部分には潜んでいた。
「現場確認やってくれ」
「……俺ですか」
「他に誰がいる。今時の新人はああいう部屋回したらすぐ辞めちまうしな」
羽賀は深く息を吐いた。
事故物件。それは管理会社にとって避けがたい仕事のひとつだ。誰かが死んだ部屋にも、誰かが住まなければならない。そうしないと金が回らない。部屋は部屋であり、死者は金を払ってはくれない。死者の事情など不動産事業には関係がなかった。
……はずだった。
書類に添えられていた内覧写真の一枚。芳賀はそこに妙な違和感を覚えた。目を細めてよく見る。リビングの壁紙に付いた小さな影のようなシミ。いや、ただの照明の加減かもしれない。けれど、それが人の横顔に見えてしまった瞬間──ゾワッと、羽賀の背に冷たいものが流れた。
──その夜、羽賀は家に帰っても、なかなか寝つけなかった。
『縊鬼って知ってるか?』
浅い眠り。微睡みの中。かすかな記憶の奥で、今はもう辞めてしまった先輩がそう囁いたような気がした。
§
羽賀がレジデンス築森に着いたのは、昼の二時過ぎだった。
築十年、鉄筋コンクリート造六階建ての中堅マンション。白い外壁はところどころ補修の跡があるが、手入れは行き届いているほうだろう。
エントランスのオートロックが無機質な音を鳴らして開いた。周囲には目立った異常は特にない。昼過ぎのまだ人間達が働く時間帯──それが羽賀の感覚をわずかに鈍らせていた。
エレベーターは正常。若干古く、動き出しのたびに軋む音が小さく鳴る。六階。降りた瞬間、頭が重くなり──イィン……と耳鳴りがした。そして廊下の空気がひどく湿っていることに気づく。
天気のせいだろう、と自分に言い聞かせながら、609号室の前に立つ。なんの変哲も無いドア。鍵を差し込み、回す。扉が重たい音を立てて開いた。
玄関からリビングへと続く空間は、リフォーム清掃が済んでいた。白いクロス、木目調の床板。芳香剤の香りが漂っている。
しかし、足を踏み入れた瞬間、羽賀はわずかな違和感に気づいた。時期のせいもあるだろうが空気が重い。防音性能が高いのか外の車の走行音も聞こえない。静寂も相まって異質に感じる。
羽賀は書類を手に、各部屋を点検していく。風呂、洗面所、キッチン──異常なし。
そして、リビング。
部屋の中央、天井の物干し金具をふと見上げた瞬間、胸の奥がぎゅっと絞られた。
視界の端──そこに、『何かの影』がぶら下がっていた気がした。
ハッとして確認するも、もちろん何もない。だが、金具の一部がわずかに色褪せている。そこだけが、他とは違う特徴を持っているようだった。清掃の手が届いていない金具の一点が、羽賀の視線を捕えて離さない。妙に気になって仕方が無かった。
羽賀は壁のスイッチに手を伸ばし、照明を消した。電気はまだ通っているらしい──照明を消すと昼時とはいえ、窓の向きのせいか薄暗く感じる。
その瞬間、窓付近に見えた『何か』の影が、こちらを向いていた。ボロボロのスーツを着たような何か……
羽賀は堪らずに部屋を出た。ドアを強く閉め、背を向けたまま深呼吸を繰り返す。理性が働く前に、体が危険を察知していた。
数秒後、ポケットの中のスマホが振動した。画面には、会社の上司の番号だった。羽賀は震える指で通話ボタンを押す。
「……羽賀です」
『ああ、お疲れ。どうだった? 例の部屋』
「清掃後で、外見上は問題ないです。ただ、ちょっと……」
『ちょっと?』
「……嫌な感じがします。空気が変というか。あと、物干し金具の部分が妙に……」
『物干し?』
「ええ。その、吊るした跡かと思いました。変な言い方ですが、まだ誰かがそこにいるような……」
電話の向こうで、岸川が一瞬黙った。
『……羽賀、お前さ』
「はい?」
『最近、眠れてるか? 夢に出たりしてないよな?』
「……どういう意味ですか」
『三人ともな。前の入居者、死ぬ前に同じこと言ってたらしい。誰かに見られてる、気分が重いってな』
羽賀は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
『早く帰って来い。お前はその部屋には長くいないほうがいい』
「はは……まさか、縊鬼ってやつですか?」
冗談めかして言ったつもりだった。だが、返事はなかった。電話の向こうで、ただ小さな呼吸音が続く。
『おい、誰から聞いた。……それを口に出すな。聞かれてるかもしれねぇぞ』
その声だけは、本気だった。
§
羽賀が部屋の引き渡しの為に彼女と会ったのは、会社近くのファミリーレストランだった。
八月半ばの午後。窓の外は雨、店内は静かに賑わっていた。けれど、羽賀の正面に座る女性──滝本真奈美は、一切の雑音からは隔たれているような陰鬱な空気を纏っていた。
彼女は前の入居者──滝本剛の実妹だった。
「……兄の部屋を、見たんですか?」
真奈美は開口一番、そう尋ねてきた。
「はい。管理会社の者として、確認だけ。リフォーム後なので表面上は──」
