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覚醒剤編

第4話 ロミオとアライグマ

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 弊社から目と鼻の先に建つ雑居ビルの一室。
 そのキャバクラの重いドアを押し開けて中に入ると、私は後ろを振り返った。
「ここなら人に聞かれては困るような悪い話もできますよ」
「悪い話なんてないぞ」
 油断なく周囲を見回しながら、先﨑さんは私のあとについてキャバクラに入ってきた。
「ここは一体なんだ。普通のキャバクラじゃないみたいだが」
 先﨑さんは数歩店内に入ったところで足をとめた。キャッシャー横の壁にある痕跡に気づいたのだろう。何かが壁に貼られていた跡……風俗営業許可証が掲示されていた跡を見つめている。
「ここは空きキャバクラです。賃貸契約が解除された後、まだ次の借り手が見つかっていないお店ですよ。こういうところは鍵は開けっぱなしなんで、ちょっと休憩したいときとか、警察に持っていく書類を修正したいときとかは、私は会社に戻らないで空きキャバにこもることにしてるんです」
 軽い金属音とともに、室内が真っ暗になった。開けっ放し防止のドアクローザーの働きにより、ドアが閉まったせいだ。室内には窓がないから、玄関のドアが閉まれば暗闇に閉ざされてしまう。そうなることを見越して既にブレーカーの位置に移動していた私は、電源を入れて部屋の照明をつけた。
「おっと」
 営業用のムーディーな照明になってしまったので、操作用ボタンをいじって昼用の照明に変える。白色光によって、客室内の様子がくっきりと浮かび上がった。接客時の配置のままソファとテーブル、パーテーションが並んでいる。テーブルの上には、吸い殻の入った灰皿やグラスも残されていた。誰かが鼻でもかんだのか、丸まったティッシュまでそのままだ。
「まるで夜逃げした後みたいだな」
 先﨑さんは客室に足を踏みれ、物珍しそうにあちこち見て回っている。
「そうですね。廃業した人は片付もしないでそのままいなくなることが多いです。それこそまるで夜逃げしたみたいに」
「へえ……」
 まるで営業中のキャバクラからキャバ嬢と黒服と客だけが忽然と消え失せたかのよう。賑やかだった夜の痕跡だけが残された店内には、もの悲しさすら漂っていた。

 出入り口のドアを施錠してから、本題を切り出した。
「で、それはそうと先﨑さんは、なんでそんな奇妙な格好をしているんですか」
「……俺、奇妙か?」
 先﨑さんは眉根を寄せて、自分の衣類に手をやった。真新しいスポーティーなジャージ、真新しいジョギング用スニーカー、真新しいキャップに、真新しいスポーツ用サングラス。まったく、どうかしている。
「それって変装のつもりなんですよね?」
「ああ。黒服が休日に盛り場をジョギングをしているというイメージだ」
 もうそこから間違っている気がする。
「黒服は休日に盛り場をジョギングしません」
 これは私の偏見だろうか。いや、でも、見たことないし。
「いや、するだろ。俺は見たことがあるぞ」
 ううん……? そんなはずはない……いや、言われてみれば、確かに柳マスターはジョギングしていたっけ。あの人は黒服ではなくてキャバクラのオーナーだけど。あとうちの社長もやってたな、盛り場ジョギング。でも黒服じゃなくて不動産屋だけど。
「あの人たちは変わってるから参考にならないですよ……。あと、何ですか、そのオール新品の衣類は。ここは盛り場、新陶ですよ。刑事の変装を警戒している人間が集まる世界なんですよ。そんなにぴかぴかで揃えていたら、日ごろジョギングなんかしてない警察官が変装のために買ったんだってバレバレです。せめて何回か洗濯して、使用感を出してから着ましょうよ」
「そう……か……」
 予想外なことに何も反論してこなかった。
 いつも勝ち気で強気で完璧って感じでふんぞり返っていて上から目線で私に暴言を吐く先﨑さんがしおらしくしているのを見て、私は自分でもよくわからない感情に襲われていた。先﨑さん、なんだか叱られた柴犬みたいだ。ジャーキーをあげたい。
「先﨑さんって風営法関係は署内随一の敏腕なのに、こういうのは苦手だったんですね」
「……うるさい」
 顔を逸らして小声でそんなこと言われても。自分でも苦手だと認識しているのだろうか。スーツ姿のときの傍若無人ぶりが嘘のようだ。

 実を言うと、私は常日ごろ、警察に対して不満に思うことがあった。それは先﨑さんが不在時に生活安全課に行ったら、「今日は先﨑がいないから難しいことを相談されてもよくわからねえんだわ。またあした来てよ」と、ほかの署員から追い返されてしまうことだ。おかげで仕事は滞るし、警察署へ出かけた時間もバス代も無駄になるし本当に困るのだ。しかし、これからは翌日まで待たされても、その間に先﨑さんはどこかで下手な変装でもしてるんだろうと思えば、寛大な心で許せるような気がしないでもない。

