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第1部 第59話

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漸く、王都に帰って来たというのにどういう事よ!



あの方からは、『暫く、家で大人しくしておけ!』なんて書かれたカードが届いていた。



折角、王都に戻ったのに、楽しみにしていた社交は禁じられるし、何てこと!?



これでは、あの古びた田舎に居たのと変わらないじゃない。



あぁ、そうか、あの方は怒っているのね・・・予定通りに、お金が用意出来なかったことに!



本当に、もう!予定を狂わせたあの「平民議員」の連中のせいだわ!



いい迷惑よ!



それと、このじじい、一体、いつくたばるのかしら?



女は、目の前にいるジムラルを凝視する。



今、女とジムラルがいる部屋は、薄暗く、昼間なのに窓にはカーテンが引かれ、外の明かりを遮断されている。



おまけに、室内は荒らされたように散らかり、嫌な臭いまで漂っていた。



こんな部屋では、普通の感覚の人間なら暮らせないくらいの惨状である。



そんな部屋に、うつろな目をして、口は開け広げたままになり、また、その口からは常に唾液が垂れ、服装は何日も変えていないであろう下着姿のジムラルが床に座り、何かを呟いている。



「ぁぁ、ぅく・・・」



「ええ!何?もう、お前に飲ませる薬はないの!あの薬はお高いの!あんたには薬あげちゃあダメなんだってさ!いいかい、わかったかい?」



女は、うっとおしそうにジムラルを見つめながら、そう告げる。



本当に、汚らしい平民のじじいだわ。はあ、一時でも、こんなのを愛しているフリをしていたなんて、悍ましい。



女は、奥歯をギシリと噛み鳴らした。そして、「早く死ね!」と、ジムラルの額に手を置き押し倒す。



すると、女による少しの力で、ジムラルは後ろへ倒れこんでいったのだった。



ドスンと倒れたジムラルの姿を見てから、フンと鼻を鳴らして、女はその薄暗くて汚い部屋を出て行った。



女が部屋を出た所へ、タイミング良く、家の使用人が手紙を持ってやって来た。



「はァ、やっと来たのね・・遅いのよ!」



使用人から受け取った手紙に、女は目を走らせた後、くしゃりと手紙を握りつぶした。



「私、出かけるは、馬車の用意をお願い」



そう言って、女は自身の手元にある握りつぶした手紙を使用人へ渡して、これから出かける為に自室に向かって歩き出す。



気分は先程までと違い、心が弾み、鼻歌まで口ずさむほどに機嫌が良くなっていた。



「ウフフフ・・」



女の機嫌は最高潮のようで、馬車が用意されて乗り込む際にも鼻歌が奏でられている。



「客人を連れて帰るから、あの部屋のこと宜しくね」



馬車に乗り込む前に、女はそう、使用人へ告げたのだった。



その言葉に、使用人が無言のまま頭だけを下げて、女を見送った。



女の乗った馬車は、王都にある貴族街を離れて、平民街へと向かっていた。



馬車の窓から景色を見ながら、女はいつも思う。



貴族街と平民街の街並みは隣り合わせであっても、その実、全く違う世界だと。



「私は、こっちにはもう戻らないわ」



女は、平民街に来るたびに口にする。



そう、自分も少し前はこちら側の人間だったからだ。



思い出したくもない貧しい生活。



這いつくばりながら、生きていく生活だった。



あんな思いをするのはもうごめんだ!



自分は、素敵な方と巡り合い、その方のお陰で、自分の美しい姿に見合う地位を貰った。



私は、ここにいるような薄汚い奴らとは違い、貴族として向かい入れられたのだ。



自分の地位を守る為なら、何だってする。



あの方と、私以外はどうだっていい。



後の者は、皆他人で死んだって構わない。



私は生まれ変わったのよ。貴族の女としてね。



女はそう思いながら、にーっと口元を動かし、右端に笑窪を作る。



そんな彼女が向かった先は、平民街の中心地から外れた所にある賭博場だった。



「あの男、こんな状況なのに、まだ遊んいでるなんて、本当にイカレた男になったわねぇ」



女は、少し呆れながらも、これからの男の未来を思うと、ニタリと笑みが零れてきた。



馬車から降りて、賭博場の扉を潜る。



女は、ポーカーに興じる目当ての男を見つけると、ゆっくりと歩を進める。



「くそ!」



どうやら、セフィは、後少しのところで今しているポーカーで負けたようだ。



今日はこれで、三度目の負けである。



セフィは、自身が座る席のテーブルをトントン・・・と募るイライラを紛らわそうと指を打ち鳴らす。



そんなセフィの指を、女が軽く握り止めた。



「お前、まさかと思うけど、例のお金は使っていないでしょうねぇ?」



女がわざとらしく、セフィの顔を覗き込むように聞いて来た。



その行動で、漸く、セフィは女が訪れたことを知った。



「いえ、め、滅相もないです・・」



セフィは青い顔をして、首を横に数回振ってみせる。



「早く清算しなさいな。馬車を待たせているのよ」



女はセフィを睨みつけて、今日の賭博の清算を急いでさせるように促した。



そんなセフィを引き連れて、女は、待たせていた馬車へ再び戻って行ったのだった。



「今日は特別に、家に案内するわ。それと、ちょうどいいわ。ジムラルの様子も見せてあげるわ」



馬車に乗り込んだ時、女が満面の笑顔を向けて、セフィにそう説明する。



その女の顔を見ただけで、セフィは背中に冷や汗がたらりと落ちていくのだった。



女はそんなセフィの様子も気に止めることなく、また、機嫌が戻ったのか鼻歌が流れ出す。



そんな女は馬車の窓から外を眺めていた。



セフィには目もくれず、ただ、不穏なメロディを口ずさみながら。



セフィは、その光景を黙って見てはいるが、体はガタガタと震えだして止まらないでいる。



まるで、この馬車が地獄へと案内するかのように見えたからだった。

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