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第三章 交差
第二節 月の門
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グレイインは朝日に光るコバルトブルーの海を飛びながら、連綿と連なる積雲を下に眺めている。
進行方向は、北の空に霞む赤い月だ。
僕は計測に使った六分儀を箱にしまうと、時計と計算尺で計算を始めた。
精密金属加工品とガラス加工品は数少ない魔界から人間界への輸出品だ。
東京ではGPSとコンピュータに追われて見る事も無くなってしまったそれらを、アンテ城でイルトラの実家から来たセモイ商会の店員に見せて貰って僕は感動した。
「とても高く遠くにあって月まで届きそうに無い」
そう言った後、僕は強く咳込んで姿勢を崩した。
「気をつけて、とても苦しいから」
レンは僕の腕を強く掴むと、鞍まで引き戻した。ここから海面に落ちても今の僕は死なない。中々に苦しいだろう。把踏桿に足を押しつけると、両手で襟巻を巻き直した。
襟巻は防寒というよりは、口の中を潤すマスクの役割をしている。
「有難う」
「私も月を通して世界の間を飛び越えた事は無い」
月の門という世界の転移方法は、預言(≠予言)形式で書かれた古文書に記載があるものだ。
しかしながら門の鍵は魔王と勇者の存在であるので、明らかに今まで一度も使われた事は無い。
月がただの天体では無いのは明らかだ。互いに東西の空から登っていた二つの月は、僕が世界の滅びを確定させた瞬間に大きさを逆転させた。
それだけでは無く、今では緑の月は赤い月の周りを公転し、あまつさえ、満ち欠けさえ不規則になってしまった(もっともこれは赤い月が緑の月を照らしている事で説明できる)
とはいえ、月を通って二つの世界を行き来出来るとする預言の内容は直感に反する。〈月の門を開く〉という表現があり、〈月を手元に引き寄せる〉とも記載されているので、何らかの発動条件が推察された。
「レン、高さが足りないのかい」
「グレイインはこれ以上高く飛べない」
「ならば、世界の端まで行くしか無いか」
初めての試みなので、月の門を開くための条件を列挙して試行のスケジュールを立ててある。高さだけで条件を満たさないのならば月に近付くのだ。
「グレイイン、エンテロンに向かって」
やはり不安そうに目を向けるグレイインに、レンは針路を示す。
グレイインには聞こえていないが、指差しの方向で分かる。
「今年は誰かさんのおかげでエンテロンの離宮に行けなかった」
レンが、恨めしそうに僕に話題を振る。
エンテロンは魔界の北の端で、夏の離宮がある。人間同盟とハプタ王家の魔界侵攻が無ければ、レンは今年もそこに行く予定だったのだ。
「僕も夏休みが欲しい」
「エンテロンまで行って、一度で月を飛び越せなかったら数日休みましょう」
上空で凍えながら避暑地の話をするのは皮肉が効いているが、夏休みの話は非常に魅力的だった。僕が過労死してこの世界に転生した後、今まで二年間(本当は三年間だが)まともな休みは一度も無かった。
「綺亜、交代で寝よう。何かあったら起こしてあげる」
「レン、ありがとう」
僕はレンの腰に腕を回し、背中に顔をつける。
「綺亜、すぐに終わる。そうしたら、千年間休ませてあげる」
「うん」
高度四千メートル上空で飛竜とレンにしがみ付きながら、僕は仮眠を取った。慢性的な危機的状況が僕の順応能力を高めている。
それでも僕は安住の地を見つけたのだ。僕は世界の滅びに立ち会う役割を自らに課した。
世界が滅びるその日まで千年間、僕はレンの隣で過ごす。それでいい、それで気が休まると思ったから僕は全てを捨てた。
◇◇◇
「綺亜、起きて。月が開いた」
「あまり寝た気がしない。レンどれくらい時間が経ったんだい」
レンの温かい背中から胸と顔を引き剥がす。上空の冷たい空気を一度に吸い込むと、咳込んでしまうので押し殺したように欠伸をする。
「小一時間ほど」
レンが自分の時計を確認する。
「月が……」
