森蘭丸 ~天下人に愛された美少年~

ましゅまろ

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第1章:春風、若木を揺らす

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永禄八年(1565年)──美濃国、可児郡。

早春の山あいには、まだ雪の名残が見え隠れしていたが、里には梅の香が漂い、寒空にほころぶ白花が季節の移ろいを告げていた。

森家の屋敷には、朝から人の気配が絶えなかった。奥の産屋からは、女たちの慌ただしい声が漏れ、男たちは廊下を行き来しながら静かに時を待った。

やがて、産婆の叫ぶような声が響いた。

「男子でございます!」

瞬間、張り詰めていた空気がふわりとほどけ、喜びの気配が家中に満ちた。

屋敷の主である**森可成(もり よしなり)**は、眉を和らげ、妻と産まれた子を見舞うため、足音も静かに産屋へと向かった。

布に包まれた赤子は、小さな胸を懸命に上下させながら、かすれた泣き声をあげていた。その顔はまだ赤く、頼りなげではあったが、額は広く、眼元にはどこか気品が宿っていた。

「この子の名は、**成利(なりとし)**としよう。森家の名を継ぐ花となれ」

その名は、武家の男子として相応しい、凛とした響きを持っていた。
だがその数年後、屋敷の者たちはこっそりと、別の名でこの子を呼ぶようになる。

「蘭の花のように清らかで、見る者の心を和ませる子だ……」

そう言ったのは、母・妙向尼の侍女だった。
その名はやがて、家人たちの間に広がり、**「蘭丸」**という呼び名が自然と根付いていった。

本名ではなく、通称として。
けれどそれは、家族と家臣たちが彼を愛してやまぬ証だった。

彼自身も、その名に誇りを抱いていた。




蘭丸が物心ついた頃、家中では既に彼の容姿と振る舞いが話題になっていた。

春の光を受けて外で遊ぶ蘭丸は、風になびく黒髪と、透き通るような肌を持ち、走れば影すら踊るようだった。着物の袖をまくり上げ、兄たちと竹刀を振る姿も、どこか軽やかで、周囲の者がふと見惚れるほどであった。

その瞳には無垢と聡明が同居し、笑えば庭に咲いた草花もそれに応じるようだった。

「若君はまるで、天女に仕える童子のようじゃ…」

と、老女が囁いた言葉は、あながち大袈裟ではなかった。

だが、それほどまでに可憐な容姿を持ちながら、蘭丸は決して女の子のような柔らかさだけではなかった。

竹刀を握るときの構えは正しく、兄に打たれても泣かずに立ち上がった。手習いでは筆の運びが美しく、父の前での立ち居振る舞いには気品すらあった。

母はその姿を見て、「この子は、男のまま美しくあれ」と、胸の奥で祈ったという。



蘭丸が十歳の春、父・可成の命により、京へと上がることが決まった。

当時、兄・森長可(ながよし)は既に織田信長に仕えており、蘭丸もその縁によって、織田家への小姓見習いとして召されることとなったのである。

別れの日、母は涙を見せまいと背を向けた。蘭丸はその背に向かって、深く頭を下げた。

「母上。必ずや恥じぬ男となって戻ります」

その声はまだ幼さを残していたが、不思議と家人の胸に残る響きがあった。

このとき誰もが知らなかった。蘭丸の名が、のちに「忠義の象徴」として後世に語られることになることを──

そして、覇王・織田信長と、運命の炎に包まれるまでの、静かな序章にすぎなかったことを。
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