日蝕ただなかにありて

ゴオルド

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第六話

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 母は絵が描けないのだから、私も絵が苦手でなければならない。母にできないことを私ができるのは、母への冒涜であり裏切りであり反逆である。だから私は自分の記憶を操作した。私が得意なこと、好きなこと、欲しいものは全部母が教えてくれる。そのとおりにすれば、きっと母が私を愛してくれるはずだから。

 ああ、そうだった。私は「人に尽くすのが好き」というのも、母が教えてくれたんだった。自分を犠牲にしてでも、みんなのために尽くしたいと思っている。私は母の愚痴を聞くのが大好きで、人の愚痴を聞くのが大好きで、だから臨床心理士になりたかったのだ。
 もう一人の私が問いかけてくる。
(本当は違うんじゃないの?)
 母が笑って、もう一人の私をひねり潰す。
「仁美のことはお母さんが一番よくわかってるんだからね。仁美は何をやらせてもだめな子だから、お母さんのいうとおりにするのが一番いいの」

 突然泣き出してしまった。

 自分でもわけがわからない。目の前には作本先生もいるし、恥ずかしくてたまらなくて、でも涙がとまってくれなくて、消えてしまいたいような気持ちだった。

「さ、作本せんせ、すみ……すみませっ……」
 ソファの左側がゆっくりと沈むのを感じた。それとほぼ同時に背中を撫でてくれる手の感触。恥ずかしい。絶対引かれているのに違いない。いい年した大人なのに。鼻水も出てきた。もういっそ消えたい。ハンカチを渡された。タンポポの刺繍が入っている。作本先生は可愛いものが好きなのだという。以前こっそり見せてくれたが、先生のスマホケースはクマちゃんのイラスト入りだった。

「うう……」
 私はこの優しいタンポポを汚すことなんてできなくて、ハンカチを握りしめて、涙と鼻水よとまれと念じた。自己暗示法の一種だ。きっと効くはず。そう自分に暗示をかけた。

 しばらくして涙がひいて、恥ずかしさだけが残った。
 自分の膝を見つめながら、ひとりごとみたいに小声でしゃべる。
「私、絵が下手なんだって、ずっと思っていました。たくさんの人が褒めてくれていたのに、全部忘れていました。私は絵が苦手だと思い込んでいて、記憶まで改ざんしていたみたいです」
「そういうの、ちょっとわかります」
「え……」
 気まずさを誤魔化すための話で、だから、わかってもらえるなんて期待してなかったから、逆にびっくりして顔を上げてしまった。
 作本先生のほっぺたに、えくぼが浮かんでいた。
「最近、生徒たちにアンケートを取ったんですよ。そうしたら生徒の半数近くが「自分はスポーツが下手だ」っていうんです。でも、私が見た感じでは、本当にスポーツが下手な子は1割もいない。覚えの早い子と遅い子がいるだけなんです。下手だっていうのは、単なる思い込みなんだと思うんですよね」
「単なる思い込み……」

 目元をぬぐってから、先生の話について考えてみた。確かに生徒の中には自信がない、だめだと決めつけている生徒はいた。それも少なくない数が。

「テレビとかでも、最近の子はどうのこうのって悪く言いますからね。そういう情報に晒されて育った世代が自信をなくすのも当然なのかもしれないですね。でも記憶まで改ざんしちゃうなんてのはなあ。あんなに絵がうまいのに、どうしてそこまで強く思い込んじゃったんですかね」

「私の場合は母の影響が大きいと思います」
 もういまさら取り繕っても意味がない気がして、正直に話した。

「親って子供にとっては神様みたいなもんですもんね、良くも悪くも」
「ええ、本当に。もしかしたらスポーツも同じかもしれませんね。親がスポーツを好きか嫌いか、それが子供に影響を与えている可能性もあるのかも……。保護者にアンケート調査をしてみたら何かわかるかもしれません」

 このとき私は大規模なアンケート調査を想定して話をしていた。どれぐらいの人数からデータを取れば正確なことがわかるだろう。計算しないとはっきりしたことは言えないが、二千人分ぐらいあれば何とかなるかな。いや、もっと必要だろうか。アンケート調査なんて学部生のころにやったっきりで、すっかりやり方を忘れてしまった。

「七海先生」
「はい」
「そのアンケート調査、やってくれません?」
「は、はい。……はい?」

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