レンの背中越しに見える赤い月が、中心部に暗部を含んだ円盤に変形していた。そしてグレイインの接近に応じて大きさがどんどん拡大している。
月は十万年紀の間、天体を装ってきたけれども、預言書通り巨大な魔方陣だったのだ。
「結局、門を開く条件が分からなかった」
起きていたレンが申し訳なさそうに謝る。
僕は六分儀を取り出して赤い月の見かけの大きさを計測した。
グレイインの巡航速度を時速九十キロとして、赤い月の拡大傾向を計算すると、魔方陣は前方十キロメートルほどの位置に、半径五百メートルほどの大きさで存在している事になる。
巨大である事には変わらないが、天体には程遠い。
「本当に魔方陣による天球儀なんだ。おそらく緑の月もヘリオトスから遠く離れていない」
「それでも月を抜けた場所次第という事ね」
人間界は、永続性を失う前の段階で全周一万九千キロメートルの球と推定されている。魔王と勇者の事を知っているのはヘリオトス周辺だけとはいえ、人間界の反対側に出たらカイラル山に行くだけで一苦労だ。
グレイインは針路を逸らさずに赤い魔方陣に直進していたが、不安なのか度々レンに視線を向ける。
「グレイイン、どうしたの?」
グレイインが喋って何かを訴えかけるが、風斬り音で良く聞こえない。
「レン、僕たちは加速している」
六分儀で測るまでも無く、赤い月に急速に近付いている。
「赤い月に引き込まれているの?」
「レン、掴まって!」
レンの把踏桿を掴んで、彼女を体と鞍の間に挟み込む。瞬間予想とは逆に重力が失われた。
「まさか、真空? いや、違うか」
「グレイイン! グレイイン!」
レンは僕の左手をしっかりと握って、飛龍の名を何度も呼ぶ。
赤い月の中は明るさが全く無い暗黒の世界だった。幸いにも空気はあるようだ。
「レン、緑の月が見える」
僕は真っ暗な虚空の果てを指差す。
「行くしかなさそうね。グレイイン落ち着いて」
グレイインは一際高い咆哮を挙げると、大きな翼を折り畳み尾で自転を止めた。
「グレイイン、そう、緑の月に向かって」
これだけ静かな世界だと、レンの声もグレイインに届いているかもしれない。
小さく首を傾げると、巨大な飛竜は真っ直ぐ緑の月に落ちていった。
進行方向は、北の空に霞む赤い月だ。
僕は計測に使った六分儀を箱にしまうと、時計と計算尺で計算を始めた。
精密金属加工品とガラス加工品は数少ない魔界から人間界への輸出品だ。
東京ではGPSとコンピュータに追われて見る事も無くなってしまったそれらを、アンテ城でイルトラの実家から来たセモイ商会の店員に見せて貰って僕は感動した。
「とても高く遠くにあって月まで届きそうに無い」
そう言った後、僕は強く咳込んで姿勢を崩した。
「気をつけて、とても苦しいから」
レンは僕の腕を強く掴むと、鞍まで引き戻した。ここから海面に落ちても今の僕は死なない。中々に苦しいだろう。把踏桿に足を押しつけると、両手で襟巻を巻き直した。
襟巻は防寒というよりは、口の中を潤すマスクの役割をしている。
「有難う」
「私も月を通して世界の間を飛び越えた事は無い」
月の門という世界の転移方法は、預言(≠予言)形式で書かれた古文書に記載があるものだ。
しかしながら門の鍵は魔王と勇者の存在であるので、明らかに今まで一度も使われた事は無い。
月がただの天体では無いのは明らかだ。互いに東西の空から登っていた二つの月は、僕が世界の滅びを確定させた瞬間に大きさを逆転させた。
それだけでは無く、今では緑の月は赤い月の周りを公転し、あまつさえ、満ち欠けさえ不規則になってしまった(もっともこれは赤い月が緑の月を照らしている事で説明できる)
とはいえ、月を通って二つの世界を行き来出来るとする預言の内容は直感に反する。〈月の門を開く〉という表現があり、〈月を手元に引き寄せる〉とも記載されているので、何らかの発動条件が推察された。
「レン、高さが足りないのかい」
「グレイインはこれ以上高く飛べない」
「ならば、世界の端まで行くしか無いか」
初めての試みなので、月の門を開くための条件を列挙して試行のスケジュールを立ててある。高さだけで条件を満たさないのならば月に近付くのだ。
