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第一章 腐蝕の魔女イデア
20話 腐蝕の魔女
「翔、目を覚まして」
耳の奥で水音が遠ざかる。
翔はゆっくりと瞼を開いた。だが、光が歪み、視界が焦点を結ばない。
それでも、ルークの声を認めた瞬間、肺が息を求めるように跳ね、荒い呼吸が戻った。
「かはっ……はぁっ……う、うぁ……た、助かった、のか……?」
掠れた声。
翔の指先が、ルークの胸を掴む。その温もりが、確かに生を感じさせた。
「……うん、なんとかね。無事でよかった」
「よくねぇよ……マジで死ぬかと思った……」
翔の顔色はまだ少し青ざめていたが、声にはいつもの調子が戻っていた。
ルークは返事をせず、そっと手を伸ばして、翔の額に触れる。
その熱を確かめるように。
「……また、俺は助けられたのか。……お前、嫌にならねぇの」
「僕は、キミのために存在する。だから、安心して」
「はっ……なんだよそれ、恥ずかしいヤツ……」
弱々しい冗談に、ルークは小さく息を漏らす。
翔の瞳がようやく焦点を結び、まぶたが小さく揺れる。
——だが、次の瞬間。
迷宮の花々が音もなく崩れ始めた。
天井を貫くように光が割れ、冷たい風が流れ込む。
夜が明けるように、静寂が訪れた。
しかし同時に、地の底からざわりと空気が重くなる。
根が蠢き、紅い花々が一斉に咲き誇る。
甘く、だが鉄錆の匂いを含んだ香りが、息をするたび喉を不快にさせる。
「……来る」
ルークが低く呟く。
二人は黒いマントのフードを深く被り、視線を前に向けた。
赤い花弁の海の中央に“それ”はいた。
蔓で編まれた玉座。
薄布を纏った女が、そこに静かに座している。
枯れ葉のように茶を帯びた肌。葉脈が浮かび、指先から黒い根が滲み床を伝って根へと広がっていく。
冷気と共に、声が降りた。
「わらわの大事な民を穢し、この国を荒らすのは誰だ」
その響きは、怒りよりも静謐。
だが、迷宮そのものが、その一言で脈打つ。
天井の蔓がしなるたび、光が軋むように揺れる。
翔は息を呑む。
これまでとは明らかに異なる、人ならざる威圧。
冷や汗が、首筋を伝う。
「あれが……魔女……」
女の瞳がゆるやかに紅く染まる。
その奥で、無数の人影が花弁のように散っていく。
捧げられた命、祈りと、嘆き。
「命を刈ることでしか、命は守れない。お前たちも例外ではない」
その言葉に、ルークの目が鋭く光った。
「それが……お前の選んだ答えか。腐蝕の魔女」
腐蝕の魔女、イデアは静かに微笑む。
根が彼女の指に絡みつき、血脈のように脈を打つ。
「この国を救うため、私は“花嫁”を求めた。命は巡り、根に還る。だが誰も、それに値しなかった。——ただ一人、あの子を除いて」
その声には、幾千の祈りと冷徹が同居していた。
翔の胸が焼けるように痛む。
あの幻。あれは、それは過去ではなく、“始まり”だったのだ。
「姉さん……満を……その花嫁ってのにしやがったのは、てめぇか」
翔の言葉に、イデアは静かに瞼を伏せた。
その表情は、懺悔にも似ている。
「……あの子は“器”として選ばれた。だが、不完全だった。……本当の器は、お前だ、翔」
次の瞬間、迷宮全体がひとつに収縮した。
羅針盤の形を象り、真紅に染まる。
針が狂ったように翔を指し続けた、胸が灼けるように熱を帯びる。
「っ……やめろ!俺は誰の生贄にもならない!姉さんを返せ!!」
怒りを込めた叫び。
だが、イデアの穏やかな声がそれを覆う。
「抗うな。お前の命は、魔王のためにある。その命を捧げれば、世界は救われる。——姉も、それを願った」
翔の動きが止まる。
その一言が、胸の奥の古傷を裂いた。
「そんなの……嘘だ!!」
動揺を隠しきれず、怒りと悲しみを混ぜた声で前へ踏み出す。
魔女の術中に嵌り、羅針盤の針が翔の心臓を目掛けて飛ぶ。
「翔!惑わされるな!」
ルークが前に出て、鞘の抜けない剣で弾く。
針は地に落ち、触れた花々が瞬時に枯れ腐った。
イデアの笑みが揺らぐ。
その視線が、翔の隣に立つ男へ流れる。
「……アースラン?」
その呼び声は、迷宮の底を震わせる鐘のようだった。
ルークの肩が、微かに震える。
「お前は、これまで何をしていた。早く、その器を献上しなさい」
その言葉と共に、蔓がルークの足元を這う。
翔が驚きに目を見開く。
「献上……?な、何言って……」
ルークの顔色に、明らかに困惑の色が混ざる。
その瞳に一瞬、金の光が閃いた。
「……僕の名前はルークだ。他の誰でもない」
イデアの表情が変わる。
怒りでも、悲しみでもない——喪失の色。
「そう。ならば、“反逆”と呼ぶしかないのね」
黒い花が、一斉に散った。
根が蠢き、天井を突き破る。
腐蝕の霧が、二人を包み込んだ。
「翔!!僕から離れるな!!」
「うっ、あぁっ!?な、なんだこれ!?」
濃霧が視界を奪い、湿潤が瞳に突き刺す。
その奥で、姉の声が囁いた。
“翔——生きて”
それが幻覚か、真実か。
