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第12章 戦争と平和
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目の前に座る役人が薫を見下ろしている。
役人の手元には関所を通るための手形。
薫は行商の娘として長州へお国入りするべく、役人の前に神妙な顔をして座っていた。
「生まれは。」
「近江の生まれにございます。」
これは山崎に教わったテクニックの一つ。
近江商人といえば昔から有名らしく、行商と言っても怪しまれることは少ないそうだ。
加えて、島原で培った京ことばを活かせば問題ないと山崎から太鼓判を押されている。
「何故、長州へ入る。」
「行商の為にございます。」
「行李を改める。」
薫は下を向き押し黙ったまま、背負っていた行李を前に差し出す。
下っ端の役人が行李を開けるとたくさんの薬が入っていた。
土方が薫に持たせた石田散薬である。
「薬か。」
「骨接ぎ、打ち身によく効く薬にございます。よろしければお一つどうぞ。」
役人は満更でもないといった表情で、うむと答え懐に一つ薬を忍ばせた。
「下がってよい。次の者。」
薫は疑われずになんとか長州の国境を越えられたようだ。
顔を俯かせたまま、荷物を背負うとそこから山道を抜けて山口に入った。
市街地で旅籠を探している途中に出来事は起こった。
ブチリ、と音を立てて履いていた下駄の鼻緒が切れたのである。
「うわっ!」
変な声を上げて、薫は前につんのめる形で転がりそうになった。
しかし、誰かが薫の体を受け止めたらしく、顔から盛大に地面に転がることはなんとか避けられたようだった。
「大事ないか。」
薫を支えてくれているであろう男の声が頭から降って来た。
慌てて体を男から離し、薫は体を折って深く頭を下げた。
「ご無礼をお許しください。」
「鼻緒が切れている。すぐ近くに履物屋がある。案内いたそう。」
薫は頭を上げて、男の顔を見た。
そして、その男は薫の見知った人物であり、新選組にとって重要参考人でもあった。
しかし、今はそれを悟られるわけには行かない。
心の動揺を必死に抑えて、何も知らないかのように振る舞わなければならなかった。
「い、いえ。自分で行けますので。ありがとうございました!」
薫は再び頭を下げて、男の元を去ろうとした。
「待て。」
どくん、と心臓が鳴る。
まさか、もうバレたとでも言うのか。
薫は男の呼びかけに足を止めざるを得なかった。
「お主、どこかで見た顔だ。」
「いいえ、きっと人違いでしょう。し、失礼します。」
「いや、京でお主を見たことがある。」
「私は薬の行商をしております。京にも何度か参りました。」
薫は歩き出そうとしたが、男に腕を掴まれ身動きが取れない。
「思い出したぞ。」
どうしよう、どうしよう。
まだ長州に入って何もしていないのに。
私は、殺されるの。
怯えた目で薫は男の顔を見た。
何を隠そう、薫の腕を掴んでいる男は桂小五郎だったのである。
「お主、栄太郎の馴染だった…確か…花里とか言ったな。」
「え、栄太郎…?」
聞いたことのない名前に薫は眉をひそめた。
しかし、自分が花里であることは間違いのないこと。
もしかして、あの人のことを言っているのだろうか。
「稔麿さんのこと、でしょうか。」
恐る恐るその名前を出すと、桂の顔は一気に明るい表情に変わった。
「やはり、そうであったか。」
桂は警戒心を解いて、薫の手を離した。
「あの、貴方は…。」
「木戸孝允と申す。あの頃は桂小五郎と名乗っておった。」
「桂先生、いえ木戸先生。お久しぶりでございます。」
観念したように薫は木戸と名前を改めた男に向き直った。
「これも何かの縁。履物屋まで案内いたそう。」
木戸はわざわざ来た道を戻って、薫を履物屋に連れて行ってくれた。
少し罪悪感を感じたが、今は木戸の厚意に甘えることにした。
「吉田君のことは残念であった。」
薫は木戸の言葉に首を深く縦に振った。
「君は何故ここにいる。」
木戸の真っすぐな言葉に薫は何と答えればよいか戸惑った。
しかし、ここで言葉を詰まらせれば怪しまれる。
薫は反射的に言葉を紡いだ。
「今は薬売りをしております。」
稔麿の名前を利用しても良かったのだが、薫の良心がそれを許さなかった。
