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覚醒剤編

第5話 初雪

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 空きキャバのあるビルを出ると、小雪がちらついていた。細かい綿雪が、灰色の街にふわりふわりと舞っている。
「うわあ……初雪だ」
 すぐ近くに酒屋の配達車が止まり、車から降りたドライバーが「さむさむ」と首をすくめながら酒瓶のケースを運び始めた。それを見て、私もなんとなく首をすくめて「さむっ」とつぶやく。

 さて。では仕切り直しだ。
 あらためてキャバクラにお家賃滞納の理由を聞きにいこう。


「滞納の理由? 話してもいいけど……」
 ここは先週滞納したキャバクラ「美音みおん」の店内だ。一般的なキャバクラより高級路線なので、クラブと呼んだほうが良いかもしれない。店の内装や立地自体はそれほど変わったところはないのだが、ここのホステスは大卒以上でなければ雇ってもらえないという噂である。もちろん嘘というか、ただの宣伝文句であろう。しかし、そんな噂がたつほど知的なトークのできる女性をそろえた店であることは確かだ。客もお金持ちや社会的地位の高い人ばかりでトラブルも少ない。いわゆる「客の筋がいい」店である。
 そんな店が滞納するのだから、よほどのことがあったのに違いない。
 店長さんに話を聞こうと思って訪れたのだが、タイミング悪く黒服が掃除機をかけている最中だった。
「え? 済みません、聞こえなかったのでもう一度お願いしてもいいですか」
 店長さんは鯉みたいに大きな口をぱくぱくと動かしたが、聞こえるのはアメリカから輸入したとかいうハイパワー掃除機の吸引音だけである。店長さんは頭をかくと、私に軽く手招きしてから客室を出ていった。ついていくと、店長さんは進んだ通路の先でドアを開けて、再度手招きした。
 中に入ると、そこはとても小さな部屋だった。二人掛けのソファが三つ、ミニテーブルが一つあるだけだ。
 ドアを閉めると、もう掃除機の音は聞こえなくなった。
「ここってVIPルームですか。客室使用の許可がおりるかどうかギリギリの狭さじゃないですか?」
 風営法では、あまりに狭い部屋は客室利用ができないことになっている。狭い客室は実質「個室」としての利用となるため、違法なエロいサービスを提供するおそれが出てくるからだ。店で働く女性たちが売春を強要させられるような事態にもなりかねない。
「そんなに狭くないでしょ」
 店長は曖昧に言葉を濁した。なるほどクロだな。無許可利用だ。
「自己責任ですからね」
「わかってるって」
 営業利用不可の部屋には客を入れることはできないので、物置や更衣室などに利用するしかない。その点は賃貸契約時にうちからも注意しておくのだが、小部屋を無断でVIPルームに転用してしまうキャバクラ店は多かった。その場合、もし警察に見つかって営業停止を食らっても自己責任だし、営業停止期間中もきっちり家賃は払っていただく。

 お客様が自己責任で何をしようと、弊社は基本的に口出しはしない。

 もちろん小部屋を使って違法な性サービスを提供しているというのであれば話は別で、そこまで道を踏み外しているのならばしっかり警察にチクる。ただ、あくまでもVIPルームとして使うだけなのであれば黙認状態だった。なんでも世の中にはキャバクラで内緒話をしたいオジサンというのが存在するらしいのだ。たとえば官僚とか政治家とか弁護士とか? そういう人たちはキャバクラじゃなくて、ドラマに出てくるような高級料亭に行けばいいのにと私なんかは思ってしまうのだが、オジサンたちにもいろいろ事情があるようだ。需要があるのなら、それに応えるのが夜の街というものである。新陶の大抵の店はVIPルームを備えている。それなのにユウゲキ不動産が仲介した店だけVIPルームがないというのも営業に不利すぎるから、うちとしては見ざる言わざる聞かざるであった。

 私は店長さんとはす向かいに座るようにして、VIPルームのソファに腰掛けた。
「それで滞納の理由が知りたいんだっけ?」
「はい。最近、滞納するお店が急増しているんです。新陶の街全体で何か異変が起きているのかと思いまして。それで失礼な話になってしまうのですけれども、クラブ美音さんは先週と先々週、2週連続でお家賃の振り込み忘れがありましたよね。その事情を教えていただけないでしょうか」
 座ることによりスーツの腹部がぱんぱんに膨らんだ店長さんは、腕を組んで顎を引いたことにより、さらにふくよかな印象になった。
「うちは、このところ資金繰りが厳しくてね」
「それはなぜ?」
「お客様を一部断ってるんだよ。おかげで売り上げが落ちてんの。まあ、それだけじゃないんだけど……」
 そのとき、黒服が銀の盆を手に持ち、部屋に入ってきて、お茶を私の前に置いてくれた。陶器の湯飲みに入ったお茶だ。私は思わず感嘆の声をあげてしまった。
「キャバクラなのに湯飲みがあるのすごい!」
「いや普通でしょ。出前の寿司を店内でオーダーするお客さんって結構いるし、どこも湯飲みと醤油ぐらいは置いてんじゃないかな」
  店長が当たり前だと言わんばかりの顔で説明してくれた。
「へえ、そうなんですね。私毎日のようにキャバクラに通っていますが、夜のキャバクラのことはよく知らなくて」
 煎茶からは湯気が立ち上っている。私は黒服に礼を述べてから湯飲みを手に取った。
「外、見ました? 今雪が降ってるんですよ。あったかい飲み物、嬉しいです」
 にこりと営業スマイルを返事がわりにして、黒服は静かに部屋を出ていった。何も言わなかったのは、店長との話を邪魔しないようにとの気遣いに違いない。