「綺麗になっていた?」
「……はい」
真奈美の表情は硬い。ただ、冷たく頷いた。
「私は、兄が自死する1週間前に電話で話しました。何かがおかしかった。声が遠くて、ぼそぼそ誰か部屋にいるって言ってたんです。酔っているのかと思ったけれど……違う。ずっと何かに怯えてた」
「何か、とは……?」
「……私が最後に話したとき、兄は言っていました。『もう引っ越そうと思っている』って。理由はずっと見てる奴がいるからって。なのに次の週には、何も連絡もなく突然自殺した。部屋にはダンボールがあって荷物が詰められていました。……引っ越しするつもりでいたのに、何で……」
「……」
彼女の手が震えていた。
『縊鬼って知ってるか?』
いつ、どこで聞いたのだったか……ふと、かつての先輩が言っていた言葉が蘇る。その先輩の名は岡野と言った。羽賀より五つ上で、無口で温和な男だった。
そうだ。とある深夜の残業の時に岡野がぼそりと言っていたのを芳賀は覚えていたのだ。
『人の死んだ部屋は空気が重いんだよ。特に……首縊りはな。ある物件で、現場確認に行かされてさ。そのあとから、ずっと夢に出て来やがる。天井から吊り下げられた何かが揺れて軋む音が聞こえて来るんだよ……』
芳賀は冗談めかして聞いた。
『先輩、幽霊とか信じてるんですか?』
『信じる信じないじゃねぇ。あれは……多分、縊鬼って呼ばれてる怨霊だ。自分が死んだ痛みを他人に押しつけてくる。代わりが欲しいんだ。ああいうのに目をつけられたら、いくら逃げても無駄だ』
岡野はその数ヶ月後、会社を辞めた。理由は言わなかった。ただ、夕方以降の一人での外回りを酷く嫌がるようになり、次第に覇気を失くしていったのを心配していた覚えがある。
──真奈美と別れてからも、芳賀はその言葉がどうしても頭から離れないままに事務所に戻ったのだった。
そんな事を一日中考えていたせいか、芳賀はその晩にひどい悪夢を見た。真っ暗な部屋の天井近くで、誰かが揺れている。何度も、何度も、ゆらゆらと。その誰かが突然クルリと回転し、顔が露わになり──
目覚めた時、羽賀の額は汗でびっしょりだった。
縊鬼が自分を見ている気がする。岡野の言ったことが現実味を帯びてくる。気の所為なのかもしれないが……部屋に入り、夢を見てから首に縄がかかっているような妙な感覚があった。
岡野は言っていた。
『──ああいうのに目をつけられたら、いくら逃げても無駄だ。……そういう時は、酒持ってって頭下げて許しを請え。何時間でも帰れって言われるまでしつこくだ。そんで自分の代わりを差し出せ』
羽賀は決断した──誰かに、住んでもらうしかないと。すぐに不動産仲介に強い営業と連絡を取った。
「……早速で悪いけど、確か夫婦で探してるっていう客がいたよな。駅近で家賃抑えめ希望の。……ああ、築森の609号、ちょうど空いた」
電話越しの声が明るい調子で答える。条件には合うけど、事故物件ってのは伏せとく感じで? という声が聞こえた。
「……もう三年経ってる。告知義務はない。内部資料にはそう書いておいてくれ。それと一度、紹介の為に来店するよう言ってくれ」
羽賀は静かに受話器を置いた。心に残るのは、微かな罪悪感と助かるかもしれないという希望。
──己の命には代えられない。そう、芳賀は自分に言い聞かせた。
昼過ぎ、ふと思い立ったように羽賀はロッカーからファイルを取り出した。退職した先輩、岡野が残していった資料だ。羽賀は以前、この築森の事故物件について尋ねたことがあった。そのとき、岡野はあまり多くを語らなかったが、こんな言葉を残した。
『あの部屋はな……誰かが引き継いでいくもんなんだろうよ』
意味が分からなかった。しかし、今は理解できる気がした。古い資料を読んでいると岡野が残したメモが挟まっており、こんな走り書きがあった。
『縊鬼は自分が生まれ変わるために、誰かに縊死を引き継がせている。──そう思ってた。でも違った。縊鬼は邪悪だった。縊死を愉しんでいる……あの部屋を通じて、憐れな贄を探している。目をつけられたら終わりだ。俺たちが縊鬼から逃れるには──誰かにその部屋を紹介し続けるしかない。このメモを見てる誰か覚えておけ。あの部屋には絶対に近づくな』
羽賀は震えた手でメモを握りしめた。
すでに自分は目をつけられている。あの夢に、首の違和感。それは『贄の対象』であるという印。もしかしたら岡野も──。
仲介の営業からはすぐに連絡があった。曰く、本日中に来店したいと。好条件の部屋は競争が激しい。モタモタしていたら、すぐに埋まってしまうとでも考えたのかもしれない。
来店する予定の夫婦は何も知らない。
羽賀は無表情のまま、ファイルを閉じた。それから、朗らかな笑顔の練習をする──この部屋は、駅にも近く、静かで、築浅のマンションです。最近空いたばかりで、おすすめですよ。
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