どちらも、もう分からなかった。
耳の奥で水音が遠ざかる。
翔はゆっくりと瞼を開いた。だが、光が歪み、視界が焦点を結ばない。
それでも、ルークの声を認めた瞬間、肺が息を求めるように跳ね、荒い呼吸が戻った。
「かはっ……はぁっ……う、うぁ……た、助かった、のか……?」
掠れた声。
翔の指先が、ルークの胸を掴む。その温もりが、確かに生を感じさせた。
「……うん、なんとかね。無事でよかった」
「よくねぇよ……マジで死ぬかと思った……」
翔の顔色はまだ少し青ざめていたが、声にはいつもの調子が戻っていた。
ルークは返事をせず、そっと手を伸ばして、翔の額に触れる。
その熱を確かめるように。
「……また、俺は助けられたのか。……お前、嫌にならねぇの」
「僕は、キミのために存在する。だから、安心して」
「はっ……なんだよそれ、恥ずかしいヤツ……」
弱々しい冗談に、ルークは小さく息を漏らす。
翔の瞳がようやく焦点を結び、まぶたが小さく揺れる。
——だが、次の瞬間。
迷宮の花々が音もなく崩れ始めた。
天井を貫くように光が割れ、冷たい風が流れ込む。
夜が明けるように、静寂が訪れた。
しかし同時に、地の底からざわりと空気が重くなる。
根が蠢き、紅い花々が一斉に咲き誇る。
甘く、だが鉄錆の匂いを含んだ香りが、息をするたび喉を不快にさせる。
「……来る」
ルークが低く呟く。
二人は黒いマントのフードを深く被り、視線を前に向けた。
赤い花弁の海の中央に“それ”はいた。
蔓で編まれた玉座。
薄布を纏った女が、そこに静かに座している。
枯れ葉のように茶を帯びた肌。葉脈が浮かび、指先から黒い根が滲み床を伝って根へと広がっていく。
冷気と共に、声が降りた。
「わらわの大事な民を穢し、この国を荒らすのは誰だ」
その響きは、怒りよりも静謐。
だが、迷宮そのものが、その一言で脈打つ。
天井の蔓がしなるたび、光が軋むように揺れる。
翔は息を呑む。
これまでとは明らかに異なる、人ならざる威圧。
冷や汗が、首筋を伝う。
「あれが……魔女……」
女の瞳がゆるやかに紅く染まる。
その奥で、無数の人影が花弁のように散っていく。
捧げられた命、祈りと、嘆き。
「命を刈ることでしか、命は守れない。お前たちも例外ではない」
その言葉に、ルークの目が鋭く光った。
「それが……お前の選んだ答えか。腐蝕の魔女」
腐蝕の魔女、イデアは静かに微笑む。
根が彼女の指に絡みつき、血脈のように脈を打つ。
「この国を救うため、私は“花嫁”を求めた。命は巡り、根に還る。だが誰も、それに値しなかった。——ただ一人、あの子を除いて」
その声には、幾千の祈りと冷徹が同居していた。
翔の胸が焼けるように痛む。
あの幻。あれは、それは過去ではなく、“始まり”だったのだ。
「姉さん……満を……その花嫁ってのにしやがったのは、てめぇか」
翔の言葉に、イデアは静かに瞼を伏せた。
その表情は、懺悔にも似ている。
「……あの子は“器”として選ばれた。だが、不完全だった。……本当の器は、お前だ、翔」
次の瞬間、迷宮全体がひとつに収縮した。
羅針盤の形を象り、真紅に染まる。
針が狂ったように翔を指し続けた、胸が灼けるように熱を帯びる。
「っ……やめろ!俺は誰の生贄にもならない!姉さんを返せ!!」
怒りを込めた叫び。
だが、イデアの穏やかな声がそれを覆う。
「抗うな。お前の命は、魔王のためにある。その命を捧げれば、世界は救われる。——姉も、それを願った」
翔の動きが止まる。
その一言が、胸の奥の古傷を裂いた。
「そんなの……嘘だ!!」
動揺を隠しきれず、怒りと悲しみを混ぜた声で前へ踏み出す。
魔女の術中に嵌り、羅針盤の針が翔の心臓を目掛けて飛ぶ。
「翔!惑わされるな!」
ルークが前に出て、鞘の抜けない剣で弾く。
針は地に落ち、触れた花々が瞬時に枯れ腐った。
イデアの笑みが揺らぐ。
その視線が、翔の隣に立つ男へ流れる。
「……アースラン?」
その呼び声は、迷宮の底を震わせる鐘のようだった。
ルークの肩が、微かに震える。
「お前は、これまで何をしていた。早く、その器を献上しなさい」
その言葉と共に、蔓がルークの足元を這う。
翔が驚きに目を見開く。
「献上……?な、何言って……」
ルークの顔色に、明らかに困惑の色が混ざる。
その瞳に一瞬、金の光が閃いた。
「……僕の名前はルークだ。他の誰でもない」
イデアの表情が変わる。
怒りでも、悲しみでもない——喪失の色。
「そう。ならば、“反逆”と呼ぶしかないのね」
黒い花が、一斉に散った。
根が蠢き、天井を突き破る。
腐蝕の霧が、二人を包み込んだ。
「翔!!僕から離れるな!!」
「うっ、あぁっ!?な、なんだこれ!?」
濃霧が視界を奪い、湿潤が瞳に突き刺す。
その奥で、姉の声が囁いた。
“翔——生きて”
それが幻覚か、真実か。
どちらも、もう分からなかった。
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