「ええっと、それで、変装をしているっていうことは内偵中ってことなんですよね。つまり事件なんですよね。何があったか教えてくれませんか。ユウゲキとしてもこの街で起こっていることを把握しておきたいので」
「……」
「事情を教えてくださるのなら、うちが協力できることもあるかもしれませんよ」
 先﨑さんは、ちょっとためらう様子を見せたが、キャップを取って髪をかき上げると、声をひそめて話し始めた。
「違法薬物の売人が新陶に出入りしていることがわかった。俺はそいつを内偵中だ」
「違法薬物っていうと……? いろいろあると思うんですが」
「覚せい剤だ」
「ああ、つまりマル暴関係ですか」
「……」
 先﨑さんの口は重い。
「巳一会ですか」
 あのイケオジが絡んでいるのだろうか。そうじゃないといいのだが。私はどうも恨みを買ってしまったようだし、今後はなるべく関わりたくない。しかし、先﨑さんは質問を否定してはくれなかった。うむむ。嫌な感じだ。私はさらに質問を重ねた。
「先﨑さんは刑事じゃないのに内偵をしている……ということは、新陶の事情を知っている署員向きの事件ということになるのでしょうか」
「……これ以上は無理だ。言えない」
「わかりました」
 警察組織の人間だから、何かと制限もあるのだろう。問い詰めたって煙たがられるだけだから、引くときは引かなければ警察とはうまく付き合えない。
「じゃあ、しばらくの間、街中で先﨑さんを見かけても無視するほうがいいんですね」
 軽い気持ちで確認しただけだったのに、先﨑さんは予想外なことを言い出した。
「しばらくの間だけじゃない、ずっとだ。薬の売人を逮捕できた後も、その後もずっと話しかけてくるな」
「なんで!?」
 先﨑さんがキャップを被りなおすと、目元が影が落ちた。
「俺たちは利害関係者だからな」
「利害関係者……って何ですか」
「樋元は警察にキャバクラの許可をもらう立場、俺は許可を与える立場。そういうのを利害関係者といって、職員倫理規定で親しくすることが禁じられてる」
 そんなの初耳である。
「え、知らなかったです。でも、なんで親しくしたらダメなんですか」
「親しい相手には便宜を図りたくなるのが人情だろうが。利害関係者との交友は、不正の温床になる」
「なるほど、そういうことでしたか。あっ、これってアレですね、禁じられた関係……ロミオとジュリエットみたいですね」
 ちょっとふざけてそう言っただけなのに、先﨑さんは顎を上げて、かっと目を見開いた。
「誰がジュリエットだ、ロミオとアライグマだろうが」
「私がアライグマ……」
「ああ、アライグマは凶暴らしいからな」
「でもご自分のことはロミオって言っちゃうんですね……」
 きょうはいつもより大人しいかと思ったけど、やっぱり先﨑さんは先﨑さんだった。
「そういうわけだから、俺とは仲良くなろうと思うな。諦めてくれ」
「むむ」
 何だろう、この感じの悪い言い方は。まるで私が先﨑さんと仲良くなりたがっているみたいに……。そうだ。良い機会だし、ちょっとからかってやろう。いつものお返しだ。
 私はわざと泣きそうな顔をつくって、先﨑さんの瞳をじっと見上げた。
「本当に……先﨑さんのこと、諦めなきゃだめですか……?」
 なんつってなー、と笑おうとして、息をのんだ。
 先﨑さんは、はっとするほど悲しげな顔をしたのだ。
「悪い……。でも、俺はどうしても刑事になりたい。だから倫理規定を破るわけにはいかない」
「えっ、えっと……」
 どうしよう、冗談だって言うタイミングを逃してしまった。これでは私がフラれたみたいではないか。
「いや、あの、刑事ね、うん、目標があるのは良いことですよね。刑事になるには試験で合格しないといけないんでしたっけ? 大変そう! 試験勉強頑張ってください! それじゃ!」
 私はそう早口で一気に言い終えると、空きキャバから逃げ出した。


 雑居ビルの階段を駆け下りながら、先﨑さんって、私が思うよりずっとまじめな人なのかもしれないなと胸の奥で考えた。だって、本当に申しわけなさそうな顔をしていたのだ。少々天狗になっているというか自信満々すぎてムカツクところもあるけれど、きっと根は優しいんだろう。
 つまり、多分、刑事には向いていない。
「現場で足を動かす仕事より、署にいて頭を使う仕事のほうが向いてそうなんだけどなあ」
 しかし、本人のやりたい仕事と向いている仕事が違うなんていうのは、よくある話である。よくありすぎて、ほとんどの人がそうなんじゃないかとすら思う。
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