狐というものは実に怠け者である

彦彦炎

文字の大きさ
5 / 5

5話

しおりを挟む
 物置の扉の隙間から月明かりが差し込んでいた。
 そこにうずくまる光太の影は、小さく、やけに頼りなく見えた。

 狐というものは、本来ならここで見捨てるのが正しい。
 だが私は、気がつけばもう一歩も退けないところまで来ていた。

 ⸻

 翌日、店の仕込みをしながら、母に話した。

「昨日の客のことなんだけど……裏に匿ってる」
「……あんた、何を考えてるんだい」

 母はしばらく黙っていた。

「面倒事からは距離を置けって教えたはずだよ」
「わかってる。でも、一晩だけだ」
「狐は狐らしく生きなきゃいけない」
「……それでもだ」

 母は深くため息をつき、野菜を刻む手を止めた。

「……わかったよ。あんたの決めたことなら」
「ありがとう」
「でも一晩だけ。明日には出ていってもらいな」

 それが、母なりの優しさだと知っていた。

 ⸻

 夜になると、あの二人組が再びやってきた。

「やあ、兄ちゃん。また会ったねぇ」
 男たちはカウンターに腰を下ろし、笑いながらも目は笑っていない。

「今日は何を?」
「いや、飯はいらねえ。話だけだ」

 私は内心で小さく息を吐いた。

「光太を見なかったか?」
「昨日も言っただろう」
「そうかい。でも、こっちは急いでるんだわ」

 小さい方の男が、手元のコップを指で弾いた。
 中の水が震え、店の空気も一緒に張り詰めた。

 ⸻

「このままだと、妹にも何が起こるかわかんねえからな」

 その言葉に、私は微かに眉を動かした。

 狐というものは、家族を害されると本能的に牙を剥く。
 人間の妹じゃなくても、家族を守りたいという気持ちはわかる。

「何も知らないよ。本当に」
「そうかい……」
 男たちは立ち上がり、去り際に言った。

「今夜のうちにあのガキを見つける。見つけたらどうなるか、わかるだろ?」

 背中を見送りながら、私は無意識に奥歯を噛んでいた。

 ⸻

 閉店後、千歳と涼太を集めて話した。

「光太はもう出ていくしかない」
「でも、兄さん……」
 涼太の声は震えていた。

「出ていっても危ないでしょ?」と千歳。

「わかってる。でも、俺たちの店に置いておくのも危ない」
「兄さん……本当にそれでいいの?」
「狐は狐らしく生きる。それが母さんの教えだ」

 言いながら、自分の胸の奥で別の声が囁いていた。
『それでいいのか?』と。

 ⸻

 その夜、私は物置の扉を開けた。

 光太は膝を抱えて座っていた。

「……ありがとう。でも、もう行くよ」
「行く先は?」
「……わからない。でも、ここにいるわけにはいかない」

 私は小さく頷いた。

「わかった。じゃあ送っていく」

 ⸻

 夜の裏道を歩くと、月が雲に隠れていた。
 風が冷たく、葉擦れの音だけが耳に残る。

「怖いか?」
「……正直に言うと、すごく怖い」

 光太の声は小さかった。

 狐としての本能は、もうここで手を引けと叫んでいた。
 だが私はその声を無視した。

 ⸻

 曲がり角を抜けたとき、そこに男たちが立っていた。

「よお、兄ちゃん。ご苦労さんだな」

 笑いながらも目は冷たい。
 私は無意識に光太の前に立っていた。

「お前ら……」
「やっぱり匿ってたんだな」

 男たちはゆっくりと近づいてくる。

「どけよ、狐野郎」

 ⸻

 狐の尻尾は隠していても、本能までは隠せない。

 私は小さく息を吸い込み、静かに言った。

「……いやだね」

 男たちは顔をしかめた。

「何だと?」
「いやだと言ったんだ。俺は怠け者の狐だが、ここで黙っては引かない」

 狐らしくない、とは自分でも思った。
 けれど、その夜だけは尻尾が勝手に動いていた。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

処理中です...