 お茶を飲む私を眺めながら、店長は話を続けた。
「客を断るなんてしたくないけど、女の子が足らないからしょうがないわけよ。うちのキャストが次々と店を辞めてしまってさ。んで、慌てて新人を集めたけど使い物にならないっていうか、お姫様気取りの子が多くてまいっちまうよ。接客の心得がてんでないわけ。だから古株のキャストがフォローしないといけなくて、古株の不満もたまるし、黒服は古株の機嫌をとりつつ新人も教育しなきゃいけないだろ、それで臨時ボーナス出したりなんだりって、ちょっと金に余裕なくてね」
「そんな事情があったんですね」
 客が減ったせいではなくて、キャバ嬢が減ったせいというのは予想外だった。私は店長に頭を下げた。
「教えていただきありがとうございます」
「でも、まあ、それも今だけだからさ」
 妙に明るい声だ。頭を下げた状態のままで、顔だけ上げた。
「……と、いいますと?」
「もっと良い女の子をかき集めて、すぐに巻き返すって。まあ見ててよ」


 その後、幾つかキャバクラを回ってみたけれど、どこも似たような話だった。
 つまりキャバ嬢が仕事を辞めてしまったのが原因で、客を取れなくなり、店の売り上げが落ちたというのである。
 なぜキャバ嬢が辞めてしまったのか。それを知っている店長はいなかった。
「女の子なんてそんなもんでしょ。嫌になったり気が変わったりしたら、無責任にふらっといなくなる。わがままで自分勝手なんだよ」
 それは果たして女の子に限った話なのだろうか?
「でも、すぐに新しい子を補充するから心配いらないよ」
 女の子なんて消耗品なのだ。いなくなっても心配すらしない。
 ああ、やっぱり夜の世界というのは、あまりにも……あまりにも哀しかった。


 暗い気持ちで本日最後のキャバクラに向かった。
 店名は「Eyesアイズ」という。デザイナーズキャバクラとでもいうのだろうか、ちょっと内装がこっている店だ。床に小さな溝を作り、ガラスの小石を敷きつめて水を流し、人工の小川のようにしている。さらに小川に沿うようにして観葉植物がふんだんに飾り付けられ、癒やしの空間を演出、といったところだろうか。
 正直なところキャバクラに来るようなお客さんというのはキャバ嬢しか見ないと思うので、店に小川や緑のオアシスなんかつくっても意味がないような気もするが、内装を凝りたがるオーナーは案外多かった。それには理由がある。
 店を凝った造りにすることで高級感を出し、高級感を出すことで少々割高でも客は文句を言わないらしいのだ。安っぽい内装の店がビール1杯3000円だとぼったくりだと騒がれるが、ガラスの川が流れている店では「高そうな店だし、そんなもんか」と客が納得するのだという。それって本当だろうか?
 ああ、そういえば思い出したことがある。
 この店の改装時、警察に相談伺に行ったら、先﨑さんは即座に「許可」と判断をくだしたのだ。しかし、話を聞いていた他の職員が「店に川だって? 法律判断が難しい案件だから署だけで判断せず、県警本部に上げたほうがいい」と言い出し、本部の生活安全部のご判断をあおぐことになった。2週間も待たされたあげく、結果は「許可」だ。先﨑さんは、「だから言っただろう」とでも言いたげな顔で偉そうにしていた。

 威張っているのはアレだが、先﨑さんの判断は早くて正確だ。もし先﨑さんが刑事になってしまい、窓口からいなくなったら、ユウゲキ不動産としても仕事に支障を来すことだろう。

「刑事を目指すの、やめてくれないかなあ……」
 ただでさえ下がっていたテンションが、さらに下がってしまった。
 はあ。溜息まで出てしまう。
「こんにちは……。ユウゲキ不動産で……」
「うるせえ!」
 ドアの取っ手に手をかけたところで店内から聞こえてきた怒号に、思わず動きをとめた。女性の声のようだったけれど……。
「本当にとんでもないやつだな。おまえなんかクビだ!」
 今度は男性の声だ。何だろう、店内で喧嘩でもしているのだろうか。
「わかったよ、出ていってやるよ、こんな店、二度と来ねえから!」
 次の瞬間、私は吹っ飛ばされていた。
 脳みそがぐらぐらする感覚とともに視界が回転しながらだんだん暗くなっていく中、通路の窓枠に蜘蛛の巣を見つけて、ああ、あそこを掃除しておかなきゃ……と思ったのを最後に、意識を失った。
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