「年季が明けたか。」
背負っていた行李を下ろして、中に入った薬を木戸に手渡すと、薫は頷いた。
「今はこれを売り歩いているのです。」
「そうであったか。」
それから薫と木戸が履物屋に到着するまで言葉を交わすことはなかった。
「木戸先生―!」
履物屋に辿り着いた頃、遠くから男の名前を叫ぶものがあった。
小柄で身軽な格好をした男が大手を振っている。
履物屋に入ろうとした木戸であったが、その声を聞いて暖簾を分ける手を下ろした。
「俊輔、戻ったか。」
慌てて帰って来たのか、冬も近いというのに俊輔と呼ばれた男は汗だくだ。
「先生、買えました!買えましたぞ!」
「やったぞ、俊輔!」
「つきましては、黒田殿が下関まで来ております。先生にお会いしたいと申しております。」
「相分かった。すぐに向かおう。」
この男の人は何かを買う約束をしていた…。
そして、下関に黒田という人が木戸に会いに来ている。
この事実が意味することは薫にはわからなかったが、
土方への報告のため何が手掛かりになるかわからないから、
これは覚えておこうと薫は頭の中で何度も反芻した。
「すまない、花里。これから私は用向きがある。以後はこの男を頼みといたせ。」
「あ、あの…私は一人でも大丈夫です。お気持ちだけ、ありがたくいただきます。」
「何。こいつは女の世話なら頼まれなくても率先してする奴だ。」
「このお方は先生のお知り合いですか。」
「聞いて驚くな、俊輔。稔麿の馴染だ。」
「えぇ!稔麿の…。なんでまた、こんなところに。」
「まあまあ、深い話は本人に尋ねるといい。それでは、花里。失礼する。」
木戸はまるで風のように、突然現れ、そして消えて行った。
この俊輔と呼ばれた男と二人、薫は山口の街中に取り残されたのである。
「さて、花里殿。稔麿の馴染と聞いては、放っておけますまい。」
男は薫の方に向き直り、先に履物屋の中へ入ってしまった。
慌てて薫は男の後を追って、履物屋に入る。
「この下駄の鼻緒を直してくれ。」
男は薫の手から無理やり下駄を奪い取ると、店の者にそれを渡した。
「あ、あの…、本当にお構いなく。」
「稔麿は私の親友です。貴方が困っているのなら、助けるのが私の役目。」
優しい微笑みを浮かべた男は、薫の背負っていた行李を預かると自ら背負った。
さっきまですごい勢いで走っていたのに。
恩着せがましい所も偉ぶるそぶりもない男に薫は少しだけ興味が湧いた。
「失礼ですが、貴方は。」
「私は伊藤俊輔と言います。長いこと桂さ…木戸先生の従者をしておりました。」
「そうだったんですか。」
伊藤…俊輔。
もしかして、この人…伊藤博文だろうか。
そう思ったら、どことなく歴史の教科書に載っている肖像画と似ている気がしてきた。
西郷隆盛といい、木戸孝允といい、歴史上の人物に会いまくりの人生だ。
本当に私の人生は不思議なことばかり。
薫は思わず笑ってしまった。
「どうされました?」
「あ、いえ…。思い出し笑いです。」
「栄太郎はとても真っすぐな男でした。」
伊藤はおもむろに稔麿の話を始めた。
「身分が低く、塾の中に入ることのできぬ私をいつも気にかけてくれました。」
真っすぐで無邪気な笑顔が思い出される。
きっと彼は男も女も関係なく、誰に対しても公平に接していたのだろう。
「稔麿さんは、花街にいる私を一人の人間として見てくれました。」
薫は懐に閉まっていた一枚の手紙を取り出した。
「稔麿さんが、最期にくれた句です。」
そして、その手紙を伊藤に差し出した。
「むすびても 又むすびても 黒髪の みだれそめにし 世をいかにせむ。
彼らしい句です。」
「きっと、稔麿さんが伊藤さんに会わせてくれたのかもしれませんね。」
「そうかもしれませんね。」
店の人ができましたよ、と薫を呼ぶ声がした。
薫は下駄を受け取り、駄賃を払うと、また伊藤の所へ戻った。
「今日はどちらに?」
「近くの旅籠に宿を取るつもりです。しばらくは薬売りの仕事がありますので。」
「ならば、知り合いの宿を紹介しましょう。多少はまけてもらえるはずです。」
「何から何まですみません。」
こうして薫は思わぬ援護射撃を得て、長州での任務が始まったのである。
これは薫にとって初めての“戦”でもあった。
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