「グレイイン、エンテロンに向かって」
やはり不安そうに目を向けるグレイインに、レンは針路を示す。
グレイインには聞こえていないが、指差しの方向で分かる。
「今年は誰かさんのおかげでエンテロンの離宮に行けなかった」
レンが、恨めしそうに僕に話題を振る。
エンテロンは魔界の北の端で、夏の離宮がある。人間同盟とハプタ王家の魔界侵攻が無ければ、レンは今年もそこに行く予定だったのだ。
「僕も夏休みが欲しい」
「エンテロンまで行って、一度で月を飛び越せなかったら数日休みましょう」
上空で凍えながら避暑地の話をするのは皮肉が効いているが、夏休みの話は非常に魅力的だった。僕が過労死してこの世界に転生した後、今まで二年間(本当は三年間だが)まともな休みは一度も無かった。
「綺亜、交代で寝よう。何かあったら起こしてあげる」
「レン、ありがとう」
僕はレンの腰に腕を回し、背中に顔をつける。
「綺亜、すぐに終わる。そうしたら、千年間休ませてあげる」
「うん」
高度四千メートル上空で飛竜とレンにしがみ付きながら、僕は仮眠を取った。慢性的な危機的状況が僕の順応能力を高めている。
それでも僕は安住の地を見つけたのだ。僕は世界の滅びに立ち会う役割を自らに課した。
世界が滅びるその日まで千年間、僕はレンの隣で過ごす。それでいい、それで気が休まると思ったから僕は全てを捨てた。
◇◇◇
「綺亜、起きて。月が開いた」
「あまり寝た気がしない。レンどれくらい時間が経ったんだい」
レンの温かい背中から胸と顔を引き剥がす。上空の冷たい空気を一度に吸い込むと、咳込んでしまうので押し殺したように欠伸をする。
「小一時間ほど」
レンが自分の時計を確認する。
「月が……」
レンの背中越しに見える赤い月が、中心部に暗部を含んだ円盤に変形していた。そしてグレイインの接近に応じて大きさがどんどん拡大している。
月は十万年紀の間、天体を装ってきたけれども、預言書通り巨大な魔方陣だったのだ。
「結局、門を開く条件が分からなかった」
起きていたレンが申し訳なさそうに謝る。
僕は六分儀を取り出して赤い月の見かけの大きさを計測した。
グレイインの巡航速度を時速九十キロとして、赤い月の拡大傾向を計算すると、魔方陣は前方十キロメートルほどの位置に、半径五百メートルほどの大きさで存在している事になる。
巨大である事には変わらないが、天体には程遠い。
「本当に魔方陣による天球儀なんだ。おそらく緑の月もヘリオトスから遠く離れていない」
「それでも月を抜けた場所次第という事ね」
人間界は、永続性を失う前の段階で全周一万九千キロメートルの球と推定されている。魔王と勇者の事を知っているのはヘリオトス周辺だけとはいえ、人間界の反対側に出たらカイラル山に行くだけで一苦労だ。
グレイインは針路を逸らさずに赤い魔方陣に直進していたが、不安なのか度々レンに視線を向ける。
「グレイイン、どうしたの?」
グレイインが喋って何かを訴えかけるが、風斬り音で良く聞こえない。
「レン、僕たちは加速している」
六分儀で測るまでも無く、赤い月に急速に近付いている。
「赤い月に引き込まれているの?」
「レン、掴まって!」
レンの把踏桿を掴んで、彼女を体と鞍の間に挟み込む。瞬間予想とは逆に重力が失われた。
「まさか、真空? いや、違うか」
「グレイイン! グレイイン!」
レンは僕の左手をしっかりと握って、飛龍の名を何度も呼ぶ。
赤い月の中は明るさが全く無い暗黒の世界だった。幸いにも空気はあるようだ。
「レン、緑の月が見える」
僕は真っ暗な虚空の果てを指差す。
「行くしかなさそうね。グレイイン落ち着いて」
グレイインは一際高い咆哮を挙げると、大きな翼を折り畳み尾で自転を止めた。
「グレイイン、そう、緑の月に向かって」
これだけ静かな世界だと、レンの声もグレイインに届いているかもしれない。
小さく首を傾げると、巨大な飛竜は真っ直ぐ緑の月に落ちていった。
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